天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天手長比売神社跡(Amanotanagahime shrine Ruins)
[通称名(Common name)]
幡ノ宮(はたのみや)
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触877
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神の五柱の女神》は 天手長男神社に合祀〈1965年〉されました
・栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
・稚日女命(わかひるめのみこと)
・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
・玉依姫命(たまよりひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・安産祈願、夫婦円満、延命長寿
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の跡地
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内 名神大社にして 神功皇后摂政二年の創建にして
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑 官社に列せらる『壱岐国神社誌』〈昭和16年(1941)〉より
※ 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の以前は 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた
【由 緒 (History)】
郷ノ浦町指定文化財・史跡
村社 天手長比売神社跡
(そんしや あまのたながひめじんじゃあと)指定年月日 平成12年10月1日
所 在 地 壱岐郡郷ノ浦町田中触877番地
所 有 者 天手長男神社
天手長比売神社は『延喜式神名帳』登載がある名神大社である。
祭神は・栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと) ・稚日女命(わかひるめのみこと)・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)の五神である。
式内社は壱岐郡内に24座が鎮座し、そのうち郷ノ浦町に10座が鎮座する。
昭和40年(1965)に天手長男神社に合祀した。
指定面積 2155㎡
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)
天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)施行の養老律令(ようろうりつりょう)の施行細則(しこうさいそく)を集大成した法典を『延喜式』といい、延喜五年(905)、醍醐(だいご)天皇の命により藤原時平(ふじわらのときひら)らが編纂(へんさん)を開始し、康保(こうほう)四年(967)施行した。
第九・十巻には、全国 五畿七道(ごきしちどう)・国郡別の3132座の神名が記されていることから、これらの巻を「延喜式神名帳」という。「延喜式神名帳」に登載された神社を「延喜式内社」略して「式内社」といい、壱岐には24座あり、由緒高い神社である。平成十四年十月 郷ノ浦町教育委員会
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
天手長男神 天手長比咩神の両神を 官社に列しています
【抜粋意訳】
巻二 嘉祥三年(八五〇)十月丁卯〈廿三日〉の条
○丁卯
屈七十僧於東宮。轉讀大般若經。別請七僧於清凉殿。修法印呪。並限三日。爲國祈也。詔以テ 壹岐嶋 天ノ手長男 天ノ手長比咩 兩神ヲ 列ス於官社ニ
〈詔を以て 壹岐嶋(いきのしま)天手長男(あまのたなかを)天手長比咩(あまのたなかひめ)の両神(もろかみ)を 官社に列す〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神ノ祭 二百八十五座
・・・
・・・天手長男 (あまのたなかをの) 神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐嶋・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)は 二つの式内社の論社になっています
①壱岐郡 手長比賣神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐嶋 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱岐郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 手長比賣神社
[ふ り が な ](てなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tenakahime no kamino yashiro)
【原文参照】
➁石田郡 天手長比賣神社(名神大)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐嶋 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 天手長比賣神社(名神大)
[ふ り が な ](あまのたなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanotanakahime no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)は 二つの式内社の論社です
①壱岐郡 手長比賣神社(てなかひめの かみのやしろ)
・手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
