大宮氷川神社(おおみや ひかわじんじゃ)は およそ2400年前から遷座せずにこの地に鎮座する勝運に添える太古の社です 古代 出雲族がこの地に移住して創建した神社です 現在の「大宮」(埼玉県)の地名は 「大いなる宮居」と氷川神社を称えたことに由来していると云われます
ご紹介(Introduction)
【神社名】(Shrine name)
氷川神社(hikawa Shrine) (大宮氷川神社)
ひかわじんじゃ
【通称名】(Common name)
お氷川様 ohikawasama
【鎮座地】(location)
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407
【地図】(Google Map)
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 4座(大1座・小3座)[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社名 ] 氷川神社(名神大 月次新嘗)
[ふ り が な ](ひかはの かみのやしろ)(つきなみ にいなめ)
[How to read ](Hikawa no kamino yashiro)(tsukinami niiname)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【御祭神】(God's name to pray)
《主》須佐之男命 (susanonomikoto)
《主》稲田姫命 (inadahimenomikoto)
《主》大己貴命 (onamuchinomikoto)
《配》倉稲魂命 (ukanomitamanomikoto)
【御神格】(God's great power)
・安産祈願 Healthy birth
・命名 Find a good name
・初宮詣 Baby prays at shrine for the first time
・七五三祝 7 year old 5 year old 3 year old celebration
・入学祈願 Tell God you want to go to the school you want
・成人祭 Coming-of-age ceremony
・家内安全 Safe and comfortable home life
・神前結婚式Wedding in front of God
・厄除け祈願Prayer at an age considered a milestone in life
・交通安全祈願 Pray for traffic safety
・等 etc
【格式】(Rules of dignity)
武藏國一之宮 (musashinokuniichinomiya)
延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)
別表神社
【創建】(Beginning of history)
社記によると今から凡そ2400年前(2400 years ago)
第5代孝昭天皇の御代3年4月未の日の御創立と伝わります
【由緒】(history)
社記によると 今からおよそ2400年前の第5代 孝昭天皇の御代に建立され
第12代 景行天皇の御代 皇子の日本武尊は当神社に御参拝し東夷鎮定の祈願をされ
第13代 成務天皇の御代 出雲族の兄多毛比命(etamohinomikoto)が朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇し 善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わります約1200年前の第45代 聖武天皇の御代 各国に一の宮の制度が確立され武蔵国一の宮と称されます
文献では 第60代 醍醐天皇が編纂を命じた「延喜式神名帳(927年編纂)」に 名神大社(古来より霊験が著しいとされる名神を祀る神社)として月次新嘗案上官幣に預り 臨時祭にも奉幣に預ったと記されています
さらに明治元年(1868)10月28日には 第122代 明治天皇が行幸 御親祭され 日本の国の鎮守勅祭の社と定められ 明治4年5月に官幣大社に列せられて
年々の例大祭には皇室よりの勅使が御差遣され荘重厳粛な祭儀が行われます氷川神社の名称を持つ神社は大宮の地を中心にして 埼玉県下及び東京都下 神奈川県下に及びその数は280数社をかぞえると言われます
これは 大宮の地を本拠としていた武蔵國造の子孫たちが 氏族として政治的(まつりごと)にも著しく発達していったことをあらわしているとされています※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社】(Other deities within the precincts)
