実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

伊佐爾波神社(松山市桜谷町)〈『延喜式』伊佐尓波神社〉

伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は もとの鎮座地は現在の道後公園山麓でした 建武年間1334~38河野通盛によ湯築城の構築のため現在地に移転し 寛文7年(1667)松山藩主 松平定長によ造営された現存の社殿は 石清水八幡宮を模した「八幡造り 宇佐八幡宮と合わせて 全国にわずか3例しかありません

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

伊佐爾波神社(Isaniwa shrine

通称名(Common name)

・湯月八幡宮(ゆづきはちまんぐう)

【鎮座地 (Location) 

愛媛県松山市桜谷町173番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》神功皇后じんぐうこうごう
   応神天皇おうじんてんのう
   仲哀天皇ちゅうあいてんのう
   三柱姫大神(みはしらのひめおほかみ)〈市杵島姫尊 湍津姫尊 田心姫命〉

《配》東照大神(とうしょうのおほかみ)〈徳川家康公〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

伊佐爾波神社

 延喜式内社で、祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。
社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。

 伊佐爾波という社名の起源は諸説あるが、『古事記』に「建内宿禰大臣(たけしうちのすくねのおおおみ)沙庭(みさにわ)に居て、神の命(みこと)を請ひまつりき。是(ここ)に大后(おほきさき)、帰神(かむがかり)して…」、 『日本書紀』に「建内宿禰(たけしうちのすくね)に命(おほ)せて琴(みこと)(ひ)かしめ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつつのおみ)を喚(め)して審神者(さには)と為す」とあり、 これに神聖、清浄ないう意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称ともされる。

 当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、 加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったという。

 現在の社殿は、松山藩松平第三代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬(やぶさめ)を成功させたお礼として建立したもので、 その様式は、大分県の宇佐神官、京都の石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。
松山市教育委員会

現地立札より

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【由  (History)】

伊佐爾波神社

伊佐爾波神社は、愛媛県松山市にある由緒ある神社です。古くから人々に親しまれ、歴史と文化が息づくこの神社は、式内社であり、かつては県社として格付けされていました。神紋は「左三つ巴」で、別名として「湯月八幡」や「道後八幡」とも呼ばれています。

伊佐爾波神社の概要

所在地と歴史的背景

伊佐爾波神社は、松山市市街地の西部、道後温泉の近くに位置し、道後山の東南端に鎮座しています。もともとは現在の道後公園の場所にありましたが、建武年間に河野通盛によって湯築城の構築のため現在地に移されました。現存する社殿は寛文7年(1667年)に松山藩主の松平定長によって造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。

社殿の特徴

伊佐爾波神社の社殿は、全国に3例しかない珍しい「八幡造(はちまんづくり)」です。石清水八幡宮を模した造りで、他の例としては宇佐八幡宮と合わせてわずか3例しかありません。加えて、重要文化財の太刀「銘 国行」も所蔵されています。

愛媛県 観光 © mytabi「伊佐爾波神社(いさにわ じんじゃ)」より抜粋
https://ehime.mytabi.net/isaniwa-shrine.php

神社由緒

 仲哀天皇、神功皇后とともに道後温泉に行幸のとき沙庭を立てて天神の勅を請奉ったので沙庭神社、即ち伊佐爾波の神社と称し、又、湯月八幡宮とも称えた。皇后は行宮に湯殿を設け、温泉を汲んで浴したもうたので御懐妊になり、後の応神天皇の御誕生があったという。
  明応年中河野家より社殿造営があり、それ以前は小千元興が社殿を改造した。延久5年源頼義は河野親経に命じて社殿を再造、慶長8年加藤嘉明が社殿を修理し、社領百石を寄進した。寛文7年領主松平定長は現在の社殿を建造し、社領二百石を寄進した。
昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けた。

愛媛県神社庁HPより
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=448

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

伊佐爾波神社 本殿

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伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)

本殿 附 透塀 一
申殿及び廊下  一
楼門      一
廻廊      
  末社 高良玉垂社本殿 一
   末社 常盤社新田霊社本殿 一
   石燈籠 二
   棟札  二

重要文化財(建造物)
昭和三十一二八日指定
昭和四十二一五日指定

 本殿は、三間社切妻の内陣と三間社流造の外陣の棟が前後に並び、出合った軒に共通の樋を架け、下に相の間をもつ、桧皮葺の「八幡造」の建物である。 透塀は本瓦葺で緑青塗り菱格子が美しい。