・聖母宮(壱岐市勝本町)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
➁石田郡 天手長比賣神社(名神大)(あめのたなかひめの かみのやしろ)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
天手長男神社の一の鳥居から 南へ200m程です
ちょうど 田んぼの中央に石燈籠が建っていて そのずっと先に鳥居が見えています
それに向かって進むと 案内板に「天手長比売神社跡」と書かれています
田の中の道の先に 先程の鳥居が見えますので 天手長比売神社跡だとわかります
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)に参着
境内鳥居は北を向いて建ちますが 南を背にしているので逆光になっているためか しかも南側に木々が茂り 木漏れ日を受けての参拝となり 古く苔むした かつ立派石灯篭と鳥居があり 静けさもあいまって 神々しく厳かな感覚に陥ります
遷座して50年以上が経過しているのに 注連縄が祀られているのを見ると 祀られる神は ここに鎮座されているのでしょう
鳥居の扁額には 天手長比賣神社 と刻されています
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上がります
石段の上がりきると 参道の先には社殿はなく 基壇のみが残存していて 神社の跡であることがわかります
お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社頭の立派な石燈籠の装飾は 一風変わっていて 燈籠の頭には 逆立ちをした狛犬のような彫物があります
その狛犬らしき彫物のすぐ下には 同じ石に扁額が刻まれていて 文字が彫られています「天手長比賣神社 天手長男神社」とあります
これは二社で一対を為す意味なのでしょうか
南を向い鎮座する 天手長男神社 と 北を向いて鎮座する 天手長比賣神社は 向き合っているかのようです
跡地に一礼をして 参道石段を下りると
天手長比賣神社の鳥居の先には 天手長男神社の鎮座する鉢形嶺(はちがたみね)と呼ばれる丘陵が正面に見えます
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)の記事をご覧ください
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 壱岐郡 手長比賣神社の祭神は 手長比賣神
式内社 石田郡 天手長比賣神社の所在は 物部村
と記しています
【抜粋意訳】
壱岐郡 手長比賣神社
手長は多奈賀と訓べし、比賣は假字也
〇祭神明らかなり 考証 大食都姫 式内考 栲幡千千姫命といふ 共に今従わず〇本宮村に在す
〇当国 石田郡 天手長比賣神社あり石田郡 天手長比賣神社
天手長は前に同じ、比賣は假字なり
〇祭神明らかなり 頭注云 思兼命子なり〇考證 式社考 前に同じ 今従わず
〇物部村 元名 深江村と云う に在す、今 八幡宮と称す 式社考
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 壱岐島 天手長比賣神社一座官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長比賣神 列於官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
①式内社 壱岐郡 手長比賣神社の所在について
本宮村〈現 手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)〉であるとした 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉には 疑問があり
論社として 有力な別説として 勝本浦〈現 聖母宮(壱岐市勝本町)〉と記しています
➁式内社 石田郡 天手長比賣神社について
所在を物部邑であるとした 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉には 疑問があり
論社として 有力な別説として 天手長比賣神社は 国分村〈現 國片主神社(壱岐市芦辺町)〉と記しています
【抜粋意訳】
壱岐郡 手長比賣神社
祭神 栲幡千千姫命
天押穂耳命祭日 九月二十九日
社格 (無社格)
所在 本宮村(壱岐郡鯨伏村本宮)
今按〈今考えるに〉
神社考に 本宮巴崩の山神の地名タナカウと云によりて延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に手長と思ひて式内社としつれと農人 種子籾なかす河なるより 種子河と云るなれば 手長社に由なし
手長比賣神社は 勝本浦 聖母大明神ならんと云り
然るに 式社沿革考に 勝本浦なるは中津神社にて手長社にあらず 手長比賣神社は 承應社記に中通とある如く 郡は異なれども物部邑中通の神社なるへしと云り 姑附て考に備ふ石田郡 天手長比賣神社(名神大)
祭神
今按〈今考えるに〉
本社祭神 旧説に神功皇后とあるを延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に 栲幡千千姫命 稚日女尊 木花開耶姫 豊玉姫命 玉依姫命を祭れりとるは 神社考に物部邑 五所姫大明神幡宮を当社なりとし 姫大明神と称するを以て 栲幡千千姫命なと云るならんと云るが如くなるべし 又 同書に毎年 住吉神社 軍越の神事に当社に幣帛を納め神酒を献じ社邊にて 異国降伏の開肇を挙れば 神功皇后に拠ある歟とあれど 其祭式によりて皇后を祭ると云るも信じがたし故 今 式文によりて記せり
官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長比賣神 列於官社祭日 九月十三日
社格 村社所在
今按〈今考えるに〉
式社沿革考に 承應記に当社を国分村と記せしや正しからむ
然らば 村の宋社 国片主神社の近き所に古 国分明神と云るあり 是 当社の旧社地にして 今の国片主神社に遷座し奉れるかと云れど 証拠明らかならねば従がたし
【原文参照】
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について