幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
幡頭神社(Hazu shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
愛知県西尾市吉良町宮崎前留谷60-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建稲種命(たけいなだねのみこと) 誉多別命(ほんだわけのみこと) 大物主命(おほものぬしのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内 幡頭神社
祭神
建稲種命 大物主命 誉田別尊
由緒
景行天皇の御代 日本武尊東夷御征討の際 大功をお立てになった建稲種命は帰途海上で御薨去 御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で大宝二年 文武天皇勅して 社殿を建て官社に列せられたと傳へられ 延喜式に載り 文徳実録に授従五位下とあり 大日本史に正一位とあり 明治四年郷社に大正十年 県社に列せられて 古来から由緒高く人々の敬仰厚い神社である
本殿 重要文化財
三間社流造り桧皮葺で桃山時代の勝れた建築である
境内石碑文より
【由 緒 (History)】
社伝抜粋
幡頭(はず)神社
大宝二年(七〇二)の創建と伝えられる式内社である。
祭神は東征の勅命を受けた日本武尊(やまとたけるのみこと)の旛頭(はたがしら)の役を勤めた建稲種命(たけいなだねのみこと)で、東征の帰路駿河湾で遭難、蛭子(えびす)岬に漂着した遺骸をこの地に葬ったという。以来この地を旛頭(はず)といい、幡豆(はず)と書くようになったとも言われる。
本殿は天正八年(一五八〇)に再建されたもので、桃山時代の優れた建築として国の重要文化財に指定されている。また、当社には足利尊氏 今川義元が参詣したとも伝えられている。
平成十七年三月 西尾市教育委員会
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・幡頭神社 本殿
・熊野神社 本殿《主》伊邪那美神,速玉之男神,事解之男神
重要文化財 幡頭(はず)神社本殿
大正10年4月30日指定
三間社流造、桧皮葺
幡頭神社は大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、旧幡豆郡では西尾市の久麻久(くまく)神社とともに古い由緒をもつ神社である。
本殿は天正8年(1580)の建築で桃山時代の建築様式を伝える。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で大きく反り返った曲線が美しい。丸柱や長押(なげし)および虹梁(こうりょう)などは太く力強い。虹梁は直線的で絵様が小さく、蟇股(かえるまた)の内部の彫刻も素朴で全体に堅実な手法がとられた秀作である。
県指定文化財 神明社本殿・熊野社本殿
昭和32年1月12日指定
重要文化財の本殿と同時代に築かれたものとみられる。
神明社は本殿の東に位置し三間社見世棚造、熊野社は西に位置し一間社熊野造でいずれも桧皮葺(ひわだぶき)である。幡頭神社本殿と両脇殿の三社が並ぶ姿は、形式を異にしつつも調和が取れており美しい。
吉艮町教育委員会
現地案内板より
・神明社 本殿《主》天照大御神
・山住社
・幡頭神社 拝殿
・摂末社の合殿〈石清水八幡宮、金刀比羅宮、津島神社、秋葉神社〉
・稲荷神社《主》倉稲魂命
・皇太神宮遥拝所
・神馬舎
・二の鳥居・神馬舎・手水舎
・二の鳥居
・一の鳥居
・参道入口の社号標
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・蛭子社(蛭子岬)
〈鎮座地の蛭子岬は 建稲種命の遺骸が流れ着いたと伝承のある蛭子岬〉
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)の社頭の目の前です
・幡豆神社(西尾市西幡豆町江尻3-8)
〈幡豆神社(西幡豆町江尻)の鎮座地にある「欠の亀岩」には 建稲種命の遺骸が流れ着いたと伝承があります〉
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)から海沿いに東へ約4.5km 西幡豆町江尻に鎮座します
欠(かけ)の亀岩(かめいわ)
昭和(しょうわ)二年に愛知県の十名所(じゅうめいしょ)のひとつに選ばれた幡豆海岸(はずかいがん)、四番組(よんばんぐみ)のこの地に「亀岩」はあります。
いつごろから 「亀岩」と呼ばれるようになったのかわかりませんが、こんな言い伝えがあります。
古代、景行天皇(けいこうてんのう)の命(めい)を受けて日本武尊(やまとたけるのみこと)は東の国々をせいばつに行きました。その時、活躍した建稲種命(たけいなだねのみこと)は 帰りの道、駿河の海(するがのうみ)で遭難(そうなん)し、やがて遺骸(いがい)が欠(四番組)の「亀岩」に流れつきました。それを村人(むらびと)がていねいに葬(ほうむ)ってまつったのが、幡豆神社(はずじんじゃ)です。
いわれのある 「亀岩」は今もこうして大切にされています。 幡豆町虚栄区委員会
現地案内板より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』 奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて) 2.産物 3.土地の肥沃の状態 4.地名の起源 5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本 『出雲国風土記』がほぼ完本 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
