実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

羽黒三田神社(奥多摩町氷川)

羽黒三田神社(はぐろみたじんじゃ)は 社伝によると「貞観二年(860)出雲国の人 土師連行行基が東国に下向し 御嶽山に詣り神告を得て 当地に高皇産霊神 少彦名神の二神を祀り 穴澤天神と号した」と伝わり式内社の論社です その後 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に羽黒権現合祀されましたが 今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神合殿となっています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

羽黒三田神社(Haguromita Shrine)
(はぐろみたじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

おはぐろさん

【鎮座地 (Location) 

東京都西多摩郡奥多摩町氷川1365

 [  (Google Map)]

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》高皇産霊神(Takami musuhi no kami)
   少彦名神(Sukunahikona no kami)
   倉稲魂命(Ukano mitama no mikoto)
   天穂日命(Ameno hohi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

本社御由緒

祭神
正殿 高皇産靈神 少彦名神
左殿 天穗日命
右殿 稻倉魂命

創立起源は社記に人皇56 清和天皇の御代 貞観3巳年 出雲の国の人 土師連行基と云う人 東国に下向し 本郡御嶽山に請り 神の告を蒙り該村に来り 高皇産靈神 少彦名神 乃二の神を祭り 是を穴沢天神と称す

由緒は 本社南山麓に一箇の清泉湧き出する洞穴あり 是を穴沢と称したりしたが 今誤りて葦沢と云う 蓋し社号の因る処なり 殿に天穗日命を祭り 是を調布郡祖の社と称す 一には川辺神社と称したり

亦後 永享6甲寅年 村内 の森 鎮座の羽黒大神の右殿に合祭し 羽黒山大権現と称し
亦後 征東将軍 成良親王神地を寄附し給うと云う
亦後 永正3丙寅年6 本郡の領主 将門16世の孫 三田弾正の忠平次秀宿願成就に因り社殿を再建し 神地を加付し 扁額に領内総鎮守たる旨を附記し 奉納す 今現に存在す
寛文8甲年4 徳川氏の代官 曽根五郎左衛門吉廣 本村検地の時 畠一反六畝九歩の地の公租を除き 羽黒権現 免に付したり
宝永2乙酉年2 社殿を再建し
亦後 安永9庚子年 更に是を再建す
明治3庚午年 官の命を奉載し 羽黒山大権現 穴沢大神 両社号を併して 羽黒三田大神と改正す
当時 韮山県の管轄なり 同年 酉難村社に定められ同年9丙午年 神奈川県庁神祇懸り片岡大属へ伺済の上 更に羽黒三田神社と改称す
明治22 社殿再建す
明治2582 神奈川県知事 内海

社頭の掲示より

【由  (History)】

羽黒三田神社の由緒

創立は社記によると清和天皇の貞観二年(八六〇)出雲国の人、土師連行行基が東国に下向し、御嶽山に詣り神告を得て当地に高皇産霊神、少彦名神の二神を祀り、穴澤天神と号した。また本社南の山林裏に川辺の神社と称して天穂日命を祀る一個の清泉湧き出でる洞穴がある。この社と村内元巣の森鎮座の羽黒大神を永享六年(一四三四)に合祀して、羽黒大権現と称した。のち成良親王が神地を寄付し、永正三年(一五〇六)六月将門十六世の孫、三田弾正次秀が社殿を再建、領内総鎮守とした。明治三年この両社をあわせて羽黒三田神社と改め、同二十二年社殿を再建した

東京都神社名鑑』より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

社殿の前鎮座
双馬神厩

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参道に鎮座
鹿島神社《主》武甕槌命
両輪神社《主》大巳貴命、月夜見命
八幡神社《主》誉田別天皇
立野神社《主》級長津彦命、級津姫命
大祇神社《主》大山祇命
琴平神社《主》大國主命、崇徳天皇
菅原神社《主》菅原道真公
出雲神社《主》大巳貴命、事代主命
榛名神社《主》埴安姫命

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

元巣ノ森羽黒権現〉の旧鎮座地

永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内羽黒権現合祀

元巣の森のスギ

元巣の森は、羽黒権現社(現: 羽黒三田神社)の旧地であることが武蔵風土記にあります。
南氷川は、むかしは、「しゅく」と呼び、近所では、単に「みなみ」と呼ばれていました。小河内谷、日原谷からの物資の集散地で賑わう宿場街でした。
このスギに代表される、この森の樹々たちは、氷川の里の歴史を静かに見守っています。
所在地 氷川字南氷川
樹高 四十五メートル 幹囲 四・四メートル

奥多摩町教育委員会

現地案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 穴澤天神社
[ふ り が な ]あなさは あまつかみのやしろ)
[Old Shrine name]Anasaha Amatsukami no yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)所載武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社について

・穴澤天神社(稲城市矢野口)

一緒に読む
穴澤天神社(稲城市矢野口)

穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 社伝によれば 第6代 孝安天皇4年(紀元前389年頃)の創建 主祭神は少彦名命を御祀りした社と伝わり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社と比定されている大変由緒ある神社です

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・谷保天満宮(国立市谷保)

一緒に読む
谷保天満宮(国立市谷保)

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています

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・穴澤天神社〈将門神社境内社〉(奥多摩町棚澤)

・羽黒三田神社(奥多摩町氷川)

一緒に読む
羽黒三田神社(奥多摩町氷川)

羽黒三田神社(はぐろみたじんじゃ)は 社伝によると「貞観二年(860)出雲国の人 土師連行行基が東国に下向し 御嶽山に詣り神告を得て 当地に高皇産霊神 少彦名神の二神を祀り 穴澤天神と号した」と伝わり式内社の論社です その後 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に羽黒権現が合祀されましたが 今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神が合殿となっています

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・穴澤天神社(あきる野市深沢)〈参考〉

一緒に読む
穴澤天神社(あきる野市深沢)

穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 式内社「武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社「棚澤天神」ではないかとの誤説もあるようですが 棚澤天神は 奥多摩町棚澤に鎮座しています この神社は 深澤村の各神社を合祀した同名の参考神社として ご紹介します

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

奥多摩駅からR411経由 南西に1.4kmの山道を登ります 車5分 徒歩40分程度

R411号から 奥多摩湖への「奥多摩むかしみち」の案内図があります
その起点には 羽黒坂があり 羽黒三田神社への参道の入口となっています

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私は車で急な山道を上がり 車道横の参道から境内に向かいます

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暫く山道を進むと 左手にお社が見えてきます やがて下からの表参道とぶつかり まもなくであることがわかります

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鳥居が建ち その右手には石の小祠が鎮座し 正面には社殿が見えます
羽黒三田神社(Haguromita Shrine)に参着

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山中に整地された境内があり 石垣の上に社殿があります
拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿

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参道を戻ります 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『巡礼旧神祠記(じゅんれいきゅうかみほこらき)』〈著者:下總國相馬郡 蛟蝄神社 神職 宮田泰好 宝暦十四年(1764)〉に記される伝承

下総国相馬郡の蛟蝄神社の神職 宮田泰好が 関東・奥羽・甲斐・駿遠諸国の式社を巡拝し 自序の巡拝記「巡礼旧神祠記」を著しているなかで
式内社 穴澤天神社について 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮〈現 谷保天満宮国立市谷保〉であると記しています

抜粋意訳】

巡礼旧神祠記 第一 武蔵國式内社 多磨郡八座 並小

穴沢天満宮 穴澤(アナサハノ)天神社

祭神 未考

同郡 府中領谷保村 別當 安楽寺

【原文参照】

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

穴澤天神社(稲城市矢野口)を延喜式内社比定しています

【意訳】

穴澤(アナサハ)天神社

惣風〈惣国風土記〉 天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭

少彦名神也 地考 當郡 向ガ丘のほとり 小沢の原に洞の如なる深潤あり 長さ1里に近し 潤水湧き出して 玉川〈多摩川〉に落ちるままに谷口天神と云へる古祠あり 古木多し 父老に問うに ここを穴澤と云うよし云へる洞口に臨めば 深慮いうべからず これ穴澤神社疑いべかす
〇土人云う 菅村にこの社あり 故ありて溝村口村氏神とす 当村 今 橘樹郡に属すと云えり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

