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鳥海山大物忌神社(吹浦 口ノ宮)

鳥海山大物忌神社 吹浦口ノ宮(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ ふくらくちのみや)は 出羽国一之宮です 鳥海山を御神体として 3つの神社が鎮座しています 鳥海山の山頂には「本社(奥宮)」が鎮座します 鳥海山の麓の登山口には「口ノ宮」と呼ばれる里宮が 「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の2ヶ所に鎮座しています 創祀は 欽明天皇二十五年(1400年以上前)の御代と伝わる古社です

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)
   (吹浦口ノ宮)(fuku ra kuchi no miya) 

 (ちょうかいざんおおものいみじんじゃ ふくらくちのみや)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (location) 】

 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大物忌大神(ohomonoimi no ohokami)
     (倉稲魂命・豊受姫神と同神とされています)
   月山神(tsukiyama no kami)
     (月読命と同神とされています)

【御神格 (God's great power)】

・家内安全 Safe and comfortable home life
・身体堅固 The body is solid and strong
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・交通安全 Pray for Traffic safety
・等 etc

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 出羽国一之宮
・ 別表神社

【創 建 (Beginning of history)】

当神社が東北の最高峰である鳥海山上に鎮座されたのは、今を去る1,400有余年前の昔、欽明天皇25年と伝えられております。
貞観4年官社に列し、国家の祀典に預り、
延喜の制には 吹浦口の宮に鎮座の月山(つきやま)神社と共に名神大社に列し、
後、出羽国一の宮の撰に預り、
明治4年国弊中社となり、
戦後、昭和30年に鳥海山大物忌神社と改称し、現在に至っております。
鳥海山を神体山とする信仰篤い大社であります。

公式HPより

【由 緒 (history)】

神社の創祀は欽明天皇二十五年(千四百余年前)の御代と伝えられている。

鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。
本社は山頂に鎮座し、麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ケ所に鎮座する。

大物忌神社は貞観四年(八六二)十一月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。

後に、出羽國一の宮となり、朝野の崇敬を集めた。

特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。

中世、「神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治三年神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治四年五月吹浦口の宮が国幣中社に列したが、同十三年七月に山頂本社を国弊中社改め、同十四年に吹浦・蔵岡の社殿を口の宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。

昭和三十年に三社を総称して現社号となる。

山頂の御本殿は伊勢野神宮と同じく二十年毎に建て替える式年造営の制となっている。

現在のご本殿は平成九年に造営された。

公式HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿横

向かって左
・白山姫神社《主》伊邪那美命
中央
・風神社 《主》志那津彦命・志那津姫命(石段横より遷座)
向かって右
・雷電神社《主》雷神

石段横

・風神社 《主》志那津彦命・志那津姫命

・稲荷神社《主》倉稲魂命
・磯前神社《主》大己貴命・少彦名命
・丸池神社《主》田心姫命・市杵島姫命・高津姫命

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)出羽国 9座(大2座・小7座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)飽海郡 3座(大2座・小1座)

[名神大 大 小] 式内 名神大社

[旧 神社名 ] 大物忌神社(貞・名神大)

[ふ り が な ] (おほものいみの かみのやしろ)
[How to read ](ohomonoimi no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

大物忌神社(omonoimi shrine)の本殿が鎮座する「鳥海山(chokai san)」について

大物忌神社(omonoimi shrine)の本殿は「鳥海山(chokai san)」標高2,236m(山形県と秋田県に跨がる)の活火山の山頂に鎮座します

古名では「鳥海山(chokai san)」という山名がなかったため

『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869年)完成などの六国史(正史)では この山は「飽海郡鎮座の大物忌大神(ohomonoimi no ohokami)」の名で呼ばれていました

この様に呼ばれて 名神大社として崇敬を受けた背景として
大和朝廷が律令国家の建設に邁進していた慶雲(704~708年)和銅(708~715年)の頃には 越国から始められた蝦夷遠征が 現在の秋田庄内以北の着手に至り始めます

当時 この地方は原生林に覆われていて 南方を追われた蝦夷が 群居していたと伝わります
この様な中で 常に噴煙を吐き時々大爆発する活火山の「鳥海山(chokai san)」は 朝廷軍にとっては畏怖すべき山でした

