実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

有玉神社(浜松市中央区有玉南町)〈『延喜式』朝日波多加神社〉

有玉神社(ありたまじんじゃ)は 明治四十年 八幡宮境内〈現在地〉に郷社 神明宮〈式内論社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)〉を移転し 当時の有玉村の地域内にあった 郷社 神明宮 村社 無格社などと八幡宮 俊光将軍社等 併せて十一社を合祀して 郷社 有玉神社と称したものです

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

有玉神社(Aritama shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

静岡県浜松市中央区有玉南町1916-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

合祀された神社の旧所在地及び御祭神
合祀された神社名 旧所在地 御祭神
郷社 神明宮 城山橋 天照意保比留賣貴命
西の山 天手力男命
萬幡豊秋津姫命
村社 八幡宮 現有玉神社地 譽田別命
息長足姫命
大鷦鷯命
俊光将軍社 欠下平 坂上大宿根田村麿命
白髭神社 町田 猿田彦命
菅原道真公霊
天神社 上瀬 國狭槌命
弥都波能賣神
金山社 東畑屋 金山彦命
稲倉魂命
事解男命
須佐之男命
稲荷神社 松木 事解男命
速玉男命
大年神
御年神
白山 下村 志那都比賣命
志那都比古命
伊邪那岐命
伊邪那美命
大年神
御年神
山神社 欠下平 大山祗命
津島社 欠下平 須佐之男命
白山社 宇藤 伊邪那岐命
伊邪那美命
山神社 西畑屋 大山祗命
大頭龍社 新村 大物主命

現地案内板より

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社を合祀しています

【創  (Beginning of history)】

神社名「有玉神社
由緒沿革

 旧郷社 神明宮は創立年代不詳、元禄十六年再建の棟札あり、旧朱印高六石にして、旧長上郡 式内五座の内 朝日波多加神社と申伝あり、明治六年郷社に列せらる。

 旧村社 八幡宮は創立年代不詳、大正十年再建の棟札あり、旧朱印高十二石なり。

 特殊神事 流鏑馬は、徳川家康が大阪より帰陣の際、戦場での愛馬を寄進したことに始まる。例祭の神事として四百年の伝統を今に伝える。

 當神社は明治四十年、当時の有玉村三百八十戸余りの地域内に、郷社 神明宮を初め村社、無格社合せて十二社あり、境内、社殿共に狭く又、祭典の繁雑さから、明治四十年 郷社 神明宮を八幡宮境内(当地)に移転し八幡宮、俊光将軍社等、併せて十一社を合祀し、郷社 有玉神社と称した。新社殿は大正二年完成、同年九月十日遷宮された。

 昭和二十七年八月二十日「宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県庁神社等級規定により六等級神社と承認される。

御祭神

 裏面を参照ください

 

 四月第一日曜日 (小祭)月次祭
 六月最終日曜日 (小祭)大祓、月次祭
 十月「体育の日」前の金土日曜日 例大祭
 十一月第二日曜日 七五三祭
 十一二十三日 (大祭)新嘗祭
 十二三十一日 (小祭)大祓、除夜祭
 一日(元旦)(中祭)歳旦祭
 一十一日(建国記念日)(大祭)祈念祭、焼納祭

御神徳

 有玉神社には太古より「珠」が祭られているといわれてきた。 「珠」は御宝として尊ばれ、昔から多くの人々の厚い信仰を受けてきた。
また、二十三柱の御祭神が合祀されている神社でもあり、「国家安泰」、「子孫繁栄」、「五穀豊穣」、「家内安全」「商売繁盛」、「学業成就」等、あらゆることに御加護がある。

おねがい「境内をきれいに」
 境内は、氏神様のお屋敷です。 社殿を汚したり、壊したりしないよう、お互いに注意しましょう。

現地案内板より

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【由  (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇靜岡縣 遠江國 濱名郡積志(セキシ)村大字有玉字本

郷社 有玉(アリタマノ)神社

祭神
 天手力男(アメノタヂカラヲノ)
 天照意保比流(アマテラス オホヒルメムチノ
 萬幡豊秋津姫(ヨロズハタ トヨアキツヒメノ

 に云く、「社は延喜式神名帳に戴する所の遠江国 長上郡五座の内 朝日波多加神にて、畑屋村(今 有玉村)は波多加の訛なり、又 社の西面に高山とする字あるも、波多加山の訛云々」
 但し社明細帳に「然れども、未詳」といへる如く、今 輙(すなわち)く、社は式内社 朝日波多加神社なりとは断定し得ざるなり、

