実践和學 Cultural Japan heritage

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圓田神社(上越市柿崎区岩手)〈『延喜式』圓田神社〉

圓田神社(えんたじんじゃ)は 神代の昔 大己貴神が国土平定に高志に来た時 圓田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上陸 郷民は龍ケ峰に一祠を建て奉斎創始 天武天皇(676年)巡察使中臣清麿が當社に参拜 從來の石祠から社殿を建立と口碑に伝わる 延喜式内社 越後國 頸城郡 圓田神社(まろた〈えんた〉の かみのやしろ)の論社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

圓田神社(Enta shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

新潟県上越市柿崎区岩手1089

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

主》国常立尊(くにのとこたちのみこと)
   大己貴尊(おほなむちのみこと)

《合》誉田別尊延暦十二年(793)坂上田村麿將軍が八幡大神を合祀

《合》大山咋尊〈明治40年(1907)字城澤に鎭坐 日枝神社を合祀

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

圓田神社

御祭神 国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神

境内社 粟島神社 胞姫神社 金刀比羅宮

兼務社 柿崎36社 吉川4社 大島1社 柏崎市6

由緒

第四十代天武天皇(676
 己末八月十五日勧請 社紀文書 口碑によれば、神社の在りし所龍ケ峰という。
 大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。

天武天皇十三年(686
 己酉、地方巡察便、中臣朝臣清麿、当社に賽し、神威あらたかと神殿を建立す。
 この後、巡察便来たる度、参拝し幣帛を献ずるを例とせり。

桓武天皇延歴十六年(794
 坂上田村麿、奥羽征討の際宿陣し、戦勝を祈願し、祈願文、矢二筋を奉納せり。(記録、献納品は天明火災に焼失)

醍醐天皇延喜発亥年(903
 圓田神社と改称す。延喜神明帳に記載あり。(当社所蔵)

天文十六年(1547
 春日山城主 長尾景虎、兄弟争の際、当社に参拝し戦勝祈願文を奉納、後、長尾晴景を亡ぼし時、謝文、宝剣、大太刀を奉納す。(天明火災に焼失)その大太刀を模して当社に納めあり。

天明元年(1781年七月二十五日、火災。
 社殿、社庫焼失せり。
・天明年(1786月、社殿建立。
・嘉永年(1855月、現社殿建立。
・昭和十九年(1944幣殿建立。

現地案内板より

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【由  (History)】

『中頸城郡誌』第4巻,昭和16年に記される内容

【抜粋意訳】

〔圓田神社〕黑川村大字岩手

祭神 國常立神 大巳貴命

配祀 譽田別尊 大山咋命(舊 日枝神社)

由緒

 廷喜式神名帳所戟の神社と稱すれども、古記文書今考ふべきなし、口碑傳ふる所によれば 神代の昔 大國主神 高志國に來り給ひし時、此圓田原に來り龍ケ峯の下に船を繫ぎて上陸し玉ひし神社なりとて郷民龍ケ峯に社を建て國田明神と唱へて之を祀る、祈雨五穀豊穣等の祈願に靈験著しく郷民の崇敬厚かりし所なり、
 人皇四十代天武天皇の御代 巡察使中臣清麿 當社に参拜し 其神威の赫灼たるを感じて 從來 石祠なりしを新に社殿を建立し且つ神戸を定められたり、爾後 巡察使來國の度 参拜奉幣の事あり、

 郷民も崇敬して五十餘ケ村の總鎮守とし春秋兩度の祭日には信徒群集し、神輿渡御の儀 並に里神樂の神叟を擧げ來りしが、桓武天皇延暦十二年 坂上田村麿將軍 奥羽下向の途次 當社内に宿陣し守護神 八幡大神を合祀して神前に戰勝祈願書 並に征矢二筋を奉納せり、又 延喜の制には式内の班幣に預る、
 後 天文十六年 長尾景虎 當所に築城して祈願文 並に寶劔の奉納ありしが、天明元年七月 本村大火の節 神殿拜殿社庫等類焼し神寶古記等も悉皆烏有に歸せしを、時の神主 大和氏子信徒に謀り天明五年四月神殿拜殴を再建し、又 寶劔の燒残りたるを拾集して先きの御劔を模造して之を納めたり、嘉永八年五月社殿改築 卽現今のもの是なり、明治六年村社に指定せられ、同四十年十ー月十九日字城澤に鎭坐ありし日枝神社を合祀す。

【原文参照】

『中頸城郡誌』第4巻,新潟県中頸城郡教育会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1042145

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・〈境内社〉石祠4宇あり

粟島神社 胞姫神社 金刀比羅宮

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

兼務社:柿崎区36社 吉川区4社 大島区1社 柏崎市7社

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 圓田神社
[ふ り が な ](まろた〈えんた〉の かみのやしろ)
[Old Shrine name]Marota〈enta〉 no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』に「まろたの かみのやしろ」と所載される式内社について

延喜式内社 越後國 頸城郡 圓田神社(まろた〈えんた〉の かみのやしろ)の論社

・圓田神社(上越市名立区丸田)

・圓田神社(上越市柿崎区岩手)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR信越本線 柿崎駅から県道25号を経由して東南方向へ約6.7km 車での所要時間は11~15分程度

県道25号沿いに社頭の石段があります

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社号標には「式内 圓田神社」と刻字されています

圓田神社(上越市柿崎区岩手)に参着

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「式内 圓田神社 社家 五十嵐」とある銘板がある所を神社むの側に入って行くと駐車スペースとなります

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駐車スペースの上に 境内があります

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境内に上がると 社頭の鳥居があります

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こちらの石段は
先程 県道25号沿いにあった社頭の石段です

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社頭は南南西を向いています
改めて 一礼をして 社頭の鳥居をくぐり抜けます

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境内に入ると 境内の参道 社殿は東南方向を向いています
拝殿前の境内参道には 鳥居が建ちます

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境内の鳥居をくぐり抜けて

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内の参道を戻ります

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右〈南東〉は社頭 左〈北東〉に立派な社務所があります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 圓田神社について 所在は゛名立谷丸田村に在す゛〈現 圓田神社(上越市名立区丸田)〉と記しています

【抜粋意訳】

圓田神社

圓田は麻呂多と訓べし

○祭神 日臣命〔風土記節解〕

○名立谷丸田村に在す、〔案内〕

類社
 丹後國 熊野郡 丸田神社

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 圓田神社について 所在は゛ 九田村宮下に在り゛〈現 圓田神社(上越市名立区丸田)〉と記しています

【抜粋意訳】

圓田(マロタノ)神社、

 九田村宮下に在り、

 其祭三月十三日 九月廿九日を用ふ、〔式社案内記、神名帳考証、式社考証、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 圓田神社について 所在は゛丸田村 (西頸城郡名立町大字丸田)゛〈現 圓田神社(上越市名立区丸田)〉と記しています

又 ゛同郡 岩手村八幡宮を當社なりと云゛〈現 圓田神社(上越市柿崎区岩手)〉とする説もあるが 確かな証拠がなく採用できないと記しています

【抜粋意訳】

圓田神社

祭神 道臣命

 今按 社傳 祭神 道臣命に大巳貴命 少彥名命とあり 此神社の略傳記と云は しとけなきものなれど 道臣命を祭り 其今の神官の祖に大伴宿禰能次 また能久と云が 本社の神主として仕奉れる事を かつかつ記せるも由緣あり 越後風土記節解の説も同じければ證とすべと

祭日 三月十三日 九月二十九日
社格

所在 丸田村 (西頸城郡名立町大字丸田)

 今按 同郡 岩手村八幡宮を當社なりと云は たしかなる證にあらねばとら

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

圓田神社(上越市柿崎区岩手) (hai)」(90度のお辞儀)

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