こうした状況下で「大物忌大神(ohomonoimi no ohokami)」は 「物忌(斎戒にして不吉不浄を忌むということ)」であるので 度重なる夷乱凶変(蝦夷の反乱)を忌み嫌い あらかじめ山の爆発を発生させる神(活火山)であるとして 敬い奉じたのではないかと 山岳信仰が盛んだった背景もあって 朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していたのではないかとの説があります

「一之宮」を巡る争い 吹浦(fuku ra)蕨岡(warabi oka)の論争

神仏習合の修験のお山として 霊験あらたかな神として
鳥海山(chokai san)標高2,236mは 山岳信仰の隆盛を迎えます 
登山口には 主要なものだけで
・矢島・小滝(象潟登り口) 秋田県側
・吹浦・蕨岡        山形県側 の4ヶ所がありました

神仏習合した宗派対立等も絡んで複雑な様相で 各登山口には 別々の信徒が一定の勢力を構成していて 互いに反目し 争うことが非常に多かったため 登山口ごとに異なる伝承が伝っています

江戸時代に入ると「山頂の権現堂」(現在の「御本社」)の管理監督権を互いに主張して 麓の里宮として相応しいのは 何処かといった論争が 顕著に表れ始め「庄内藩と矢島藩」などの行政も巻き込んで 論争は激しく とめどなく続いていきます

山頂の御本殿 遷座祭のポスター

明治元年(1868年)の神仏分離令への対応の時には 吹浦が蕨岡に先行します
明治2年 吹浦の信徒は全て神道を奉じ 明治3年には社の奉仕者たちが正式に神職となり 社号も大物忌神社となります
明治4年(1871年)5月 吹浦の大物忌神社は国幣中社に列せられて 山頂の権現堂の管理もできることとなりました

蕨岡の信徒たちは 自分たちの権利を取り戻そうと吹浦の後から神道を奉じて山形県や明治政府に何度も請願しますが 訴訟も失敗します 明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたのですが

明治13年(1880年)8月7日 左大臣 有栖川宮熾仁親王の通達が出されます「山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし 吹浦と蕨岡の大物忌神社を それぞれ里宮(後に口ノ宮)とする旨」
明治14年にこの通達が実施され両者の争いは収束しました

長い論争の末に折衷案として出されたこの変則的な祭祀体制ですが

吹浦(fuku ra)と蕨岡(warabi oka)のそれぞれに国幣中社「大物忌神社」の社務所を置いて 宮司は吹浦に駐在する 本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものです

鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)「蕨岡(warabi oka)口ノ宮」の記事もご覧ください

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鳥海山大物忌神社 蕨岡口ノ宮(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ わらびおかくちのみや)は 出羽国一之宮として 鳥海山の山頂に 本社(奥宮)が鎮座し 麓の登山口は「口ノ宮」と呼ばれて「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の二ヶ所に里宮が鎮座しています 鳥海山大物忌神社(蕨岡口ノ宮)の創祀は 欽明天皇25年(1400年以上前)の御代と伝わります

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

吹浦駅から 650m 徒歩10分程度 
民家の壁にも案内板があります

吹浦口之宮の参道に「一の鳥居」が建ちます 一礼して鳥居をくぐります 扁額には「正一位大物忌神社 鳥海山出羽国一宮」とあり
その横に 社号標「国幣中社 大物忌神社」とあります

境内の入り口には 両部鳥居の「二の鳥居」が建ちます
一礼して鳥居をくぐり境内へ その先 右手に「手水舎」があり 清めます

左手に境内案内があります

参道の正面には 急勾配の石段があります

石段の手前右手には「社務所」と立派な「下拝殿(gehaiden)」が建ちます 明治十二年(1879)に建立されたもので 国登録有形文化財 「下拝殿(gehaiden)」と呼ばれる通り 拝殿の役割を果たしていて 石段を上らずとも 賽銭箱もあり こちらで参拝できる形式となっています お詣りします

「下拝殿(gehaiden)」から振り返った境内です 十分に立派です

下拝殿の左となりに 上の社殿へ繋がる石段があります

急勾配の石段の手前左に境内社 お詣りします

・風神社 《主》志那津彦命・志那津姫命

石段を上っていくとその先に「三の鳥居」が建ちます

その先に立派な「拝殿」昭和十八年(1943)造営 国の重要文化財 が建ちます

拝殿にすすみます
祭りの前日であったのか  提灯には「御神紋と鳥海山大物忌神社」

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿から 本殿へは 本殿の手前にある中門へと 登廊で結ばれています

