服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
服部神社(Hatori Shrine) (村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
(はとりじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
奈良県磯城郡田原本町蔵堂426(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天之御中主神(Amenominakanushi no kami)
天之御鉾神(Amenomihoko no kami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・繊維染織・服飾全般を司る神 God who controls textile dyeing and weaving and clothing in general
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
「ハトリカミ」(広報たわらもと1990年7月号掲載)
川東村大安寺。服部神社の舊跡(きゅうし)なりという。天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後、村屋坐社の境内に遷り祭りしという。
※服部神社も同じく村屋神社の境内に祀られている。
田原本町役場公式HPよりhttp://www.town.tawaramoto.nara.jp/kanko/story/folklore/3472.html
【由 緒 (History)】
田原本歴史遺産 神々を訪ねて
延喜式内社 旧 式下郡 蔵堂 服部神社
祭神
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
天之御鉾神(アメノミホコノカミ)繊維染織、服飾関係を司る神である。
これより西2kmばかりの所に、大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地がある。
そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であった。祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を乗せてお参りした風習があった。今は、綿の栽培がなくなったので、此の風習はなくなった。
元弘年間(1331ー34・南北朝)の兵火に遭い社地を没収される。更に天正年間(1573–92・織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)境内に遷したと言われている。この頃、波登里(ハトリ)・阿刀(アト)村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末摂社となる。と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断するに至り、未だ復興することが出来ない。
文 村屋坐彌冨都比売神社 守屋広尚 宮司
服部神社の建築について
切妻造 妻入り 見世棚造 庇付カラー鉄板葺である。
柱間56cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。
柱天端は直接桁を受けている。中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。文 田原本町文化財保護審議委員会会長 林清三郎
平成21年度 No.5田視55 田原本町観光協会
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
当神社「服部神社(Hatori Shrine)」が 鎮座しているのは 「村屋坐彌冨都比賣神社」の本殿横の瑞垣の中になります
村屋坐彌冨都比賣神社の記事をご覧ください
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 服部神社 二座 鍬靫
[ふ り が な ](はとりの かみのやしろ にざ くわ ゆぎ)
[Old Shrine name](Hatori no kamino yashiro Niza Kuwa Yugi)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載のある「服部神社(ハトリノカミノヤシロ)」について
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』には 同名の神社が 2つあります
①加賀國(カガノクニ)江沼郡(エヌマノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(山代温泉)の記事をご覧ください
➁因幡國(イナバノクニ)法美郡(ハフミノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(福部町)の記事をご覧ください
服部神社(はっとりじんじゃ)は 『續日本紀』元明天皇 和銅五年(712)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織られたと記載があり その頃の創立と思われ 又『三代實録』貞観十六年(874)五月の条に服織神 從五位上と神階の奉授が記される国史見在社であり 式内社 因幡國 法美郡 服部神社(はとりのかみのやしろ)でもあります
服部神社(鳥取市福部町海士)〈三代實錄 服部神・延喜式内社 服部神社〉
他に『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載されている 音が同じ「ハトリノカミ」を含む神社としては
・攝津國 嶋上郡 神服神社
神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます
神服神社(高槻市宮之川原元町)
伊勢國 多氣郡 服部伊刀麻神社(はとりの いとまの かみのやしろ)
・服部伊刀麻神社 舊地(松阪市出間町)
〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社の旧地〉
・〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
伊勢國多氣郡 服部麻刀方神社二座(はとりのまとまの かみのやしろ ふたくら)
・須麻漏賣神社舊地 麻刀方神社舊地(松阪市垣内田町)
〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)の舊地〉
・〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)
神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします
八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉
延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について
『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています
服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています
服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
※江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった
酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
酒井神社(鈴鹿市郡山町)
延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)
・服織神社(浜松市東区豊町)
服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には〈織物に関係した職人が集団〉服部(はとりべ)が住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建と伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます
服織神社(浜松市東区豊町)
延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社 三社について
・服織田神社(牧之原市静波)
服織田神社(はとりだじんじゃ)は 社伝には゛景行天皇の七年に勧請された゛とあり 鎮座地は 往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されています 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
服織田神社(牧之原市静波)
・白羽神社(御前崎市白羽)
白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
白羽神社(御前崎市白羽)
・駒形神社(御前崎市御前崎)
駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
駒形神社(御前崎市御前崎)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄橿原線 田原本駅から県道14号を東へ約3.5km 車15分程度
村屋坐彌冨都比賣神社(Murayanimasumifutsuhime Shrine)の境内
本殿の向かって左側に 瑞垣の内に囲まれて鎮座します
服部神社(Hatori Shrine)に参着
社号標が建ち
「延喜式内社 蔵堂 服部神社 祭神 天之御中主神 天之御鉾神 」と刻まれています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承
服織連(ハトリノムラジ)については 神別(シンベツ)〈天津神・国津神の子孫〉の条に 大和国(ヤマトノクニ)と 摂津国(セッツノクニ)の 2流が それぞれが記されています
摂津国(セッツノクニ)の神別(シンベツ)〈天津神の子孫〉では
服織氏の祖神は 麻羅宿禰(Mara no sukune)で
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領したとあります
大和国(ヤマトノクニ)の神別(シンベツ)〈天津神の子孫〉では
服織氏の祖神は 天御鉾命(アメノミホコノミコト)とあります
こちらが 当神社の系統です
意訳
摂津国(セツツノクニ)神別(シンベツ)の条
服部連(ハトリノムラジ)
熯之速日命(Hinohayahi no mikoto)12世孫 麻羅宿禰(Mara no sukune)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領し司(ツカサド)る よって 服部連(ハトリノムラジ)と号す
意訳
大和国(ヤマトノクニ)神別(シンベツ)の条
服部連(ハトリノムラジ)
天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)11世孫 天御鉾命(アメノミホコノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『五畿内志(Gokinaishi)』享保14年(1729~1734)編纂に記される伝承
江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされる『五畿内志(Gokinaishi)』
※著者の並河 誠所(Namikawa seisho)〈江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者〉は『五畿内志』を編纂する調査の過程で『畿内』の数々の延喜式式内社の比定も行こないました
当神社について 大安寺村に在る 波都里神(ハトリノカミ)としています
意訳
服部神社(ハトリノカミノヤシロ) 二座 鍬靫神社 二座 鍬靫
〇大安寺村に在り
今 称するに 波都里神(ハトリノカミ)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『五畿内志』著 並河永 著 編纂 享保14年(1729)[他] 出版 昭和4(1929年)日本古典全集刊行会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179429 『五畿内志』
『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』に 大和国(ヤマトノクニ)の神別(シンベツ)天御鉾命(アメノミホコノミコト)の系統とであると記し
現在は 旧跡とされている 大安寺村に 波都里神(ハトリノカミ)として 今 鎮座しいてる と記されています
意訳
服部(ハトリノ)神社 二座 鍬靫
姓氏『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』
大和国(ヤマトノクニ)神別(シンベツ)の条
服部連(ハトリノムラジ)
天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)11世孫 天御鉾命(アメノミホコノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)〇大安寺村 今 称するに 波都里神(ハトリノカミ)
和抄『和名類聚抄』に
山辺郡に 服部 波都里(ハトリ)あり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容
御祭神2座の内 1座は良く判らないとしいて
当神社の旧跡地とされる 大安寺村の中に 旧跡地の地点と その東西南北の隣地に 所縁の「字(アザ)〈集落の最小単位として屋号等も含め〉」があると記しています
意訳
服部(ハトリノ)神社 二座 鍬靫
祭神 天御鉾命(アメノミホコノミコト)
今按〈今考えるに〉
この祭神一座は
姓氏『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』大和国(ヤマトノクニ)神別(シンベツ)の条 に服部連(ハトリノムラジ)
天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)11世孫 天御鉾命(アメノミホコノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)とあるので 疑いなけれども
今 一座は未だ詳ならず
祭日 村屋神社に同じ
社格 明細帳に 村屋坐彌冨都比賣神社 境内 服部神社あり 無社格
所在 蔵堂村 彌冨都比賣神社の域内
今按〈今考えるに〉
社地 往昔 大安寺村の内に
字(アザ)〈集落の最小単位として屋号等も含め〉に
波津里神(ハツリノカミ)と云う田地の字あり〈当神社の旧跡〉その南を字(アザ) 神館(カミヤカタ)と云う
又
北を神子田(カミコノタ)と云い
西を信濃(シナノ)など云う
字(アザ)ありて 何れも 本社に由(ヨシ)あり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『大和志料(Yamato shiryo)』大正3年(1914)に記される伝承
大安寺村に在ったとされる「波都里(ハトリ)神」は 当神社の旧蹟を指していると記し
祭神は不明だが 服部氏の祖神を祀る と記しています
意訳
服部(ハトリ)神社
延喜神名帳に「服部神社 二座 鍬靫」 と
大和志『五畿内志(Gokinaishi)』に「大安寺村に在り 今称するに 波都里(ハトリ)神」と見ゆ村屋神主の家記には
もと大安寺村にありしを 天正中(1573年~1591年) 社殿兵火に罹り 後に 村屋坐社(村屋坐弥富都比売神社)の境内に遷し祭る
今 川東村大安寺に「ハトリカミ」と称する田地あり これ その旧趾なりと云ふこれに拠れば
大和志『五畿内志(Gokinaishi)』に謂ふ ところは 旧趾を指せるものに似たり祭神詳ならず
姓氏録 大和 神別に「服部連は 天之御中主神11世孫 天御鉾命之 後 也」とあれば 古(イニシエ) この地に服部氏の住するありて その祖神を祭れるにあらん註
神社明細帳に 縣社 村屋坐彌冨都比賣神社 境内神社 服部神社
祭神 天御鉾命・誉田別命
延喜式内 舊蹟〈旧跡〉 式下群〈城下郡〉 大安寺村にあり
大宮社(村屋坐弥富都比売神社) 瑞垣の内へ遷座す
とあり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813『大和志料』
服部神社(Hatori Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
村屋坐彌冨都比賣神社の記事をご覧ください
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)