式内社「穴澤天神」は 八角鏡を神體としていて 貞観二年(860)土師朝臣行基といへるが 穴澤天神として祀り その後 建治三年(1277)出羽國羽黒山の神を この邊 元巣ノ森と云所に祭りして 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に合せ祭れるよしをいへり されど今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神を合殿せりと 記しています

【意訳】

巻之115 多磨郡之27 三田領 氷川村の条

羽黒権現社

除地一段二畝二十七歩 小名南にあり往来の傍に鳥居を立 前に石階あり ここを入て 五町許にして本社にいたる
鳥居と石階との間に二間に四間の随身門を建てり 本社東向 一丈二尺四方 拝殿四間に二間 祭神は倉稲魂命なり

社内に穴澤天神を合せ祭れり この祭神は高皇産靈尊・天穂日命にて 八角鏡を神體とするよし 當社の神主 河邊伊織が 家にこゝの社の略記を納めたり それを閲するに貞観二年(860)土師朝臣行基といへるが 穴澤天神とは崇めたるよし

その後 天慶年中(938~947)平将門の子良門が軍を起せしとき 故有て 八角の鏡をこの社へ納めしと云は 今の神體なるべし

後又 永正元年(1504)に将門十六世の孫 三田弾正忠平次秀 祈願のことありて 社を改め作れるよし 穴澤社は式内の神社なれども 郡中矢ノ口 棚澤の二村 及びこゝにもその名あり その内いづれの社 式内なるべきや定かならず 猶かの村に幷せ見るべし

是より以前 後宇多帝の御宇 建治三年(1277)出羽國羽黒山の神を この邊 元巣ノ森と云所に祭りして 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に合せ祭れるよしをいへり されど今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神を合殿せりと

例祭 六月十五日
神主 河邊伊織

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

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『江戸名所図会(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承

矢野口村の鎮守 延喜式神名帳所載の多摩郡8座の穴澤神社に比定して 神社は丘の中腹に鎮座し その麓に巌窟があって その前に清水が流れているので穴澤」の名の由来だと 昔の巌窟は崩れ 現在の洞窟は新たに掘ったものだ記しています

【意訳】

穴澤天神社(あなさわてんしんのやしろ)

谷口(やのくちむら)威光寺(いこうじ)より 東北の方3町斗を隔てて 同じ往還 右の方 小道を入りてあり 社(やしろ)は山の中腹にありて この辺を小澤(こさは)の原と唱える 今 祭神詳らかならず 後世に菅神を合祭せり 祭礼は7月25日なり 又 同日 神楽を修行(しゅうきゅう)し 9月25日に獅子舞を奥行(こうきゅう)す 別當は真言宗にて威光寺と号す

延喜式神名帳曰 武蔵國 多摩郡 穴澤天神社 云

谷之口(やのくち)穴澤天神社(あなさわてんしんのやしろ)

この辺傍ら小澤の原(おさはのはら)と号し
当社の陵の山頂は小澤これ 重政の住まいし城跡なり
文明の頃も金子棒部助 この城に云々

武蔵風土記残編曰 武蔵國 多摩郡 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭少彦名神也 云々

当社の麓を潤水流ありき 多麻川に合せ その流れを隔てて山岨に一つの巌窟(がんくつ)あり 故に穴澤(あなさわ)の名あり 昔 巌洞(がんどう)は崩れたりとて 今 新に掘穿(ほりうが)ちる洞穴(ほらあな)ありて 洞口は1幅にして 内は2つに分けてあり 内に神仏の石像を造立す

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

矢野口村穴澤天神延喜式内社と比定しています

【意訳】

穴澤天神社

穴澤は 阿奈佐波と訓ずべし
〇祭神 少彦名命 風土記
〇矢野口村に在す 地名記
〇惣国風土記 七十七残缺云 武蔵國 多摩郡 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭 少彦名神也

土人云 菅村にこの社あり 故ありて隣村 村の氏神とす 今 橘樹郡に属す

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

矢野口村穴澤天神延喜式内社と比定しています

【意訳】

穴澤天神社

祭日 9月15日
社格 郷社
所在 矢野口村(南多摩郡稲城村大字矢野口)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

羽黒三田神社(Haguromita Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています