下野宮近津神社は 奥久慈大子地方が 陸奥國 依上郷と呼ばれていた頃 久慈川沿いに並び鎮座する3神社を゛近津三社゛と総称していました・〈上宮〉馬場都々古別神社・〈中宮〉八槻都々古別神社・〈下宮〉下宮近津神社(当社)の三社で〈上宮〉〈中宮〉の2つの都々古別神社は 陸奥国一宮です 当社〈下宮〉は「石都々古別神社」であると自認し 陸奥国一宮を主張します 又 式内社 常陸國 稲村神社であるとする説もあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
近津神社(Chikatsu Shrine)
(ちかつじんじゃ)
[通称名(Common name)]
下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)
【鎮座地 (location) 】
茨城県久慈郡大子町大字下野宮1626
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》面足尊(Omotaru no mikoto)
惶根尊(Kashikone no mikoto)
級長津彦命(Shinatsuhiko no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・「陸奥国一之宮(mutsu no kuni ichinomiya)」(参考論社)
【創 建 (Beginning of history)】
近津神社 大子町下野宮1626
祭 神 級長津彦命・面足尊・惶根尊
皇神十二代景行天皇の御子日本武尊東征砌 御祭神出現し、八溝成る星月山の強夷を掃蕩に多大御加護を垂れ給う。
故慶雲4年社殿造営。勅して廷依り霊鏡霊剣金鈴各壱を賜う。樹齢1300年の神の鉾杉と御田植祭が有名である。
大子町鎮座神社マップ 発行 大子町氏子総代会より
【由 緒 (history)】
近津神社の歴史とお田植え祭
慶雲(けいうん)4年(707)の創建と伝えられる下野宮の近津神社は、奥久慈大子地方が陸奥(むつ)國依上郷と呼ばれていたころ、棚倉の近津上野宮、八槻の近津中野宮と合わせて近津三社と称されていた。
下野宮の近津神社は、延喜式(えんぎしき)神名帳によれば式内(しきない)小社、石都々古和気(いわつつこわけ)神社と記載されている。
また 近津神社は創建当時から、日本武尊の八溝山の悪霊退治(あくりょうたいじ)とか、坂上田村麻呂の蝦夷征伐(えみしせいばつ)祈願等の伝承のほか、源義家の奥州安部氏の反乱を平定するため参籠(さんろう)して戦勝祈願をしたとの伝説がある。
この時、義家公が社殿の傍らの杉の木に自らの鉾を立てかけたのが、今に伝わる御神木の鉾杉である。鉾杉は推定樹齢1300年、幾星霜(いくせいそう)の風雪に耐え、昭和六年には茨城県指定天然記念物の第一号として現在もその神々(こうごう)しさと威容さをもって成長を続けている。その後、依上郷は依上保となり、陸奥國白河結城氏の支配下におかれたが、結城氏歴代の近津神社に対する敬神は厚く、たびたび社領の寄進や社殿造営などをおこなっている。
さらに永正年間になると、依上保は常陸國太田の佐竹氏の領有するところとなり、文禄三年の太閤検地以後は、正式に常陸國に編入され、大子地方一帯は保内郷と総称されるようになった。慶長七年佐竹氏が秋田へ国替えになり、やがて水戸藩が成立すると、寛文年間には、八溝嶺を源とする八溝川をさかのぼるように新たに、町付に近津中の宮、上野宮に近津上の宮を分祀(ぶんし)創建した。
水戸藩は特に下野宮近津神社を重要視して、保内郷48ヶ村の総社として社領として37石領余、氏子五千数百戸を有することを認めた。このように長い歴史と伝統をもつ近津神社は、武将の信仰が厚い武神であると同時に、保内郷地方で農耕生活をする人々にとっては心強い農耕神作神(のうこうじんさくがみ)でもあった。
それは現在も連綿と引き継がれている年中行事にもよく現れている。春秋の例祭には神輿(みこし)によるご出社があり、春は当年の豊作祈願を、秋には豊作感謝が奉納されるが、老若男女の人出は保内郷全域から集まったという。
そして特に、七年毎に引き継ぎが行われるお枡回し(おますまわし)の神事は、当番の氏子がお枡に入れた種籾を七年間に渡って保管管理して次の集落の氏子に引き継ぐという、全国的に見ても他に類例を見ない極めて特異なものである。
さて、毎年の夏至の日に行われるお田植祭は、普通一般には中田植と呼ばれている。これはお枡によって奉納された七年間保存管理されていた種籾を近津神社の神田にまいて早苗を育て、それを御田植唄の調子に合わせて、氏子のなかから選ばれた早乙女たちによって神田に植える神事である。
その起源は建久年間であると伝え、それ以来お田植祭の神事は豊作凶作にかかわりなく毎年盛大に行われ現在に至っている。
平成29年6月21日 夏至拝殿に置かれていた案内紙より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・天照皇太神(Tenshokotaishin)
《主》天照大御神(amaterasu omikami)
・稲荷神社(Inari Shrine)
《主》倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)
・羽黒神社(Haguro Shrine)
《主》宇賀御魂命(ukanomitama no mikoto)
・天神社(tenjinsha)
《主》菅原道真命(sugawara no michizane no mikoto)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
式内調査報告では 近津神社(Chikatsu Shrine)の〈上野宮〉・〈中野宮〉・〈下野宮〉の3神社を 稲村の地にあったので「稲村三社」とも呼ばれていた経緯があり
「式内社・常陸國久慈郡 稲村神社」の論社とされています
しかし 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月)の編纂された平安時代には
この地は 陸奥国に属していて 常陸国の式内社とするのには無理がありそうです
神社の主張としては「式内社・陸奥國白河郡 石都都古和氣神社」の論社であるとしています この説から陸奥国一之宮の論社にもなっています
①式内調査報告による論社として〈稲村神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸国 28座(大7座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)久慈郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 稲村神社
[ふ り が な ](いなむらの かみのやしろ)
[How to read ](Inamura no Kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
➁当神社の主張による論社として〈石都都古和気神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名 ] 石都都古和気神社(貞)
[ふ り が な ](いはつつこわけの かみのやしろ)
[How to read ](Iwatsutsukowake no Kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「都々古別三社(tsutsukowake sansha)」の総称として 「近津三社(Chikatsu Sansha)」と呼ばれていた
奥久慈大子地方が陸奥國(Mutsu no kuni)依上郷と呼ばれていた頃は 都々古和氣の三社を「近津三社(Chikatsu Sansha)」と総称していました
久慈川沿いに並び鎮座していて
上流から順に〈上宮〉〈中宮〉〈下宮〉と呼ばれていて
・〈上宮〉馬場都々古別神社
・〈中宮〉八槻都々古別神社
・〈下宮〉下宮近津神社(当社)
〈上宮〉と〈中宮〉の2つの都々古別神社が 陸奥国一宮とされています
〈下宮〉である当社も陸奥国一宮を自認していて「石都々古別神社」の論社であると主張しています 陸奥一宮であるとする説もあります
「近津三社(久慈川沿いに並び鎮座)」の記事をご覧ください
・〈上宮〉馬場都々古別神社
馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります
都都古和氣神社(馬場)
・〈中宮〉八槻都々古別神社
八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました
都々古別神社(八槻)
・〈下宮〉下宮近津神社 (当社)
下野宮近津神社は 奥久慈大子地方が陸奥國依上郷であった頃 久慈川沿いの三社〔〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下野宮近津神社(当社)〕を゛近津三社゛と総称し〈上宮・中宮〉の都々古別神社は 陸奥国一宮で 当社〈下宮〉は「石都々古別神社」陸奥国一宮と主張します 又 式内社 常陸國 稲村神社とする説あり
近津神社(大子町下野宮)〈陸奥国一之宮 参考論社〉
「稲村三社(inamura sansha)」の総称として 「近津三社(Chikatsu Sansha)」とも呼ばれます
水戸藩の治世であった 寛文年間(1661~1673年)の頃
〈下野宮〉の社伝によれば
八溝嶺山(Yamizomine yama)を源とする八溝川をさかのぼるように新たに 町付に「近津中の宮」上野宮に「近津上の宮」を分祀(ぶんし)創建したとあります
・〈上野宮〉上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)
・〈中野宮〉町附近津神社(Machitsuki Chikatsu Shrine)
・〈下野宮〉下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)〈当社〉
この3社を
近津神社の分祀なので「近津三社(Chikatsu Sansha)」とも
〈上野宮〉の鎮座地周辺が「稲村」と呼ばれた地名のため「稲村三社(inamura sansha)」とも 呼ばれていました
「近津三社(八溝川沿いに並び鎮座)」それぞれの記事をご覧ください
・〈上野宮〉上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)
・〈中野宮〉町附近津神社(Machitsuki Chikatsu Shrine)
・〈下野宮〉下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)〈当社〉
下野宮近津神社は 奥久慈大子地方が陸奥國依上郷であった頃 久慈川沿いの三社〔〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下野宮近津神社(当社)〕を゛近津三社゛と総称し〈上宮・中宮〉の都々古別神社は 陸奥国一宮で 当社〈下宮〉は「石都々古別神社」陸奥国一宮と主張します 又 式内社 常陸國 稲村神社とする説あり
近津神社(大子町下野宮)〈陸奥国一之宮 参考論社〉
