天津神社(あまつじんじゃ)・奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)は ・天神を祀る「天津神社」・国津神を祀る「奴奈川神社」が すぐ横に並んで祀られています 鎮座している土地は 富山県との境に位置する新潟県最西端の糸魚川市です 縄文期よりのヒスイの産地として名高い地です 翡翠は古代は「玉」とされて大変貴重な神器でありました 「奴奈川神社」では ヒスイの神「奴奈川姫命(nunakawa hime no mikoto)」を祀ります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
天津神社・奴奈川神社(amatsu shrine)(nunakaha shrine)
[読 み (How to read)]
(あまつじんじゃ)(ぬなかわじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
新潟県糸魚川市一の宮1-3-34
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
・「天津神社」
《主》中央 天津彦々火瓊々杵尊 (amatsu hikohikohoninigi no mikoto)
右が 太玉命 (futodama no mikoto)
左が 天児屋根命 (ameno koyane no mikoto)
《合》表筒男命(uwatsutsunonomikoto)
中筒男命(nakatsutsunonomikoto)
底筒男命(sokotsutsunonomikoto)
・「奴奈川神社」
《主》奴奈川姫命(nunakawa hime no mikoto)
《配》八千矛神(yachihoko no kami)
【御神格 (God's great power)】
・病気平癒 God cures the disease
・地域安全 Local safety
・地域振興 Regional promotion
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 越後国一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
天津神社は、
第12代景行天皇の御代の創設にして第36代孝徳天皇の勅願所と寛文2年 (1662) 改築の拝殿(5間×7間)棟木に記されている。尚幣殿 (3間×3間) が天明2年 (1782) に増築されている。並んで祀る奴奈川神社は
延喜武内社頸城十三座の一社であり、併せてこの地方の大社である。公式HPより
【由 緒 (history)】
説 明
神社名 天津神社 一ノ宮と俗稱す
祭 神 瓊々杵尊 天児屋根命 天太玉命
境内別に奴奈川神社あり奴奈川媛命 八千矛命を祀る
鎮座地 新潟縣西頸城郡糸魚川町大字一ノ宮人皇第12代景行天皇の御宇の創設に係り
人皇第36代孝徳天皇の勅願所たりと云ひ傳へ
延喜式内社の一ならむと推稱せらる社殿はもと山崎の地に在りしを山崩れのため 此の地に移し造營したりと傳ふ
此の地方は往昔沼川郷と稱し 奴奈川媛命の棲みましし處 八千矛命が遠く海を渡りて 此の地に上陸せられ媛と契らせ給へりと云ふ史實と御二方の間に生れましし建御名方命が 姫川の渓谷を辿りて信濃路へ進ませられ遠近を開拓統治し給へりと云ふ傳説とに徴すれば 此の地は神代に於て 國津神の威武を内外に發揚し給へる重要なる基地たりしを想察するに足るただ神社名が天津神社と呼ばれ 境内別に奴奈川神社の存するは 後世天神地祇其の處を換へたるに依るならむか
女神像四體 掛佛 古面 舞楽装束等を秘蔵す
春季大祭は4月10日(昔は3月10日)
秋季例祭は10月24日(昔は10月10日)執行せらる。
大祭に神輿渡御の盛儀あり壮観多く匹傳を見ず舞楽十二曲あり俗に「ちごの舞」と稱し 大祭當日 演舞せらる百花繚乱の候婉麗優美千古雅趣を帯ぶる舞楽を豪壮極りなき神事の後に拝するは 對照の妙正に一大奇観にして古来名物祭の名を檀にしたる所以も亦茲に存するか
陵王 大納蘇利 拔頭 能拔頭の舞面は明治11年9月明治天皇の北陸御巡幸に際し行在所に於て天覧に供したり
神社は藩政當時 朱印一百石を寄進せらる
大正7年郷社に列せられ昭和18年3月縣社に列せらる昭和20年7月 天津神社社務所
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
天津神社の末社
・子之聖社(nenohijiri sha)
《主》祭神不詳
・忠魂碑 《主》護国の英霊
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
天津神社・奴奈川神社の双方が おのおの延喜式神社の論社となっています
・奴奈川神社(nunakaha shrine)は
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後国 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 奴奈川神社
[ふ り が な ] (ぬなかはの かみのやしろ)
[How to read ](nunakaha no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
・天津神社(amatsu shrine)は
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後国 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 大神社
[ふ り が な ] (おほの かみのやしろ)
[How to read ](oho no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
古代「高志国」は「ヒスイの勾玉」の国として栄えていたと云われています
天津神社・奴奈川神社(糸魚川市)は 富山県との境に位置する新潟県最西端の糸魚川市に鎮座しています
糸魚川市では 最上品といわれる翡翠(hisui)の産地として姫川が有名です
万葉集の時代には奴奈川(沼名川)とよばれていました 又 翡翠(hisui)は 不老長生の霊(tama)と考えられていました
5000年以上前の縄文時代の遺跡からは 日本列島での最古の石の装飾品として 楕円形の翡翠製品が出土していて
古代祭祀では 必要不可欠の装飾品として「翡翠(hisui)の勾玉(maga tama)」が 奴奈川で採取・加工された高度な文明があったとされています
古代「高志国」が「翡翠(hisui)文化発祥の地」とされています
古代の大和朝廷にとっても 祭祀を司る上で重要な地であったことでしょう
第12代景行天皇の御代に 新たに天津神社が創設されたことも興味深い現象です
「姫川」の名の由来について
「姫川」の名の由来は 奴奈川神社(nunakaha shrine)の御祭神「奴奈川姫命(nunakawa hime no mikoto)」から来ていて 姫は ヒスイの国「高志国」の巫女姫とされています
国土交通省HPには「姫川」の名の由来について記されています
(1) 姫川の名の由来
「古事記」や「出雲風土記」などの古代文献に、高志国(現在の福井県から新潟県)の姫として登場する「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」に、出雲国(今の島根県)の大国主命(おおくにぬしのみこと)が求婚しに来たという神話が残されており、その際に、ヒスイが使われるなど、古い歴史を持っている。この奴奈川姫が姫川の由来とされている。
「姫川水系の流域及び河川の概要 (案) - 国土交通省www.mlit.go.jp › river › kihonhoushin › pdf › ref1-1」
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
糸魚川駅から 約800m 徒歩11分程度
市役所の側から 参道を進みます 天津神社の案内があり 境内が見えてきます
天津神社・奴奈川神社(amatsu shrine)(nunakaha shrine)に到着
弁天池横の石造りの御神橋を渡ります
参道には 石灯篭と鳥居が建ちます
一礼して鳥居をくぐります
左手に手水舎があり お清めをします
弁天池に浮かぶ小島には弁天社が見えます
参道には 鋳物の燈籠があります
続いて由緒書きの案内板があり 読み耽ります
参道の正面に社務所があり ここで参道は左に折れています
広い境内地へ出ます 拝殿の正面に楼門かと思うような朱色の建物があり そちらが正門かと思い向かいます
朱色の建物の標号柱に「衣紋所」とあります
すぐ横に鳥居がありましたので くぐり出てみると 駐車場側からの参拝口となっているようです
再び 鳥居をくぐり 境内に戻ります
楽屋と呼ばれる建屋と石舞台が 拝殿方向に延びています
この石舞台では 舞楽「稚児の舞」(国の重要無形民俗文化財)が 毎年4月の春大祭にて奉納されるそうです
幣殿拝殿は 珍しい茅葺屋根です
幣殿拝殿にすすみます 幣殿拝殿内には「天津社」「奴奈川神社」「住吉」などの扁額が掛かっています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の裏手は 一段高い境内地になっていて 玉垣に囲まれて本殿が建ちます
拝殿裏手には「天津神社」「奴奈川神社」の本殿が並び建ちます
拝殿の背後
向かって左手に建つのが「奴奈川神社」本殿
向かって右手に建つのが「天津神社」 本殿となります
その右脇に 天津神社の末社
・子之聖社(nenohijiri sha)
《主》祭神不詳 お詣りします
子聖社の横には 石祠が多数坐ます
境内の右手 藤棚の奥に社務所 兼 宮司宅があり ここで御朱印を頂戴します
境内にもどります 幣殿拝殿を左右から拝します
境内を後にします
参道を戻り 鳥居をくぐり振り返り一礼
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(kojiki)』にある「八千矛神(yachihoko no kami)の妻問い歌」の伝承
『古事記(kojiki)』大国主命の神話の段では 八千矛神(大国主命)が 高志国に出向き 美しいと評判だった 御祭神の「奴奈川姫命(nunakawa hime no mikoto)」に求婚し 結ばれるシーンが 歌によって描かれています
出雲が 貴重なヒスイの産地を婚姻関係によって勢力下にしていく事がえかがれています
『八千矛神(大国主命)と奴奈川姫の神語~永遠に輝け愛と和の中に』(作:川崎日香浬氏)
意訳
「 この八千矛神(yachihoko no kami)は 高志の国の沼河比売(nunakawa hime)と結婚しようとして お出ましなられた時に
その沼河比売の家に到着して 歌って仰ることには
八千矛の神の命は 八島国の中には 妻とするに相応しい女神を得ることが出来なくて
八島国の果てにある遠い遠い高志の国に 聡明で美しい女神が居るとお聞きになられて 繊細で麗しい女神が居るとお聞きになられて 求婚に出発なさって求婚のためにお着きになって 腰に帯びる大刀の緒も まだほどかないうちに 上着もまだ脱がないけれども 女神の寝ている家の板の戸を 押しながら私が立っていらっしゃると 引こうとして
私が立っていらっしゃると(戸が開かないうちに)
青々とした山の方で 鵼が鳴いた
山の麓の野原で 雉の声が響き渡った
家の庭の鳥も鳴き始めた“ 憎たらしくも 声を出して鳴く鳥だ この鳥は 撃ち殺してしまえ“
空を飛ぶ使いの鳥の古くからの事の語り言は この通りでありますそうして その沼河日売は 依然として戸を開けないで 家の中から歌っていうことには
“ 八千矛の神の命よ 私は萎え草のような女の身ですので 私の心は(潮が満ちれば そこから飛び立たざるを得ないのです)海辺の州に居る鳥のようなものです
今でこそ自分の鳥ですが 後には貴方の鳥になるものですのに(鳥たちを)殺しなさいますな “空を飛ぶ使いの鳥の古くからの事の語り言は この通りであります
“ 青山に 日が隠れたならば(ぬばたまの)夜がやってくるでしょう
(そうすれば)朝日のように笑みをたたえてお出でになって 栲(こうぞ)綱のような白い腕を 沫雪のような若々しく柔らかな胸を そっと叩いて 叩いて愛しがり 玉のような手を 玉手をさし交わして枕にして 股を長く伸ばして 共寝をしましょうものを むやみに 恋い申し上げなさいますな 八千矛の神の命よ “古くからの語り言も この通りであります
そうして その夜は婚姻せずに 翌日の夜に御婚姻なされました 」
【原文参照】『古事記』刊本 ,明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『万葉集(manyo shu)』巻第13-3247 作者未詳
万葉集の時代には 姫川は奴奈川(沼名川)とよばれ 翡翠は 不老長生の霊(tama)と考えられていたと云われています
歌の沼名川は 現在の新潟県の姫川をさし 歌の「玉」は翡翠であろうと考えられています
読み
沼名河(ぬなかわ)の底なる玉 求めて得し玉かも
拾(ひり)いて得し玉かも あたらしき君が
老ゆらく惜しも
意訳
沼名河の深い川底にある玉 これが探し求めてやっと得た玉なのです
これは 拾い求めてやっと得た玉なのです
これは この大切な玉のようにかけがえなく尊い君
その我が君が老いてゆかれるのは 何ともせつないことです
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 ,寛永20年 ~ ,寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
奴奈川姫(nunakawa hime)の伝説について
糸魚川市のHPから抜粋引用します
奴奈川姫伝説その2(『天津神社 並 奴奈川神社』より)
1.西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現(ごんげん)とも云う、此(こ)の神こゝにて布を織り其(その)川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。
此神の御歌に
ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣 と。2.黒姫山の半腹に福来口(ふくがくち)と称する洞穴あり、洞口高百五十尺、横七十尺、遠く之(これ)を望めば門扉を開くに似たり、水洞中より出で流れて川となる即ち布川の水源なり、古昔奴奈川姫命の布を織りし所なり。福来口は蓋(けだ)し夫来ヶ口ならんと。
3.西頚城郡に姫川と云ふ川あり、糸魚川と云ふ町にあり、糸魚川はもと厭川と書きしと云ふ。之れ奴奈川姫命が今日の姫川を渡りなやませたまひてかく呼びたまひしによると。
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。
即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。5.奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずして つひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。
しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。
仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。
しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。6.根知谷上野村に御所と呼ぶ所あり、小高く土を盛り、四方を切石にて囲む、之れ奴奈川姫命宮居の跡なりと。
7.根知谷に上澤、大神堂(だいじんどう)の二ヶ所あり。上澤はもと神澤、大神堂はもと大神道と書きしが明治六年地権の際現在の如く改めしなり。いづれも大国主命と奴奈川姫命とに関係ある史跡ならんと土人云ひ伝ふ。
8.根知谷山口山にジンゾウ屋敷と呼ぶ所あり、之れ往昔奴奈川姫命の従者の住居せし跡にして、同谷山寺日吉神社裏山に奴奈川姫命の神剣埋めありと。
9.根知谷別所(べっしょ)山に牛の爪の痕(あと)の三つ刻まれある岩と、馬の足跡の一つ刻まれたる岩とあり。
昔奴奈川姫命に懸想したる土地の神が大国主命の来りたまひて姫を娶(めと)らんとしたまひしを憤り、大国主命の宮居へあばれ込み、論争の結果、山の高所より跳びくらべをなし勝ちしもの姫を得ることにせんと約す。
即ち土地の神は黒き青毛の駒に跨(またが)り、大国主命は牛に乗り給ひて、駒ヶ岳の絶頂に立つ。茲(ここ)に於(おい)て先づ土地の神馬に鞭をあててその絶頂より飛びしにかの馬の爪痕の残れる別所の一角に達す。
次に大国主命 牛をはげまして飛びたまひしに、不思議にも馬の達せしところより二三町先なる地点に達したまふ。之れ今日なほ牛の爪痕の残れる岩のあるところなり。
然るに土地の神この結果を見て更に大に憤り、今一度勝敗を争はん事を求む。大国主命快く諾ひたまふ。
仍て土地の神先づ憤激にまかせて、馬を飛ばせしが、天なる神の咎(とが)めやありけむ、僅(わず)かに駒ヶ岳の中腹に達せしのみにて、しかも馬毫(わずか)も動かず、そのまま石に化し了(おわ)る。
今なほ駒ヶ岳の中腹に馬の形をしたる岩石ありありと見ゆ、即ち之れなり。
而して此の馬、石と化してもなほ時候の変り目などには折々寝返りをなすとは今日尚ほ土俗の信ずるところなり。10.姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。
11.長野県北安曇郡此小谷村に中又と呼ぶところあり、ここにて奴奈川姫命建御名方神奴奈川姫二柱なり。
12.姫川の上流姫ヶ淵の付近にコウカイ原と云ふところあり、ここにて奴奈川姫命その御子建御名方神と別れたまひしところなりと。
13.糸魚川の地方にては毎朝鶏鳴(けいめい)を待ちて一同起き出で屋内、門前等の掃除をなす、此は奴奈川姫の古事によりて今に替らず、これ当国中に曽(かつ)て見得ざる所なりとは越後風俗志の誌(しる)すところより。
糸魚川市の公式HP「歴史 奴奈川姫の伝説」より
富山県との境に位置する新潟県最西端の糸魚川市に鎮座しています 天神を祀る「天津神社」と国津神を祀る「奴奈川神社」が並んで祀られています 縄文期よりのヒスイの神を祀ります
天津神社・奴奈川神社(amatsu shrine)(nunakaha shrine)
に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう
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越後国 式内社 56座(大1座・小55座)について に戻る
越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
越後國(えちごのくに)の 式内社 56座(大1座・小55座)について