実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

波布比咩命神社(大島 波浮港)〈『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』波布比賣命神社〉

波布比咩命神社(はぶひめのみことじんじゃ)は 「波浮ノ池」〈火山の火口に水を湛えたカルデラ湖で外海とは遮断されていた〉の畔に鎮座していました 元禄16年(1703)大津波によって外海と繋がり波浮湾となったと云う 『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』伊豆國 賀茂郡 波布比賣命神社(はふひめのみことの かみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

波布比咩命神社(Habuhime no mikoto shrine

通称名(Common name)

・波布明神様(はぶみょうじんさま)

【鎮座地 (Location) 

東京都大島町波浮港18

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》波布比咩命(はぶひめのみこと)

《合》建御名方富命〈天明年間(1781~89年)合祀 諏訪神〉
   八阪刀賣命
 〈天明年間(1781~89年)合祀 諏訪神〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

・ 国史記載社
 〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載されている神社〉

【創  (Beginning of history)】

『式内社調査報告第十巻』昭和59年に記される内容

【抜粋】

波布比賣(ハフヒメノ)命神社
【社名】

享保八年板本には「ハフヒメ」の傍訓をもつ。

文徳實錄では「波布比咋命神」とあつて、「賣」に対して「咩」の字をあてるが、今日もそれに従つてゐる。また江戸時代の棟札には「羽部」「波武」「羽武」「波浮」などと書いてをり、今日と同様に「ハブ」と連濁をもつて讀んだと思はれる。

【由緒】

 文徳實錄の仁壽二年(八五二) 十二月十五日の條に伊豆國八神に対する神階授興を記載するが、その中で波布比咩命は従五位上に預つてゐる。そして同書 齊衡元年(八五四)六月廿六日條には、同じ従五位上に預る記事を重出する。『特選神名牒』ではこの二つの記事について、何れかが衍文(えんぶん)であると考へ、仁壽二年を取って齊衡元年は排除する處置を示してゐる。

 伊豆七島の創世記として著名な『三宅記』(一に『三嶋大明神緣起』)には、當社は三島大明神が大島に置き給ふた后で「羽分の大后」と申すとある。本書の研究は今なほ決して十分ではないが、藥師信仰を基調として全體が展開されてをり、その觀點から憶測を試みるならば、中世の早い時期に既にその原形を成立させてゐたかと思はれる。

 當社には棟札の類十一枚が傳存する。最も古いものは慶長十八年(一六一三)霜月吉日、社殿新造を記す左の如きものである。

 御代官 佐野平兵衛樣
  神主 虎菊 拾五歲
奉新造立 羽部大后大明神 天地長久息災延命福壽皆無量
 御代官 中川九右衛門殿
     杉本想右衛門殿
維時慶長拾八年歲霜月吉日
 伊豆國住人大工 秋澤與三治郎

「羽部大后大明神」とあるのは、先の『三宅記』の記載と関連して注目される。以下、正保四年(一六四七)、天和四年(一六八四)、元祿七~八年(一六九四~五)、寶永四年(一七〇七)、享保十四年(一七二九)、寛政十三年(一八〇一)に於て、社殿の新造成は修復を加へた棟札が残されてゐる。そして嘉永二年(一八四九)五月に現本殿が造立され、安政三年(一八五六)に本殿保存のため覆殿を設け、また昭和十三年に入って拜殿を新設してゐる。

なほ當社は明治七年(六月前後か)に郷社に列格してる。

【所在】

 東京都大島町波浮一八番地に鎭座(波浮港行バスにて西河岸下車)する。波浮の港は野口雨情の歌であまりにも有名であるけれども、其の灣口の西側陸地に位置してゐる。

 江戸時代の大島は六箇村であるが、波浮港村の聚落成立は最も遅く、本来は差木地村の一部であつた。寛政十二年(一八〇〇)八月、波浮港の開墾事業が竣工するや、村としての獨立を得たのである。その間の事情について『伊豆七島志』には次の如く記してある。