 申殿は、桁行・梁間一間、切妻、二軒、桧皮葺の平入りで、吹放ちである。 楼門は、前面に唐破風の向拝をもち、入母屋造、二軒、本瓦葺である。屋根の四隅の力士像が珍しい。

 全建物の木部や懸魚等の意匠部分は、丹塗り、胡粉彩色、本殿の円柱は金箔と色彩豊かで、華麗な桃山時代風である。 延長五七間の回廊や一遍上人の彫刻のある蟇股など神仏習合の歴史を語るものも多い。
松山市教育委員会

現地立札より

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伊佐爾波神社 申殿

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・〈拝殿南側 境内 摂末社常盤新田霊社

南朝の武将新田義宗や脇屋義治、松平定長を祀る社 社殿は重要文化財に指定

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〈拝殿北側 境内 摂末社高良玉垂社

武内宿禰命を祀る社 長寿や厄除けの神 社殿は重要文化財

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・伊佐爾波神社 回廊

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・大唐入神輿〈廻廊内〉

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・絵馬〈廻廊内〉

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・回廊の蟇股

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・伊佐爾波神社 楼門

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・楼門・廻廊〈外側から〉

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・社殿について

道後村めぐり

伊佐爾波神社

第六番

 松山藩主松平定長が、流鏑馬の成功のお礼に寛文7年(1667)に建立した。日本に三つしかない八幡造りの社殿で、国の重要文化財に指定されている。

現地立札より

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太刀(たち) 銘国行(くにゆき)一口

重要文化財(工芸品)
昭和三年四月四日指定

 刃長77.7センチメートル、反り2.6センチメートル。鎌倉時代中期の作で、作者の来(らい)国行は山城国来派の祖である。寛文年(1665)松平松山藩第三代藩主定長が武運長久と一門の繁栄を祈願して、この神社に奉納したものと伝えられている。

伊佐爾波神社(いさにわ じんじゃ)算額(さんがく)

愛媛県指定有形民俗文化財
平成十七一二二七日指定

 算額とは、和算の問題・図・解答、それを導く最終計算式等を記した額である。この神社の算額は、関孝和(せきたかかず)(?~1708)が考案した関流数学で、享和年(1803)を最古に江戸後期から明治時代のものが多い。

松山市教育委員会

現地立札より

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・手水舎

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・参道石段

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・〈参道石段脇 境内 摂末社素鵞社

 素盞嗚尊と稲田姫命を祀る社 五穀豊穣の神

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・大鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈旧鎮座地〉道後公園の辺り

伊佐爾波神社は もともとは現在の道後公園の場所にありましたが 建武年間に河野通盛によって湯築城の構築のため現在地に移されました

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『古風土記逸文』下 『伊豫國風土記』逸文に記される内容

道後温泉について 大穴持命〈大己貴神〉は 少彦名命が仮死状態になった時 蘇生のために大分の速見の湯〈別府温泉〉から地下の水道を通して湯を引いてきた 少彦名命をその湯の中に入れるとほどなくして生き返り 何事もなかった様子でゆるやかに「しばらく昼寝をしたようだ」といって元気よく地面を踏んだので 今でも湯の中の石には足跡が残っている〈玉の石(たまのいし)〉 湯の霊妙な効能は 神代の時代だけではなく 今でも人々の病を取り除き 長寿の薬となっている という説話が記されている

又 これに続けて 天皇らが伊予の湯に来られたのは五回あると記され
①景行天皇とその皇后で一度
②仲哀天皇と神功皇后で一度
③聖徳皇子〈聖徳太子 又は 九州王朝の天子・阿毎多利思北孤〉を一度 太子は湯のそばに碑文を建立され〈その碑文を建立した場所を伊佐邇波の岡(いさにはのおか)と云うのは この国の人々が碑文を見ようとして誘い(いさない)あったからである〉
④舒明天皇と皇后で一度
⑤斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子で一度
これで行幸を五回とする と記されています

【抜粋意訳】

『伊豫國風土記』逸文より

温泉

伊予国風土記に曰く 湯郡(ゆのこほり)

大穴持命(おほなむちのみこと)は 宿奈比古那命(すくなひこなのみこと)の命を治(い)かさましく〈活かそう〉と欲して 大分(おほきた)と速見(はやみ)との湯を下樋(したひ)〈地中を通せる樋〉より持ち度り来て 宿奈比古那命の命に漬浴(ゆあみ)せしかば しばらくあって 活きて起ち給われた〈よみがえり〉
そこで「真暫寝哉(ましまにもいねつるかも)〈しばらく寝ていたようだ〉」と言われて そこで踏みつけて付いた足の跡は 今も湯の中の石の上に在り
およそ湯の貴奇(たふとくめずらしき)は 神世(かみよ)の時のみにはあらず 今の世にも 疹痾(やまひ)に染める萬生(ひとびと) 病を除(いや)し身を存(いか)す要薬(くすり)と為す

天皇等、この湯に行幸(みゆき)して降り坐すこと五度なり
大帯日子(おほたらしひこ)天皇〈景行天皇〉と大后・八坂人姫(やさかいりひめ)の命の二躯(ふたはしら)を一度と為し
帯中日子(たらしなかつひこ)天皇〈仲哀天皇〉と大后・息長帯姫(おきながたらしひめ)の命〈神功皇后〉の二躯(ふたはしら)を一度と為し
上宮の聖徳皇子(聖徳太子)を一度と為す

及(また)高麗の恵慈僧(ゑそうほうし)と葛城臣(かつらぎのおみ)等の侍(はべ)りき 時に 湯岡(ゆのをか)の側(かたわら)に碑文(いしぶみ)を立てて記されました

その碑文には このようにある
「法興六年(596)十月丙辰の歳 我が法王大王〈聖徳太子〉と恵慈法師 及(また)葛城臣と 夷與村(いよのむら)に逍遙(あそ)び給い 正しく神井(くすしきゐ)を観て 世の妙験(しるし)を歎き 意(おもい)を述べたく思われて 聊かに碑文一首を作り給われた

惟(おも)ふに これ日月は上に照りて私せず 神井は下に出でて給(あた)えずといふことなし 萬機(まつりごと)所以(このゆえ)に妙應(うるはしくかなひ)百姓(おもみたから)は 所以(このゆえ)に潜扇(ふかくあふけり)〈密かに開ける〉す
若乃(すなわち)照らし給えて私に偏ることが無し 壽國(じゅこく)〈浄土〉に異ならむ 華台(はなのうてな)に隨いて開き合わせ 神井で沐(ゆあみ)して瘳疹(やまひをいやす) 詎(なに)ぞ落花の池に升(の)りて 化羽(あめへゆかむ)せざらむ

山岳(やま)の巖崿(いはきし)を窺い望みて 反りては 子平の能く往こうと願う 椿樹(つばき)は相覆い陰りて穹窿(おほぞら)を為し 実(まこと)に五百之張蓋(いほのはれるきぬがさ)を想う
臨朝(あした)に鳥が啼(な)きて戯れ さえずる 何ぞ亂音の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ〈さえずる声をやかましく聞いた〉 丹花華(あかきはな)を巻(かさ)ねて照り映え 玉菓(たまのこのみ)は花びらを重ねて井に垂れている
その下を経過して優(ゆたか)に遊べば どうして洪灌(こうくわん)霄庭(せうてい)の意を悟らずにいれようか 意と才と拙くして 実(まこと)に七歩に恥じる 後定の君子 幸に嘲笑なかれ」といへり

岡本天皇〈舒明天皇〉と皇后の二躯(ふたはしら)を一度と為し 後の岡本天皇 近江の大津の宮に天下知らしめし天皇〈天智天皇〉 浄御原の宮にに天下知らしめし天皇〈天武天皇〉の三躯(さんはしら)を一度と為し これを幸行(いでま)せること五度といふなり

伊社邇波岡(いさにはのおか)椹木(むくのき)臣木(おみのき)

伊予国風土記に曰く

湯岡(ゆのをか)の側(ほとり)に碑文を立てた その碑文を立てた所は 伊社邇波之岡(いさにはのをか)という

その所を伊社邇波(いさには)と名付けた由(ゆゑ)は その土(くに)の諸人等(もろびとたち) その碑文を見ようと欲して 伊社那比(いざない)〈誘い〉来けり 伊社邇波(いさには)といわれる元なり云々

岡本天皇〈舒明天皇〉と皇后の二躯(ふたはしら)を一度と為す 時に大殿戸(おほとのど)に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり その木には鵤(いかるか)と此米鳥(ひめどり)が集止(とま)りき 天皇 この鳥の為に 枝に穂などを繋げて養(か)いたまいき

【原文参照】

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』下,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993825

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』下,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993825

※この『伊豫國風土記』逸文について 「別府温泉地球博物館からの解答」が秀逸なので 興味のある方は
https://www.beppumuseum.jp/miu/010.html

