波知加麻神社(はちかまじんじゃ)は 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波治神社(はちの かみのやしろ)です 祭神は 明治十八年祠宮 藤井重利より東京府知事宛『神社明細帳』に゛大廣祇命゛ 古老の口碑や『三宅記』〈一名『三嶋大明神緣起』〉に「三島大神の后 波布比賣命 王子二人坐す 一人を次郎の王子すくない所」゛波知命゛とします
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
波知加麻神社(Hachikama Shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
東京都大島町泉津木出場48
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大廣祇命(おほひろつみのみこと)
※明治十八年七月祠宮 藤井重利より東京府知事宛の『神社明細帳』
又は
《主》波知命(はちのみこと)
※昭和十一年十一月十一日社司 松木國次郎の神饌幣帛料指定願には゛波知命(はちのみこと)゛
※村の古老の口碑や『三宅記』(一名『三嶋大明神緣起』)に「王子二人まします 一人を次郎の王子すくない所」とある御子の名は゛波知命(はちのみこと)゛とされています
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
波治加麻神社
ここの地名を波治ケ間と称している。
祭事は波知命、三宅記に言う、「王子二人まします一人を次郎の王子」とあるのはこの波治命であり、元禄元年(一六八八)の棟札に八何間大明神、元禄十三年(一七〇〇)の棟札に波治竈明神 と記されている。社殿は昭和に入って建築されたものである。」
「三宅記」とは室町時代に書かれたもので著者は不明。大島に関するところでは、大明神が諸龍王に命じて島々を焼出させ、「一番の島を初めの 島(初島)二番の島を神集の島(神津島)三番目の島をば、島大なる故に大島と名付けた」とある。
また、五人の后の一人を大島に置いた。后の御名は、はぶの大后 と申し、その腹に王子二人おわし、一人は太郎の王子 大い所と申し、一人は次郎の王子 少ない所と申したと言う。ここに出てくる、 はぶの大后が波布比咩命神社、太郎王子(阿治古命) が大宮神社、次郎王子(波治命)が波治加麻神社 のそれぞれの祭神として祀られているものである。
平成四年三月 大島町
現地案内板より
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『式内社調査報告第十巻』昭和59年に記される内容
【抜粋】
波治(ハチノ)神社
【由緒】
明治七年に郷社に列格してゐるが、近世以前の社藏史料は皆無である。『伊豆七島志』に記載する元禄年間の二つの棟札も傳存しない。
従来の所説によれば『三宅記』記載の「次郎の王子すくない所」にあてる。『三宅記』(一名『三嶋大明神緣起』)は、恐らくは中世に成立した垂迹縁起の一と思はれるが、三島明神の大島に置き給うた「波分の大后」(本島波浮港鎭座、式内・波布比咩神社)に二人の王子があり、一人は「太郎王子おほい所」(本島野増鎭座、式内・大宮神社)、一人は「次郎の王子すくない所」だと述べる。
萩原正平の『伊豆國式社考證』(明治五年九月神紙省上進)には、古老の口碑にこの事をへてゐると記す。本書を承けて成立した『特選神名牒』や『増訂豆州志稿』は、共にまたこの點を肯定してゐるのである。【所在】
鎮座地は東京都大島町泉津字不重(フジユウ)二五〇の二である。
元町・岡田の兩港より東海汽船バス・大島公園行にて大島二中で下車、山道を南に折れて杉並木をやや昇つた所にある。社地は狭く、一帯は原生林で覆はれ、晝なほ闇い。社地を俗に大澤と稱するが、社殿の背後と左右には深い澤がめぐり、この澤を隔てて山(カツラ山といふ)を背負ってゐる。『伊豆國式考證』には「ハチカマ」の名義について地形との係りを次の如く云ふ。
古き上棟文に波治竃明神 成は八ヶ間明神など有によりて考るに、神名の波治は例の地名より稱へし事灼然、今稱の波治竃は神社の山間に有るより起たるにて波治 之間(カマ)の意なるべし、此地に連りて聳立る一高峯あるを波治の尾と云も 舊稱の存れると聞ゆれば也。富社は泉津の聚落からは一キロメートル餘り離れた、まさに山間の地に鎭座するから、同感を禁じ得ない。また神社の遠か後方であるが、約二キロメートルの地點に標高四一九メートルの一高峯「蜂の尻」がある。然も神社と蜂の尻を結ぶ直線の延長上には、はしなくも三原山の火口が位置する。
當社の東傍からは三原山への舊登山道が延びて居り、この道は蜂の尻の西側を経て火口に到達してゐる。泉津の部落内には別に三原神社が鎭座してゐるが、ここから延びる舊登山道も、蜂の尻の北麓で合流してゐる。つまり泉津口からの三原山登山は、何れにしても先づ蜂の尻を目指して登ることになる。大島の神社は多く三原山の拜所から發達したとよく云はれ、元町の吉谷神社もその例だとみられる。斯く考へてみれば、當社の発祥もまた、三原山を信仰対象として仰いだことに由来すると云ふべきであらうか。
【祭神】
『特選神名牒』には波治神、明治十八年七月祠宮 藤井重利より東京府知事宛の神社明細帳には大廣祇命、昭和十一年十一月十一日社司 松木國次郎の神饌幣帛料指定願には波知命、現神社明細帳には大廣祇命とする。
祭神は一柱であるが、かやうに変轉する。大山祇命ならともかく、大廣祇命といふ名は一體何に據ったのであらうか。恐らく祭神不祥を案じた結果の命名と思はれる。寧ろ社名に即して波治命となしをくのが無難と云ふべきであらう。
【祭記】
・・・
・・・【社殿】
・・・
・・・【境内地】
極めて狭く、一〇九坪五勺。
【寶物・遺文】
社藏にかかる文書・棟札・寶物の類は皆無の状況であつて、由緒の考究はまことに困難である。
(土岐昌訓)
【原文】
『式内社調査報告第十巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より
【由 緒 (History)】
『伊豆七島志』巻上,1901年に記される内容
【抜粋意訳】
郷社 波知加麻神社 ○波治加麻社
泉津村大澤 鎮座 祭神 波知命
式内 波知神社なり〔〇神名帳 波知神社ならむ乎〕
地名を波治ヶ間(ハジヶマ)〔或は 八ヶ間と書す〕と呼び 社傍に波治ノ尾と云 峯巒あるを証とす可し
三宅記に 三島ノ神 大島に置給ふ后の御腹に王子二人まします 一人を次郎ノ王子すくない所とあるは 此 波知命なる可く
口碑に 祭神は波布ノ后の第二ノ王子なりと傳へたるに適へり
本社 聚楽を距る十餘町の山中に在て目下蓑替に属す 元 元禄年札に八何間御明神、元禄十三年札に波治竃明神と記す〔社域一百九坪官有地〕
【原文参照】
秋山章, 萩原正夫 纂輯『伊豆七島志』巻上,萩原正夫,1901. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991431
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇東京府 伊豆國 大島泉津村大字大澤
郷社 波知加麻(ハチカマノ)神社
祭神 大彦祇(オホヒコヅミノ)命
創建年月詳ならずと雖、豆州志稿に「波知(ハチ)神社 大島泉津(センチ)村 舊稱 波泊竈(ハチカマ)明神社也、近地ニ波治ノ尾ト云高峰アリ、三宅記 大島ニ置給フ后ノ御腹ニ 王子二人マシマス 一人ヲ次郎ノ王子すない所トアルハ是レナラム」と見ゆ、
明治六年十一月郷社に列す、社殿は本殿(拝殿兼用)一宇のみにして、境内百九坪(官有地第一種)を有す。例祭日 五月二十八日
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・波知加麻神社 本殿
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・波知加麻神社 拝殿
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・社殿(左右の脇に祀られる石祠)
・社殿向って右脇 積み石と石祠
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・本殿向って左脇 石祠と扁平石群
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・手水鉢
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・境内
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・参道
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・〈参道の途中 境内石祠〉タケシャ
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・〈参道〉旗竿の収納屋
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・〈参道入口〉鳥居
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・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈波治加麻神社 境内の東外れ〉日忌様(ひいみさま)
2基の祠前に2つの溶岩が置かれる
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海難法師(かんなんぼうし)は 水難事故で亡った者の御靈
寛永5年(1628)江戸時代 豊島忠松(とよしまただまつ)という悪代官(八丈島代官)が 島民たちを苦しめており 憎まれていた
島の人々は忠松を殺そうと 海が荒れる日をわざと選んで島巡りをするように勧めた 罠にはまった忠松は 言われた通りに海に出て波に呑まれて死んでしまった それ以来 毎年旧暦の1月24日 島民たちに騙されたことを怨む忠松の霊が 海難法師(かんなんぼうし)となり 島々を巡ると云う
海難法師の発祥とされる 大島での伝承「日忌様(ひいみさま)の伝説」について
代官を殺そうとする所までは 前説に同じ
日忌様の祠【ひいみさまのほこら】
波治加麻神社の鳥居の前を左に折れ、200mほど進んだ左側の陽光がさえぎられた森の中にある木の根元に2基の祠がある。この祠は日忌様をお祀りしたものだと言われている。
この日忌様とは 波治加麻神社に伝わる話である。
昔、25人の青年達が泉津にいた悪代官を殺し、この神社の境内にあった一番大きな杉の木を伐倒して作った丸木舟で脱島した。その後、利島、新島、神津島に辿り着いたが、どの島も後難を恐れたことから匿ってもらう事が出来ず、一行はそのまま行方不明となった。
その霊が毎年1月24日の晩に波治加麻神社に帰ってくるという。24日の晩に家々の神棚に25個の餅、海から採取した小石とトベラ、ノビルを供えた。もしこの餅が鼠害にあえば、その家に不幸災難が見舞うとされた。当日の夜は一切外出せず海を見ず、静粛に過ごしたという。泉津地区住民のほか、新島や神津島でも日暮れ前から家の中でひっそりと引きこもる風習がある。この風習は簡素化されながらも現在に受け継がれている。東京都教育委員会 大島出張所HPより
https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/about/osima/cultural_property/oshima_list/hiimisamanohokora
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 波治神社
[ふ り が な ](はちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hachi no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『三宅記(miyakeki)』に記される伝承