八溝川は 八溝嶺山(Yamizomine yama)を源とします
・八溝嶺神社(Yamizomine Shrine)の記事をご覧ください
八溝嶺神社は ・栃木・福島との県境にそびえ・茨城県内の最高峰(1,022m)を誇る「八溝山(Yamizosan)」の山頂に鎮座しています その歴史は古く 第12代景行天皇40年 日本武尊が東征軍を率い 当山の賊を打ち払い ここにおいて二神を祀られたと伝えられています 又 大同2年(807年)には 弘法大使が神殿を修営し 霊場とした際に山頂に立ち見渡すと 谷が8つに分れ 八方に湧水が流れ落ちる様を見て「八溝の嶺」と名づけられたと伝わります
八溝嶺神社(八溝山)
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
下野宮駅から 北西へ約400m 徒歩5分程度
下野宮近津神社(Shimomiya Chikatsu Shrine)に到着
参道の入口に建つ社号標には「近津神社」とあり 鳥居が建ちます
一礼して 注連縄のかかる鳥居をくぐります
両サイドの随神の前には紅白の衝立が置かれた 随神門が建ちます
隋神門にも注連縄が掛かり 随神に一礼してくぐり抜けます 掲げられた扁額には「近津神社」と書されています
社殿に向かって 参道が真っ直ぐに延びています 参道の両端がくっきりと帯が付いていて 珍しいです お祭りの時にでも活用するのでしょうね
参道の左手に 神池があり 島が2つ連なっていて それぞれに祠が祀られています
右側には 七福神の石板と神馬舎があります
参道左手に手水舎があり 清めます
階段の上に立派な社殿が見えます
階段を上がり 拝殿にすすみます
扁額には「近津宮」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿のすぐ脇には御神木「鉾スギ(茨城県指定天然記念物)」
樹高43m 幹囲9.6m 樹齢は1200余年と推定されています 同社勧請の際植えられたものと伝わります
御神木の奥に本殿を仰げます
社殿向かって右側から
境内社が並び お詣りをします
参道を戻ります
夏至の日に「中田植(chudaue)」が行われる神田(徳川光圀公 寄進の神饌田)が見えます
隋神門をくぐり抜けます
鳥居の向こうには 小学校の校舎があります かつては久慈川まで参道が続いていたのかもしれません
鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
農耕に深く関わる神事「お枡回し(おますまわし)」「中田植(ちゅうだうえ)」について
「お枡回し(おますまわし)」
七年毎に引き継ぎが行われるお枡回し(おますまわし)の神事
当番の氏子がお枡に入れた種籾を七年間に渡って保管管理して 次の集落の氏子(当屋)に引き継ぐという 全国的に見ても他に類例を見ない極めて特異なもので 古くは「近津三社(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下野宮近津神社)」で行われた神事とされています
「中田植(chudaue)」
毎年の夏至の日に行われるお田植祭
これはお枡によって奉納された七年間保存管理されていた種籾を近津神社の神田にまいて早苗を育て それを御田植唄の調子に合わせて 氏子のなかから選ばれた早乙女たちによって神田(徳川光圀公 寄進の神饌田)に植える神事です
このような神事は 農耕神作神(nokojin sakugami)としての性格をよく表しています 同様の祭事が大子町や福島県でも見られ
八槻都々古別神社(Yatsuki Tsutsukowake Shrine)では
「霜月大祭」その年の新籾をツトッコという「藁苞(籾入れ)」に入れて奉納し その折に他者のツトッコをいただいて帰る風習(籾の交換(品種交換とされている))を行う風習があって 桝廻しの神事などの存在は 農耕神の性格を物語ります
北常陸や南陸奥地方で広い信仰圏を営んだ農業信仰とされていますが 実質的に見ても 江戸時代以前の東北稲作は度重なる冷害・凶作によって 言葉では言い尽くせない悲惨さがあったと伝わります
そうした意味でも 実質的に必要不可欠の「種籾」の交換(品種交換とされている)を伴うご神事であったのであろうと推測します
下野宮近津神社(Shimomiya Chikatsu Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載の「石都都古和気神社」の比定社
石都都古和気神社の記事をご覧ください
石都々古和気神社は 約一万年位前から信仰されていたとされている古代の祭祀遺跡の跡地に鎮座しています これは全国的にも数少ない大変重要な遺跡といわれています その様子は 山には 全山に花崗岩の巨石が連なる多くの磐境が点在していて・屏風岩・船形岩・鏡岩(2基)・亀石・天狗石・石門(鳥居)更に 三種の神器と言われている・剣・玉(勾玉)・鏡岩等があります
石都々古和気神社(石川町)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る
陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について
『常陸國の式内社〈28座〉について』に戻る
常陸国(ひたちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 常陸国には 28座(大7座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
常陸國 式内社 28座(大7座・小21座)について