穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 社伝によれば 第6代 孝安天皇4年(紀元前389年頃)の創建 主祭神は少彦名命を御祀りした社と伝わり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社と比定されている大変由緒ある神社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
穴澤天神社(Anasawaten Shrine)
(あなさわてんじんじゃ)
[通称名(Common name)]
天神様(てんじんさま)
【鎮座地 (Location) 】
東京都稲城市矢野口3292
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
《配》菅原道真公(Sugawara no michizane ko)
大己貴命(Ohonamuchi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
穴澤天神社略誌
孝安天皇4年の創建にして、主祭神は少彦名命を御祀りした社で
この命は人民に医療の法や造酒の術を授けられ、特に薬の神から健康増進の神として、又、国土経営に偉功を遺された著名な御方であります。
天正18年(1590)に社殿を再建し元禄7年(1694)社殿の造営が行われ、その時菅原道真公を配祀され、公は古より文学の神として親しまれ、広く仰ぎ祀されております。
大正7年(1918)国安神社 大巳貴命(大国主命)を合祀、縁結、開運の神として以後崇敬されており、境内下 三澤川右岸沿いに、横穴巌洞がありましたが、昔の巌穴は崩れ、現在の洞穴は二度目ですがこれがすなわち穴澤の起源であります。この洞窟内には元石仏の安置跡も残っており、明治4年神仏分離の際、石仏像は当時別当職であった威光寺に移さられました。
延喜式内神明帳所載(延喜5年、905年撰上)に記されてる古社で 多摩八社の内一社であり、明治6年郷社に列せられました。
境内掲示案内より
【由 緒 (History)】
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)
当社(とうしゃ)の主祭神(しゅさいじん)は、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)を御祀(おまつ)りした社(やしろ)である。創立(そうりつ)は孝安天皇(こうあんてんのう)4年3月で、後に元禄(げんろく)7年社殿を改修し、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を合祀(ごうし)する。例大祭は毎年8月25日で、当日は神職(しんしょく)山本家(やまもとけ)に伝わる、武蔵流の指定文化財、江戸の里神楽(さとかぐら)が奉奏(ほうそう)され、又、三頭の獅子(さんずのしし)と天狗(てんぐ)により、神社入口の石段を、舞いながら勇壮(ゆうそう)に登る。市指定の獅子舞(ししまい)が奉納(ほうのう)される。
境内(けいだい)には江戸時代の終わり頃に、筆学(ふでがく)を業(なりわい)とした原田金陵(はらだきんりょう)の功績をたたえて建てられた、市指定文化財の筆塚がある。
現在の社殿は昭和61年12月に修復した。稲城市の案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・辨天社《主》市杵島姫命
・稲荷社《主》倉稲魂命
・山王社《主》大山祇命
・神明社《主》天照大神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 穴澤天神社
[ふ り が な ](あなさは あまつかみのやしろ)
[Old Shrine name](Anasaha Amatsukami no yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社について
・穴澤天神社(稲城市矢野口)
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 社伝によれば 第6代 孝安天皇4年(紀元前389年頃)の創建 主祭神は少彦名命を御祀りした社と伝わり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社と比定されている大変由緒ある神社です
穴澤天神社(稲城市矢野口)
・谷保天満宮(国立市谷保)
谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています
谷保天満宮(国立市谷保)
・穴澤天神社〈将門神社境内社〉(奥多摩町棚澤)
・羽黒三田神社(奥多摩町氷川)
羽黒三田神社(はぐろみたじんじゃ)は 社伝によると「貞観二年(860)出雲国の人 土師連行行基が東国に下向し 御嶽山に詣り神告を得て 当地に高皇産霊神 少彦名神の二神を祀り 穴澤天神と号した」と伝わり式内社の論社です その後 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に羽黒権現が合祀されましたが 今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神が合殿となっています
