穂高神社(ほたかじんじゃ)は 太古 安曇族は 海神系の宗族として遠く北九州に栄え 信濃の干拓に功をたて 安曇野の中心 穂高の里に祖神を奉斎したのが 当神社の創始とされます 延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)の本宮です 上高地には奥宮 奥穂高岳の山頂には嶺宮が鎮座しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
穗髙神社(Hotaka shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
長野県安曇野市穂高6079
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《御祭神》
〈中 央〉穗高見命(ほたかみのみこと)
(別名 宇都志日金拆命 うつしひかなさくのみこと)
※穗高見命は 豊玉毘賣命・玉依毘賣命とは御兄弟であり 神武天皇の叔父神にあたります
〈左 殿〉綿津見命(わたつみのみこと)
〈右 殿〉瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
〈別 宮〉天照大御神(あまてらすおおみかみ)
〈若 宮〉阿曇連比羅夫命(あずみのむらじひらふのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・海の幸と山の幸を兼備した御神徳は広大無辺 特に殖産興業、海陸交通安全の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
穂髙神社 本宮 由緒
安曇族の祖神 穂高見命(ほたかみのみこと)は、海神(かいじん)綿津見神(わたつみのかみ)の御子神で、 太古穂高岳に天降りましたと伝えられている。安曇族は 海神系の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹て、安曇野の中心 穂高の里に祖神を奉斎したのが、当神社の創始である。
一、 御祭神
中 殿(中 央)穂高見命(神武天皇の叔父神)
左 殿(向って右)綿津見神
右 殿(向って左)瓊々杵尊
別 宮 天照大御神一、 主祭典
奉 射 祭 三月 十七日
例 祭 宵祭 九月二十六日
(御船祭)本祭 九月二十七日
式年遷宮祭(大)平成二十一年(中)平成二十八年(小)平成三十四年一、 本殿建築様式
穂高造(一間社流造の変形で、勝男木・脇障子に特徴を見る)
一、 社 格
延喜式(九二七年選進)神名帳所載の式内名神大社
旧国幣小社、現神社本庁別表神社
一、 御神徳
海の幸と山の幸を兼備した御神徳は広大無辺、特に殖産興業、海陸交通安全の守護神として名高い。
○ 奥宮 上高地明神池畔に鎮座
○ 嶺宮 奥穂高岳頂上に鎮座
現地案内板より
【由 緒 (History)】
御由緒
穂高神社がいつ創建されたか記録はないが、醍酬天皇の延長五年 (西暦九二七年)に選定された延喜式の神名帳には、名神大社に列せられて古くから信濃に於ける大社として、朝延の尊崇篤く殖産興業の神と崇められ、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられている。
安曇族は海神系の宗族として北九州に栄え ,大陸とも交渉をもち高い文化を持つ氏族であったようで、しだいに活動範囲を四国、中国、近畿、中部へと広げ、その一部は (信濃国安曇野を安住の地と定め、稲作、農牧文化等を普及し、大きな力を持ち、「和名類聚鈔」にある高家郷・八原郷・前科郷・村上郷の四郷からなる安曇郡を成立させている。降って武将仁科氏、松本藩主累代は社領を寄進し、式年の造営、祭祀の厳修につとめられ、明治の御代となり、明治五年郷社、同十五年県社、昭和十五年国幣小社に昇格し、同二十年十二月十五日神道指令により、官国幣社の制度は廃止されて、現在は神社本庁の別表神社として崇敬されている。
神社にて受領の『穂高神社略記』より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内図
・本殿
・拝殿
・孝養杉
・神楽殿
・樽銘酒
〈拝殿の向かって右奥の境内社〉
右から順に
・歌神社《主》柿本人暦大人
・菅原社《主》菅原道真公
・八王子社《主》五男三女の神
天神さま
享保七年壬寅秋 村山喜兵衛清政氏が文道の祖 天神さまを当社境内に勧請し代々祭儀を厳修、此の処を天神原と呼び 氏子崇敬者に親しまれ、丁度二六〇年を迎えた。
菅原社は菅原道真公を祀り天神様とも云い、書道、詩歌、雷除の神様として参拝者が多い。心だにまことの道に叶ひなば
祈らずとても神や守らん (道真公)昭和五十七年四月吉日
現地立札より
・諏訪社《主》建御名方富命
〈拝殿の向かって左 神池の周辺〉
・穂高神社賛歌石碑
・嶺宮遥拝社
『天空の祈り』嶺宮遥拝社
穗髙神社の嶺宮は、北アルプスの最高峰 奥穂高岳頂上(標高三、一九〇m)に祀られています。
平成二十八年穂高神社式年遷宮を記念して、穂高見命が天降りました嶺宮のお社を改築しました。旧社を遥か遠く奥穂高岳山頂に向けて本宮に祀り、嶺宮遥拝社を拝む事によって嶺宮をお参りした事にもなります。
山の自然と御恵に感謝し、国の平安と登山の安全、家々の安泰をお祈り下さい。
平成二十七年八月十一日現地立札より
・仁王石
仁王石の由来
保高大明神地内に先年神宮寺これ有り候処。
石川玄番(げんば)の御代中におつぶし相成り。門前に仁王これ有り、其後浅間村へ盗み取られ、其の後 右跡へ古木を仁王と唱え居り候(そうら)えども、歳来る故霊木に相成り、四ヶ村一同談事の上、寄進にて牧村地内より大石を二つ引き当て、正月中より数日大勢罷り出で、二月八日引き付け立つる。後日の為 斯(かく)の如くに御座候、依って件(くだん)の如し。
文久二 壬戌 年(一八六二年)二月二日保高村・保髙町村・等々力町村・等々力村
四ヶ村庄屋・与頭(くみがしら)・長(おさ)百姓連署(略)
〔穂高町穂高 二木家(ふたきけ)文書の釈文〕現地立札より
〈境内向かって右手の境内社群〉
〈向かって右から順に〉
・鹿島社《主》武甕槌命
・八幡社《主》誉田別尊
・秋葉社《主》軻遇突知命
・疫神社《主》素戔嗚尊
・若宮社《主》阿曇連比羅夫命《相殿神》信濃中将
若宮社
祭日 四月八日
御祭神 阿曇連比羅夫命(あつみのむらじひらふのみこと)
天智天皇の命により水軍を率いて朝鮮に亘り、百済の王・豊璋(ほうしょう)の復権を助け、六六三年)八月二十七日、白村江(はくすきのえ)で戦死。
穗高神社御船祭りの起りと伝えられている。相殿神 信濃中将(しなのちゅうじょう)
お伽草子の物ぐさ太郎で知られている。文徳天皇の御宇、甲斐・信濃の国司として両国を治め、穗高神社を造営し、百二十歳の春秋を送り、延命長寿、財宝沢山、幸福自在の神として祀られ、信仰をあつめている。
現地案内板より
若宮社の狛犬
阿吽(あうん)一対の狛犬は明和六年(一七六九)四月十四日に、穂高出身で江戸において幕府の御用もつとめる大商人であった井口郡有 (飯嶋喜左衛門)が拝殿にある左大臣、右大臣随身像と共に奉献した。
狛犬は江戸で作られ手車に乗せて穂高まで運ばれてきたといい、安曇野市で年代の刻まれている参道狛犬としては最古である。
大きさやデザインで同年代の江戸狛犬の特例がよく出ているが、阿形と吽形でデザインを変えて異なる獣として表現するなど、占代にならった特徴も見られて興味深い作風となっている。現地立札より
・四神社《主》少名彦名命・八意思兼命・蛭子神・猿田比古命・誉田別尊
・保食社《主》宇気母智命
・子安社《主》木花開耶比売命
・事比羅社《主》大物主神
・八坂社《主》須佐之男命
・神馬舎
・健康長寿 道祖神
健康長寿道祖神
古くより安曇野は素朴な石神「道祖神」が多く祀られて今に伝えられ、道祖神にはよろずの願いごとがかなうと信仰されています。
長野県は平成二十五年厚生労働省統計発表の全国平均寿命男女とも全国一の長寿県となり、この道祖神のふる里である安曇野の祖神(おやがみ)穂高神社境内にこれを記念して、健康長寿道祖神を建立いたしました。
この道祖神は日本一大きくステンレスで作られ、芸術性が高く素材も不変であり、生涯変わることなく楽しく健やかで長寿でありますように祈りを込めて入魂致しております。
どうぞ心を込めて手を触れ御家族の健康長寿をお祈り下さい。
平成二十五年十二月吉日 穂高神社社務所
現地案内板より
・手水舎
安曇の銘水
北アルプスの雪解け水が長い歳月をかけ育んだ天恵の銘水を地下30mより汲み上げているおいしい水です。
現地案内板より
・二の鳥居
・狛犬
・神船
神船
穂高神社の御祭神は海神 ( わたつみ ) 系で、先人たちは安曇野の自然を破壊することなく守り育ててまいりました。
昭和57年の御遷宮祭を記念して神船が奉納されました。
奉納
平安時代風 木造屋形船 穂髙丸
東京多摩川最後の船大工といわれる久保井富蔵氏が平安時代の史料を元に魂を打ち込み、長い年月をかけて完成したものであり、貴重な文化的史料であります。
又、国際的な陶芸家であり、「多摩川の自然と文化を守る会」を結成、多摩川に清流をよみがえらせる運動を続けている辻清明氏夫妻が穂高の自然と清流、そして人間性に深く感激し、氏の友人である芸術家諸氏の協力と穂高町の交流のある仲間と共に、上高地にある奥社と当神社との神々を送迎する御船として奉納するものであります。
現地案内板より
・阿曇比羅夫之像
阿曇比羅夫之像
解説
大将軍大錦中阿曇連比羅夫は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。
天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。
9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英知の神と称えられている。
伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。
〈参考〉
「阿曇山背連(やましろのむらじ)」と記す場合もある。
① 山背は山城で大阪府南河内郡河南町で比羅夫の本拠地
② 連(むらじ)古代民族の姓(かばね)の一つで数十種類あり、臣 連が尊敬され大臣 大連が国政の枢機にあずかった。
阿曇比羅夫の称号
大仁 ⇒ 大花の下(661年) ⇒大錦中(662年)
冠位12階(聖徳太子定める)の大仁は3番目明治初期までは8月27日、例祭
新暦となり9月27日となる。石碑文より
・日光泉小太郎の像
安曇野の伝説日光泉小太郎
大昔この安曇野一帯が満々と水を湛えた湖であった頃、この湖に犀龍と云う者が住んでおりました。
この犀龍と東高梨の池に住む日龍王との間に男の子が生まれましたので、日光泉小太郎と名づけました。母の犀龍は自分の姿を恥じて水底深く隠れ住んでおりましたが、小太郎は母をたずねさがし熊倉下田の奥の尾入沢と云う処で初めて母に逢うことが出来ました。
この時犀龍は、「私は諏訪大明神の化身である、これからお前と力を合わせて、この湖の水を落とし陸地として人が住めるように致しましょう」と語って山清路の大岩をつき破り更に水内橋下の岩山を開いて安曇、筑摩両郡にわたる平野を作りあげそれ以来この川を犀川とよぶようになったと伝えられています。
又、小太郎の父日龍王は海津見神であり小太郎は穂高見命の化身といわれ治山治水の功績を称えております。
この像は、日光泉小太郎が母の犀龍にまたがり山清路を切り開こうとする姿を院展無鑑査小林章氏(穂高町出身)が謹作したものです。
石碑文より
・神馬舎
御神馬
唐鞍(からくら)(奈良時代の馬の飾り)をつけた馬としては全国でも稀に見るもので、馬は純粋の木曽馬をモデルにしている。
昭和二十四年 小川大系作現地立札より
・塩乃道道祖神
・碑文
・穂高霊社《主》護国の英霊 ( 237柱 )
・厳島社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・奥宮と嶺宮
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)〈上高地の聖地 明神池のほとりに鎮座〉
・嶺宮〈奥穂高岳の山頂〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・南方刀美神社二座 穂高神社一座 生嶋足嶋神社二座〈已上 信濃国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃國 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安曇郡 2座(大1座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 穗髙神社(名神大)
[ふ り が な ](ほたかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hotaka no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
信濃國と阿曇族について
酒井春人氏の研究に詳しいので ご紹介します
〔酒井春人 1949年 長野市生まれ 早稲田大学第一文学部卒 1993 年龍鳳書房を設立現在代表取締役〕2015年7月
知られざる日本古代史②『海人族安曇族と古代日本列島』安曇族研究会会員 酒井春人 より抜粋
【抜粋意訳】
安曇族の祖神は綿津見神
前号で福岡県の志賀海神社の祭神が、綿津見三神 (表津•仲津・底津 )の海神であることをご紹介した。安曇族はこの綿津見神を祖神とすると言われている。
・・・
・・・全国に刻された安曇族の足跡
安曇族の痕跡は、日本全国に三十数か所あると言われている。今のところ、地名あるいは綿津見系の神社の鎮座地、苗字、地域の伝説などからその関係地を割り出す作業が行われている。
・・・
・・・
その成果を紹介すると、安曇族の本拠地は福岡県の玄界灘を望む志賀島。前号で紹介したように、中国春秋時代の呉国の人々が、紀元前五世紀後半に越との戦争に負けて、海に逃亡し、北部九州、あるいは対馬、毫岐、さらには朝鮮半島の南部にたどり着いたと考えられる。この時、大海を渡る操船の技術を持つ海人族である呉の人々 (安曇族)は、呉の農民や各種技術者を古代日本列島に入植させ、生活の面倒をみたと前述した。
安曇族は、巧みな操船の技術を駆使して、日本海側を北上、日本各地にその痕跡をとどめる。前記米子市の上下安曇、石川県羽咋郡志賀町安津見、滋賀県高島市安曇川町、新潟県岩船郡関川村安角、山形県鶴岡市温海などがその関係地ではないかと考えられる。いずれもこれら関係地には、近くに大きな河川があり、日本海に注いでいる。
長野県の安曇族
こうした全国の安曇族関係地の中でも長野県は、本拠地福岡を凌ぐ第二の安曇族の故郷ではないかと言われているほど、その痕跡が色濃いところである。
まず、穂高神社のある安曇野市は多くの人が知るところだが、以外と知られていないのが、川中島平と佐久平。・・・
すると、安曇族はどのルートを使って、信州に入ってきたのだろうか。考えられるのは信濃川ルー卜である。信濃川から千曲川を経由して入り込むことは、そうむずかしいことではない。・・・
・・・【原文参照】詳しくは原文をお読みください
『千曲川地域の人と文化 2015年7月』より抜粋
https://ueda.zuku.jp/journal/2015.7.pdf
『小学国史教授用郷土史年表並解説』〈昭和12年(1937)〉に記される「阿曇氏の祖 早くより信濃に入る」より
信濃國に入った阿曇氏が 祀つた神社について記されています
【抜粋意訳】
阿曇氏の祖早くより信濃に入る。
阿曇氏は元來海部の頭梁であるから海岸にばかり榮えたやうに思はれるにも拘はらず、この信濃のやうな山國にも住したことが部名以外、地方神社名に依って想像することが出來る。
卽ちこの氏又は此の氏の率ゐし海部 若しくは其部曲である阿曇部の住したことは、安曇郡の明神大社、穂高神社が安曇氏の祖神として仰がれる穂高見神を祀つてゐること、同じく式内社である川會神社が亦海神を祀ってゐることに依っても明である。本郡内の式内社 氷鉋斗賣神社は阿曇氏の祖 宇都志日金拆命を祀ってゐる。これ又 阿曇氏の住したことを證するものであらう。又地名にも氷飽、斗賣二郷がある。これは二郷に住した阿曇族が其の奉齋神の名稱を二分して地名としたのであらう。本郡の隣 埴科都には阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命を祀ってゐる處の玉依比賣神社が東條村にある。小縣郡には海部郷がある。兎に角 阿曇氏の族は早くから阿曇・更級・埴科・小縣に分布したのであろう。(更科郡誌、)
【原文参照】
安曇族の氏神とされる 志賀海神社について
古来 綿津見三神を奉斎してきた神裔「阿曇族」は志賀島を一大拠点として 国内・大陸との交易を広く行い 経済的•文化的に高い氏族であったとされます
志賀海神社は 式内名神大社です 別記事を参照してください
延喜式内社 筑前國 糟屋郡 志加海神社三座(並名神大)(しかのうみの かみのやしろ みくら)
・志賀海神社 沖津宮(志賀島 勝馬)
沖津宮(おきつぐう)は 現在 志賀海神社の摂社です 古くは 志賀島北部の勝馬に・沖津宮〈底津綿津見神〉・仲津宮〈仲津綿津見神〉・表津宮〈表津綿津見神〉の三社が別々に鎮祭されていました 沖津宮の御祭神は 綿津見三神の中でも誕生が早く上位とされる゛底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)゛を祀っていました
沖津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉
・志賀海神社 中津宮(志賀島 勝馬)
仲津宮(なかつぐう)は 現在 志賀海神社の摂社です 古くは 志賀島北部の勝馬に゛表津宮゛゛仲津宮゛゛沖津宮゛の三社が鎮座し それぞれに゛表津綿津見神゛゛仲津綿津見神゛゛底津綿津見神゛が祀られていました 2世紀~4世紀の間に゛表津宮゛が 勝山の麓に遷座し 併せて゛仲津綿津見神゛゛表津綿津見神゛が奉祀され 現在の志賀海神社となったと伝わります
仲津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉
・志賀海神社(志賀島)
志賀海神社(しかうみじんじゃ)は 志賀島に鎮座し゛龍の都゛゛海神の総本社゛と称えられる 延喜式内社 筑前國 糟屋郡 志加海神社 三座(並名神大)(しかのうみの かみのやしろ みくら)です 祭祀は 神裔 阿曇族によって 御祭神〈伊邪那岐大神が禊祓をされて 住吉三神と共に御出現された〉 海の守護神 綿津見三神を奉斎します
志賀海神社(福岡市東区志賀島)〈延喜式内社 名神大社〉
その他 神裔「阿曇族」の足跡は 長野県安曇野市穂高・対馬・兵庫・石川県志賀町・愛知県渥美半島などに 「しか」「あっみ」と称した地名が見られます
対馬 和多都美神社(対馬 仁位)には 阿曇磯良の墓であるとの伝説が残る゛磯良恵比寿゛が祀られています
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 和多都美神社(名神大)(わたつみの かみのやしろ)
・和多都美神社(対馬 仁位)
和多都美神社(わたつみじんじゃ)は 伝承によれば 山幸彦(彦火火出見尊)が 豊玉姫命を妃として留まったワタツミノ宮の古跡され 古くから竜宮伝説が残ります 社殿裏手の深い森の中に 磐座〈豊玉姫の墳墓〉があり 本殿から正面へと海へ向かって海中に鳥居が建ち 満潮時にはまるで海に浮かぶ竜宮城のような神秘的な光景が広がります
和多都美神社(対馬市豊玉町仁位字和宮)〈延喜式内社 和多都美神社(名神大社)〉
信濃國に残る阿曇族の伝承の 式内社
延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる穗高見命(ほたかみのみこと)(別名 宇都志日金拆命 うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・穗髙神社(安曇野市穂高)
穂高神社(ほたかじんじゃ)は 太古 安曇族は 海神系の宗族として遠く北九州に栄え 信濃の干拓に功をたて 安曇野の中心 穂高の里に祖神を奉斎したのが 当神社の創始とされます 延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)の本宮です 上高地には奥宮 奥穂高岳の山頂には嶺宮が鎮座しています
穗髙神社(安曇野市穂高)〈延喜式内社 名神大社〉
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)〈上高地の聖地 明神池のほとりに鎮座〉
延喜式内社 信濃國 安曇郡 川會神社(かはあひの かみのやしろ)
海神として 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀られています
・川会神社(北安曇郡池田町)
川會神社(かはあいじんじゃ)は 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀り 遠い昔 ここ安曇野は山に囲まれた一面の湖だったと云う真実を 時を超えて 私達に伝えています 民話『泉小太郎』は 山を破り 湖の水を抜き あらわれた湖底が やがて里を潤う田となります 人々は遠い神代から 現在まで神に感謝を捧げています
川會神社(北安曇郡池田町会染)〈民話『泉 小太郎』ゆかりの里〉
延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる 宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・氷鉇斗賣神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋斗賣神社(ひがのとめじんしゃ)は 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)で 鎮座地の氷鉋村は かつて上中下の三村に分れ各々氏神を祀り 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称し 本宮であろうとされます 鉋の文字は 材木の表面を削る「かんな」の意です
氷鉋斗賣神社(長野市稲里町大字下氷鉋)〈阿曇族の祀る延喜式内社〉
・更級斗女神社(長野市川中島町御厨)
更級斗女神社(さらしなとめじんじゃ)は 口碑には゛建御名方命が 境内に広い行宮(社務所)を建て 隋従の八人の乙女を配し滞在鎮座の地【八名祗の内】と称した゛と伝わり 斗女郷の中心地とされます 延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の論社でもあります
更級斗女神社(長野市川中島町大字御厨)〈斗女郷の冨部氏の氏神として創建〉
〈参考論社〉・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)
氷鉋諏訪神社(ひがのすわじんしゃ)は 下氷鉋に鎮座する諏訪神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社or諏方社と称したとあり 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)に関係があるのでしょう
氷鉋諏訪神社(長野市稲里町大字下氷鉋字入村)
〈参考論社〉・川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)
川中嶋斗賣神社(かわなかじまとめじんじゃ)は 上氷鉋に鎮座した諏訪明神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
川中島斗賣神社(長野市川中島町大字上氷鉋)〈元 上氷鉋村の諏訪明神社〉
〈参考論社〉・氷鉋神社(長野市稲里町中央)
氷鉋神社(ひがのじんじゃ)は 中氷鉋に鎮座した諏訪社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます
氷鉋神社(長野市稲里町中央)〈式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉の分祀〉
延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)
阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命が 祀られています
・玉依比賣命神社(長野市松代町東条)
玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)は 勧請は 上世で年曆悠遠 その時代を詳かには出来ないが 社記及び地方古記録 村老等の旧聞によれば゛崇神天皇の御宇 科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ゛太古に阿曇氏が祀った 延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)です
玉依比賣命神社(長野市松代町東条字内田)〈阿曇氏が祀った延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR大糸線 穂高駅から500m程 徒歩7分程度
神社の東側が表参道になっています
一の鳥居をくぐり抜けます
境内に進むと多くの参拝者で賑わっています
穗髙神社(安曇野市穂高)に参着
日光泉小太郎の像
龍頭から清めの水が出る 手水舎で清めます
右手には 御神馬
左手には 神船
狛犬
参拝の みどころが 書かれている 案内板です
一礼をして 二の鳥居をくぐり 境内へ進みます
二の鳥居の扁額には゛安曇一郡之宗廟 穗髙神社゛と記されています
二の鳥居をくぐり 境内へ進むと すぐに神楽殿があり その先が拝殿となっています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内向かって右側の境内社群にお参りをします
御神木
社殿に一礼をして 境内を出ます
駅前通り側の鳥居から境内を出ます
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 穗高神社 名神大について 所在は゛穂高村に在す゛〈現 穗髙神社(安曇野市穂高)〉と記しています
【抜粋意訳】
穗高神社 名神大
穂高は保多加と訓べし
○祭神 穂高見命
○穂高村に在す
○式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕信濃國 穂高神社一座、
〔連胤〕按るに、穂高見命は 安曇宿禰之租也、〔姓氏録の文郡の下に見ゆ〕今猶 安曇氏の輩奉仕す、
雑事
朝野群載云、康和五年六月十日、奏亀卜、御体御卜、〔中略〕坐に信濃國 穗高神云云、社司等、依過に穢神事崇給、遣使科に中緩祓、可令に稜清奉仕事、〔下略〕宮主從五下行少裕卜部宿禰兼良、中臣從五位上行権少副大仲臣朝臣輔清
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 穗高神社 名神大について 所在は゛穗高山の下穂高村にあり゛〈現 穗髙神社(安曇野市穂高)〉と記しています
【抜粋意訳】
穗髙神社
今 穗高山の下穂高村にあり、〔神名帳考、信濃地名考、信濃國圖〕〔〇按 本郡仁科村の北に海あり、青木海中網海海口などてふ、青木海 廣三十餘町と云り 本國に此神を祭るは蓋又 此故也姑附て考に備ふ、〕
盖 海神 穗高見命を祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式、〕
清和天皇 貞観元年二月丁酉、從五位下 寶高神に從五位上を授け、〔三代実録〕〔〇按 本書、寶高を守高と作るは誤れり、故今 神階記に據て之を訂す〕醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕
堀河天皇 康和五年六月、穗高神社司に中祓を科す、神事を穢す御祟、御卜に出るを以て也、〔朝野群載〕
凡 其祭正月十七日、奉射神事あり、七月二十七日、氏子の村々船形を造り、人をして曳しむるを例とす、〔筑摩縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 穗高神社 名神大について 所在は゛穂高村 穂高(南安曇郡東穂高村大字東穂高)゛〈現 穗髙神社(安曇野市穂高)〉と記しています
【抜粋意訳】
穗高神社 名神大
祭神 穂高見ノ命
今按 新撰姓氏録に安曇ノ宿彌 海神 綿積豊玉彦ノ神ノ子 穗高見ノ命之後也とみえたるを 本郡に穗高ノ神社あるいと由あり
祭日 七月二十五日
社格 郷社 縣社所在 穂高村 穂高(南安曇郡東穂高村大字東穂高)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇長野縣 信濃國 南安曇郡東穂高村大字穂高
縣社 穗高(ホタカノ)神社
祭神
(奥社)穗高見(ホタカミノ)命
(里社)穂高見(ホタカミノ)命 綿津見(ワタツミノ)命 瓊々杵(ニニギノ)尊創立年代詳ならず、
口碑に云ふ、上古は穂高嶽に鎮座せしを、大化年間里社を造立して遷座すと、即ち延喜式内名神大社に列せらる、
神祇志料に「今穂高村にあり、〔神名帳考、信濃地名考、行賽鈔、信濃国圖〕盖海神穂高見命を祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式〕
清和天皇 貞観元年二月丁酉従五位下 寶高神に從五泣上を授け云々、
堀河天皇 康和五年六月、穂高神社司に中祓を科す、神事を穢す御崇、御トに出るを以て也、〔朝野群載〕凡其祭正月十七日、奉射神事あり、七月二十七日、氏子の村々船形を作り、人をして曳しむるを例とす〔筑摩縣神社誌〕とあり。信濃地名考に曰く「安曇郡穂高神社は保高のむらにいます〔神名式名神大〕當郡西の方飛騨國に坂合(サカフ)、仰げば保高嶽雲に聳えて連山左右に兒立す、神號も爰に據る歟、古事記、舊綿津見神者阿曇連等之祖神云々、」
姓氏録、同安曇宿根海神綿積豊玉彦神子穂高見命後云々、又海神ノ後 海犬養(ワタイヌカヒ)の姓も見えたり、加茂翁曰あつみは海てふことそ綿積たつの約つ也、わあ通じて阿曇なり、あつを約ればうとなれり、今大町の奥に海猶残れり(中略)この地草創の水を治めたる氏神の勲功仰ぐべき也、」
信府統記に、穂高大明神は火瓊々杵尊を祀れるものなり、往古 當國神合地(カミカフタ)穂高岳に垂跡ありて、其後 此處に鎮座せし故、在號をも穂高と称するものにゃ云々」と、
神紙志料にも「按本郡仁科村の北に海あり、青木海中綱海海口などと云ふ、青木海廣三十余町と云り、本国に此神を祭るは蓋此故也、妬附て考に備ふ」など見ゆれば、穂高の神たる。蓋し水徳の神たるや知るべきなり、
されど信濃奇勝録に、信府統記を引きて、穂高の岳は雲にそびえて連山左右に兒立す、穂高村にいます、
又信府統記に光仁天皇の御宇、中房山の悪賊此邊を暴乱し、神社佛閣を破却す、桓武帝の御字 坂上田村丸これを退治す、文徳帝の御字 信濃の中将と聞えし人、當社を造営の事有、按に此中將は其頃 當國の國司にや、仁明天皇の孫とかや、又俗に物草太郎と称するは此人なりといへり、物草太郎物語に昔二位の中將にて在せし入の信濃に左遷し玉ひしが、子なき事を憂へて善光寺の如来に祈り、一子をまうしうけて、三とせといふ年に二親みまかりければ、世にはふれて筑摩郡あたらしの郷といふ所の里人に養れて成長、其名を物草太郎と號く、かくて其里のながぶといふにやとはれて都にのぼり、ながぶの期果てかへるさに、清水の邊に徘徊、侍從の局といへる女房に懸想して、其夜七條のすゑ、から橘の紫の門のやかたへ忽び入りし事など作り、又信濃の中将となりて筑摩の郷にやかたし、百二十年の齢をたもちて榮え、後に殿はおたかの明神、(ほたかの誤か)、女房は朝日の権現とあらほれ玉ふと云々、今当社頭の末社 若宮明神の祠は 此中将を祭ると祠司の説也、本社の後背に塚あり。これを物草太郎が塚といひ傳ふ。
「松本の西南一里餘へだちて新村と云ふ地あり、上新村、下新村其外東南北の五つに又属邑有り、此地むかし物草太郎が住居の所といひ傳ふ、あたらしの郷名転じて新村と唱ふるにや、又もとより新の郷なりしを他にて推量に新の郷と訓しにや。」大日本地名辞書に、「穂高(ホタカ)神社、俗説に仁明帝の王子物草太邸本社を建て、太郎の墳墓神域に存するもの是なりと云ひ、又穂高神は皇極天皇の王子にて、白雉四年伊勢國より下向、又此神は初め穂高嶽に天降りたまふ、即火々瓊々杵尊なり等種々に談ず云々」など云へれば、又其論の多き知るべき也、
降つて神裔安曇比羅夫 当地穂高村に宮殿を建立するに当り、祖宗徳高見命を穂高嶽より此処に奉遷し、庁含を建てて代々祭政を統治す大寶三年八月勅使奉幣の儀あり、神護景雲二年二月 安曇氏禁中に召され、内膳司に奉仕せしかば、箭原庄司高明親王に代りて祭政を統一す、爾来交も領主の祀る所となる、
文明年間 仁科少輔盛知領主たる時、二十一年毎に本殿を造営し、七年毎に本殿以下を修繕し、其費額は郡内五十余郷に賦課して之を出さしむ、〔其書類数通 今寶庫に存す〕
尋いで慶長年間 小笠原秀政、黒印地十石及び籾二十五俵、並に祭免として年々六俵づつを附す、爾来領主代々寄付の社領ありしが、維新の際上地す、然れども、祭儀典禮の如きは、総て先躍に從ひ 舊例を存じ、今尚二月二十七日の春季祭には、奉射の神事とて射的の儀あり、又九月二十七日の秋季には、氏子中にて家格あるもの裃を着し、両刀を帯し、竹の杖を持ちて警固す、此等皆古例に拠るものなりと云ふ、本社穂高嶽の社殿を奥社と称し、本殿の西南にあり、今旧穂高村、旧等々力村、旧穂高町村、旧等々力町村等の産土神だり、明治五年十一月郷社に列し、同十五年縣社に昇格す、
社殿は奥社本殿、里社本殿三宇、鎮齋殿、勅使殿、神樂殿、寶蔵、社務所等を具備し、境内坪数壱萬六千六十二坪(官有地第一種)あり、三十七年中上地林三千九百餘坪を編入許可せらる境内神社
皇太神宮 子安社 若宮社 保食社 八坂社 四神神社
【原文参照】
穗髙神社(安曇野市穂高)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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信濃国(しなののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 信濃国(しなののくに)には 48座(大7座・小41座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
信濃國 式内社 48座(大7座・小41座)について