摂社 門客人神社 《主》足摩乳命 手摩乳命
天津神社 《主》少彦名命
宗像神社 《主》多起理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命
末社 山祇神社 《主》大山祇命
石上神社 《主》布都御魂命
愛宕神社 《主》迦具土命
雷神社 《主》大雷命
住吉神社 《主》底筒男命 中筒男命 上筒男命
神明神社 《主》天照大御神
天満神社 《主》菅原道真公
松尾神社 《主》大山咋命
御嶽神社 《主》大己貴命 少名彦命
稲荷神社 《主》倉稲魂命
【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)
「大宮」(埼玉県)の地名は 「大いなる宮居」と氷川神社を称えたことに由来しています
それはこの地で繁栄し 今日の基をなすに至った人々の御祭神への感謝の現れだと言えます
かつての神社周囲の環境は 神社の東側には「見沼 (minuma)」と呼ばれる広大な湖沼があり 豊かな土壌を形成していて 弥生以前からの遺跡もあり 人々の生活を潤してきたとみられています
昭和初期頃までは面影が残っていたようですが 江戸時代には 周囲約39キロに及ぶ大貯水池も開発(見沼溜井)されたようです
見沼とは「神沼」「御沼」で 豊かな恵みを与えて下さる神聖な水をたたえた湖沼との意です
現在でも 神社境内のご神域にある「蛇の池 (janoike)」から こんこんと湧き出る水が 境内の神池(かみいけ)へ広がるように豊富に注がれていて かつての境内地であった大宮公園内の池も 元は見沼であった名残と伝わります
太古から遷座せずにここに坐ます 氷川神社の鎮座地は 見沼の畔に立つように 大宮台地の中でも鼻のように高く突き出た位置にあります この為 このあたりの地名は高鼻町と呼ばれていて
かつては 神社のある高台のご神域を 静寂の見沼の入江深く 湖畔が囲んでいたであろうと想像するだけでワクワクとしてきます
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
鎮座地「見沼 (minuma)」と 縄文の信仰「荒脛巾神 アラハバキのかみ (arahabakinokami)」
この氷川神社「見沼 (minuma)」の地は 縄文時代の太陽信仰の拠点でもあったようで この縄文の信仰を「荒脛巾神 アラハバキのかみ (arahabakinokami)」と結びつける説があります
現在 境内 本殿脇の摂社「門客人神社(monkyakujin shrine)」の主祭神は足摩乳命(ashinazuchinomikoto) 手摩乳命(tenazuchinomikoto)と出雲系ですが 元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたらしく これは荒脛巾神が「客人神」(門客神)として祀られているケースに該当します
この社について「江戸名所図会」巻之四(天権之部)には『荒波々畿の社(本社の傍らにあり。手摩乳・足摩乳二神を祀る。『武蔵国風土記』に、「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかあしねのすめらみこと)御宇三年祭るところ」とあるは、この社をいへるにや)』とあります
「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかあしねのすめらみこと)」は 第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)ですので 氷川神社と同時に祀られているとしています
この客人神として 荒脛巾神を祀る神社は ここ武蔵だけでなく 三河 出雲 伊予にも点在していて
出雲では 氷川神社と同様に佐太神社や出雲大社の境内にあって これは出雲国造 伊予は小市国造・風速国造 三河は三川蘰連 氷川神社は武蔵国造と深く関わる神社です
これらの国造(kuninomiyatsuko)諸氏は いずれも武人・製鉄技術を持つ氏族であった物部氏(饒速日命を祖神とする天神系の神別氏族)と密接に関連していて 第13代 成務天皇の御代に 出雲族の兄多毛比命(etamohinomikoto)が 朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇しましたが 当時の大和朝廷を支える中心氏族は 物部氏でした
延喜式神名帳(927年編纂)の出雲國の所載「出雲國大原郡 斐伊神社(hii Shrine)」では 氷川神社の元宮であると宣言して記載してあります
鎮座地は 出雲の簸川(ひかわ)に沿いにあり 須佐之男命が八岐大蛇を退治した有名な神話が残り その八つの頭角を埋めて霊を鎮めたと伝承のある「八本杉」があるお社です
