箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
箱崎八幡神社(HakozskiHachiman shrine)
[通称名(Common name)]
〈旧称〉海浦神社〈海裏宮〉・海裏八幡宮
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触1294
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
海裏神社〈海裏宮〉
《主》豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
八幡神社
《主》品陀和気命(ほんだわけのみこと)〈応神天皇〉
仲津日賣命(なかつひめのみこと)
帯仲日子命(たらしなかひこのみこと)〈仲哀天皇〉
息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
〈相殿〉月讀神社
《主》天月神命(あめのつきかみのみこと)
〈相殿〉高御祖神社
《主》高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
〈別殿〉
《主》天一柱命(あめのひとつばしらのみこと)
烏賊津連 武内大臣 乙魂神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
〈相殿〉月讀神社・高御祖神社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』には
顕宗天皇 三年の段に 任那と高麗との通交に関して 壱岐の「月神」と対馬の「日神」が「高皇産霊命(タカミムスビノミコト)を祀れ」と憑依した神勅が記されます
この「月神」は 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)に祀られる「天月神命」であると伝わります
【由 緒 (History)】
月讀神社
最初 式内月讀神社として創立あり、次で 海神の配祀 又は 龍神の合祀等によりて 龍神又は海裏宮となり、下りて八幡神の配祀ありて 全く八幡宮の社号の下に其他の社号を蔽はれ、為に 延宝四年の査定に過りて 式外に列し奉りし者と云ふべし。
されど 古来 式内月讀神社なるが故に 国主の崇敬 及 国民の信仰は 社号が式外八幡神社となりても 聊も異なるところなく 嶋内の名社たるの事実は 毫も失墜する事これなき也
『壱岐神社誌』〈著者 後藤正足 出版者 錦香亭 出版年大正15(1926)〉より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・境内社の合殿
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神267社とともに神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授 淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品
・・・・・
・・・・・壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上
・・・
【抜粋意訳】
巻二十一 貞觀十四年(八七二)四月廿四日〈癸亥〉の条
○廿四日癸亥
宮主從五位下 兼行丹波權掾伊伎宿禰是雄卒。是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代。供龜卜事。厥後子孫傳習祖業。備於卜部。是雄。卜數之道。尤究其要。日者之中。可謂獨歩。
嘉祥三年爲東宮々主。皇太子即位之後。轉爲宮主。貞觀五年授外從五位下。十一年叙從五位下。拜丹波權掾。宮主如故。卒時年五十四
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神ノ祭 二百八十五座
・・・
・・・
月讀(つきよみの)神社 一座
中津(なかつの)神社 一座
天手長男 (あまのたなかをの)神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐嶋・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
二つの式内社の論社です
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 月讀神社(名神大)
[ふ り が な ](つきよみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsukiyomi no kamino yashiro)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙御祖神社
[ふ り が な ](たかみおやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takamioya no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壱岐島(いきのしま)に祀られる 式内社 髙御祖神社(たかみおやの かみのやしろ)
神社考に曰、顯宗天皇三年二月、天月神命ノ神託に依り壹岐縣主先祖押見宿禰の祭る所にして 月讀神社には高皇産靈尊の裔 天月神命を祀り 高御祖神社には天月神命の祖 高皇産靈尊を祀る云々
・高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
壱岐島(いきのしま)に祀られる 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)