參河國の神々と共に並んで 神階を授かっています
【抜粋意訳】
卷三 仁寿元年(八五一)十月乙巳〈七〉
○乙巳
進むに參河國 知立 砥鹿兩神に階を並に加ふ從五位上を 糟目 日長 狹投 野見 謁磐 播豆 赤孫 御津 石鞍 石纒 阿志 等十一神に 並に授く 從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉 その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」 ・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)参河國 26座(並小)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播豆郡 3座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 羽豆神社
[ふ り が な ](はつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatsu no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「尾張氏の祖神」とされる 御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)について
御祭神について 少し詳しく
別名を 建稲種公(たけいなたねのきみ)とも称します
建稲種命は (1900年程昔)2代の天皇(朝廷)〈第12代景行天皇(keiko tenno)と 第13代成務天皇(seimu tenno)〉に仕えたとされ
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征の際は 副将軍として軍を従え 軍功を挙げた神とされます
尾張国内では 熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社などの古社に祀られています
古代豪族の尾張氏について
古代豪族の尾張氏(owari uji)は 『記紀神話』では(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の後裔とされ 名門氏族の「天孫族(tenson zoku)」とも呼ばれています
『姓氏録』や系図史料では 綿津見神(watatsumi no kami)の後裔とされて 皇統譜の古い時期には・第5代孝昭天皇の皇后・第6代孝安天皇の母・第10代崇神天皇の妃など 尾張氏からしばしば后妃を輩出しています
建稲種命(take inatane no mikoto)は 初代の尾張国造(owari kuni no miyatsuko)となった乎止与命(otoyo no mikoto)の御子です 建稲種命より以降は 尾張氏一族が さらに朝廷への影響力を強めて発展していきます 御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が この礎を築いたとされ 「尾張氏の祖神」と呼ばれていくことになります
御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」を「尾張氏」の家系を順に説明
父は 「初代 尾張国造 乎止与命(otoyo no mikoto)」 (天火明命(ameno hoakari no mikoto)の子孫)
母は「眞敷刀婢命(mashikitobe no mikoto)」 (尾張大印岐(owari no oimiki)の娘)
妹は「宮簀媛(miyazu hime)」 (日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)草薙剣を熱田神宮に奉斎しました)
妃は「玉姫(tama hime) (丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)
※ 玉姫妃(tama hime hi)と 建稲種命の間には 二男四女があったとされ
息子は 尻綱根命(shiritsunane no mikoto) (第15代 応神天皇の大臣)
下娘は「志理都紀斗売(shiritsuki tome)」 (五百城入彦皇子(iokiiribiko no miko=第12代景行天皇 皇子)の妃 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)=第12代景行天皇 孫)の母
下娘は「金田屋野姫命(kanetayane no hime no mikoto)」 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)〈景行天皇の孫 五百城入彦皇子の子〉の妃 第15代応神天皇(ojin tenno)の皇后(kogo)と妃(hi)となる 3人の娘を産む)
建稲種命の 孫娘は
応神天皇 皇后(kogo)「仲姫命(nakatsuhime no mikoto)」 (第16代仁徳天皇(nintoku tenno)の母)
応神天皇 妃(hi) 「高城入姫命(takaki no irihime no mikoto)」
応神天皇 妃(hi) 「弟姫命(otohime no mikoto)」
尾張氏の影響力は 大和朝廷の中枢に位置するようになっていきます
