実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)〈『延喜式』漆部神社〉

八幡神社(はちまんじんじゃ)は 尾張志當社は故ある古社ならむかとおもふよしあり、されど得へを失ひてすべて知りがたし、古石をもて御正體とすといへり、石を神體とする事は、古社に例多し。」とあり 一説には 延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)の論社とされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

八幡神社(Hachiman shrine

通称名(Common name)

荷之上八幡神社

【鎮座地 (Location) 

愛知県弥富市荷之上町(にのうえちょう)柴ヶ森4172

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》應神天皇(おうじんてんのう)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『尾張志』に記される内容

【抜粋意訳】

海西郡 神社

八幡社

荷之上村にあり 是 荷之上 五之上 兩村の氏神なり 例祭は八月十三日なり 此社地を柴ケ森といふ

〔當社は故縁ある古社ならむかと おもふよしあり されど傳へを失ひて すべて知がたし 古石をもて御正躰とすといへり 石を神躰とする事は古社に例多し

【原文参照】

深田正韶 等編 ほか『尾張志』9 海東郡,海西郡,博文社,明31.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764870

【由  (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

○愛知縣 尾張國 海西郡彌富町字荷ノ上

郷社 八幡(ハチマン)神社

祭神 應神(オウジン)天皇

 創建年代詳ならず、但古來當所産土神にして、明治六年郷社に列せらる。

社殿は本殿、拜殿、殿等を具備し、境内地三百六十三坪(官有地第一種)あり、柴ヶ森と稱す、因みに尾張志に云く、當社は故ある古社ならむかとおもふよしあり、されど得へを失ひてすべて知りがたし、古石をもて御正體とすといへり、石を神體とする事は、古社に例多し。

例祭日 九月廿九日
神饌幣帛料供進指定年月日 明治四十年十月二十六日
氏子戶數 九十六戸
崇敬者員數 未詳

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

弥富市指定文化財

史跡 柴ヶ森

 荷之上町柴ヶ森四一七一

 平治元年(一一五九年十二月の「平治の乱」で平家に敗れた源義朝らは、青墓の宿(現大垣市)まで逃れてきたが、平家の追及が厳しいため、舟に積んだ柴の下にかくれて、知多の野間へ落ちていくことにした。

途中、平家の検問を逃れ、松田(現立田村)で粥をごちそうになり、この地、二之江まできて、もう大丈夫だろうと舟荷の柴を川岸に上げた。

このことから「二之江村」が「荷之上村」と改められた。また、川辺の柴は、芽を出し年々大きな森となった。
これが「柴ヶ森」である。

 記念碑の題字「柴ヶ森」は、佐屋町出身の元内閣総理大臣加藤高明の書である。

昭和五十一十二日指定 弥富市教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社殿

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・拝殿

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・二の鳥居

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・参道

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海部郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 漆部神社
[ふ り が な ]うるしへ かみのやしろ
[Old Shrine name]Urushihe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)の論社

・漆部神社〈八大神社〉(あま市甚目寺東門前)

・日吉社(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉

一緒に読む
日吉社・甚目寺観音(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉

日吉社(ひよししゃ)は 八大神社の古社地とされています 昭和15年(1940)に゛紀元2600年゛を記念して甚目寺境内が拡張されて 戦後に八大神社〈現 漆部神社〉が 現在地に移転した際の八大神社の旧鎮座地に 現 日吉社が鎮座しています 八大神社は昭和32年(1957)に式内漆部神社と改称しています

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・甚目寺観音(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉

・市神社(津島市米町)〈津島神社の境外社地〉

一緒に読む
市神社(津島市米町)〈津島神社の境外末社〉〈『延喜式』漆部神社〉

市神社(いちがみしゃ)は 昔は米問屋が多く 商売の神様 大市比賣命(おほいちひめのみこと)を祀り 米之座と呼ばれた地に鎮座する津島神社の境外末社です 津田正生は『本國神名帳集説訂考』に 延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)であるとの説を挙げています

