鳥海山大物忌神社 蕨岡口ノ宮(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ わらびおかくちのみや)は 出羽国一之宮として 鳥海山の山頂に 本社(奥宮)が鎮座し 麓の登山口は「口ノ宮」と呼ばれて「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の二ヶ所に里宮が鎮座しています 鳥海山大物忌神社(蕨岡口ノ宮)の創祀は 欽明天皇25年(1400年以上前)の御代と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)
(蕨岡口ノ宮)(warabioka kuchi no miya)
(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ わらびおかくちのみや)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
山形県飽海郡遊佐町上蕨岡松ヶ岡51
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大物忌大神(ohomonoimi no ohokami)
【御神格 (God's great power)】
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・海上安全 Maritime safety
・厄除開運 Prayer at an age considered a milestone in life.Bring good luck and happiness.
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 出羽国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
出羽国一之宮 鳥海山大物忌神社 由緒(略誌)
御祭神 大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神)
由緒 社殿によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と伝えられている。
鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。
本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が蕨岡と吹浦のニケ所に鎮座する。大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。
後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿之の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。
中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現どして社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、
明治4年(1871)5月 吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、
同13年(1880)7月に山頂本殿を国幣中社に改め、
同14年(1881)に蕨岡・吹浦の社殿をロノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。
昭和30年(1955)に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年(1997)に造営された。
平成19年(2007)当神社の社殿及び随神門・神楽殿が国の登録有形文化財に指定ざれ、平成20年(2008)には、山頂本殿から口ノ宮にいたる、広範な境内が、国の史跡に指定された。主な祭日 (蕨丘 口ノ宮)
1月7日 御種蒔神事
5月3日 例大祭 蕨丘延年舞奉納
6月25日 五穀豊穣祈願祭・稲荷神社祭
10月2日 荘照居成神社祭
11月12日 新嘗祭平成23年3月吉日 復元 NPO法人遊佐鳥海観光協会
境内案内板より
【由 緒 (history)】
鳥海山大物忌神社蕨岡ロノ宮境内
平成20年3月28日指定
鳥海山は、その雄姿と度重なる火山活動から、不安定な治安と相まって古代から神階奉授が繰返され、大物忌神(おおものいみのかみ)として崇敬されてきた信仰の山である。中世には修験道の霊場としてその地位を確たるものとした。
近世になって、鳥海山を取巻く各地には、修験衆徒がそれぞれ活動拠点を設け、霊峰への登拝ロとした。
なかでも蕨岡(わらびおか)の衆徒は、龍頭寺を学頭として、鳥海山表ロ、順峯・蕨岡三十三坊と称して、登拝ロの中でも最も強大な勢力を誇った。本境内は、「大泉坊長屋門」(国登録有形文化財)など、宿坊集落の面影を残す上蕨岡(かみわらびおか)地区(通称「上寺」)のほぼ中央に位置する。
庄内藩主酒井忠器公の寄進による「出羽一之宮」の扁額のかかる随神門(ずいしんもん)(かっての仁王(におう)門)を潜ると、右手に朱塗りの神楽殿が見えてくる。神楽殿では、五月三日の例大祭(「大御幣祭(だいおんべいまつり)」)にあたり、山伏の修行・通過儀礼と一体を成す芸能である「蕨岡延年」(山形県指定無形民俗文化財)が奉納されている。さらに、参道を進むと、三の鳥居を経て、広い前庭をおいて、本殿が南面して建っている。かつての蕨岡ロの隆盛のありさまが偲ばれる豪壮な社殿である。
この他、境内には、
酒田の豪商本間光丘(みつおか)寄進の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(遊佐町指定有形文化財)や
天保年間の三方領地替騒動に関わる矢部駿河守定謙を祀る末社荘照居成神社(遊佐町指定有形文化財)があるほか、
約四百段ある石階を上った、松岳山中腹には、峯中修行の記念碑である「峯中碑伝」や、海抜150m程の低地に奇跡的に残されたブナ自然林(遊佐町指定天然記念物)がある。本史跡は、鳥海山の信仰、文化遺産を代表するものである。
境内案内図 遊佐町教育委員会
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
風神社・荘照居成神社の合殿
摂社 風神社(fu shrine)
末社 荘照居成神社(sosho inari shrine)(遊佐町指定有形文化財)
《主》矢部駿河守定謙
祭神は 江戸南町奉行「矢部駿河守定謙」を祀ります
天保11年(1840年)の三方領地替騒動(・庄内藩が越後長岡へ・越後長岡藩が川越へ・川越藩が庄内へ)において 江戸に於いて 庄内藩の転封阻止に尽力し 領地替は取り止めとなります 後に伊勢桑名藩松平家に幽閉され非業の死を遂げた江戸南町奉行「矢部駿河守定謙」を祀るため 弘化3年(1846年)地区民の発願によって建立されます案内板要約
本殿向かって 右手末社3社が並びます
向かって左から
・末社 火鎮神社(hozume shrine)
・末社 松ケ岡神社(matsugaoka shrine)
・末社 白山神社(shirayama shrine)
本殿向かって 左手
・末社 木丈葉神社(kidakeha shrine)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)出羽国 9座(大2座・小7座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)飽海郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内 名神大社
[旧 神社名 ] 大物忌神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](おほものいみの かみのやしろ)
[How to read ](ohomonoimi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大物忌神社(omonoimi shrine)の本殿が鎮座する「鳥海山(chokai san)」について
大物忌神社(omonoimi shrine)の本殿は「鳥海山(chokai san)」標高2,236m(山形県と秋田県に跨がる)の活火山の山頂に鎮座します
古名では「鳥海山(chokai san)」という山名は ありませんでした
『続日本後紀(shoku nihon koki)』(貞観11年(869年)完成)などの六国史(正史)では
この山は「飽海郡鎮座の大物忌大神(ohomonoimi no ohokami)」の名で呼ばれていました
この様に呼ばれて 名神大社として崇敬を受けた背景としては
大和朝廷が 律令国家の建設に邁進していた時代 慶雲(704~708年)和銅(708~715年)の頃には 越国から北に向けて始められた蝦夷遠征が 現在の秋田庄内以北の着手に至り始めた時期に重なります
当時 この地方は原生林に覆われていて 南方を追われた蝦夷が 群居していたと伝わります
この様な中で 常に噴煙を吐きながら時々大爆発する活火山の「鳥海山(chokai san)」は 朝廷軍にとっては畏怖すべき山とされていたようです
こうした状況下で「大物忌大神(ohomonoimi no ohokami)」は 「物忌(斎戒にして不吉不浄を忌むということ)」とされていますので
度重なる夷乱凶変(蝦夷の反乱)を忌み嫌い この前兆として あらかじめ山の爆発を発生させる神(活火山)であるとして 敬い奉じたのではないかとする説
山岳信仰が盛んだった背景もあって 大和朝廷の敬いは 鳥海山の爆発が 夷乱と相関していたと捉えていたのでないかとされています
「一之宮」を巡る争い ・吹浦(fuku ra)・蕨岡(warabi oka)の 「口ノ宮」争奪論争
神仏習合の修験のお山として 霊験あらたかな神として
鳥海山(chokai san)標高2,236mは 山岳信仰の隆盛を迎えます
登山口には 主要なものだけで
・矢島・小滝(象潟登り口) 秋田県側
・吹浦・蕨岡 山形県側 の4ヶ所がありました
神仏習合した宗派対立等も絡んで複雑な様相で 各登山口には 別々の信徒が一定の勢力を構成していて 互いに反目し 争うことが非常に多かったため 登山口ごとに異なる伝承が伝っています
江戸時代に入ると「山頂の権現堂」(現在の「御本社」)の管理監督権を互いに主張して 麓の里宮として相応しいのは 何処かといった論争が 顕著に表れ始め「庄内藩と矢島藩」などの行政も巻き込んで 論争は激しく とめどなく続いていきます
山頂の御本殿 遷座祭のポスター
・明治元年(1868年)の神仏分離令への対応の時には 吹浦が蕨岡に先行します
・明治2年 吹浦の信徒は全て神道を奉じ 明治3年には社の奉仕者たちが正式に神職となり 社号も大物忌神社となります
・明治4年(1871年)5月 吹浦の大物忌神社は国幣中社に列せられて 山頂の権現堂の管理もできることとなりました
蕨岡の信徒たちは 自分たちの権利を取り戻そうと吹浦の後から神道を奉じて山形県や明治政府に何度も請願しますが 訴訟も失敗します 明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたのですが
・明治13年(1880年)8月7日 左大臣 有栖川宮熾仁親王の通達が出されます「山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし 吹浦と蕨岡の大物忌神社を それぞれ里宮(後に口ノ宮)とする旨」
・明治14年にこの通達が実施され両者の争いは収束しました
長い論争の末に折衷案として出されたこの変則的な祭祀体制の内容は
「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」のそれぞれの「口ノ宮」が 国幣中社の「大物忌神社」としての社務所を置く
宮司は吹浦に駐在する 山頂の本殿への奉幣は 両社務所が1年交替で行うというものです
鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)吹浦(fuku ra)口ノ宮の記事もご覧ください
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鳥海山大物忌神社(吹浦 口ノ宮)
鳥海山大物忌神社 吹浦口ノ宮(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ ふくらくちのみや)は 出羽国一之宮です 鳥海山を御神体として 3つの神社が鎮座しています 鳥海山の山頂には「本社(奥宮)」が鎮座します 鳥海山の麓の登山口には「口ノ宮」と呼ばれる里宮が 「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の2ヶ所に鎮座しています 創祀は 欽明天皇二十五年(1400年以上前)の御代と伝わる古社です
蕨岡(warabi oka)の 由緒や縁起での特徴
修験道の聖地「鳥海山(chokai san)」には いくつかの登山口毎に勢力争いがあって 宗派対立等も絡んで複雑な関係であったのは前述しました
そのなかで「蕨岡 口ノ宮」は「鳥海山」南西麓に鎮座しています
江戸時代には「山頂の権現堂」(現在の「御本社」)の鍵を支配しており 宗坊33坊という大勢力(「吹浦」25坊「矢島」18坊)だったと伝わります
この頃に書かれた「蕨岡(warabi oka)」宮の縁起「鳥海山記并序」(宝永6年1709年)や「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年1852年)での特徴は 役行者(役小角)が開山したとする前提を説く点です
・「鳥海山」に役行者(役小角)が はじめて山に登ったときに「鳥の海」をみたので「鳥海山」と名づけられた
・「鳥海山」に「手長・足長」という悪鬼が棲みついて村人を悩ましたため 天武天皇の御代に「大物忌神」の意を受けて役行者(役小角)が 悪鬼を退治し 登山道を開いたとしています
こうした縁起は「吹浦(fuku ra)」に伝わっている「慈覚大師(円仁)」の創建としている説よりも年代が古い説を唱えていて 対抗しようという意図がみられるとも伝わります
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR遊佐駅より車10分
日本海東北自動車道 酒田みなとICより車20分程度
県道373号の田が広がる平地から 蕨岡に登る位置を左折すると「一の鳥居」が建ちます
徒歩の場合はこちらから
鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)
(蕨岡口ノ宮)(warabioka kuchi no miya)に到着
境内入口には 木製の燈籠が建ち「二の鳥居」と「随神門(元は仁王門)」
社号標には「国幣中社 大物忌神社」とあります
一礼して「二の鳥居」をくぐります 祭りなのでしょう「鳥海山大物忌神社」とある幟がたちます
「随神門(元は仁王門)」(平成19年(2007)に国登録有形文化財に登録)が建ちます
「一宮」の提灯が並び 扁額には「出羽一之宮」とあります
随神門をくぐりぬけると 左手に手水舎 その奥に「宝篋印塔」(寛政12年(1800)酒田の豪商 本間光丘が寄進)総高5m12cm「金剛界五仏」が掘り込まれています
右方向に朱塗り「神楽殿」(国登録有形文化財)が建ちます もとは鐘つき堂(鐘楼)でしたが 慶応4年の神仏分離令で「神楽殿」に改めたといいます
さらに石段を上ると「三の鳥居」が左手上に建ちます
随神門から入ると左に曲がって社殿に進む形式になっています 「三の鳥居」をくぐります
正面に「本殿&拝殿」(明治29年-国登録有形文化財)が建ちます 屋根が大きくて迫力のある本殿です 本殿の前には 狛犬が座します
拝殿にすすみます 扁額は「鳥海山大権現」とあります
賽銭をおさめ お祈りです 「拝詞」があり見ながら唱えます
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿と拝殿が一体になっていますので 奥行きのある建物になっています
境内社にお詣りです
本殿向かって左手には 末社 木丈葉神社(kidakeha shrine)
本殿向かって右手には 末社4社が並びます
風神社・荘照居成神社の合殿
摂社 風神社(fu shrine)
末社 荘照居成神社(sosho inari shrine)(遊佐町指定有形文化財)
《主》矢部駿河守定謙
扁額には「風神社・稲荷神社」とあります 稲荷神社は居成神社と同じ(いなり)の意味でしょうか
その横に3社が並びます
向かって左から
末社 火鎮神社(hozume shrine)
末社 松ケ岡神社(matsugaoka shrine)
末社 白山神社(shirayama shrine)
境内を後に参道を戻ります
社務所は いつもは不在と聞いていましたが 5月3日は例大祭のため 大勢の方がいらして 午前中の早い時間でしたので お聞きしたところご朱印も頂けました
その折 社務所の方々から 神宿(kami yado)の前に御幣(on bei)がある 五月三日の例大祭「大御幣祭(dai ombei matsuri)」のことをお聞きしました
参道へ戻ります
鳥居をくぐり 振り返り一礼
神宿(kami yado)へ向うと 御幣(on bei)が美しく祀られていました
毎年5月3日に例大祭「大御幣祭(dai ombei matsuri)」とは
もとは鳥海山蕨岡の修験者が10か月に及ぶ修行の締め行事で竹の先につけられた御幣(on bei)を奪い合う勇壮な祭りであったらしく 今は 修験者に扮した若者たちと地元の人々が御幣(on bei)を取る形となっているそうです
御幣(on bei)の剣先(ken saki)には
「表に太陽」「裏に月」が描かれ 鳥海山の安寧と五穀豊穣を祈ります
神宿(大鳳館)前の御幣(on bei)です
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』元慶2年(878年)8月4日の条に記される伝承
要約
「 平安時代に起きた「秋田夷乱(元慶の乱)」元慶2年(878年)~元慶3年(879年)において 朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ古来より 征戦に霊験を有する「大物忌神・月山神・小物忌神の3神」が 神気が賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出ました
そこで爵級を増せば霊応あるべしとして 正三位勳五等を正三位勳三等に進めました 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』元慶4年(880年)2月27日の条に記される伝承
平安時代に起きた「秋田夷乱(元慶の乱)」元慶2年(878年)~元慶3年(879年)平定後に 平時に復したのを受けて陞叙となりました
これが 中世以前では最後の昇叙の記録です
その後『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において出羽国司が官符を賜った時は正二位勳三等となっています
意約
「 出羽国 月山神 正三位勲四等
大物忌神 正三位勲三等 に並び授ける 従二位へ陞叙
・・・・・・・・・・・・・・・・・」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
出羽国一之宮として 鳥海山の山頂に 本社(奥宮)が鎮座し 麓の登山口は「口ノ宮」と呼ばれて「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の二ヶ所に里宮が鎮座しています 創祀は 欽明天皇25年(1400年以上前)の御代と伝わります
鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)(蕨岡口ノ宮)(warabioka kuchi no miya) に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)吹浦(fuku ra)口ノ宮の記事もご覧ください
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鳥海山大物忌神社(吹浦 口ノ宮)
鳥海山大物忌神社 吹浦口ノ宮(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ ふくらくちのみや)は 出羽国一之宮です 鳥海山を御神体として 3つの神社が鎮座しています 鳥海山の山頂には「本社(奥宮)」が鎮座します 鳥海山の麓の登山口には「口ノ宮」と呼ばれる里宮が 「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の2ヶ所に鎮座しています 創祀は 欽明天皇二十五年(1400年以上前)の御代と伝わる古社です
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について