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豫國 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)温泉郡 4座(大1座・小3座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 伊佐波神社
[ふ り が な ]いさには かみのやしろ
[Old Shrine name]Isaniha no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊豫國(いよのくに)温泉郡(ゆのこおり)延喜式内社の論社について

阿治(阿沼)美神社(貞・名神大)(あじみの かみのやしろ)

・阿沼美神社(松山市味酒町)

一緒に読む
阿沼美神社(松山市平田町宮内)〈『延喜式』阿治(阿沼)美神社(貞・名神大)〉

阿沼美神社(あぬみじんじゃ)は 社伝に武国凝別〈第12代景行天皇の皇子〉十城別王〈日本武尊の御子〉の宮居所とあり 天明二年(1782)「阿沼美三島新宮」の古棟板 天保四年(1833)御幸橋の地下から石額「阿沼美宮」が発掘され 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 阿治(阿沼)美神社(名神大)(あじみの かみのやしろ)とされます

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・阿沼美神社(松山市平田町)

出雲崗神社(いつもをかの かみのやしろ)

・出雲岡神社〈湯神社(松山市道後湯之町)相殿〉

一緒に読む
湯神社(松山市道後湯之町)〈『延喜式』湯神社・出雲崗神社〉

湯神社(ゆじんじゃ)は 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)で 古くは道後温泉の起源の地〈鷺谷(道後鷺谷町)〉に鎮座したが 大永年間(1521~28)地震で温泉が埋没 社殿も大破し 冠山〈現在地〉に鎮座する式内社 出雲崗神社に合祀され 明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する形式となりました

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湯神社(ゆの かみのやしろ)

・湯神社(松山市道後湯之町)

一緒に読む
湯神社(松山市道後湯之町)〈『延喜式』湯神社・出雲崗神社〉

湯神社(ゆじんじゃ)は 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)で 古くは道後温泉の起源の地〈鷺谷(道後鷺谷町)〉に鎮座したが 大永年間(1521~28)地震で温泉が埋没 社殿も大破し 冠山〈現在地〉に鎮座する式内社 出雲崗神社に合祀され 明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する形式となりました

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伊佐尓波神社(いさにはの かみのやしろ)

・伊佐爾波神社(松山市桜谷町)

一緒に読む
伊佐爾波神社(松山市桜谷町)〈『延喜式』伊佐尓波神社〉

伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は もとの鎮座地は現在の道後公園山麓でした 建武年間(1334~38)河野通盛により湯築城の構築のため現在地に移転し 寛文7年(1667)松山藩主 松平定長により造営された現存の社殿は 石清水八幡宮を模した「八幡造り」で 宇佐八幡宮と合わせて 全国にわずか3例しかありません

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

道後温泉駅から東へ約260m 徒歩で4~5分程度

道後温泉駅から東へ参道が伸びていて その途中に 式内社 湯神社の社頭があります

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・湯神社(松山市道後湯之町)については別記事を参照

一緒に読む
湯神社(松山市道後湯之町)〈『延喜式』湯神社・出雲崗神社〉

湯神社(ゆじんじゃ)は 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)で 古くは道後温泉の起源の地〈鷺谷(道後鷺谷町)〉に鎮座したが 大永年間(1521~28)地震で温泉が埋没 社殿も大破し 冠山〈現在地〉に鎮座する式内社 出雲崗神社に合祀され 明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する形式となりました

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駐車場は社殿の後方〈東側〉にあります

神社の裏手から 廻廊を廻り込むように裏参道を進みます

伊佐爾波神社(松山市桜谷町)に参着

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社殿は 重要文化財です

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南側の斜面には 奉納の玉垣が立ち並んでいます

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正面〈東面〉に廻り込むと楼門が見えてきます

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中々に立派な楼門で 扁額には゛八幡宮゛とあります

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ここからは 道後温泉の街並みが見下ろせます

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社殿の前には 案内板が設置されています

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又 干支の申年 開運招福の看板

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一礼をしてから 楼門をくぐり抜けます

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楼門の扉の彫刻です

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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本殿を取り囲むように周囲に廻廊が廻されており 沢山の絵馬が掲げられています

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廻廊から見た本殿 申殿 拝殿 楼門です

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廻廊を一周すると再び拝殿に戻ります

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社殿に一礼をして 楼門を出ます

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楼門を出ると右手に社務所があり 御朱印などを授与

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参道石段を下り 湯神社へ向かいます

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・湯神社(松山市道後湯之町)については別記事を参照

一緒に読む
湯神社(松山市道後湯之町)〈『延喜式』湯神社・出雲崗神社〉

湯神社(ゆじんじゃ)は 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)で 古くは道後温泉の起源の地〈鷺谷(道後鷺谷町)〉に鎮座したが 大永年間(1521~28)地震で温泉が埋没 社殿も大破し 冠山〈現在地〉に鎮座する式内社 出雲崗神社に合祀され 明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する形式となりました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 伊佐爾波神社について 所在は゛道後村湯神社同所に在す、今は相殿 湯月八幡宮を主とす、゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)の相殿〉と記しています

【抜粋意訳】

伊佐爾波神社

伊佐爾波は假字也

〇祭神詳ならず

〇道後村湯神社同所に在す、今は相殿 湯月八幡宮を主とす、〔社説〕

例祭

〇伊豫風土記曰、〔萬葉集仙覚抄所ニ引用〕
 湯岡(ゆのをか)の側(ほとり)に碑文を立てた その碑文を立てた所は 伊社邇波之岡(いさにはのをか)という
 その所を伊社邇波(いさには)と名付けた由(ゆゑ)は その土(くに)の諸人等(もろびとたち) その碑文を見ようと欲して 伊社那比(いざない)〈誘い〉来けり 伊社邇波(いさには)といわれる元なり

萬葉集三
 山部宿禰赤人至ニ 伊豫溫泉作歌、皇神祖之神乃御言乃、敷座國之盡、湯者霜左波爾雖在、島山之宜國路、凝重疑伊豫能高嶺乃、射狭庭乃岡爾立之而、歌思辭思為師、三湯之上乃樹村乎見者、臣木毛〔仙覚抄に、伊豫國風土記曰、二木者、一者椋木、一者臣木云々、〕生継爾里、鳴鳥之音毛不更、遐代爾神左備将徃行幸處、〔今按るに、伊社邇波之岡、すなはち湯岡なる事明らけし、されば湯神は少彦名命に坐て、伊佐爾波神は其地主神ならむ、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 伊佐爾波神社について 所在は゛道後村湯神社同所に在す、今は相殿 湯月八幡宮を主とす、゛〈現 伊佐爾波神社(松山市桜谷町)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊佐爾波(イサニハノ)神社

 今 道後村伊佐爾波岡に在りしを、後今の湯山に遷す、〔神名帳考、神名帳打聞、愛媛縣神社取調帳、〕

凡 毎年四月十七日、八月十二日祭を行ふ、〔愛媛縣神社取調帳〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第18−21巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815498

栗田寛 著『神祇志料』第18−21巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815498

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 伊佐爾波神社について 所在は゛道後村〔伊佐庭崗〕(溫泉郡道後村大字道後)゛〈現 伊佐爾波神社(松山市桜谷町)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊佐爾波神社

祭神

 今按 神社覈録に 湯神は少彦名命に坐て 伊佐爾波神は其地主神ならむと云る地主神と云事如何あらん 註進狀に仲哀天皇 神功皇后 應神天皇を祭ると云ひ 明細帳に比賣大神 譽田別尊 足仲彦命 氣長足姫尊 東照大神とあり さて註進狀 明細帳は今 湯月八幡と云によりて云る説なり こは思ふに伊豫國風土記に 天皇等於湯幸行降坐五度也 以大帶日子天皇 與大后八坂八姫命二軀爲一度也 以帶中日子天皇 與大后息長帶姫命二軀爲一度也 以上宮 聖德皇子爲一度云々 以岡本天皇并皇后二軀爲一度 以後岡本天皇 近江大津宮御宇天皇淨御原宮御宇天皇三軀爲一度 此謂幸行五度也とあるによりて以上の天皇等息長帶姫命を合せ祭れるを 誤りて八幡と云るものなるべし 明細帳に祭神五坐とせるは此幸行五度と云に由ありて聞ゆ 猶よく考べし

祭日 四月十七日 八月十二日
社格 縣社(明細帳に記載なし 區別帳に縣社とあり取の事)

所在 道後村〔伊佐庭崗〕(溫泉郡道後村大字道後)

 今按 詞進狀 往古 伊佐爾波崗に在しを河野家築城の時 今の地に遷して湯月八幡宮と名くと云り

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

伊佐爾波神社(松山市桜谷町) (hai)」(90度のお辞儀)

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