〈『三宅記』は 原本は鎌倉時代末期に完成したと見られている〉
三島大明神によって 焼き出された伊豆諸島 島の命名 各々の島に后を置いた事とその御子の名が記されています
【抜粋意訳】
三島大明神〔三嶋大社の祭神〕は 考安天皇の二十一年に島を焼き始めました
・・・
・・・明神は この島々に名前を付けられた
一番の島を はじめの嶋(ハしめの嶋)〈初島〉と名付けて この島にタミの種を植えた
二番の島を 島々の中に焼き出した そこに神達が集まり 島々を焼き出す話しをしたので 神あつめ嶋〈神津島〉と名付けた三番の島を 大きい島なので大嶋〈大島〉と名付けた
四番の島は 潮の泡を集め焼いた島の色が白かったので あたら嶋〈新島〉と名付けた
五番の島をば 家が三つ並ぶ様子に似ており 三宅嶋〈三宅島〉 と名付けた
六番の島をば 明神の倉にすると作り 御倉嶋〈御蔵島〉と名付けた
七番の島を はるかな澳にあるので 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉と名付けた
八番の島をば 小嶋〈八丈小島〉 と名付けた
九番の島をば 嶋の姿が王の鼻に似ており わ(お)うこ嶋〈青ヶ島〉と名付けた
十番の島をば としま〈利島〉と名付けた大明神は この島に通って遊ばれた 中でも 大嶋 三宅嶋 あたら嶋 の三所に 常におられました
さもあらんと 三宅嶋〈三宅島〉に宮造りをされて大明神と申された
そして見目(みるめ)〔火戸寄神社の祭神〕と若宮(わかみや)〔若宮神社の祭神〕に申された
「后を作ろう 島々に一人ずつ置くとしよう」見目と若宮は 申し上げて「天竺の「大明神のご子息の母御前〕はいかがですか」
「それは父の王の妻 できない 」「それでは」と見目と若宮は出かけた どういう方かはわからぬが 五人の后を伴い 帰ってきたので
大明神は 大いに喜悦された
一人を 大嶋〈大島〉に置かれ その后の御名を はふの太后 と名づけた〔波布比咩命神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人は 太郎の王子 おほひ所 と名付けた〔大宮神社の祭神〕
一人は 次郎の王子 すくない所 と名付けた〔波治加麻神社の祭神〕また 一人の后をば あたら島〈新島〉に置來らせ みちのくの大后 と申された〔泊神社の御祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人を 大宮の王子 〔大三王子神社の祭神〕
一人を 第三乃(ていさん)王子と申した〔大三王子神社相殿の祭神〕
この二人の王子には 剣の御子 を添わせた〔差出神社の祭神〕神あつめの嶋〈神津島〉におさまる后の御名は 長濱の御前 と申し〔阿波命神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人をば たたなひ 〔物忌奈命神社の祭神〕
一人をば たふたい と申した〔日向神社の祭神〕
この王子には 天竺から来た左大臣を付け置かれた 名前をば ぬく嶋の大別当 と申された その女房を ふとおまゑ(仏御前) と申した又 三宅嶋〈三宅島〉に置かれた后の名をば 天笠いま后 と申し〔富賀神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人をば あん祢ひこ(安寧子) 〔飯王子神社の祭神〕
一人をば まん祢いこ(満寧子)と申した〔酒王子神社の祭神〕又 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉に置かれた后をば いなはゑ と申し〔優婆夷宝明神社の祭神〕
その御腹に 王子が五人あって
その后が亡くなると 長男と次男は手に手を取り合って思い死に終り 石となり おとあにの御子 として立っておられる
あと二人は まだ幼い頃に亡くなってしまった
それで 五郎の王子のみが 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉におられます〔優婆夷宝明神社の祭神〕
【原文参照】
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『三宅記』に記される 伊豆大島の神々について
『三宅記』に記される 伊豆大島の神は『延喜式神名帳』に記されている式内社の祭神と深く結びついています
| 伊豆大島の神々の御名 | 三島大明神の妃・子 | 本地仏 | 式内社 祭神名 | 式内論社 | |
| はふの大后 | 妃 | 千手観音 | 波布比賣命 | 波布比咩命神社 | |
| おほひ所 | 第一王子 | 薬師如来 | 阿治古命 | 大宮神社 | |
| すくない所 | 第二王子 | 薬師如来 | 波治命 | 波治加麻神社 |
伊豆大島に鎮座する 三つの式内社について
詳しくは各神社の 記事を参照
延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波布比賣命神社(はふひめのみことの かみのやしろ)
・波布比咩命神社(大島町波浮港)
延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 阿治古神社(あちこの かみのやしろ)
・大宮神社(大島町)
延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波治神社(はちの かみのやしろ)
・波知加麻神社(大島町)
波知加麻神社(はちかまじんじゃ)は 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波治神社(はちの かみのやしろ)です 祭神は 明治十八年祠宮 藤井重利より東京府知事宛『神社明細帳』に゛大廣祇命゛ 古老の口碑や『三宅記』〈一名『三嶋大明神緣起』〉に「三島大神の后 波布比賣命 王子二人坐す 一人を次郎の王子すくない所」゛波知命゛とします
波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)〈『延喜式』波治神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
岡田港から 大島一周道路を東へ約5.3km 車での所要時間は9~11分程度
波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)に参着
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一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて 参道へと進みます
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植林のような木立の中に一直線に参道があり その下草は刈られていていますが 苔むしていて何とも言えない味わいがある風情
左手には 旗竿の収納屋があります
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さらに進んでいくと 先程の植林のような感じは一変して 原生林の中を進むような参道となります
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ちょっとした丘を越えると社殿が見えてきます
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神社の案内などを見ると「【境内地】 極めて狭く、一〇九坪五勺。」とありますので ここから先が境内地なのかも知れません
それにしても 原生林の中に建つ神社です
手前には 石の手水鉢 社殿の横に石祠が祀られています
東向きに建つ 拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿向って右脇 積み石と石祠があり 聖域の様相を示しています
賽銭をおさめ お祈りをします
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社殿の背後と左右には深い澤がめぐっていて 社地を俗称 大澤と云うとの事 神社は この澤を隔てて山(カツラ山といふ)を背負っている とされています
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その深い澤の淵 本殿の向かって左脇には〈境内社〉石祠と扁平石群が祀られています
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社殿に一礼をして境内を戻ります
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原生林の中のゆるやかに続く参道を下ります
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続いて 植林の中に一直線に伸びている参道を戻ります
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一直線に伸びている参道は 東北東を向いています
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社頭の鳥居をくぐり抜けます
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参拝日は4/5でしたので 社頭までの参道には 大島桜が満開でした
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 波治神社について 祭神は良くわからない 所在は記載なし
【抜粋意訳】
波治神社
波治は假字也
○祭神詳ならず
考証に、今云 初島、とあれど、さぱかりにては覚束なし、伊豆志 当社の事を載せず、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 波治神社について 所在は゛今 大島泉津村にあり、波治竈(ハチノカマ)明神といふ、゛〈現 波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)〉と記しています
【抜粋意訳】
波治(ハチノ)神社、
今 大島泉津村にあり、波治竈(ハチノカマ)明神といふ、〔南方海島志、伊豆式社考証、〕
波治神を祀る、〔延喜式〕
三島神 波布比咩命に娶て生坐せる第二の子神也、〔三宅記〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 波治神社について 所在は゛(伊豆國大島泉津村字大澤)大島泉津村゛〈現 波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)〉と記しています
【抜粋意訳】
波治神社 稱 波治加麻明神
祭神 波治神
祭日
社格 (無格社)所在 (伊豆國大島泉津村字大澤)大島泉津村
今按
式社考證に 秋山章が海島志にもはやく 按 神名帳 波治神社あり此神ならむかと云り
古老の口碑に 波布大后の第二の御子神也と傳へたるは 三宅記に所謂 二郞王子すない所とある神と聞えて能適へり斯て古き上棟文に 波治竃明神 或は八ケ間明神など有によりて 考るに神名の波治は 例の地名より稱へし事的然 今稱の波治竈は神社の山間に有るより起たるにて 波治之間(ガマ)の意なるべし 此地に連りて聳立る一高峯あるを 波治の尾と云も 舊稱の存れると聞ゆれば也と云る據とすべし かゝれば此 波治神は三島大神の后 波布比賣命に娶て生坐る弟二の御子神也
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について