神社考に曰、顯宗天皇三年二月、天月神命ノ神託に依り壹岐縣主先祖押見宿禰の祭る所にして 月讀神社には高皇産靈尊の裔 天月神命を祀り 高御祖神社には天月神命の祖 高皇産靈尊を祀る云々
・月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます
月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
・男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)〈(月讀宮)箱崎八幡神社の旧鎮座地〉
男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です
男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)
『日本書紀』顕宗天皇紀にある 山背国 葛野郡 歌荒樔田(ウタアラスダ)に奉られた〈月の神〉〈現 月読神社(京都市西京区)〉
葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)
・月読神社(京都市左京区)
月読神社(つきよみじんじゃ)は 『日本書紀』顕宗天皇の段 三年(487)に 壱岐島から月神(つきのかみ)を勧請したと 創建について記されます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 山城國 葛野郡 葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)に比定され 現在は 松尾大社の境外摂社となっています
月読神社(京都市西京区松室山添町)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の内 高御魂と号した式内社は 合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉
・大和の宇奈多奢(うなたり)・大和の目原(めはら)・山城の羽束師(はつかし)と対馬の豆酘(つつ)にあり それを宮中の高御産日神を合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉となります
①「宮中神 御巫等祭神八座 並大 月次新嘗 中宮 東宮御巫亦同」
御祭神 (八座)
神産日神高御産日神玉積日神生産日神足産日神大宮賣神御食津神事代主神
②「大和國添上郡 宇奈太理坐高御魂神社 大月次新嘗」の論社は3つ
・宇奈多理坐高御魂神社(奈良市)
宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります
宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)
・井栗神社(春日大社 境内)
井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります
井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
・穴栗神社(奈良市)
穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は 元々は 横井村の北西に鎮座していたが 江戸時代初期の寛文年間〈1661~1673年〉に現在地〈古市村〉に遷座したと伝わります 二つの式内社「宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすひの かみのやしろ)」「穴次神社(あなつきの かみのやしろ)」の論社とされています
穴栗神社(奈良市横井)
➂「大和国十市郡 目原坐高御魂神社二座並大月次新嘗」の論社は3つ
・天満神社(橿原市)
・耳成山口神社(橿原市)
・山之坊山口神社(橿原市)
④「山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社大月次新嘗」の論社は1つ
・羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区)
羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)
➄「対馬島下県郡高御魂神社 名神大」の論社は1つ
・高御魂神社(対馬 豆酘)
高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました
高御魂神社(対馬 豆酘)
゛神の坐ます島 壱岐゛で崇敬されている 壱岐七社について
壱岐の人々には お正月に初詣に・豊作・大漁・家内安全・健康長寿 等を祈願して七社巡りをする習慣があります
参拝の順番は 家に近い神社を起点に時計回りに回るのがいいとされているそうです
壱岐七社は いづれも 延宝四年(1676)延寶の調〈旧平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 延喜式内社の大社と考えられていた由緒ある神社で 旧平戸藩の藩主が特別に崇敬をした七つの神社です
1.白沙八幡宮
〈 延喜式内社 海神社(大)の論社〉
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際 ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
2.興神社
〈延喜式内社 天手長男神社(名神大)の論社〉
・興神社(壱岐市芦辺町)
興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です
興神社(壱岐市芦辺町)〈壱岐国一之宮〉(元印鑰宮)
3.住吉神社
〈延喜式内社 住吉神社(名神大)の論社〉
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
4.本宮八幡宮
〈延喜式内社 兵主神社(名神大)の論社〉
・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)は 社縁起に兵主神社であり八幡宮と称すとあり 聖母縁起に 本宮八幡宮は 中住吉大明神 左誉田尊 右息長帯姫尊を祭る 神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神の出現ありて神力を添へ給ふ故 当社住吉大明神を兵主神社と称す也とあり 式内社 兵主神社であると有力視されています
本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
5.箱崎八幡宮
〈延喜式内社 月讀神社(名神大)の論社〉
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
6.國片主神社
〈延喜式内社 天手長比売神社(名神大)の論社〉
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
7.聖母宮
〈延喜式内社 中津神社(貞・名神大)の論社〉
・聖母宮(壱岐市勝本町)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
芦辺港から約3.7km 車6分程度 県道23号沿いに鳥居が建ちます
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 石段を上がります
桃形の石に 手口きよめ水 と文字の彫られています
その先には 二の鳥居 ふたたび石段を上がり 三の鳥居があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 覆屋の中に本殿が祀られます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
顕宗天皇 三年の段に 任那と高麗との通交に関して 壱岐の「月神」と対馬の「日神」が「高皇産霊命(タカミムスビノミコト)を祀れ」と憑依した神勅が記されます
この「月神」は 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)に祀られる「天月神命」であると伝わります
歌荒樔田(ウタアラスダ)に〈月の神〉奉られたのは 山背国の葛野郡にあり〈現 月読神社(京都市西京区)〉です
【抜粋意訳】
顕宗天皇 三年の段
春二月丁巳朔の条
顕宗天皇3年2月1日
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は命を受け 日本から任那に使者として出た
すると月神(ツキノカミ)が 人に神掛かって云うには
「我が祖先の高皇産霊命(タカミムスビノミコト)は 最初に鎔けあっていた天地を創造した功績がある 民地(カキトコロ)を我が月神に奉れ この請うままに我に献上するならば 福慶(サイヨロコビ)があるだろう」事代(コトシロ)は それで京〈大和〉に帰り詳細に申し上げました
それで歌荒樔田(ウタアラスダ)に〈月の神〉奉られた 歌荒樔田は山背国の葛野郡にあり〈現 月読神社(京都市西京区)〉
壱岐県主(イキノアガタヌシ)の先祖 押見宿禰(オシミノスクネ)が祠(マツリ)仕えました(顕宗天皇 三年)3月上巳
後苑(ミソノ)に出られて 曲水宴(メグリミズノトヨノアカリ)を催された
(顕宗天皇 三年)夏4月5日
日神(ヒノカミ)は 人に神掛かって 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に語って云うには
「磐余(イワレ)の田を 我が祖先 高皇産霊(タカミムスヒ)に奉れ」事代は すぐに天皇に奏上し 神が乞(コワシ)〈請う〉ままに田14町を献上した
対馬下縣直(ツシマシモノアガタノアタイ)を祠(マツリ)に侍らせた
(顕宗天皇 三年)夏4月 13日
福草部(サキクサベ)を置かれた
(顕宗天皇 三年)夏4月 25日
天皇は八釣宮(ヤツリノミヤ)で崩御された
(顕宗天皇 三年)この年
紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は 任那(ミマナ)を経由して高麗と交通(カヨイ)ました
西の三韓(ミツノカラクニ)の王にならんとし 官府(ミヤツカサ)を整え治め 神聖(カミ)と自称した 任那の左魯(サル)那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちは 策謀し 百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム)で殺した 爾林は高麗の土地
帯山城(シトロモロノサシ)を築き 東道を防ぎ守った 粮(カテ)〈食料〉を運ぶ津〈港〉を遮断した 軍隊は飢え 苦しみ 百済の王はとても怒り 領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣した 軍隊を率いて帯山に行き攻めた 生磐宿禰(オイワノスクネ)は 軍隊を進め逆に迎え撃ちた 胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で 向かうところで敵を皆破り 一人で敵100人に当たった しばらくして武器は尽き枯れた それで事が成らないと分かり任那へと帰った
これにより百済国は佐魯(サル)那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺した
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 国分村〈現 月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)〉と記しています
式内社 高御祖神社の所在について 諸吉村(現 高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触))と記しています
【抜粋意訳】
月讀神社(名神大)
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上
旧事記 天月神命 壱岐縣主等祖
書 紀 顕宗記 顯宗天皇三年二月朔 阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。」事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田歌荒樔田者、在山背國葛野郡也、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠畧志 国分村にあり
高御祖(タカミオヤ)神社
和抄 田河ナリ
〇信友云 住吉神社の下に云う
畧志 諸吉村にあり
【原文参照】
国立公文書館蔵『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
第二十五巻 箱崎村之部 箱崎村〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉は 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社であると記されています
【抜粋意訳】
第二十五巻 箱崎村之部
八幡大神 海宮 在 本村釘丘 村中の産神なしき
祭神 豊玉彦命 玉依姫命
左 応神天皇 仲愛津命
右 仲哀天皇 神功皇后又 三厘深秘 納金箱殿
御殿
渡殿
拝殿
御饌殿
左右御前 在御殿西
小祠 北向
稲荷祠 北向
小祠 北向
新八幡社 在御殿西
小祠 北
右の三社合せ上屋にあり 茅葺地神 在正殿南
門守神 在境内
馬蹄石 在境内
この石 竪二尺八寸・・・・
石鳥居
馳道
釘石
この石なるによりて 里の名を釘の丘という境内 東西壱町六間半 南北二町二間二尺 周囲五町丗七間半余
当社は 日本鹿子云 磯山権現 磯山に立 聖武天皇 神亀年中に現に龍神 云々
〇國花万葉記云
磯山権現 磯山に立 龍神社 聖武天皇 神亀年中に現 以上
今按 従神亀元年 至 安政二年一千二百三十一年
元は上里の本村に鎮座なり 其の後 下里の辻に遷座し給い 吉野大宮司山本太郎丸らを掌る 其の後 箱崎と新城と互に祠に及び遂に箱崎より新城を攻落し 其の鎮護として 八幡宮を新城邑の宮地といふ所に遷座し奉る 金箱殿の銘云 正慶元年八月五日大工光秀云・・・・・・・中略釘丘山御遷幸行列
警蹕・・・・・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 国分村〈現 月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)〉と記しています
式内社 高御祖神社の所在について 諸吉村(現 高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触))と記しています
【抜粋意訳】
月讀神社(名神大)
月讀は 都岐與美と訓べし
〇祭神 天月神命 〇今按るに 壱岐縣主の氏神なるべし
〇国分村に在す
〇式三 臨時祭 名神ノ祭 二百八十五座 中略 壱岐島 月讀神社一座類社
山城国 葛野郡坐月讀神社の條見合うべし神位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上氏人
三代実録 貞觀十四年(八七二)四月廿四日〈癸亥〉の条 宮主從五位下 兼行丹波權掾伊伎宿禰是雄卒。是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代。供龜卜事。厥後子孫傳習祖業。備於卜部高御祖神社
高御祖は 多加美淤夜と訓べし
〇祭神 高皇産霊尊 考証
〇諸吉村に在す 今 権現宮と称す類社 山代国 乙訓郡 束師坐高御産日神社の條見合うべし
怪異
扶桑略記、延喜十八年十月十五日.太宰府解、壹岐鳥言上、手長比賣明神社、住吉明神社如ニ太鼓 鳴動、御體美石出 宝殿 在ニ地上、高御祖神社内乱肇、炎光照耀、指レ東飛去、卜部等申云、彼島内疾兵革、寮云兵賊驚者
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 箱崎村〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉と記しています
式内社 高御祖神社の所在について 諸吉村(現 高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触))と記しています
【抜粋意訳】
月讀(ツキヨミノ)神社
今 箱崎村にあり八幡といふ 正慶元年棟札 壱岐国式社沿革考
月讀尊を祀る 日本書紀 延喜式顕宗天皇御世 阿閉臣事代 任那に使する時 月神の神教を得て 高皇産靈神を祭らしめ給ひき所謂 月神蓋 此神なり 日本書紀
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上 三代実録
醍醐天皇 延喜の制 名神大社に列る 延喜式
高御祖(タカミオヤノ)神社
今 諸吉村に在り 蓋 高皇産霊尊を祀る
顕宗天皇の御世 月神の神教に依て 高皇産霊尊を祭らしむ 本社 此国に在るは 蓋 此地なり醍醐天皇 延喜十八年十月乙卯 大宰府奏さく 高御祖名神の社内 鳴響き 火光照耀きて 東に飛び去る事あり 此は兵革の兆ありと卜部等卜申す由を奏しき 即ち此神なり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 箱崎邑宋社八幡宮と御同殿〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉と記しています