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・八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)

一緒に読む
八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)〈『延喜式』漆部神社〉

八幡神社(はちまんじんじゃ)は 『尾張志』に「當社は故縁ある古社ならむかとおもふよしあり、されど得へを失ひてすべて知りがたし、古石をもて御正體とすといへり、石を神體とする事は、古社に例多し。」とあり 一説には 延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)の論社とされます

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・浅間社(名古屋市中川区下之一色町南ノ切)

一緒に読む
浅間社(名古屋市中川区下之一色町南ノ切)〈『延喜式』漆部神社〉

浅間社(せんげんしゃ/あさまのやしろ)は 庄内川と新川の合流する三角州に鎮座します 御鎮座年月は不祥ですが 天正二年(1574)一色城主 前田與十郎が再建し 明治五年(1872)郷社に昇格しています 一説には 延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)の論社とされます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

名鉄津島線 五ノ三駅から北西方向へ約450m 徒歩で6分程度

八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)に参着

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社頭の案内に゛史蹟 柴ヶ森゛とあります

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一礼をして 鳥居をくぐると 参道が真っ直ぐに伸びています

先の方に杜があり 朱色の二の鳥居が建ちます

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二の鳥居をくぐり抜けると正面に社殿があります

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拝殿にすすみます
拝殿の前には ロウソク台が設置されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして境内を戻ります

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社頭までの参道は整地されていますが かつては樹木に囲まれていたのだろうと想います

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 漆部神社について 所在は゛在所群ならず゛よくわからない と記しています

【抜粋意訳】

漆部神社

漆部は奴利倍と訓べし

○祭神 木花咲耶比咩命、〔圖帳〇今按 三見宿命歟

○在所群ならず

○民部省帳云、仁寿月加再復、實天智天皇月之御新遷、所祭神 木花咲耶比咩也云々、元亨月所記残篇

事紀、天孫本記宇摩志麻治命四世孫三見宿禰命、漆部連等祖、

神位
 國内神名帳、海部郡從三位漆部天神、

神田
 民部省圖帳云、漆郡大明神、神田七十二束有

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 漆部神社について 社名のみが記されています

【抜粋意訳】

漆部(ウルシベノ)神社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 漆部神社について 所在は゛今にては廃社なるべし゛〈廃絶したのであろう〉と記しています

諸説を挙げています

一説に津島 市神ならん゛〈現 市神社(津島市米町)津島神社の境外社地〉
゛同郡荷之上村八幡宮゛〈現 八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)〉
愛智郡下之一村なる淺間社゛〈現 浅間社(名古屋市中川区下之一色町南ノ切)〉
゛甚目寺観音は社のぜしものならんと云説゛〈現 甚目寺観音(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉〉

それぞれの説に論拠が不足している とも記しています

【抜粋意訳】

尾張國一百廿一座
○海部郡八座 並小

漆部(ヌリベノ)神社

祭神 三見宿禰(ミツミスクネノ)

 今按 舊事紀 饒速日命四世孫 大木食命〔三河國造祖云々〕の弟 三見宿禰命 漆部連等組とある此に由あり 民部省に祭 木花耶比命と云るは疑しければ取ら

祭日
例祭
社格

所在
 按 盬尻にこの社は津島社ならむと疑ひ  一説に津島市神ならんと云へど更になし 同郡荷之上村八幡宮と云説ありて荷上はののへに へは ぬりへならんかと云へど信がたし 又 愛智郡下之一村なる淺間社の御手洗川を奉仕の祠官は漆部川なる由云へれど 探索するに古よりおけすと云えば取にたらず 甚目寺観音は社のぜしものならんと云説もあれど れば取がたし 今にては廃社なるべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森) (hai)」(90度のお辞儀)

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尾張国 式内社 121座(大8座・小113座)について に戻る

一緒に読む
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について

尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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