羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
ご紹介(Introduction)
【神社名】(shrine name)
羽豆神社(hazu shrine)
(はずじんじゃ)
【通称名】(Common name)
【鎮座地】(location)
愛知県知多郡南知多町師崎明神山
【地 図】(Google Map)
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【延喜式神名帳】 「旧国名 郡 ・ 神社名」
(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
【engishiki jimmeicho】「old region name・shrine name」
尾張國(owari no kuni) 知多郡(chita nokoori)羽豆神社(hazu no kaminoyashiro)
【御祭神】(God's name to pray)
《主》 建稲種命(take inatane no mikoto)
「尾張氏の祖神」〈日本武尊の東征を勝利に導いた尾張水軍の大将軍〉
【御神格】(God's great power)
・大漁満足 Good harvest and big catch
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・家内安全 Safe and comfortable home life
・縁結び Deepen connections and intimacy with people
・等 etc
※ 恋のみくじ がありました
【格式】(Rules of dignity)
延喜式内社(engishikinaisha)
尾張国内神名帳(owari no kokunai jimmyocho)「従一位上」
【創建】(Beginning of history)
創立白鳳年中(七〇〇~)
※白鳳は私年号で 正式に朝廷で定められた年号ではありません
【由緒】(history)
羽豆神社 社傳
祭神 建稲種命「尾張氏の祖神」
神位 従一位羽豆名神「尾張本国神名帳」由緒 創立白鳳年中(七〇〇~)
一、 熱田大宮司攝津守親昌その猶子昌能羽豆崎に城を築く神社修復(一三二二~一三五五)
一、 宗良親王御奉幣(一三七〇)
一、 尾張徳川家 累代御参詣 東照神君 義直公 頼宣公 光友公 義誠公 吉通公
一、 明治五年郷社に列する
一、 延喜式内名神宝物 県文化財指定
心阿彌陀経一巻妙法連華経八巻
應永十五年(一四〇八)一色道範奉施例祭 旧八月十四十五日
大名行列山車五台神輿行列宮司 間宮家三十五代 正道
境内設置 羽豆神社社傳 案内板より
【境内社】(Other deities within the precincts)
両皇大神宮・住吉社・春日社・厳島社・月読社・海神社・蛭子社・三狐社・八王子社・天神社・津島社・八幡社
【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)
由緒書きの看板について
由緒書きの看板には 神社の創立「白鳳(hakuho)年中(700~)」と記されていますが 白鳳(hakuho)は 私年号で 正式に朝廷で定められた年号ではありません
通説では 白雉(650-54年)の別称とか 大化改新 (645) ~和銅3年の平城京遷都 (710) の約 60年間であるといわれ いずれも飛鳥時代と奈良時代との中間を指しているので 西暦700年頃には 既に在ったと伝えているのだと思います 1300年以上の古社ということでしょう
その後も (927年12月完成)延喜式神名帳には 尾張國 知多郡で3座の1座として記載されて
貞冶3年(1364年)『尾張国内神名帳(owari no kokunai jimmyocho)』の筆頭に式内社 波豆名神(羽豆神社)と記載されています
『尾張国内神名帳(owari no kokunai jimmyocho)』に記された社格は 「正一位」熱田皇太神宮(熱田神宮)の次格「従一位上」と高く
羽豆神社の宮司(社家)は 間瀬家が世襲し 創建以来 1千余年の旧家であると伝わります
由緒の案内板には 第35代 間宮 正道とありますが 宇多源氏 佐々木氏の「佐々木神社」神主家系 間宮家と関係はあるのでしょうか?