 波浮港ハ 差木地村ノ東北半里ニアリテ 灣口東南ニ向フ、湾内東西三町南北二町餘深丈餘(湾口暗礁アリ 揖掻ト云フ、退潮ニハ其頭ヲ アラハス)、モト此地ニ 波浮ノ池アリシガ、元緑十六年十一月廿二日海嘯ニテ激浪地峡ヲ決壊シテ海ト連ナリ、自然ニ灣形ヲナセリ、然レドモ灣口水淺ク退潮ニハ船ヲ入ルルコト能ヘザルヲ以テ、寛政中 秋廣平六ト云者 海底浚渫ノ工事ヲ起シ、數年ヲ経テ船舶ノ繋泊ニ便スルヲ得タリ、於此差木地村ノ一部ヲ割キテ波浮港ヲ置キ、官ヨリ畑七町七反歩山林若干ヲ平六ニ下賜シ、併テ本港進退セシム、初メ無人ノ地ナリシガ爾來 殖民シテ目下戶數一百餘、人口六百五十ノ多キニ至レリ、云々、

即ち、當港の始源は火山帶の爆裂火口に水を満へただけの波浮の池であつて、外海とは週断されてゐた。それが元禄十六年(一七〇三)の大津波によつて外海との壁が缺壞し、天然の湾口となった。上總の人 秋廣平六は松前御用船 風待場を理由に港口の擴張工事に取掛り、寛政十二年八月に竣工した。平六は他村の名主に相當する港一式引受人に任ぜられ、開村の功労者となったのであつて、波浮港を眼下に一望する上ノ山に昭和四十八年顯彰會の手により平六翁之像が建立されてゐる。當港は更に昭和七年十月から九年五月にかけて浚渫(しゅんせつ)・護岸・埋立等の改修事業を遂行し、以後は大型船舶の停泊にも支障がなくなった。

 當社は古くから舊火口湖の水邊に配られて住民の崇敬をうけて来たのであつて、噴火現象と密接にかかはる大島の歴史を今日に傅へる一象徴と云へよう。寛政・昭和の港灣事業にあたっては、何れの場合にも當社に封し祈願と報賽

の木札を奉納してゐる。工事の概要を知り得る重要史料であると同時に、神社と港灣と生活の不離一體性を改めて認識せざるを得ない。

 立木猛治氏は畢生の名著『伊豆大島志考』(昭和三十六年刊)に於て、當社はもと野増村・大宮神社の舊社地・阿治古地域にあつたもので、室町中期の大宮神社移轉と共に當社は現地へ遷祀されたと考へてゐる。室町以降に於ける為政者の産業政策と、その結果としての山方(竃方)・浦方の兩階級部落社會の構成、或は差木地村の成立時期などを検討し、その理由としてゐるが、決定的な考證史料を缺く感もあるので、當社の遷記についてはひとまづ觸れぬことにしたい。

【論社考證】

 度會延經の『神名帳考證』のみ内地・賀茂郡本郷村鎭座の同名社にあてるが、『南方海島志』『伊豆國式社考證』『特選神名牒』『神社覈録』『增訂豆州志稿』『伊豆七島志』などはすべて大島鎭座とみる。即ち、伊豆半島の同名社は當社の分祀乃至遥宮と考へる立場であつて、特に問題はないものと思ふ。

【祭神】

 本殿は二扉にて波布比咋命及び建御名方富命・八阪刀賣命を祀る。『伊豆七島志』によれば、諏訪神の合祀は天明年間(一七八一 ~ 九)とする。

【祭祀】

・・・
・・・

【社殿】

本殿は嘉永二年(一八四九) 五月の建造
・・・
・・・

【境内地】

・・・

【寶物・遺文】

・・・

(土岐昌訓)

【原文】

『式内社調査報告第十巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

【由  (History)】

波布比咩(ハブヒメ)命神社のあらまし

 御祭神は「はふ大后」で 三島大明神縁記(三宅記)によると、「三島の神(事代主命)が大島に置給ふた后」である。野増の大宮神社、泉津の波知加麻神社の母神に当る。

 古代伊豆地方を治められた三島の神は島々に后を置いて七島開拓に努力せられた。後年大島の人々は崇拝する「はふ大后」を神としてあがめ、火口池として清水をたたえた美しい波浮の池辺に神社を建てたものと考えられる。

 平安の延喜元年(西暦九〇一年)にできた国勢一覧にもこの名があり、延喜式内社に列せられ正五位上が追贈されている。

 当社は慶長十八年(一六一三年)からの棟札がよく保存され社殿が整っていたことがわかる。

 寛政十二年(一八〇〇年)波浮港村の誕生とともに波浮村民の鎮守様となり毎年七月二十七日を祭儀として代々お祭されてきた。

 波浮港に鎮座する波布比咩命様に朝夕出入する船頭達が頭を下げる姿は世相の教ともうつるのである。

現地石碑文より

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由緒

 御祭神は「はぶ大后」で 三島大明神縁起(三宅記)によると「三島の神」(事代主命)が大島に置給ふ后」であり、野増の大宮神社、泉津の波知加麻神社の母親に当る。古代伊豆地方を治められた。三島の神は伊豆の島々に后を置いて、七島開拓に努力せられた。後年、大島の人々は崇拝する「はぶ大后」を神としてあがめ、火口池として清水をたたえた美しい波浮の池辺に神社を建てたものと考へられる。
 平安の延喜元年(西暦901)に国勢一覧(神社帖)にもこの名があり、延喜式内社に列せられ、正五位上が追贈されている。
 当神社には慶長18年(1613)の棟札からよく保存され、社殿が整っていたことがわかる。
 寛政12年(1800)波浮港村の誕生とともに波浮村民の鎮守様となり7月27日を祭儀として代々先人達によってお祭りされてまた波浮の港に鎮座する波布比咩命神社に朝夕出入りする船頭達が帽子やハチマキをとって頭を下げる姿は世相ともうかがえるのである。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

○東京府 伊豆國 大島波浮港

鄉社 波布比咩(ハフヒメノ)命神社

祭神 波布比咩(ハフヒメノ)

創立年代詳ならず、醍醐天皇 延喜の制式内の小社に列す、波浮港に鎮座の神なるを以て、波浮明神とす、又 羽部大后大明神ともせり、三島大神の后神 波布比賣命を祀る、

豆州志稿に云く、
「大波布港 舊稱 波布神社也〔〇大島〕慶長十八年上梁文羽部大后大明神  三宅記 波分ノ大后、内地 賀茂郡本鄉村 波布比賣命神社ノ分祠ナル可シ、文ニ曰、仁壽二年十二月加伊豆國 波布比 從五位下ヲ、齋衡元年六月加從五位上ヲ」と、

明治五年十一月郷社に列す、

本郡稻生澤鄉津庄本郷村に波布明神あり、同一祭神を祀りと、

神社覈録
「連胤按るに、本宮は島に任せば、常に参詣も難き故に、本郷村にも遙宮として祭れるなるべし」と見ゆ、
即ち神名帳考證に
「波布比賣命神社
  下田鄉村、去三島南十九里、填安命」とせるは誤れり。

社殿は一字、及額殿を具へ、境内二千百五十一年(官有地第一種)を有せり、當地より東京迄海路七十餘海里ありと云ふ。

祭日 七月二十七日

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション HTTP://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

波布比咩命神社 本殿

 嘉永二年(一八四九) 五月の建造

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神社パンフレットより

波布比咩命神社 拝殿

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・〈社殿向かって右 境内社〉石祠多数

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・〈社殿向かって左 境内社〉石垣の上に祀られている石

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・〈拝殿の前〉狛犬

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・〈海からの参拝口〉鳥居

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・〈海からの参拝口〉社号標「波浮神社」

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・〈都道からの参道〉鳥居

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・〈都道からの参拝口〉注連柱

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・〈都道からの参拝口〉社号標「式内社 波布比咩命神社

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・波浮港の湾口向って右 波布比咩命神社

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・波浮港からの神社の参拝口〈石垣の中〉

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・波浮港の湾内

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承

 文徳實錄の「仁壽二年(八五二) 十二月十五日の條」と「齊衡元年(八五四)六月廿六日の條」の二つの記事に伊豆國八神に対する神階授興を重出記載する
『特選神名牒』ではこついて 何れかが衍文(えんぶん)であると考へ 仁壽二年を取って齊衡元年は排除する處置を示しています

【抜粋意訳】

卷四 仁寿二年(八五二)十二月丙子十五の條

○丙子
ふに駿河國〈伊豆國

三嶋大神に 從四位下

阿波命神 物忌寸奈命神 伊古奈比命神 正五位下

阿米都和氣命神 伊太豆和氣命神 阿豆佐和氣命神 波布比命神 從五位上

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

【抜粋意訳】

卷六 齊衡元年(八五四)六月己卯廿六の條

○己卯

ふに伊豆國

三嶋大神に 從四位下

阿波命神 物忌奈命神 物忌奈命神 伊古奈比に 正五位下

阿米都和氣命神 伊太豆和氣命神 阿豆佐和氣命神 波布比命神 に くに從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 波布比命神社
[ふ り が な ](はふひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Hafuhime no mikoto no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『三宅記(miyakeki)』に記される伝承

〈『三宅記』は 原本は鎌倉時代末期に完成したと見られている〉

三島大明神によって 焼き出された伊豆諸島 島の命名 各々の島に后を置いた事とその御子の名が記されています

【抜粋意訳】

三島大明神〔三嶋大社の祭神〕は 考安天皇の二十一年に島を焼き始めました

・・・
・・・

明神は この島々に名前を付けられた

一番の島を はじめの嶋(ハしめの嶋)〈初島〉と名付けて この島にタミの種を植えた
二番の島を 島々の中に焼き出した そこに神達が集まり 島々を焼き出す話しをしたので 神あつめ嶋〈神津島〉と名付けた

三番の島を 大きい島なので大嶋〈大島〉と名付けた

四番の島は 潮の泡を集め焼いた島の色が白かったので あたら嶋〈新島〉と名付けた
五番の島をば 家が三つ並ぶ様子に似ており 三宅嶋〈三宅島〉 と名付けた
六番の島をば 明神の倉にすると作り 御倉嶋〈御蔵島〉と名付けた
七番の島を はるかな澳にあるので 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉と名付けた
八番の島をば 小嶋〈八丈小島〉 と名付けた
九番の島をば 嶋の姿が王の鼻に似ており わ(お)うこ嶋〈青ヶ島〉と名付けた
十番の島をば としま〈利島〉と名付けた

大明神は この島に通って遊ばれた 中でも 大嶋 三宅嶋 あたら嶋 の三所に 常におられました

さもあらんと 三宅嶋〈三宅島〉に宮造りをされて大明神と申された

そして見目(みるめ)〔火戸寄神社の祭神〕と若宮(わかみや)〔若宮神社の祭神〕に申された
「后を作ろう 島々に一人ずつ置くとしよう」

見目と若宮は 申し上げて「天竺の「大明神のご子息の母御前〕はいかがですか」
「それは父の王の妻 できない 」

「それでは」と見目と若宮は出かけた どういう方かはわからぬが 五人の后を伴い 帰ってきたので
大明神は 大いに喜悦された

一人を 大嶋〈大島〉に置かれ その后の御名を はふの太后 と名づけた波布比咩命神社の祭神
その御腹に 王子が二人あって
一人は 太郎の王子 おほひ所 と名付けた大宮神社の祭神
一人は 次郎の王子 すくない所 と名付けた波治加麻神社の祭神

また 一人の后をば あたら島〈新島〉に置來らせ みちのくの大后 と申された〔泊神社の御祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人を 大宮の王子 〔大三王子神社の祭神〕
一人を 第三乃(ていさん)王子と申した〔大三王子神社相殿の祭神〕
この二人の王子には 剣の御子 を添わせた差出神社の祭神

神あつめの嶋〈神津島〉におさまる后の御名は 長濱の御前 と申し〔阿波命神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人をば たたなひ 〔物忌奈命神社の祭神〕
一人をば たふたい と申した〔日向神社の祭神〕
この王子には 天竺から来た左大臣を付け置かれた 名前をば ぬく嶋の大別当 と申された その女房を ふとおまゑ(仏御前) と申した

又 三宅嶋〈三宅島〉に置かれた后の名をば 天笠いま后 と申し〔富賀神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人をば あん祢ひこ(安寧子) 〔飯王子神社の祭神〕
一人をば まん祢いこ(満寧子)と申した〔酒王子神社の祭神〕

又 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉に置かれた后をば いなはゑ と申し〔優婆夷宝明神社の祭神〕
その御腹に 王子が五人あって
その后が亡くなると 長男と次男は手に手を取り合って思い死に終り 石となり おとあにの御子 として立っておられる
あと二人は まだ幼い頃に亡くなってしまった
それで 五郎の王子のみが 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉におられます〔優婆夷宝明神社の祭神〕

【原文参照】

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『三宅記』に記される 伊豆大島の神々について

『三宅記』に記される 伊豆大島の神は『延喜式神名帳』に記されている式内社の祭神と深く結びついています

伊豆大島の神々の御名  三島大明神の妃・子 本地仏 式内社 祭神名 式内論社  
はふの大后 千手観音 波布比賣命 波布比咩命神社  
おほひ所 第一王子 薬師如来 阿治古命 大宮神  
すくない所 第二王子 薬師如来 波治命 波治加麻神社  

 

伊豆大島に鎮座する 三つの式内社について

詳しくは各神社の 記事を参照

延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波布比賣命神社(はふひめのみことの かみのやしろ)

波布比咩命神社(大島町波浮港)

一緒に読む
波布比咩命神社(大島 波浮港)〈『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』波布比賣命神社〉

波布比咩命神社(はぶひめのみことじんじゃ)は 「波浮ノ池」〈火山の火口に水を湛えたカルデラ湖で外海とは遮断されていた〉の畔に鎮座していました 元禄16年(1703)大津波によって外海と繋がり波浮湾となったと云う 『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』伊豆國 賀茂郡 波布比賣命神社(はふひめのみことの かみのやしろ)です

続きを見る

延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 阿治古神社(あちこの かみのやしろ)

・大宮神社(大島町)

</strong><strong><b>一緒に読む</b></strong><strong>
大宮神社(伊豆大島 野増)〈『延喜式』阿治古神社〉

大宮神社(おおみやじんじゃ)は 元々は三原山の近くに阿治古(あじこ)と呼ばれる古い地域に集落があり 阿治古神社が鎮座していた たびたびの噴火降灰により 室町時代 文正二年(1466)大宮の現在地に遷座され その際に天照皇大神が合祀されたと云う 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 阿治古神社(あちこの かみのやしろ)です

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延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波治神社(はちの かみのやしろ)

・波知加麻神社(大島町)

</strong><strong><b>一緒に読む</b></strong><strong>
波知加麻神社(伊豆大島 泉津木出場)〈『延喜式』波治神社〉

波知加麻神社(はちかまじんじゃ)は 延喜式内社 伊豆國 賀茂郡 波治神社(はちの かみのやしろ)です 祭神は 明治十八年祠宮 藤井重利より東京府知事宛『神社明細帳』に゛大廣祇命゛ 古老の口碑や『三宅記』〈一名『三嶋大明神緣起』〉に「三島大神の后 波布比賣命 王子二人坐す 一人を次郎の王子すくない所」゛波知命゛とします

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

元町港から都道208号〈大島一周道路〉を南下 約14.3km 車での所要時間は20~25分

都道208号〈大島一周道路〉からの参拝口

波布比咩命神社(伊豆大島 波浮港)に参着

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参道を下ると 南西方向を向いて鳥居が建ちます
鳥居の先には 波浮港の海が見えています

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4/5の参拝でしたが 参道の脇には゛椿の花゛が咲いていました 椿は「大島町の木」および「大島町の花」として制定されているとのこと

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鳥居の脇には巳年縁起物が置かれていました

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一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて 拝殿にすすみます

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拝殿内には 祝いの熊手がありますが やはり海上安全 大漁繁盛とあり 伊勢エビやブリが飾られています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿向かって左には 海からの参拝口に鳥居が建てられています

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海からの参拝口へと石段を下ります

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波浮湾から参道口を見ると

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再び 波浮湾から参道口から 石段を上がり境内へと向かい 鳥居をくぐり抜けて境内を戻ります

