実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

新田神社(薩摩川内市)

新田神社(にったじんじゃ)は 薩摩国の総鎮守(薩摩国一之宮)として 古くから人々の篤い信仰があります 薩摩川内市街から322段の石段を登ると「亀の形をした神亀山(高さ70m)」の山頂に鎮座します 川内で崩御されたと伝わる御祭神の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御陵「可愛山陵」が本殿の裏に坐ます 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  新田神社(nitta shrine)
 (にったじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

  川内八幡(sendai hachiman)

【鎮座地 (location) 】

鹿児島薩摩川内市宮内町1935-2

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天津日高彦火瓊瓊杵尊(amatsu hidakahiko ho no ninigi no mikoto)
《配》天照皇大御神(amaterasu sume omikami)
正哉吾勝勝速日天忍耳穂尊
(masakaakatsu kachihayahi ameno oshihomimi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・家内安全 Safe and comfortable home life
・事業繁栄 Business prosperity
・交通安全 Pray for Traffic safety
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・入試合格 Pass the entrance examination
・漁業繁栄 Prosperity of the fishery
・心身健康 Physical and mental health

【格 式 (Rules of dignity) 】

・ 薩摩国一之宮(satsuma no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
・ 宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)

【創 建 (Beginning of history)】

社伝によると
川内にお着きになられたニニギノミコト様はこの地に立派な高殿(うでな)(千台)を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からはています。やがてニニギノミコト様はおなくなりになられて、お墓がつくられました。これが今の可愛山陵(えのさんりょう)です。そしてニニギノミコト様をおまつりするようになったのが 新田神社のはじまりです。

神社配布紙より

【由 緒 (history)】

神亀山上に鎮まり、創祀の年月は詳らかでないが、所伝永万元年の古文書に「当宮自再興経三百余歳云々」とあることより、貞観の昔の再興された事が明らかである。
三国神社伝記に聖武天皇神亀二年創立云々ともある。
旧薩摩随一の大社で、八百六十七石を寄進され、皇室代々の御崇敬も厚く、また島津氏が封を受けて以来薩摩国一宮として藩内の首社に列した。
参道石段の中段(御山の中腹)に鎮座されていたが、高倉天皇の承安三年神火により正殿以下悉く炎上したため、安元二年宣旨により今の山頂に御遷座になり今日に至る。
明治十八年四月二十二日国幣中社に列せられた。大正九年昭和天皇が皇太子の時御参拝があり、以来皇族の御参拝は九度に及んでいる。
鹿児島県神社庁HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 御陵社

・可愛陵社(eno misasagisha)
 《主》邇邇杵尊(ninigi no mikoto)

・端陵神社(hashino misasagijinja)
 《主》木花開耶姫尊(konohanasakuyahime no mikoto)(邇邇杵尊の妃神)

・中陵神社(nakano misasagijinja)
 《主》火闌降命(hosuseri no mikoto)(邇邇杵尊の皇子神)

・川合陵神社(kawaaino misasagijinja)
 《主》祭神不詳

本殿両脇摂社

・四所宮(shishono miya)
 《主》彦火火出見命・玉依姫命・彦波瀲武草葺不合尊・豊玉姫命
・武内宮(takeuno miya)
《主》彦太忍信命

境内末社

・廿四社(nijushi sha)《主》廿四神・御伴神
・興玉神社(okitama jinja)《主》猿田彦神
・高良神社(kora jinja)《主》天鈿女命

・中央神社(chuo jinja)《主》大山祇命

・早風神社(hayakaze jinja)《主》級長津彦神・級長津姫神

・東門守神社(higashikadomori jinja)《主》豊磐間戸神

・西門守神社(nishikadomori jinja)《主》櫛磐間戸神

・保食神社(ukemochi jinja)《主》保食神

境外末社

・九樓神社(kuro jinja)《主》甕速日神
・守公神社(shuko jinja)《主》樋速日神

・大己貴神社(onamuchi jinja)《主》大己貴命
・武内神社(takeuchi jinja)《主》祭神不詳
・大将軍神社(daishogun jinja)《主》武甕槌神
・八尾神社(yatsunoo jinja)《主》祭神不詳
・船間島神社(funamajima jinja)《主》御伴神

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

新田神社は『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載がありません

当神社が鎮座する神亀山の頂上には「可愛山陵(enoyama no misasagi)邇邇芸尊陵」があり 陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態です

元来は その御霊を祀る社殿として 山の中腹に神社があり 御陵として認識をされていたものと想われます
現在の山頂に遷座した理由について 神社由緒には「参道石段の中段(御山の中腹)に鎮座されていたが 高倉天皇の承安三年神火により正殿以下悉く炎上したため 安元二年宣旨により今の山頂に御遷座になり今日に至る」とあります

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

薩摩国には 一之宮が 2社 鎮座しています

鎌倉幕府は
蒙古襲来(元寇)の際に「各国の一之宮と国分寺」に蒙古調伏の祈祷を命じます 合わせて「各国の守護」には一之宮への奉納「剣 神馬」を命じました

当時 薩摩国では 枚聞神社と新田神社の間で どちらが一之宮であるかとの論争が絶えませんでした
守護の島津氏(忠宗)は 新田神社へ「剣 神馬」を奉納しましたので 守護が新田神社を一之宮と認めたとして 古来から一之宮とされていた枚聞神社から新田神社へ 一之宮が移り論争は一応の決着をみますが 最終決定を下した訳ではなく 薩摩国には一之宮が2つになります
新田神社は 武神である八幡神を祀っていたことから 島津氏に尊崇を受け「薩摩国一宮」とされていきます

もうひとつの薩摩国一之宮「枚聞神社」の記事をご覧ください

一緒に読む
枚聞神社(薩摩国一之宮)

枚聞神社(ひらききじんじゃ)は 薩摩一之宮とされています 特に交通・航海の安全や 漁業守護の神として 人々から厚い信仰を寄せられる古社です 歴代の島津藩主からの崇敬も厚く 修理・改造・再建等は幾多に及んでいますので 優雅な朱塗りの社殿は見事な造りです 特に中央の勅使殿の向拝に彫られた彫刻は必見です 又 宝物殿には通称「玉手箱」が収蔵されています 正式名を「松梅蒔絵櫛笥一合」(国の重要文化財に指定)といいます

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「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

川内駅から県道42号経由 約3.1km 9分程度
社頭から 南へ700m 川内川の土手があります

すぐ下に「一の鳥居」があり 「八丁馬場」と呼ばれる直線の参道が北に向かい 神亀山(高さ70m)の麓に続いています

県道沿い境内入口に「二の鳥居」建ち 一礼をしてくぐり抜けます

すると降来橋(koraibashi)と呼ばれる 石造りの太鼓橋を渡ります

橋を渡ると参道の322段の石段を登ります(体調の悪い方などは車でも上がれるようです)

石段を少し上がると左右に門守社の祠がありお詣りです

・東門守神社(higashikadomori jinja)《主》豊磐間戸神
・西門守神社(nishikadomori jinja)《主》櫛磐間戸神

100程 階段を上ると 境内社が並んで鎮座します お詣りです

・高良神社(kora jinja)《主》天鈿女命
・中央神社(chuo jinja)《主》大山祇命
・早風神社(hayakaze jinja)《主》級長津彦神・級長津姫神

旧鎮座地の礎石があり 承安三年まで この所に鎮座していた 火災で炎上し
山上へ遷座したと説明書きもあります

さらに石段は続きます

右手に大樟があります

石段を登り切った上には 拝殿(勅使殿)が建っています

社殿は廻廊が続き 中央は 正面から勅使殿 舞殿 拝殿と並んでいます
左右の廻廊奥には それぞれ摂社があります

勅使殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

本殿の背後が山頂となっていて 主祭神「瓊瓊杵尊(ninigi no mikoto)」の陵墓とされている「可愛陵社(eno misasagisha)」があります

本殿の向かって右側(東側)から 社務所の脇を通り 迂回して行くことができます

麓から山稜へ直接上がる参道が別にあります

頂上の近くで 双方の参道が交わります

石段の先に御陵が見えてきます

ちょうど本殿の真後ろの位置になります

・可愛陵社(eno misasagisha)
 《主》邇邇杵尊(ninigi no mikoto)にお詣りをします

社務所の前を戻ります 授与所は社殿に併設されています

社殿の左側に出ます

右側から社殿を眺めます

下りの参道の左手に案内板があり安産狛犬「子だき狛犬」とあります

良く見ると 狛犬の左後ろ足に 子犬が抱かれています

長い石段を下り 下まで来ると「二の鳥居と降来橋(koraibashi)」が一緒に見えて風情があります

降来橋(koraibashi)を渡り 鳥居をくぐり抜けて振り返り一礼します

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

「新田」という名の由来と 新田神社の御田植祭について

社伝では「新田」という名前について「当社の“新田”という名称には、ホノニニギが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになったという意味が込められている」と伝わり 鹿児島県庁のHPにも「御田植祭」の由来があります

〔由来〕古代天孫降臨のニニギノ尊が、川内川を下って倉野にさしかかったとき、淵の渦に巻き込まれ転覆されてしまいました。
釣りをしていた倉野の村人が、とっさに川に飛び込み、此の方を救い上げました。
ニニギノ尊は助けてもらったお礼に、稲穂を村人に与え、「この種を大事に育てたら、村は豊かになるであろう」と言って又川を下っていきました。
そして倉野には見事な稲穂が稔るようになりました。
村人はニニギノ尊が転覆された淵のうえに稲穂神社を建てました。
奴踊りのバリン竿で悪霊(稲虫や稲の病気)を防いでいる様子を表しています。

鹿児島県庁公式HP「かごしま地域伝統芸能ミュージアム」より
(http://www.pref.kagoshima.jp/ab10/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/satumasendai/kurano.html)

『三国名勝図会(sangoku meisho zue)』天保14年(1843)に記される伝承

絵図には その壱(一の鳥居から石段の下まで)・その弐(石段から社殿迄)が書かれていて現在とほぼ同じです 文中には 千台から川内と呼ばれるようになったことも記され 境内社についても詳しく書かれています

意訳

「・・・・・当地は、ホノニニギの都した処であって、高城千台の宮を建てた跡であるので、郡を高城(タキ)と名づけ、邑を千台(センダイ)という・・・・」

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト
『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905) 

川内で崩御されたと伝わる御祭神の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御陵「可愛山陵」が本殿の裏に坐ます

新田神社(nitta shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

薩摩国には 一之宮が 2社 鎮座しています 古来から 一之宮とされていた「枚聞神社」の記事もご覧ください

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枚聞神社(薩摩国一之宮)

枚聞神社(ひらききじんじゃ)は 薩摩一之宮とされています 特に交通・航海の安全や 漁業守護の神として 人々から厚い信仰を寄せられる古社です 歴代の島津藩主からの崇敬も厚く 修理・改造・再建等は幾多に及んでいますので 優雅な朱塗りの社殿は見事な造りです 特に中央の勅使殿の向拝に彫られた彫刻は必見です 又 宝物殿には通称「玉手箱」が収蔵されています 正式名を「松梅蒔絵櫛笥一合」(国の重要文化財に指定)といいます

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「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

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