御祭神は 「建稲種命(take inatane no mikoto)」で 古代の尾張国の支配者であった豪族「尾張氏の祖神」とされています
御祭神については 次の項で詳しくお話します
神社が鎮座する 知多半島の先端部は 師崎(morozaki)と呼ばれて その地名の起源も 古代豪族の尾張氏一族の師介(moro suke)が この地を支配したからだと伝えらています
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
「尾張氏の祖神」とされる 御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)について
御祭神について 少し詳しく
別名を 建稲種公(たけいなたねのきみ)とも称します
建稲種命は (1900年程昔)2代の天皇(朝廷)〈第12代景行天皇(keiko tenno)と 第13代成務天皇(seimu tenno)〉に仕えたとされ
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征の際は 副将軍として軍を従え 軍功を挙げた神とされます
尾張国内では 熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社などの古社に祀られています
古代豪族の尾張氏について
古代豪族の尾張氏(owari uji)は 『記紀神話』では(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の後裔とされ 名門氏族の「天孫族(tenson zoku)」とも呼ばれています
『姓氏録』や系図史料では 綿津見神(watatsumi no kami)の後裔とされて
皇統譜の古い時期には・第5代孝昭天皇の皇后・第6代孝安天皇の母・第10代崇神天皇の妃など 尾張氏からしばしば后妃を輩出しています
建稲種命(take inatane no mikoto)は 初代の尾張国造(owari kuni no miyatsuko)となった乎止与命(otoyo no mikoto)の御子です
建稲種命より以降は 尾張氏一族が さらに朝廷への影響力を強めて発展していきます 御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が この礎を築いたとされ 「尾張氏の祖神」と呼ばれていくことになります
御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」を「尾張氏」の家系を順に説明
父は 「初代 尾張国造 乎止与命(otoyo no mikoto)」
(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の子孫)
母は「眞敷刀婢命(mashikitobe no mikoto)」
(尾張大印岐(owari no oimiki)の娘)
妹は「宮簀媛(miyazu hime)」
(日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)草薙剣を熱田神宮に奉斎しました)
妃は「玉姫(tama hime)
(丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)
※ 玉姫妃(tama hime hi)と 建稲種命の間には 二男四女があったとされ
息子は 尻綱根命(shiritsunane no mikoto)
(第15代 応神天皇の大臣)
下娘は「志理都紀斗売(shiritsuki tome)」
(五百城入彦皇子(iokiiribiko no miko=第12代景行天皇 皇子)の妃
(品陀真若王(honda no mawaka no miko)=第12代景行天皇 孫)の母
下娘は「金田屋野姫命(kanetayane no hime no mikoto)」
(品陀真若王(honda no mawaka no miko)〈景行天皇の孫 五百城入彦皇子の子〉の妃
第15代応神天皇(ojin tenno)の皇后(kogo)と妃(hi)となる 3人の娘を産む)
建稲種命の 孫娘は
応神天皇 皇后(kogo)「仲姫命(nakatsuhime no mikoto)」
(第16代仁徳天皇(nintoku tenno)の母)
応神天皇 妃(hi) 「高城入姫命(takaki no irihime no mikoto)」
応神天皇 妃(hi) 「弟姫命(otohime no mikoto)」
尾張氏の影響力は 大和朝廷の中枢に位置するようになっていきます
「名古屋市博物館 企画展 尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」より
http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji120428.htmlより画像
御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 「尾張水軍」の大将軍です
日本武尊の東征では 副将軍であった〈建稲種命〉
第12代景行天皇(keiko tenno)が 皇子の日本武尊(yamatotakeru no mikoto)に東国平定を命じました時
尾張国造(owari kuni no miyatsuko)の子である建稲種命(take inatane no mikoto)は 副将軍として東征に向かって 武功を挙げた神です
尾張氏(owari uji)の御曹司 (onzoshi)が なぜ副将軍なのかと言えば 尾張氏(owari uji)は 強大な尾張水軍を有して 伊勢湾一帯の中部日本地域を支配していたからです
羽豆神社が鎮座する 知多半島の先端 羽豆岬(hazu misaki)は 古代より 水軍の見張所が築かれるなど 伊勢湾の海上交通路の要衝であり 東征の折には 水軍の出発地点にもなったのであろうと推測されています
中世になっても ここは城が築かれていました
14世紀初 元亨年間の南北朝時代 熱田神宮の大宮司「千秋昌能(senshu masayoshi)」は 後醍醐(godaigo)天皇の建武(kemmu)の新政で側近であり
武者所(mushadokoro)結番(kechiban)となって 知多半島の波豆(hazu)城をおさえて再築したとあります
ここを確保することは 吉野(yoshino)・伊勢(ise)と 東国をむすぶ海上交通路の要衝を抑えることとなり 重要な戦略拠点と伝わる「羽豆(hazu)城跡の石碑」もあります
この海上の要衝を基地として 強大な尾張水軍を 統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の率いる 皇軍を勝利に導いたのが「建稲種命(take inatane no mikoto)」です
妹の「宮簀媛」は 草薙剣を熱田神宮に奉斎した 日本武尊の妃
妹の「宮簀媛(miyazu hime)」は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)となり 草薙剣を熱田神宮に奉斎しました
建稲種命の訃報
しかし 建稲種命の尾張水軍が東海道沿いに 東征の帰途についた折 駿河の海にさしかかり めずらしい海鳥を見つけたので 日本武尊(yamato takeru no mikoto)に献上しようと思われて 捕まえようとされて 駿河の海で命を落とされた 或いは 駿河の海で 船が難破されて 命を落とされた と伝わります
この時 日本武尊は 中山道経由で 東征の帰路 尾張にはいり篠城に到着し て内津の坂をくだられる頃 副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が 建稲種命が駿河の海に落ち水死された と早馬をもって報告した
この知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われ その霊をまつられたのが内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという 現在の「内々神社(うつつじんじゃ)」になります
・内々神社(春日井市内津町字上町)
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
伝承により 2つの「はずじんじゃ」があります
「羽豆神社(hazu shrine)」「幡頭神社(hazu shrine)」
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」ですが
その遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られたのが
「幡頭神社(hazu shrine)」(吉良町) 延喜式内社(参河國 播豆郡 羽豆神社)
・幡頭神社(西尾市吉良町)
幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉
その衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされたのが
「羽豆神社(hazu shrine)」(師崎)当社 延喜式内社(尾張國 知多郡 羽豆神社)
・羽豆神社(知多郡南知多町)
羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉
にそれぞれ祀られています
御祭神が 成海から強大な尾張水軍を統率し 勝利に導いた将軍ですので
「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」とされて「羽豆(幡頭hazu)」と呼ばれると言われています
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
中部国際空港セントレアからレンタカー 南知多道路を南下して 三河湾と伊勢湾に囲まれた かつての海上交通路の要衝 知多半島の最南端「師崎(morozaki)」にある羽豆岬(hazu misaki)を目指します
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征には 副将軍として 強大な尾張水軍を統率し勝利に導いた「幡頭(hata gashira)の神」
建稲種命(take inatane no mikoto)を祀る「羽豆神社(hazu shrine)」へ向かいます
羽豆岬の明神山の西北側の道路沿いに 鳥居があります 北側からの参道で階段をのぼって行けそうですが
しかしながら車なので 駐車場確保 師崎港にある観光船乗り場をぬけて 有料立体駐車場に向かい 下車 徒歩
「羽豆神社(hazu shrine)」に到着
こちらが 南側からの参道で 伊勢湾に向かって 大きな朱色の鳥居が建っています 一礼
大きな鳥居をくぐると 海岸沿いに明神山(小高い原生林)への階段があり ここからでも眺望はよく景色は最高です 上に登れば展望台があります
階段を登ると いよいよ羽豆神社(hazu shrine)の境内鳥居が建ちます
一礼して鳥居をくぐると 左手に手水舎があり 天然記念物に指定されているウバメガシの遊歩道が 参道となっています
木々の参道をを抜けると 「日間賀島 篠島 三河湾 伊勢湾が見渡せます」との案内の通り 広がる絶景に 暫し 言葉を失う
さて
社殿は 明神山(小高い原生林)の上に 海に向かって鎮座します
拝殿本殿へむかう「三の鳥居」の手前に「羽豆岬 矢穴石」と「ちいさな手水鉢」が置かれていて
傍らに 案内板があり 次のように書かれています
昔、石を切るためにあけた「矢穴」が残る石です。