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社殿に一礼をしてから 南西方向を向いている参道を戻ると 波浮港の方へと下りる石段も設けられていました

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この石段からは 港へと下りるのは少し危険で 一旦外に出て港にでました
写真の右手が 波布比咩命神社です

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波浮湾は 元々は火山帶の爆裂火口に水を湛えた カルデラ湖「波浮ノ池」で外海とは遮断されていたが 元禄16年(1703)大津波(元禄地震によるもの)によって 外海との壁が崩壊し 天然の湾口となったと云う

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しかし湾口の水深は浅く 退潮には船が入ることは出来ず 上總の人 秋廣平六が 松前御用船 風待場を理由に港口の擴張工事に取掛り 海底の浚渫を行い 寛政十二年(1800)に工事は竣工した 平六は他村の名主に相當する港一式引受人に任ぜられ 波浮港村が出来たとの事

波浮湾の湾口の様子

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社は 大島に所在していて 常に参拝も難しく 下田に遥宮として祀られていると記しています

【抜粋意訳】

波布比命神社

波布比は假字也

〇祭神明か也

○大島波浮湊に在す、

例祭  日、

或説云、郡稻生澤郷川津庄本郷村 波布明神も同神也、

連胤按るに、本宮は嶋に在せ、常に参詣も難き故に、本郷村にも遥宮として祭れるなるべし、

神位
 文徳實録、仁寿十二月丙子、加 伊豆 波布比 從五位上、又 齊衡元年月己卯、加 伊豆國 波布比命神 從五位上同位重出不審

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 波布比賣命神社について 所在は゛ 大島波富の池上に在り、羽部大后大明神といふ、゛〈現 波布比咩命神社(伊豆大島 波浮港)〉と記している

【抜粋意訳】

波布比賣命(ハフヒメノミコトノ)神社、

 大島波富の池上に在り、羽部大后大明神といふ、〔豆州志、伊豆式社考證、〕

波布比賣命を祀る、〔三代実録、延喜式〕

盖 三島神の后神也、〔三宅記〕

文徳天皇 斉衡元年六月己卯、従五位上を授く、〔文徳実録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社は 大島に所在していて 常に参拝も難しく 下田に遥宮として祀られていると記しています

【抜粋意訳】

波布比賣命(ハフヒメノミコト)神社 稱 羽部大后大明神

祭神 波布比

 今按〈今考えるに〉この波布比賣命は 神系詳かならねど 下條に引る三宅記の文によるに 三島神の后神にまして 御子二所おはしましつ と見えたり

神位
 文徳天皇 仁寿年(852)十二月丙子 加に伊豆 波布比賣命 従5位上
今按 斉衡元年月巳卯 同位を授かることあるは 何れか分なるべし 故 今 本文を存して彼を刷る〕

祭日 十一月中酉日
社格 (郷社)

所在 大島波布港(伊豆大島波浮港)

 今按〈今考えるに〉豆州志に 大島波浮湊にます由みえ 伊豆式社攷證にも 賀茂郡 大島波浮湊鎮座

慶長十八年の上梁文に 羽部大后大明神とみえて 今に波布大后とも波布比賣明神ともへ来れり

三宅記に
 三島大神 島に二后神を置給ふ事を記して 大島に置たまふ后をば 波分の大后とぞ申しける かの御腹に王子人おはします 一人をば 太郎王子おほい所とぞ申しける 一人をば 次郎王子すない所とぞ申しける

新島に置給う后をば みちのくちの御門の大后とぞ申しける云々 神集島に置給う后をば 長濱の御前とぞ申しける云々 三宅島に置給う后をば いなばいの后とぞ申しける云々 とありて

各神名式に所載の神等なれば 波分の大后 即ち 波布比賣命に坐こと 上に挙げたる上梁文にも符合て論ふ迄も非ず とみえたるが如く

この大島に坐すが本社にして 内地 賀茂郡稲生澤郷川津庄本郷 波布明神も同神なれど 神社覈録に本宮は島に在せば 常に参詣も難き故に 本郷にも遥宮として祭れるなるべしと云るが如し

【原文参照】

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波布比咩命神社(伊豆大島 波浮港) (hai)」(90度のお辞儀)

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