式内社 高御祖神社の所在について 諸吉村(現 高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触))と云われているが 紀州田邊の熊野権現を勧請したもので 疑わしいと記しています
【抜粋意訳】
月讀神社(名神大)
祭神 月讀命
神位 清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上 三代実録
祭日 九月二十三日
社格
所在
今按〈今考えるに〉
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉また明細帳 長崎縣式内社記ともに國分村にありとす
神社考に國分邑深渕の岸の上山端に山神と称するあり この深渕を訛りて ふかつきと云り 其の淵 今埋まりて尚水の溜れる淵の跡ありきよつきども云ふ
延寶〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の時きよつきの名に因て 月讀神社を定む然れ 共 延寶以前 社なかりしほどなれば式社にはあるべからずとみえ
式社沿革考に式社略考に箱崎邑と記せしや正しからむ 其は内殿の棟札に箱崎 八幡宮壱岐国壱岐郡 月讀宮釣瓶庄潮安郷 奉造立 内殿一宇 大宰少武兼 筑後森藤原景資」「右の傍に」正慶元年「左の傍に」八月五日」大宮司云々 伊岐末茂云々 とある文による時は 月讀神社は箱崎邑宋社八幡宮と御同殿にます神ならん 箱崎邑釘丘郷 天月(テツキ)の里ら天月神社あり 是その古社なるべしと云る証ありて聞ゆれば箱崎邑と定めて可ならん高御祖神社
祭神 高皇産霊神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
祭日 九月十五日
社格 村社所在 諸吉村(壱岐郡田河村大字諸吉)
今按〈今考えるに〉
神社考に諸吉邑の熊野権現は紀州田邊の熊野権現を勧請す 故に田部権現と称す 然れば伊弉冉尊にして 高皇産霊神に非ず
式社にはあるべからずとあるによる時は疑わしきに似たれど 承應社記にも明細帳 長崎縣式内社記にも諸吉村あれば之に従えり
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)は 式内社の月読神社と高御祖神社に比定されていて
鎮座の推移として 始め 聖武天皇 延暦6年(787年)に男岳山に祀られ その後 上里の東屋敷 下里の辻 新庄村の宮地山と遷座 元禄13年(1700)に現在の箱崎村根低山へと鎮座
【抜粋意訳】
箱崎村ノ部
村社 八幡神社(旧号 海裏宮 海裏八幡宮)
鎭座地 箱崎村
祭 神 豊玉毘古命、玉依毘賣命、
品陀和氣命、仲日賣命、息長帯日賣命、帯仲日子命、
天月神命、天比登都柱命、高皇産霊神例祭日 九月二十三日 神幸式、流鏑馬、大神樂奉奏
境内地 1355坪〔由緒沿革〕
一、社記ニ日、桓武天皇延暦6年西戎襲来ニ依リ以詔命奉鎭座ト云 始男岳山ニ鎮座 次ニ上里ノ東屋敷 次ニ下里ノ辻 次ニ新庄村ノ宮地山 次ニ元禄13年現社地即根抵山ニ鎭座シ奉ル。
一、神名記ニ曰、改以前ハ式内但新城村ノ内宮地村ニ中古以來御鎭座也 又曰 昔者箱崎村ニ宮地ニ所有之云々。
一、式社沿革考ニ 箱崎村宗社八幡宮ハ 往昔ヨリ御嶽敬七社ノ其ノ一ナレバ小縁ノ社ニアラズトアリ。
棟札最古ノモノ左ノ如シ。
一、正慶元年(1332)8月5日記裁ノモノニ曰
箱崎八幡宮 月読宮 壱岐国壱岐郡釣瓶荘潮安郷奉造立 内殿一宇 大宰少貮兼筑後守藤原景資大宮司 兼 神主政所棟梁惣楡校吉野宮内丞初興伊岐宿彌未茂。
一、文明3年(1471)6月7日同上
箱崎八幡宮 壱岐國壱岐郡箱崎郷奉造立 宝殿一宇 太宰大貮大内左京太夫多々良朝臣政尚大宮司兼神主政所棟梁惣検校吉野五良三郎伊岐末貞一書ニハ箱崎海裏宮御殿再興トアル。
一、延徳2年(1490)正月15日同上
箱崎八幡宮 壱岐国壱岐郡箱崎郷奉造立 宝殿一宇 正守護波多下野守源朝臣泰大宮司兼神主政所棟梁惣検校吉野黒男大輔伊岐末春。
一、元和9年(1623)8月2日同上
箱崎八幡宮 壱岐国壱岐郡箱崎郷奉造立 宝殿一宇 正守護松浦肥前守源朝臣隆信大宮司兼神主政所棟梁惣検校吉野藤左衛門尉伊岐末冬。一、壱岐国続風土記ニ日、古ハ公ノ崇敬厚クシテ 多クノ神田ヲ寄セラレ 御宮造リモ最清ク 春秋及折々ノ祭祀モ 如在ノ礼最モ恭シク仕ヘマツリシガ 応仁ノ後ハ世ノ中乱レ 大永ヨリ天正ノ頃ニ到リテ 天下ノ争乱極マリ 西ノ海波風穏カナラズ 九国二ツニ分レ或ハ三ツニ峙チ 各之ヲ兼併セント攻戦ノ営ミ守禦ノ備ヘニ怠ナク 其下ノ一邑一城ヲ占ル輩マデモ 片口糸ノヒキビキニノミ争ヒテ折ル 神田モ傍ノ豪族ノ爲メニ奪ハレ 永禄ノ頃ニ及ビテハ ヤウヤク神田五領反残リシガ 其後ニ反ニ減ジ 大宮司ノ米田モ四反四丈トナリ 惣ノ市ノ米田ハ二反トナレリ下略、元和3年以後ハ 神ハ僅ニ高二石トナレリ下略、社領二石遣之者也元和3年12月28日隆信押字以下判状数通アリ。
一、壱岐名勝図誌ニ曰、今按ズルニ 上里本村ニ鎭座アリ 其後下里ノ辻ニ移リ給フ 吉野大宮司山本太郎丸之ヲ掌ル 其後箱崎ト新庄ト互ニ闘争ニ及ビ 遂ニ箱崎ヨリ新庄ヲ攻落シ其鎮護トシテ八幡宮ヲ斬庄邑ノ宮地ト云フ所ニ遷座ナシ奉ル、元禄13年箱崎村本郷ニ還幸ナシ奉ル云々。
一、明治9年12月4日村社ニ列セラル。
一、大正5年9月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。
【原文参照】
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について