加藤清正は、今から約400年前の慶長年間に、名古屋城の石垣に用いるための石を篠島から切り出したと伝えられています。羽豆神社の境内に置かれているこの石は、清正が、航海安全を祈って羽豆の神様に奉納するために持って来たといわれています。
師崎まちづくり協議会
石造りのご神橋を渡り「三の鳥居」に一礼して くぐると
「羽豆大明神(hazu daimyojin)」と書かれた 白地の旗が 境内中央の参道に たなびきながら立ち並びます
旗頭(hata gashira)の御祭神へ誘うように 拝殿へと進み出て お詣りです
遥か下から かすかに香る磯の根音
この地に 鎮まる御祭神は 頭脳明晰で心穏やか 人々から慕われた水軍の将であったであろう 1900年の時を超えて ここに届かん ご神威に添い給い かん高い柏手(kashiwade)を打ち 両手を合わせ 祈り願う
お詣りを終えて振り返りますと
境内の左右に細い参道があり 境内をぐるりと囲みながら 境内社が12社もあります
両皇大神宮・住吉社・春日社・厳島社・月読社・海神社・蛭子社・三狐社・八王子社・天神社・津島社・八幡社 各々 お詣りを済ませると境内を一周して再度 拝殿前に戻って もう一度 お詣り
参道を戻り 三の鳥居をくぐると
ちょうど傾きかけた日の輝きが 伊勢湾に跳ねて 陽光が道を創っています またもや 広がる絶景に 暫し 言葉を失います 眺めていて飽きることがない
羽豆岬からの眺めは 200度以上の視野(首が回りきらない)見渡す限りが 水平線と大小の島影 遠く離れた陸地のシルエット 絶景ポイントにふさわしい
絶景に見とれ階段を下りながら 海に向かう赤い大鳥居の横に 小さな小さな丘が見えます 何だろう? 小さな祠も?
次の 神社の伝承でお話します
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
玉姫(tama hime)妃(hi)の伝承
羽豆神社(hazu shrine)の御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征には 副将軍として 強大な尾張水軍を統率し勝利に導いた「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」ですが 東征の帰途 命を落とされた と伝わります
ここに 一つの伝承があります
御祭神の妃(hi)は「玉姫(tama hime)(丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)と伝わり お二人はとても 仲の良い夫婦であった
玉姫(tama hime)妃(hi)は この地から 東国へ出征された将軍 建稲種命(take inatane no mikoto)の帰りを ずっと待っておいでだったそうです
海に向かう大きな赤鳥居の横に小さな小さな丘があり その上に「羽豆岬 玉姫様(hazumisaki tamahime sama)」という小さな祠(hokora)があり 玉姫(tama hime)様が 祀られています
案内掲示板には
「羽豆岬玉姫様」
建稲種命(take inatane no mikoto)は、日本武尊に従い水軍を指揮して出征する直前、妻の玉姫と師崎に住み、風光明媚な羽豆岬を毎日の様に散歩しました。
やがて建稲種命が出陣すると、玉姫は夫の帰りをこの浦でずっと待っていました。
いつしか人は、玉姫が夫の帰りを待ち望んだこの浦を「待合浦」と呼び、玉姫を祀る祠が安置されています。師崎まちづくり協議会
御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)が愛した
妻の玉姫(tama hime)と師崎(morozaki)
出陣の直前に 妻の玉姫(tama hime)と師崎(morozaki)に住み 風光明媚な羽豆岬を毎日の様に散歩したとつたわり
強く優しい将軍の愛は 妻の玉姫(tama hime)に 出陣後も その帰りを待ち続けさせます
願いかなわず 帰らぬ人となりましたが 玉姫(tama hime)の将軍への想いは通じたのでしょう 衣服は流れ着き 羽豆神社(hazu shrine)へと祀られていきます
そして 夫婦の間に生まれた子供らは やがて尾張氏一族を隆盛期へ導くことになっていきます
里人も この夫婦をいつくしみ その様子を 1900年に渡り 今に伝えます
「羽豆岬玉姫様(hazumisaki tamahime sama)」の小さな祠に 柏手(kashiwade)を捧げ 両手を合わせ 祈ります
尾張水軍の将軍「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」羽豆神社(hazu shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
御祭神 建稻種命とかかわる式内社について
御祭神 建稲種命は「尾張氏の祖神」とされ 古代豪族の尾張氏と関係ある古社に祀られています
延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子神社(ほのかみあねこの かみのやしろ)
尾張国造城館の所在地とされる「火高(現在の大高)」の地
日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山) 〈熱田神宮の境外別宮〉
氷上姉子神社(ひかみあねごじんしゃ)は 『寛平熱田縁起』によれば 日本武尊を 建稲種(たけいなだね)命が火上(ほかみ)(現大高町)にお迎えした時 妹の宮簀媛を妃とされ 東征の帰途にも立寄られ 草薙劔を留められたと云う 仲哀天皇四年 館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で 持統天皇四年(690)に現在地に移ったと云う
氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山)〈熱田神宮の元宮〉
・氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山) 〈氷上姉子神社の元宮〉
氷上姉子神社 元宮(ひかみあねごじんしゃ もとみや)は 御祭神 宮簀媛命の父で尾張国造 乎止與命(おとよのみこと)の館跡に 元宮(もとみや)として仲哀天皇四年(195)に創建されたと云う その後 持統天皇四年(690)に現在地に遷座されたと伝わる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子(ほのかみあねこ)神社の元宮です
氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山)〈尾張国造 乎止與命の館跡〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)
東征から帰還の日本武尊は 鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったと伝わります
「火高(現在の大高)」とは 尾張国造城館の所在地 日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)
成海神社(なるみじんじゃ)は 日本武尊が 東征からの帰還の際 鳴海潟(現 鳴海駅北)から対岸の宮簀媛命の居住する火高丘陵〈建稲種命の館〉(現 氷上姉子神社)まで船で渡ったと伝わる地に 天武天皇の朱鳥元年(686)草薙神剣が熱田に還座の時に鎮座しました 延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)です
成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〈日本武尊ゆかりの延喜式内社〉
・天神社(名古屋市緑区鳴海町) 〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
天神社(てんじんしゃ)は 現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で 太古は鳴海潟の波打ち際で 日本武尊がこの地にお立ちになり 対岸の火高丘陵(現 大高)の尾張氏館〈宮簀媛命〉へと渡られた地であり 是を由縁とし 天武天皇 朱鳥元年(686)尊の御東征の旗頭であった建稻種命と宮簀媛命を祀り この所に創建された〈成海神社創祠の地〉
天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
延喜式内社 尾張國 知多郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされた
・羽豆神社(知多郡南知多町)
羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉
延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られた所
・幡頭神社(西尾市吉良町)
幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉
延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)
建稲種命が 駿河の海に落ち水死された との知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われる地
その霊をまつられたのが 内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという
・内々神社(春日井市内津町字上町)
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
旧妙見宮奥之院(きゅう みょうけんぐう おくのいん)は 内々神社(うつつじんじゃ)〈延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)〉の当初の鎮座地とされ 内々神社から山道を登り 断崖岩の絶壁の割れ目にお堂〈巌屋神社〉があり 今は鉄の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云う゛奥の院゛です
旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町)〈内々神社 当初の鎮座地〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 熱田神社(名神大)(あつたの かみのやしろ)
日本武尊に従い 副将軍として 東国の平定に赴きその帰途亡くなられた 尾張地方繁栄の礎を築いた神とされて 祀られています
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
延喜式内社 尾張國 山田郡 尾張戸神社(をはりへの かみのやしろ)
宮簀媛命の勧請と伝える古社
・尾張戸神社(瀬戸市十軒町)
・八幡社(小牧市大字上末字新田)
延喜式内社 尾張國 丹羽郡 針綱神社(はりつなの かみのやしろ)
尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を主祭神として 建稲種命・玉姫命・大荒田命・尻調根命(尾綱根命)健多乎利(たけだおり)命〈建稲種命の祖父 他を祀っています
・犬山城天守台付近(犬山市大字犬山字北古券) 〈針綱神社の旧鎮座地〉
・針綱神社(犬山市大字犬山字北古券) 〈天文6年(1537)犬山城の築城により遷座〉
・立野神社(犬山市大字上野字郷)
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尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について