羽黒三田神社(奥多摩町氷川)
・穴澤天神社(あきる野市深沢)〈参考〉
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 式内社「武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社「棚澤天神」ではないかとの誤説もあるようですが 棚澤天神は 奥多摩町棚澤に鎮座しています この神社は 深澤村の各神社を合祀した同名の参考神社として ご紹介します
穴澤天神社(あきる野市深沢)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京王よみうりランド駅から東へ約650m 徒歩10分程度
神社の北側を三沢川が流れていて 京王線の高架線の下あたりに一の鳥居があります
ただし 私はわからずに 南の山側 読売ジャイアンツ球場に向かう参道昇降口から境内に下っていきました
山を下ると参道に出ます 境内社が鎮座し 鳥居が境内入口に建っています
穴澤天神社(Anasawaten Shrine)に参着
社号標には「延喜式内 穴澤天神社」と刻まれ 鳥居が建ちます 一礼をして鳥居をくぐると 境内には参拝者の沢山の車があり ああ下から参道で上がれるのだなと知りました
境内にある社務所に大勢の方が集まり打ち合わせをされていました ああ先程の車は この方たちの車だと どうやら節分祭の打ち合わせのようです
社務所の横には 「神輿庫が」あり扉は開いていました 「獅子舞・筆塚」の案内板などもあります
拝殿にすすみます 「穴澤天神社」の提灯 新しい真一文字の注連縄が掛けられていて 扁額には金文字で「穴澤天神社」と彫られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一の鳥居は 表参道の階段下にありましたが
何故か この時 読売ジャイアンツ球場を見てみたくなって 再び 山を登って参道昇降口に戻ってしまいました 下にある筈の 穴澤の名の由来となる 洞穴と霊水には行かず
参道昇降口より振り返り一礼
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『巡礼旧神祠記(じゅんれいきゅうかみほこらき)』〈著者:下總國相馬郡 蛟蝄神社 神職 宮田泰好 宝暦十四年(1764)〉に記される伝承
下総国相馬郡の蛟蝄神社の神職 宮田泰好が 関東・奥羽・甲斐・駿遠諸国の式社を巡拝し 自序の巡拝記「巡礼旧神祠記」を著しているなかで
式内社 穴澤天神社について 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮〈現 谷保天満宮(国立市谷保)〉であると記しています
【抜粋意訳】
巡礼旧神祠記 第一 武蔵國式内社 多磨郡八座 並小
穴沢天満宮 穴澤(アナサハノ)天神社
祭神 未考
同郡 府中領谷保村 別當 安楽寺
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
穴澤天神社(稲城市矢野口)を延喜式内社に比定しています
【意訳】
穴澤(アナサハ)天神社
惣風〈惣国風土記〉 天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭
□少彦名神也 地考 當郡 向ガ丘のほとり 小沢の原に洞の如なる深潤あり 長さ1里に近し 潤水湧き出して 玉川〈多摩川〉に落ちるままに谷口天神と云へる古祠あり 古木多し 父老に問うに ここを穴澤と云うよし云へる洞口に臨めば 深慮いうべからず これ穴澤神社疑いべかす
〇土人云う 菅村にこの社あり 故ありて溝村口村氏神とす 当村 今 橘樹郡に属すと云えり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています 三田領の 棚澤天神 及び 氷川村羽黒権現相殿に祀れる天神なども論社とされていると記しています
【意訳】
巻之95 多摩郡之7 府中領 矢野口村の条
穴澤天神社
除地 凡六千三百坪 村の巽 城山の中腹にあり 天満宮を相殿とす
延喜式神名帳 当郡 小社八座の内 穴澤天神社といへるは 則 この社なりと云
風土記 爾布田郷の下に云 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭少彦名神也と これによりてみれば 則 この地 もとは布田郷に属せし所にて 後世 川流の變遜なとありてより 分割して別村となりたるが、 又 祭神も少彦名命なるを 天神の号より 後人あやまり覚えて 妄に社を尊くせんがために 天満宮を配し祀りて 今は鳥居も天満宮の扁額あるに至れり
又 何者か縁起をつくりて云 鎌倉右大将頼朝の時 稲毛三郎重成 当国 小澤七郷を領せし比 此地にすめる農夫の子 十二三歳の童俄に狂気を起し 口はしりて云 此山に一社を建て天満天神を祀らば 百日の間に験あらんと よりて正冶元年七月五日 農夫こぞりて一社を草建せしかば やがて水溢して玉川の瀬五町ほと北へ移りけると これよりさき玉川此山の麓を流れて 里人のすめるあたりもいとせばく便あしかりしば ここに於て若干の平地出来しかば 其まま水田をひらき 村内さかへけり