「名古屋市博物館 企画展 尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」より http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji120428.htmlより画像
御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 「尾張水軍」の大将軍です
日本武尊の東征では 副将軍であった〈建稲種命〉
第12代景行天皇(keiko tenno)が 皇子の日本武尊(yamatotakeru no mikoto)に東国平定を命じました時 尾張国造(owari kuni no miyatsuko)の子である建稲種命(take inatane no mikoto)は 副将軍として東征に向かって 武功を挙げた神です
尾張氏(owari uji)の御曹司 (onzoshi)が なぜ副将軍なのかと言えば 尾張氏(owari uji)は 強大な尾張水軍を有して 伊勢湾一帯の中部日本地域を支配していたからです
羽豆神社が鎮座する 知多半島の先端 羽豆岬(hazu misaki)は 古代より 水軍の見張所が築かれるなど 伊勢湾の海上交通路の要衝であり 東征の折には 水軍の出発地点にもなったのであろうと推測されています
中世になっても ここは城が築かれていました 14世紀初 元亨年間の南北朝時代 熱田神宮の大宮司「千秋昌能(senshu masayoshi)」は 後醍醐(godaigo)天皇の建武(kemmu)の新政で側近であり 武者所(mushadokoro)結番(kechiban)となって 知多半島の波豆(hazu)城をおさえて再築したとあります ここを確保することは 吉野(yoshino)・伊勢(ise)と 東国をむすぶ海上交通路の要衝を抑えることとなり 重要な戦略拠点と伝わる「羽豆(hazu)城跡の石碑」もあります この海上の要衝を基地として 強大な尾張水軍を 統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の率いる 皇軍を勝利に導いたのが「建稲種命(take inatane no mikoto)」です
妹の「宮簀媛」は 草薙剣を熱田神宮に奉斎した 日本武尊の妃
妹の「宮簀媛(miyazu hime)」は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)となり 草薙剣を熱田神宮に奉斎しました
建稲種命の訃報
しかし 建稲種命の尾張水軍が東海道沿いに 東征の帰途についた折 駿河の海にさしかかり めずらしい海鳥を見つけたので 日本武尊(yamato takeru no mikoto)に献上しようと思われて 捕まえようとされて 駿河の海で命を落とされた 或いは 駿河の海で 船が難破されて 命を落とされた と伝わります
この時 日本武尊は 中山道経由で 東征の帰路 尾張にはいり篠城に到着し て内津の坂をくだられる頃 副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が 建稲種命が駿河の海に落ち水死された と早馬をもって報告した
この知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われ その霊をまつられたのが内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという 現在の「内々神社(うつつじんじゃ)」になります
・内々神社(春日井市内津町字上町) 内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
伝承により 2つの「はずじんじゃ」があります 「羽豆神社(hazu shrine)」「幡頭神社(hazu shrine)」
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」ですが
その遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られたのが 「幡頭神社(hazu shrine)」(吉良町) 延喜式内社(参河國 播豆郡 羽豆神社)
・幡頭神社(西尾市吉良町)
幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉
その衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされたのが 「羽豆神社(hazu shrine)」(師崎)当社 延喜式内社(尾張國 知多郡 羽豆神社)
・羽豆神社(知多郡南知多町)
羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉
にそれぞれ祀られています
御祭神が 成海から強大な尾張水軍を統率し 勝利に導いた将軍ですので 「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」とされて「羽豆(幡頭hazu)」と呼ばれると言われています
御祭神 建稻種命とかかわる式内社について
御祭神 建稲種命は「尾張氏の祖神」とされ 古代豪族の尾張氏と関係ある古社に祀られています
延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子神社(ほのかみあねこの かみのやしろ)
尾張国造城館の所在地とされる「火高(現在の大高)」の地
日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山) 〈熱田神宮の境外別宮〉
氷上姉子神社(ひかみあねごじんしゃ)は 『寛平熱田縁起』によれば 日本武尊を 建稲種(たけいなだね)命が火上(ほかみ)(現大高町)にお迎えした時 妹の宮簀媛を妃とされ 東征の帰途にも立寄られ 草薙劔を留められたと云う 仲哀天皇四年 館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で 持統天皇四年(690)に現在地に移ったと云う
氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山)〈熱田神宮の元宮〉
・氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山) 〈氷上姉子神社の元宮〉
氷上姉子神社 元宮(ひかみあねごじんしゃ もとみや)は 御祭神 宮簀媛命の父で尾張国造 乎止與命(おとよのみこと)の館跡に 元宮(もとみや)として仲哀天皇四年(195)に創建されたと云う その後 持統天皇四年(690)に現在地に遷座されたと伝わる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子(ほのかみあねこ)神社の元宮です
氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山)〈尾張国造 乎止與命の館跡〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)
東征から帰還の日本武尊は 鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったと伝わります
「火高(現在の大高)」とは 尾張国造城館の所在地 日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)
・天神社(名古屋市緑区鳴海町) 〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
延喜式内社 尾張國 知多郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされた
・羽豆神社(知多郡南知多町)
羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉
延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られた所
・幡頭神社(西尾市吉良町)
幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉
延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)
建稲種命が 駿河の海に落ち水死された との知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われる地
その霊をまつられたのが 内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという
・内々神社(春日井市内津町字上町)
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
旧妙見宮奥之院(きゅう みょうけんぐう おくのいん)は 内々神社(うつつじんじゃ)〈延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)〉の当初の鎮座地とされ 内々神社から山道を登り 断崖岩の絶壁の割れ目にお堂〈巌屋神社〉があり 今は鉄の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云う゛奥の院゛です
旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町)〈内々神社 当初の鎮座地〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 熱田神社(名神大)(あつたの かみのやしろ)
日本武尊に従い 副将軍として 東国の平定に赴きその帰途亡くなられた 尾張地方繁栄の礎を築いた神とされて 祀られています
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
延喜式内社 尾張國 山田郡 尾張戸神社(をはりへの かみのやしろ)
宮簀媛命の勧請と伝える古社
・尾張戸神社(瀬戸市十軒町)
・八幡社(小牧市大字上末字新田)
延喜式内社 尾張國 丹羽郡 針綱神社(はりつなの かみのやしろ)
尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を主祭神として 建稲種命・玉姫命・大荒田命・尻調根命(尾綱根命)健多乎利(たけだおり)命〈建稲種命の祖父 他を祀っています
・犬山城天守台付近(犬山市大字犬山字北古券) 〈針綱神社の旧鎮座地〉
・針綱神社(犬山市大字犬山字北古券) 〈天文6年(1537)犬山城の築城により遷座〉
・立野神社(犬山市大字上野字郷)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄蒲郡線 三河鳥羽駅から 吉良の海岸沿いに南下して約3km 車で6~10分程度
夜明け前 吉良の温泉宿の窓からは 目の前に三河湾が広がり 東側の対岸にある渥美半島から朝陽が昇ろうとしています
恵比寿海水浴場(駐車場)の目の前に社頭があります
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)に参着