特選神名牒に、同社の候補として掲ぐるものに四、
曰く蒲郡神立村蒲神明宮、
曰く半田村朝日山六所明神、
曰く有玉郡神明宮、
曰く内野村神明宮、
而して其の結文に至りて云く、共に明あらざれば、今従ひがたし」と、されば猶以て不詳といふの外なし、

 さて社創立年代詳ならといへども、近世にては元禄十九年再建のことありしと、
社領は風土記に、「欠下有玉村大菩薩山神明社は、朱符之神田高六石」と見えたり、明治月郷社に列し、同四十十八 来の社号 神明宮を改めて現社號とせり。

社殿は本殿、其他神饌所等を備へ、境内は六百七十五坪(官有地第一種)あり、社に石器、土器及古墳あり、太古人形の遺跡なるべし

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

由緒

明治40年、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて12社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小部落で行う神社が9社あった。

神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、1村1社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と高の社会教化の中心にしようとして、明治40年9月10日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11社を合祀し、郷社有玉神社を称することにした。

新社殿は大正2年に完成し、同年9月10日に御遷宮された。昭和27年8月20日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により6等級神社と承認された。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

有玉神社 拝殿・〈拝殿の向かって左横 境内社〉八幡大菩薩

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・〈拝殿前の左右の狛犬〉阿形の狛犬

一般的な狛犬は 向かって右に口を開いた阿形 左に口を閉じた吽形 左右合わせて阿吽(あうん)です こちらの背筋を伸ばした狛犬は 左右とも阿形

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・〈境内社〉俊光将軍社《主》坂上田村麿

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・〈境内社〉俊光将軍社の屋根の鬼瓦細工

坂上田村麿と赤蛇神との間にできた子 俊光将軍の伝説に由来するものです

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・有玉神社の流鏑馬

「家康公ゆかりの里」有玉神社の流鏑馬(やぶさめ)

 有玉神社の祭典で、現在も行われている流鏑馬は、およそ四〇〇年前、家康公が大坂の役(おおさかのえき)から帰陣の際、戦場で乗った愛馬を寄進したことに始まるといわれている。
 江戸時代には、浜松城主が毎年見物に来たといわれている。

平成二五年三月 浜松市東区役所

現地立札より

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有玉神社の鳥居

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有玉神社の社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)遠江國 62座(大2座・小60座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)長上郡 5座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 朝日波多加神社
[ふ り が な ]あさひはたかの かみのやしろ
[Old Shrine name]Asahihataka no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたの かみのやしろ)の論社について

・神明宮(浜松市浜名区内野

一緒に読む
神明宮(浜松市浜名区内野)〈『延喜式』朝日波多加神社〉

神明宮(しんめいぐう)は 創立年代不詳ですが 鎮座の地「内野(うちの)」が「宇治乃(うぢの)」と呼ばれていた頃 伊勢神宮より勧請したと云い 又 神明宮由緒によると寛永二年(1625)正月十五日 現在地に創建したと云います 延喜式内社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)の論社です

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六所神社(浜松市中央区半田町

一緒に読む
六所神社(浜松市中央区半田町)〈『延喜式』朝日波多加神社〉

六所神社(ろくしょじんじゃ)は 朝日(あさひ)山〈往古 村名゛波多(はた)村゛にある〉の中腹に 社殿・境内は東を向いて 旭日(あさひ)を迎えるように鎮座しています 創建年代不詳ですが この地名と地形からみて 延喜式内社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)の論社との説があります

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有玉神社(浜松市中央区有玉南町

一緒に読む
有玉神社(浜松市中央区有玉南町)〈『延喜式』朝日波多加神社〉

有玉神社(ありたまじんじゃ)は 明治四十年 八幡宮境内〈現在地〉に郷社 神明宮〈式内論社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)〉を移転し 当時の有玉村の地域内にあった 郷社 神明宮 村社 無格社などと八幡宮 俊光将軍社等 併せて十一社を合祀して 郷社 有玉神社と称したものです

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・蒲神明宮(浜松市中央区神立町)

一緒に読む
蒲神明宮(浜松市中央区神立町)〈『延喜式』大歳神社・朝日波多加神社・子倉神社〉

蒲神明宮(かばしんめいぐう)は 『三代實録』蒲太神とする説があり これによって三つの式内社〈①遠江國 長上郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)②遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)③遠江國 長上郡 子倉神社(こくらの かみのやしろ)〉の論社となっています

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稲荷神社(浜松市中央区飯田町

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

遠鉄電車 自動車学校前駅から 北方向へ約550m 徒歩での所要時間8~10分程度

こちらは 神社の東側です 南側に駐車場が設けられています

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南側に社頭があります

有玉神社(浜松市中央区有玉南町に参着

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南側には 鳥居が二ヶ所あります
手前〈東側〉が有玉神社 奥側〈西側〉が〈境内社〉俊光将軍社です

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有玉神社鳥居に一礼をしてから 境内に進みます

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境内に進むと 二つの立派な拝殿があります

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有玉神社拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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有玉神社の敷地内にもう一つある〈西側〉〈境内社〉俊光将軍社に 一旦境内を出てから 鳥居をくぐり詣でます

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俊光将軍社は古来から”雨乞いの神様”として村人たちの信仰が厚かったと伝わります

一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて ふたたび境内に進みます

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鳥居の扁額にも゛俊光将軍社゛と刻字されています

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俊光将軍社拝殿にすすみます

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 賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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俊光将軍については 有玉神社に伝わる伝説に記されています

有玉神社の伝説

昔、天竜川河口近くに三千年を経るという赤大蛇が住んでいた。

  坂上田村麿将軍が東征でこの地を訪れた時、美女に化けた赤大蛇と恋仲になり2人の間に子供が出来た。美女は将軍に子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところを見てしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。

  この子は成人し、俊光将軍といわれる武将になり再び父子で東征の命を受けこの地を訪れる。

その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「潮干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。この平野にやがて人が住み村が出来た。

 ある年、毎夜東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を祭ったのが有玉神社だといわれる。

有玉神社H.Pより
https://ayucalifornia.wixsite.com/aritama

つまり 征夷大将軍・坂上田村麿と赤蛇神との間にできた子が俊光将軍です

当地には この伝説に係る神社があります

赤蛇神を祀っているのが 椎ケ脇神社(しいがわきじんしゃ)
坂上田村麿将軍を祀っているのが 田村将軍神社
俊光将軍を祀っているのが この 俊光将軍社 云われます

〈境内社〉俊光将軍社の向かって右側には 有玉神社があります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 朝日波多加神社について 所在は゛飯田村に在す、今稻荷社とす、゛〈現 稲荷神社(浜松市南区飯田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

朝日波多加神社

朝日は阿左比と訓べし、波多加は假字也、

○祭神詳ならず

〇飯田村に在す、今稻荷社とす、土人説

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 朝日波多加神社について 所在は゛今 半田の隣堺 内野村、邊多の地にあり゛〈現 六所神社(浜松市東区半田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

朝日波多加(アサヒノハタカノ)神社

今 半田の隣堺 内野村、邊多の地にあり、〔遠江風土記傳〕〔〇按 和名抄、鞘多郷 今 邊多といふ、即 半田村盖是也、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 朝日波多加神社について 所在は記載なく 諸説について゛共に明證あらざれば今從ひがたし゛と記しています

諸説については
゛蒲郷神立村 蒲神宮゛〈現 蒲神明宮(浜松市中央区神立町)
゛半田村 朝日山六所明神と云説゛〈現 六所神社(浜松市東区半田町)〉
゛有玉村神明宮゛〈現 有玉神社(浜松市東区有玉南町)〉
゛内野村 神明社゛〈現 神明宮(浜松市浜北区内野)〉

【抜粋意訳】

朝日波多加(アサヒハタカノ)神社

祭神
祭日
社格

所在

 今按 注進狀に蒲郷神立村 蒲神宮を以て本社にあてたれども こは式外の蒲大神と聞ゆれば此社にはあるべからず
 又 半田村 朝日山六所明神と云説もあれど こは山號の朝日と半田村の波多加に通ふより云るに似たり
 又 有玉村神明宮をあてたるは 其地 畑屋村に績きて 往古 畑家とかけりと云によりて附會したるが如く聞え
 風土記傳に 内野村 神明社地を野波多氣とも邊多とも云によりてあてたるも疑はしく 共に明證あらざれば今從ひがたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

有玉神社(浜松市中央区有玉南町 (hai)」(90度のお辞儀)

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遠江国 式内社 62座(大2座・小60座)について に戻る

一緒に読む
遠江國 式内社 62座(大2座・小60座)について

遠江国(とほとうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 遠江国には 62座(大2座・小60座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています