星宮社(ほしのみやしゃ)は 社説に創始は 舒明天皇(629~641年)頃 七星が天から降り 神託により当地〈往古の千竃郷〉に社を建てたと云う これが 宮簀媛命の父・母を祭神とする今の境内社゛上・下知我麻神社゛で 熱田神宮内の両社も もとはここにあったと云う 星宮社は 星崎城築城の時 この地に移したとも伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
星宮社(Hoshinomiya)
境内 上下 知我麻神社〈式内社 ・上知我麻神社・下知我麻神社〉
【通称名(Common name)】
・星崎宮
【鎮座地 (Location) 】
愛知県名古屋市南区本星崎町字宮西616
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈星宮社〉
《主》天津甕星神(あまつみかぼしのかみ)
※『愛知郡誌』には 国常立命・香々背男神の二柱
〈境内 上下 知我麻神社〉
《主》乎止與命(おとよのみこと)・眞敷刀俾尊(ましきとべのみこと)
※『尾張名所図会』には 伊奈突智老翁
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
〈境内 上下 知我麻神社〉
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
星宮社(ほしのみやしゃ)の紹介
創始は舒明天皇(629年から641年)の頃で、星崎城築城のとき、この地に移したと伝えられています。かつては、星崎の岬の最南端であり、里人のともす常夜燈が灯台の役目を果たしたと伝えられています。
境内社のうち、上・下知我麻神社は宮簀媛命の父・母を祭神とし、熱田神宮内の両社も、もとはここにあったものといわれています。また、ここには伊奈突智老翁を祀り、縁起によればこの地に塩づくりを教えた人であるといわれています。
名古屋市南区役所HPより
https://www.city.nagoya.jp/minami/page/0000012431.html
【由 緒 (History)】
『尾張名所図会』前編 巻5に記される内容
【抜粋意訳】
星大明神社
星﨑庄本地村にあり。天津甕星神(あまつみかぼしのかみ)を祭れり。或は香香背男神といへるも同神なるべし。承平年中平将門誅戮御祈の為に、熱田の神輿(じんよ)を此地に振出し奉りしに、忽(たちま)ち七里光をたれ、池中に輝きしかば、其池を七面池と號し、御手洗池とせしよしいひ傳へたり
(星の宮 絵図)
※星の宮 本社に並んで 境内社 左から「コンピラ、神明、本社、イナリ、アキハ、レイ社」
※本社 背後の高台の二宇の祠に「イナツヲキナノ社」〈現 上・下知我麻神社〉 が描かれています伊奈突智翁社(いなづちのおきなのやしろ)
この村にあり 当村地主神なり 伊奈突智翁は 此村に塩をやきし人なり
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
・知我麻社の鳥居
・摂社 上知我麻神社
・摂社 下知我麻神社
〈並座する二社 向かって右が上知我麻神社 左が下知我麻神社〉
・星宮社 本殿
・星宮社 社殿
〈本殿向かって左手 境内社3社〉
・加具土社・軻遇突智社・霊社
〈本殿向かって左手 境内社4社〉
・白山社・琴比羅社・天王社 神明社相殿
・星宮社 拝殿
〈拝殿殿向かって左手 境内社1社〉
・英霊社
・御神木
・一の鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
〈星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
〈向かって右 上知我麻神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 17座(大4座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 上知我麻神社
[ふ り が な ](かむつ ちかまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamutsu chikama no kaminoyashiro)
〈向かって左 下知我麻神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 17座(大4座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 下知我麻神社
[ふ り が な ](しもつ ちかまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shimotsu chikama no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
二つの゛知我麻(ちかま)神社゛〈延喜式内社〉について
『延喜式神名帳(927年12月編纂)』には 東海道 尾張國 愛智郡に 上下二つの知我麻神社が 式内社として所載されています
上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)
《主》乎止與命(おとよのみこと)〈尾張国造〉
天火明命(あめのほかりのみこと)又は 綿積豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の子孫とされます
下知我麻神社(しもつ ちかまの かみのやしろ)
《主》眞敷刀俾尊(ましきとべのみこと)〈乎止與命の妻神〉
濃尾平野を支配していた尾張大印岐(おはり おおいみき)〈稲置いなぎ〉の娘
すなわち 二つの式内社の祭神は 夫婦神です
この夫婦神の間に生まれた御子は 建稲種命・宮簀媛(美夜受比賣)
建稲種命(たけいなだねのみこと)は 尾張国造を継ぎ 日本武尊の東征時の副将軍
宮簀媛命(みやすひめのみこと)は 建稲種命の妹 日本武尊の妻
日本武尊より 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を預けられ 尊の死後 宮簀媛命は草薙剣を祀って社を建て 熱田神宮の起源をなしたと云う
東海道 尾張國 愛智郡 上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)の論社
・源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)
〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉
・上知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)
〈昭和24年(1949)熱田神宮の境内に遷座〉
上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)は もとは「源太夫社」と称し ここから200メートル程南に鎮座していましたが区画整理によって 昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座しました 祭神は尾張國造 乎止與命(おとよのみこと)を祀る 延喜式内社 東海道 尾張國 愛智郡 上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)とされます
上知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〈昭和24年(1949)熱田神宮の境内に遷座〉
・星宮社(名古屋市南区本星崎町宮西)〈境内に式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
〈星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
星宮社(ほしのみやしゃ)は 社説に創始は 舒明天皇(629~641年)頃 七星が天から降り 神託により当地〈往古の千竃郷〉に社を建てたと云う これが 宮簀媛命の父・母を祭神とする今の境内社゛上・下知我麻神社゛で 熱田神宮内の両社も もとはここにあったと云う 星宮社は 星崎城築城の時 この地に移したとも伝わります
星宮社〈境内 式内社 上知我麻神社・下知我麻神社〉(名古屋市南区本星崎町宮西)
東海道 尾張國 愛智郡 下知我麻神社(しもつ ちかまの かみのやしろ)の論社
・下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)
〈熱田神宮の境内〉
下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)は 祭神 眞敷刀俾尊(ましきとべのみこと)は 宮簀媛命(みやずひめのみこと)の母神にあたり 俗に「紀太夫社」(きだゆうしゃ)と称され 鎮座地も古くから この地であったと伝わります 延喜式内社 東海道 尾張國 愛智郡 下知我麻神社(しもつちかまの かみのやしろ)とされます
下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社・熱田神宮境内摂社〉
・星宮社(名古屋市南区本星崎町宮西)〈境内に式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
〈星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
星宮社(ほしのみやしゃ)は 社説に創始は 舒明天皇(629~641年)頃 七星が天から降り 神託により当地〈往古の千竃郷〉に社を建てたと云う これが 宮簀媛命の父・母を祭神とする今の境内社゛上・下知我麻神社゛で 熱田神宮内の両社も もとはここにあったと云う 星宮社は 星崎城築城の時 この地に移したとも伝わります
星宮社〈境内 式内社 上知我麻神社・下知我麻神社〉(名古屋市南区本星崎町宮西)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄名古屋本線 本星崎駅から西へ約400m 徒歩5分程度
かつて海に向かって突き出した星崎の岬の最南端だったとのこと
星宮社〈境内 上知我麻神社・下知我麻神社〉(名古屋市南区本星崎町宮西)に参着
社号標には゛村社 式外 星宮社゛と刻字あり
鳥居の横には 注連縄のある御神木
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛星崎宮゛と記されています 星崎の岬にある宮の意味だと思います
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿があり 本殿の両脇には境内社が祀られています
向って 左側の境内社です
拝殿の向かって右手には 星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社が祀られています
本殿裏の古墳の上へと通じる参道が設けられていて 鳥居が建ちます
一礼をして 鳥居をくぐると 入口には 上下 知我麻社参道と案内板があります
石段を上がります
古墳の上は 整備されています
向かって右手には 上知我麻社の社号標があります
向かって左手には 下知我麻社の社号標があります
二つの社が並座して坐ます
社殿に一礼をして参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 上知我麻神社について 所在は゛熱田郷市場村に在す、俗源大夫御前と称す、゛〈現 源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉と記しています
【抜粋意訳】
上知我麻神社
上は加牟都と訓べし、知我麻は假字也、和名鈔、〔郷名部〕千竈、
○祭神 乎止與命、〔社記〕
〇熱田郷市場村に在す、俗源大夫御前と称す、〔集説、府志〕
千竈社記云、上社國造乎止與命也、建稻種命、宮簀媛命、皆此命之子也、」
集説云、按、天孫本紀小止與命男建稲種命生に二男、嫡尾綱根命、応神天皇御宇賜に尾治連姓為に大臣、大連、其裔代仕朝、孝徳天皇御宇尾張連忠命奉勅供に奉熱田神宮、云々、神位
國内神名帳云、從二位知我麻上天神、
式内社 下知我麻神社について 所在は゛熱田社鎮皇門外北に在す、俗 紀大夫御前と称す、゛〈現 下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
下知我麻神社
下は之毛都と訓べし、知我麻は前に同じ、假字也、
○祭神 眞敷刀婢命、玉媛命、〔社傳〕
○熱田社鎮皇門外北に在す、俗 紀大夫御前と称す、〔集説、府志〕
○舊事紀、〔天孫本紀〕天香語山命十一世孫乎止與命、此命 尾張大印岐女 子真敷刀婢、生に一男、十二世孫 建稻種命、此命 爾波縣君祖大荒田女子玉姫為妻、生に二男四女、
神位
國内神名帳云、從二位 知我麻下天神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 上知我麻神社について 所在は゛今 竃庄 熱田郷 市場村にあり、゛〈現 源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉と記しています
【抜粋意訳】
上知我麻(カムツチカマノ)神社
今 竃庄 熱田郷 市場村にあり、〔国内帳集説、海邦名勝志、張州府志、〕
熱田宮の摂社にして、熱田地主神也、〔神名帳考証、張州府志、〕尾張國造、小止與命を祭る、〔舊事紀、熱田神社次第本記〕
凡 正月十二日 祭を行ふ、此の日 漁人等 大小魚を奉る、〔張州府志、〕
神裔 今に至て本社に仕ふ、總禰宜、權禰宜等の官あり、〔神社問答雑録、海邦名勝志、〕
式内社 下知我麻神社について 所在は゛今 熱田宮鎭皇門の北にあり、即 熱田所攝の神也、゛〈現 下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
下知我麻(シモツチカマノ)神社
今 熱田宮鎭皇門の北にあり、即 熱田所攝の神也、〔国内帳集説、張州府志、〕
小止與命の妻、眞敷刀婢命子 建稻種命の妻 多麻媛命を配祭る、〔参取舊事本紀、熱田神社次第本記、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 上知我麻神社について 所在は゛今 竃庄 熱田郷 市場村にあり、゛〈現 源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉と記しています
さらに考證を重ねていて ゛此 知我麻と云は 和名抄に千竈とみえて 其地は今の星崎庄とよぶ郷の古名なる由なれば 今熱田の地を千竃庄と云は後のことなるべし゛と〈現 星宮社(名古屋市南区本星崎町宮西)〈境内に式内社・上知我麻社・下知我麻社〉〉を考えるべきであると記しています
【抜粋意訳】
上知我麻(カムツチカマノ)神社 〔稱 源太夫神〕
祭神 乎止與(ヲトヨノ)命
祭日 二月上未日 十一月上辰日
社格 熱田摂社所在 熱田大宮五町許南 市場村(名古屋市南區 熱田市場町)
今按 式社考に本國神名帳には千竃上名神とあり
此 知我麻と云は 和名抄に千竈とみえて 其地は今の星崎庄とよぶ郷の古名なる由なれば 今熱田の地を千竃庄と云は後のことなるべし 此社もしくは本地村あたりに坐けむを 後此處に移し 又下知我麻社も上古は 下千竃と云地にまししを 後に此處に移しまつれるなるべしと云り 姑く附て考に備ふ
式内社 下知我麻神社について 所在は゛熱田神宮 鎭皇門北方゛〈現 下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
下知我麻(シモツチカマノ)神社
祭神 眞敷刀婢(マシキトベノ)命
祭日 二月上未日 十一月上辰日
社格 熱田摂社所在 熱田神宮 鎭皇門北方
【原文参照】
星宮社〈境内 上知我麻神社・下知我麻神社〉(名古屋市南区本星崎町宮西)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
尾張国 式内社 121座(大8座・小113座)について に戻る
尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について