石段を修復したような参道を上がります
この参道の修復工事の石碑がありました
参道の先には 二の鳥居が建ちます 左手の道の先には境内社の稲荷社が見えています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の裏側には 檜皮葺の本殿が祀られています
本殿の両脇には 熊野神社 神明宮の本殿が祀られています
社殿に一礼をして 境内を戻ります
参道を戻ります
眼下に広がる海は 三河湾です
御祭神の建稲種命(たけいなだねのみこと)が駿河の海で亡くなられ その御遺骸が流れ着いたとする海になります
建稲種命の遺骸が流れ着いたと伝承のある蛭子岬は 参道を下ったすぐ目の前になります
蛭子岬には えびす社が祀られています
眼前に広がる三河湾に一礼をして 建稲種命に祈りを捧げます
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 羽豆神社について 所在は゛幡豆庄宮崎村に在す、今羽利明神と称す、゛〈現 幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〉と記しています
【抜粋意訳】
羽豆神社
羽豆は假字也、郡名に同じ、
○祭神詳ならず
○幡豆庄宮崎村に在す、今羽利明神と称す、〔二葉松、私考略〕 例祭 月 日
類社
尾張國 知多郡 羽豆神社の條見合すべし神位
文徳實録、仁寿元年十月乙巳、参河国 播豆神 授くに從五位下、国内神名帳云、正二位羽利大明神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 羽豆神社について 所在は゛今 幡豆庄宮崎村にあり、羽利明神と云、゛〈現 幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〉と記しています
【抜粋意訳】
羽豆(ハツノ)神社
〔〇按 文徳實録に幡豆、神明名帳 羽利に作る、並同、〕
今 幡豆庄宮崎村にあり、羽利明神と云、〔三河二葉松、三河國圖、官社私考〕
建稲種命を祭る、〔本社傳説参取、尾張羽豆神社傳説、〕
文徳天皇 仁寿元年十月乙巳、從五位下を授く、〔文徳實録〕
凡 其祭九月七日八日を用ふ、〔愛智縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 羽豆神社について 所在は幡豆庄宮崎村丸山字宮山゛〈現 幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〉と記しています
【抜粋意訳】
羽豆(ハツノ)神社
〔明細帳に幡豆神社に作る〕
祭神 建稻種(ダケイナタネノ)命
今按 熱田宮鎭座記に 春日郡 内津天神社祀 稻種公に三河國 羽豆神社も亦 祭に此神とみえ 本社傳説にも建稻種命と云るもの相證とすべし
神位 文德天皇 仁壽元年十月乙巳 三河國 播豆神 授に從五位下
祭日 九月七日八日 社格 郷社
所在 幡豆庄宮崎村丸山字宮山〔幡豆郡吉田村大字宮崎 縣社幡豆神社〕
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛知縣 三河國 幡豆郡 吉田村大字宮崎
郷社 幡豆(ハヅノ)神社
祭神 建稻種(タケイナダネノ)命
幡豆 式に羽豆に作り 國帳 羽利に作る、 創立年代詳ならずと雖も、 延喜式内社にして文徳實録に「仁壽元年冬十月乙巳、参河国幡豆神授從五位下」と見え、
國内神名帳に「正一位羽利大明神と見えたり、 又 参河国古蹟考に「今在 羽豆(ハズノ)宮崎村に今號に羽利(ハリ)大明神」とあり、御神體は應神天皇の荒魂寶劒にして一名 蛇切丸と奉稱する神劒にまします、 古来 当国有数の神社にして、上下の崇敬厚く、其名 隣国に及べり、往年 中納言顯長 当國國司たりし時 本宮に参拝す、時に伴幡頭介助平を宮司に補せしかど、助平之を辞す、即ち顕長一首の和歌を贈らる、事東三伴氏瀧川家古系圏に見えたり、即ち
伴芙男二男 員助七代 員助⇒助重⇒助平〔伴幡頭介、幡頭郡司、中納言顯長三河国司也、幡頭羽利宮神拝之時、雖輔宮司依辞之、被送一首和歌〕
阿津佐弓加計而之物遠幡頭乃助如何耳志気留曾羽利之社遠
古来 幡豆郷十七ヶ村 竝宮崎村の産土神にして、明治五年九月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地千三百四十一坪(官有地第一種)あり、因みにハツとハリとの別に付き本多光臣云く、
「羽利大明神と称することは、先つ年 京都蛸薬師圓福寺の住僧〔宮崎村出生人〕当社の額を書く時、ハツをハリと書き誤りけるよりの事なりと云り、されど国内神名帳にもしか稱し、同郡 萩原村にも同名の社あるべし、可考」 又 神祇志料は「羽豆神社、按文徳実録に幡豆、神名帳羽利に作る、竝同」といひ、 大日本地名辞書は 萩原村にも同神を崇れば、利は豆の誤にあらす」といへり、寶物には 藤原時平寄進の太刀、足利義満の太刀、獅子假面、足利尊氏(延文二年十一月)及義満(応永七年参月)の扁額、及京都圓満寺よりの扁額あり。
境内神社
熊野社 神明社 御鍬社
【原文参照】
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
参河国 式内社 26座(並小)について に戻る
参河国(みかわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 参河国には 26座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
参河國(みかわのくに)の 式内社 26座(並小)について