こちらの社伝には「本社の創立は甚だ古く 孝昭天皇五年にご分霊を 元官幣大社氷川神社に移したと古史伝に記載してゐる」とあり
当時は 相当の大社であったと伝わり つまり 氷川神社の元宮であると宣言して記載してあります
「出雲國大原郡 斐伊神社(hii Shrine)」の記事をご覧ください
斐伊神社(ひいじんじゃ)は 「肥(hi)の河上」に鎮座する社とされています 斐伊神社(hii shrine)の古史伝の記載では 武藏國一之宮「大宮氷川神社」(さいたま市大宮)は 孝昭天皇5年に分霊奉遷したものとしています これによれば 東京都・埼玉県に数多く分布する氷川神社(hikawa shrine)の発祥の元宮となります
斐伊神社(雲南市木次町)
これを元に一般には 簸川(ひかわ)が 氷川(ひかわ)となったのであろうと言われています
これらの伝承は 2400年前の第5代 孝昭天皇の御代に 出雲から武蔵国造の一族と伴にこの地に乗り込んできた事を表しています
一方で 「荒脛巾神(arahabakinokami)」は そのずっと以前から 氷川神社の地に地主神として先住の神としていたのだとする説もあります
いよいよ 太古の社の本領発揮 完全に縄文時代まで遡るお話です
これらを念頭に置いて
古代の想像図です
三点の赤い印は 3つの神社の現在地です
・左上 大宮氷川神社 (大宮区高鼻町)
・真中 中氷川神社 = 現 中山神社 (見沼区中川)
・右下 氷川女體神社 (緑区三室)
この3つの神社は いずれも かつての見沼の畔にあり かつ一直線に並んでいます
・左上 男体社(父神)
・真中 簸王子社(王子神)
・右下 女体社(母神)
(三社一体の如く) それぞれの役割を持ちながら 一つの氷川神社として 近世まで広大な神域を持って まつりごとの機能をしていたと言われています
大宮氷川神社 男体社(父神)
中氷川神社(現 中山神社)簸王子社(王子神)
中山神社(なかやまじんじゃ)〈氷川簸王子神社〉は 大宮氷川神社(大宮区)・氷川女体神社(緑区)とともに 3神社で一体の氷川神社を形成していたという説があります ちょうど3社の中間に鎮座するので かつては別称として中氷川神社とも呼ばれました
中山神社(氷川簸王子神社)
氷川女體神社 女体社(母神)
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
それは縄文期の太陽信仰と重なり
驚くことに意図的な配置により 太陽の運行軌道は この3社の直線上に現れ
夏至の太陽は 西北西の大宮氷川神社に沈み
冬至の太陽は 東南東の氷川女體神社から昇る
太陽信仰と暦は 古代の人々にとって 最も重要な神事のひとつであった筈で
この太陽の軌道を龍神の如く 神の沼「見沼」が3社を縫い合わせています
御祭神には 龍神としてのご神徳もあるとされていますが
国学者の堤朝風(1765~1834)は「氷川大明神は龍の姿の神だという言い伝えがある」と述べています
氷川女體神社には まさしく見沼に住まう「龍神」の祭りとして御船祭りが江戸期までありました 今でも 社前には 僅かですが かつての「見沼」を彷彿とさせる雰囲気が残っています
この延長線上に 浅間山があるとの噂もあり余興で Google Map を作成
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
大宮氷川神社へのお詣りは
正面参道を進まれるつもりならば JRさいたま新都心駅の傍 中山道の脇 「一の鳥居」からの長さ約2km日本最長クラス 美しい緑の帯のような参道を進むことになります
ほとんどの参拝者は JR大宮駅から徒歩 県道2号の北にある「二の鳥居 (高さ13mで木造では関東随一を誇る)」から くぐり始め お詣りをしています
ここからでも 神社境内の入り口にある三の鳥居まで 広い参道があと約500mも延びていて 古の面影が残されたケヤキの古木などが 並木となり参道に構えています
いよいよ 一礼して 三の鳥居をくぐり 武蔵一宮氷川神社の広大な境内へ 広さは約3万坪(江戸時代には9万坪)もあり 生い茂る古杉や老松は悠久の歴史を醸し 参拝者を迎えます
清らかな境内の中央を僅かに弧を描くような参道の右手には 神楽殿 額殿と続きます
続いて 摂社 天津神社(あまつかみのやしろ)《主》少彦名命 がありますが
この 天津神と龍神の神格を持ち 医薬の祖神である神様が 氷川のお社に摂社(前出の門客人神社と同様の摂社としての扱い)として 存在していることに畏怖と感謝をして お詣りです
参道に戻り 左右ある末社に小揖(shoyu)を差し上げながら さらに進むと境内に広がる神池に架かる朱色のご神橋を渡ります
神池には たくさんの亀と鯉が泳いでいて
池の水面から出ている岩の上には おびただしい数の亀が ひなたぼっこをする姿を眺められます おそらく「神亀!?」
池の左手 中ほどに見える弁天島は 宗像の女神三柱(多起理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命)を祀る宗像神社があり こちらも摂社ですので 帰途 お詣りをします
橋を渡り 左手に手水舎があり いよいよ 朱色の立派な楼門があります
これをくぐれば 舞殿が迎え 回り込むと拝殿と本殿となります
がその前に とあるご神域へ向かわなければならない
手水舎から左手に進むと「蛇の池 (janoike)」があります かつては禁足地だった聖域ですが 駐車場の整備に絡み 今は一般に解放されている ありがたいご神域となります
見沼の水源で 氷川神社発祥の地とされており 古来より 龍蛇神は水神の化身で 須佐之男命 (susanonomikoto)が 八岐大蛇を退治した伝承から 水を治める神として祀られています
再び 朱色の立派な楼門前から 深くご神域に一礼をして
門をくぐり 舞殿に迎えられながら 回り込むように拝殿と本殿へと向かいます
何時 お詣りに来ても 人が絶えず活気があります 拝殿で軽く順番を待ち
ご神威に添い給うよう願いながら礼し 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈りを済ませます
拝殿を背に左手が 神札授与所となっていて ご祈祷待ちの方 ご朱印やお守りの授与で賑わっています
神札授与所から楼門に向かう左手に小さな東門があり ここで振り返り一礼 して これを抜けると 先程 話しました 元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたらしい「摂社 門客人神社」 その隣に末社 御嶽神社が並んでおります
同じく ご神威に添い給うよう願いながら礼し 鎮まる 御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈りを済ませます
再び ご神橋を戻って渡り 末社に小揖(shoyu)を差し上げながら
神池に浮かぶ弁天島に鎮座する摂社 宗像神社へとお詣りをします 小橋の架かる鳥居をくぐり 小島へと渡る 何とも言えない穏やかな気が流れ 時間が静止する空間となっています
御祭神は 導きの女神様でもありますので 穏やかにお祈りを済ませます
三の鳥居の目前に とても大きな境内の案内看板があります
先程まで ご参拝した摂社や末社の御祭神などもわかり ああ成程と復習してみます きっと 神様にも 当方を想い出して頂けると想いながら
三の鳥居をくぐり 振り返り一礼
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
「日本武尊 (yamatotakerunomikoto)」
(足立郡の地名について)
第12代 景行天皇の皇子 日本武尊が 東征の折に負傷されたところ 尊の夢枕に老人が現れたので その教えに従って当社へ詣でたところ 立てるようになったという伝説が残されていて このことからこの地域を「足立」と称するようになったとされていてます
「平将門 (tairano masakado)の乱」
平貞盛が 平将門の乱において 戦勝を祈願し 見事乱を平定したと伝わります
『氷川神社 足立郡高鼻村 将門反逆の時、平貞盛兄弟鏑矢を奉りて戦勝を祈願すという。』(「新編武蔵風土記稿」)
「源頼朝 (minamotonoyoritomo)公からの崇敬」
社伝には 治承四年(1180年) 源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建させ 社領3000貫と神馬神剣を寄進したとあります
「徳川幕府 (tokugawabakufu)からの崇敬」
文禄五年八月(1596年) 徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として社頭すべてを造営し 寛文七年三月(1667年)には阿部豊後守を奉行として社殿の建立をする
など様々な話が伝えられています
これらすべてが 武人・武家の勝戦(かちいくさ)の総大将が崇敬し 御礼祈願をした話となっていて
この御祭神のご神徳が伝わってきます
もう 何十回お詣りをしたことでしょうか
いつも感謝で一杯になるようなご神威に満ちています
氷川神社の御祭神は 荒ぶる須佐之男命を稲田姫命と大己貴命が支えているかのようなの構図で
それを見沼に映すように 静寂で穏やかでいながら 凛とした氣のご神域です
氷川神社の元宮と呼ばれている神社が 出雲にあります
斐伊神社(雲南市木次町)の記事をご覧ください
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について