中々趣きがありますので 拝殿を横から見てみます

本殿との位置関係が分かりやすく 拝殿から登廊で繋がっていて その先にあるのが中門 本殿は 朱色の同型の本殿が 並んで2社と特徴的です

居並ぶ2社の本殿は
向かって右に鎮座「鳥海山大物忌神社 吹浦口ノ宮」本殿
向かって左に鎮座「摂社・月山神社」本殿

このように二柱を並ぶ形で祀る事ので 古くは「両所宮」(神仏習合では「両所大菩薩」)とも呼ばれます

拝殿の左手には 石段の参道があり 本殿横の境内社にお詣りできます

石段を上ると境内社が3社

向かって左手

・白山姫神社《主》伊邪那美命

中央は 上り石段の左手に鎮座していた風神社から遷座・御霊を移した

・風神社 《主》志那津彦命・志那津姫命

向かって右手

・雷電神社《主》雷神

こちらからですと 本殿を間近に仰げます
手前に鎮座するのが「月山神社の本殿」

奥に鎮座するのが「鳥海山大物忌神社」吹浦口ノ宮の本殿
どちらも宝永八年(1711)に庄内藩酒井家によって再建されたと伝わります

拝殿前の大木迄戻ります

参道石段を戻ります

こちらの社務所では 「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の双方の御朱印が頂戴出来ます
通常の時は「蕨岡(warabi oka)」には神職がおりませんので ご朱印は頂けません

本日は「蕨岡(warabi oka)」が祭りでしたので 参拝の折にご朱印を頂戴しましたので
宮司さまが朱院長帳を開きながら「蕨岡にもお詣りされたのですね あちらでは普段は頂けませんから」とにっこりされておられました

双方のご朱印を掲載しておきます

境内には 斎館があり 祭りの準備のためか 里人が次々に訪れていて 窓の傍には 生花が沢山供えられていました

境内を後にします

鳥居をくぐり振り返り一礼

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本後紀(shoku nihon koki)』 承和7年(840年)7月26日の条に記される伝承

活火山の「鳥海山 大物忌神」に対する「畏怖と崇敬」が記されています

「要約」
「 大物忌神に正五位下勳五等を従四位下勳五等へ陞叙を奉じ授ける
なぜなら 前年に遭難した遣唐使船が 海賊の襲撃にあった際に 少ない軍兵で海賊を撃退することが出来ました 
これは 同じ頃に噴火していた 大物忌神が ご神威を表して 加護されたものであります 神封2戸の寄進と共に 仁明天皇の宣命が添え下されました 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』貞観11年(869年)完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』貞観13年(871年)5月16日の条 出羽国司の報告 に記される伝承

意訳

「 出羽国司の報告
 従三位勳五等の大物忌神社は 飽海郡の山上にあります 巖石が壁立していて 人が到ることは稀です 夏も冬も雪を戴き 草木は禿て無いです 

去る4月8日に噴火があり 土石を焼き 雷鳴のような声を上げました
山中より流れ出る河は 青黒く色付いて泥水が溢れ 耐え難いほどの臭気が充満しています

死んだ魚で河は塞がり 長さ10丈(約30m)の大蛇2匹が 相連なって海へ流れていきました それに伴う小蛇は数知れずであります
河の緑の苗は 流れ損ずるものが多く 中には濁った水に浮いているものもあります 

古老に尋ねたところでは 未曾有の異変でありますが 弘仁年間(810 〜 824年)に噴火した際は 幾ばくもせず戦乱があった とのことです

そこで報告を受けた朝廷が 陰陽寮にて占いを行ったところ 結果は全てにおいて 出羽の名神に祈祷したが 後の報祭を怠り また冢(chiyo)墓(haka)の骸骨(gai kotsu)が 山水を汚しているため怒りを発して山が焼け この様な災異が起こったのだ もし 鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる と言うものでありました
そこで奉賽を行うと共に神田を汚している冢(chiyo)墓(haka)の骸骨(gai kotsu)を除去せよと国守に命じました 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

出羽国一之宮として 鳥海山の山頂には 本社(奥宮)が鎮座し 麓の登山口には「口ノ宮」と呼ばれる里宮が 「吹浦(fuku ra)」と「蕨岡(warabi oka)」の二ヶ所に鎮座しています 創祀は 欽明天皇二十五年(1400年以上前)の御代と伝わります

鳥海山大物忌神社(chokaizan omonoimi shrine)

   (吹浦口ノ宮)(fuku ra)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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