かの童子が 子孫梅元坊とて 別当寺なりしが 遥の後 地頭加藤太郎左衛門の時 かの梅元坊掃部といひしものに 屋敷をあたへしとて その旧地 山の麓に残れりと云々
又 口碑に傳へたるは 昔の神体はいつの比か紛失して 今の神体とする所は後に作りしものなりと云 されどもこれも左まで近きものともみへず その図右の如し
又 天満宮像も別当所にあり これは後世 渡唐の天神と称するものなり かかることの誤より 式内の神と云ことも おのづから世にしらざるやうになり行し故にや 三田領 棚澤天神 及び 氷川村羽黒権現相殿に祀れる天神など いづれも 式内 穴澤天神なりと云説あるに至れり
棚澤村のは 穴澤を誤りて後に棚澤とし 氷川村のは社の邊に足澤と云地名あるより これもあなざはを唱あやまりしなどといへども うけがたし 猶かの二村 神社の條と照し見るべし
その社を穴澤と号することは さたかなる傳へもあらざれど 里人のいふ所は 社前の坂を下りて清水あり その向なる山の切岸に穴あり 今は正面に白蛇の形を安し 穴の口に大黒・毘沙門二天の像あり
此穴 春より秋までは草木おひしけりて入ことあたはすと也 穴の前なる清水は近郷百村の境大夫谷土と云 高岸の崩れたる所より涌出して 谷川となり ここへ流れ来ると云 穴澤の号はこれよりおこりしならんと
本社 宮造にて覆屋二間半に三間西向なり 例祭七月廿五日
拝殿 二間に二間半。
鳥居 石にて作る両柱の間八尺
【原文参照】
『江戸名所図会(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
矢野口村の鎮守 延喜式神名帳所載の多摩郡8座の穴澤天神社に比定して 神社は丘の中腹に鎮座し その麓に巌窟があって その前に清水が流れているので「穴澤」の名の由来だと 昔の巌窟は崩れ 現在の洞窟は新たに掘ったものだと記しています
【意訳】
穴澤天神社(あなさわてんしんのやしろ)
谷口邑(やのくちむら)威光寺(いこうじ)より 東北の方3町斗を隔てて 同じ往還 右の方 小道を入りてあり 社(やしろ)は山の中腹にありて この辺を小澤(こさは)の原と唱える 今 祭神詳らかならず 後世に菅神を合祭せり 祭礼は7月25日なり 又 同日 神楽を修行(しゅうきゅう)し 9月25日に獅子舞を奥行(こうきゅう)す 別當は真言宗にて威光寺と号す
延喜式神名帳曰 武蔵國 多摩郡 穴澤天神社 云
谷之口(やのくち)穴澤天神社(あなさわてんしんのやしろ)
この辺傍らを小澤の原(おさはのはら)と号し
当社の陵の山頂は小澤これ 重政の住まいし城跡なり
文明の頃も金子棒部助 この城に云々武蔵國風土記残編曰 武蔵國 多摩郡 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭少彦名神也 云々
当社の麓を潤水流ありき 多麻川に合せ その流れを隔てて山岨に一つの巌窟(がんくつ)あり 故に穴澤(あなさわ)の名あり 昔 巌洞(がんどう)は崩れたりとて 今 新に掘穿(ほりうが)ちる洞穴(ほらあな)ありて 洞口は1幅にして 内は2つに分けてあり 内に神仏の石像を造立す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています
【意訳】
穴澤天神社
穴澤は 阿奈佐波と訓ずべし
〇祭神 少彦名命 風土記
〇矢野口村に在す 地名記
〇惣国風土記 七十七残缺云 武蔵國 多摩郡 穴澤天神 圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭 少彦名神也土人云 菅村にこの社あり 故ありて隣村 村の氏神とす 今 橘樹郡に属す
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています
【意訳】
穴澤天神社
祭日 9月15日
社格 郷社
所在 矢野口村(南多摩郡稲城村大字矢野口)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
矢野口村の穴澤天神を延喜式内社と比定しています
【意訳】
東京都 武蔵國 南多摩郡 稲城村 大字 矢野口 字小澤峯
郷社 穴澤(アナサハノ)神社
祭神 少彦名(スクナヒコナノ)命
勧請年代詳らかならずと雖も
式の神名帳に 穴澤天神社とあるは 当社なりといふ新編武蔵風土記稿に拠るに「除地 凡六千三百坪 村の巽 城山の中腹にあり 多摩名所図会 今 穴澤天神は社地90間に70間餘 白田二段餘 別當威光寺 新義真言宗」と見ゆ
惣国風土記 残缺云「圭田三十六束 三毛田 考安天皇四年壬辰三月 所祭 少彦名神也」とあり 後人あやまりて 妄に社を尊くせんがために 天満宮と称す
又 何者か縁起をつくりて云 頼朝の時 稲毛三郎重成 当国 小澤七郷を領せし比 一童の俄に狂気し 口はしりて云 此山に一社を建て天満天神を祀らば 百日の間に験あらんと よりて正冶元年7月一社を創建せり云々 新編武蔵風土記明治6年11月 郷社に列す
社殿は 本殿 拝殿を具え 境内438坪あり境内社 稲荷神社 山王神
【原文参照】
穴澤天神社(Anasawaten Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について