天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)は 杉尾山(標高120m)の上に鎮座し 杉尾大明神と呼称されていました 明治3年(1870)に現号に改称していますが 地元では今でも「杉尾さん」と呼ばれて親しまれています 阿波一之宮とされる式内社「天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)」の論社でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天石門別八倉比賣神社(Amanoiwatowake Yakurahime Shrine)
(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)
[通称名(Common name)]
杉尾さん(すぎおさん)
【鎮座地 (Location) 】
徳島県徳島市国府町矢野宮谷531
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大日靈女命(Ohohirume no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(大社)
・ 阿波国一之宮(Awa no kuni ichinomiya)論社
【創 建 (Beginning of history)】
・創建の年代不詳
【由 緒 (History)】
天石門別八倉比賣神社 略記
式内 正一位 八倉比賣神宮
御祭神 大日孁女命(おおひるめのみこと)(別名 天照大神)
御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和8年(841)8月に正5位下を授けられ、清和天皇貞観13年(871)2月26日に従4位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)3月3日 正1位となる。御神紋 抱き柏。
当社は鎮座(ちんざ)される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は 海抜116米、丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)の柄鏡状(えかがみじよう)に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積(こぐちづみ)で築かれている。青石の祠(ほこら)に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚(ばいちょう)を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(きのべやま)(山頂海抜212米)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当 八倉比賣大神御本記(やくらひめのおおかみごほんき)の古文書(こもんじょ)は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導 伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長 大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたかみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)が記され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合(しゅうごう)を示していた。古代学者 折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
当社より下付する神符(かみふだ)には、「火付(ひぶ)せ八倉比賣神宮(やくらひめじんぐう)」と明記。
鎮座の年代は、詳(つまびら)かではないが、安永2年2月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷(いせん)、杉尾山に鎮座してより2105年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。
矢野神山(やのかみやま) 奉納古歌
妻隠(つまごも)る矢野の神山露霜(つゆしも)に にほひそめたり散巻(ちらまく)く惜(お)しも
柿本人麿(かきのもとひとま)(萬葉集収録)
当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某(いずものすくねせんけなにがし)の謹書(きんしょ)になる浮彫金箔(うきぼりきんぱく)張りの「八倉比賣神宮」の遍額(へんがく)が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々 八倉比賣神宮と尊崇(そんすう)してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田(わだ)、早渕(はやぶち)の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお本殿より西北5丁余に5角の天乃真名井(あまのまない)がある。元文年間(1736-41)まで 12段の神饌田(しんせんでん)の泉であった。現在 大泉神(おおいずみのかみ)として祀(まつ)っている。
当 祭神(さいじん)が、日本中の大典(たいてん)であったことは阿波国徴古雑抄(あわこくちょうこぎしょう)の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符(だじょうかんぶ)で、八倉比賣神の「祈年月次祭(きねんつきなめさい)は邦国之大典(ほうこくのたいてん)也(なり)」 として奉幣(ほうへい)を怠(おこた)った阿波 国司(こくし)をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得(かんとく)され、日本一社 矢野神山の実感が迫ってくるのである。
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・松熊神社《主》手力男命 天鈿女命
・箭執神社《主》櫛岩窓命 豊岩窓命
・地神社《主》天照大神 少名彦名命 倉稲魂命 大己貴命 埴安姫命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
当神社は3つの式内社の論社になっています
①神社の社伝によれば
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波国 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名方郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)
[ふ り が な ](あまのいわとわけ やくらひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanoiwatowake Yakurahime no Kamino yashiro)
➁式社略考によれば
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波国 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名方郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 麻能等比古神社
[ふ り が な ](まのとひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Manotohiko no kamino yashiro)
➂特選神名牒・地名辞書による一説によれば
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波国 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名方郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天石門別豊玉比賣神社
[ふ り が な ](あまのいわとわけ とよたまひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanoiwatowake toyotamahime no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の 3つの式内社の論社をすべてご紹介します
①「阿波國 名方郡 天石門別八倉比賣神社 大 月次新嘗」の論社について
・天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)
天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)は 杉尾山(標高120m)の上に鎮座し 杉尾大明神と呼称されていました 明治3年(1870)に現号に改称していますが 地元では今でも「杉尾さん」と呼ばれて親しまれています 阿波一之宮とされる式内社「天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)」の論社でもあります
天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)〈阿波国一之宮〉
・一宮神社(徳島市)の元宮とされる 上一宮大粟神社(神山町)
上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は 御祭神として 古事記に記載されている゛大宜都比売命(おほげつひめのみこと)゛を祀ります 粟国(阿波)を開かれた祖神で 五穀養蚕の神として 古代から農耕を守り生命の糧を恵みむ神で 式内社 天石門別八倉比売(あめのいわとわけ やくらひめの)神社(大月次新嘗)の論社です
上一宮大粟神社(名西郡神山町神領字西上角)〈阿波国一之宮〉
・一宮神社(徳島市)
一宮神社(いちのみやじんじゃ)は 元々は阿波国一之宮であった上一宮大粟神社(名西郡神山町)の分祠として 平安時代後期に国府の近くであったこの地に下一宮として祀られて 阿波国一之宮とされていました しかし 室町時代以降は 細川氏の台頭とともに 大麻比古神社が阿波国一之宮となっていきます
一宮神社(徳島市一宮町西丁)〈阿波国一之宮〉
➁「阿波國 名方郡 麻能等比古神社」の論社について
・大麻比古神社(徳島市明神町)
・天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)
天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)は 杉尾山(標高120m)の上に鎮座し 杉尾大明神と呼称されていました 明治3年(1870)に現号に改称していますが 地元では今でも「杉尾さん」と呼ばれて親しまれています 阿波一之宮とされる式内社「天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)」の論社でもあります
天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)〈阿波国一之宮〉
➂「阿波國 名方郡 天石門別豊玉比賣神社」の論社について
・雨降神社(徳島市不動西町)
雨降神社(あまたらしじんじゃ)は 創建年代は不祥です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の 二つの式内社〈①天石門別豊玉比賣神社(あめのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)②和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)〉の論社です 近世では゛雨降大明神゛と称し 雨乞の霊験が伝わります
雨降神社(徳島市不動西町)〈延喜式神名帳所載 論社〉
・国瑞彦神社(徳島市伊賀町)
国瑞彦神社(くにたまひこじんじゃ)は 文化3年(1806)藩祖 家政公を偲び゛国瑞彦゛の神号を受け この地に奉祀 式内論社の境内社 龍王神社〈現在 廃社 本殿に合祀〉と゛もと徳島城城山に鎮座の竜王祠゛を合祀した時期もあり 式内社 天石門別豊玉比賣神社(あまのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)の論社とされます
國瑞彦神社(徳島市伊賀町)〈式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社〉
・豊玉比賣神社〈春日神社境内〉(徳島市眉山町)
春日神社は 慶長年間 藩祖 蜂須賀家政公が 渭の津に築城の際 名西郡入田の里より神霊を奉遷され創建 境内社 豊玉比賣神社(とよたまひめじんじゃ)は もと徳島城(城山)にあった゛竜王祠゛城の取り壊し時〈明治8年(1875)〉眉山麓にある国瑞彦神社に合祀 その後 ここに遷座された 式内社 天石門別豊玉比賣神社の論社です
春日神社& 境内社 豊玉比賣神社(徳島市眉山町)
・天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)
天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)は 杉尾山(標高120m)の上に鎮座し 杉尾大明神と呼称されていました 明治3年(1870)に現号に改称していますが 地元では今でも「杉尾さん」と呼ばれて親しまれています 阿波一之宮とされる式内社「天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)」の論社でもあります
天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)〈阿波国一之宮〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
徳島線 府中駅から R192号経由 南西へ約4km 車8分程度
一帯は「阿波史跡公園」として整備されて 三角縁神獣鏡が完全形で発掘された宮谷古墳 八倉比売神社1号・2号墳 奥谷古墳など約200基の古墳が点在する古墳群を形成しています
当社も古墳の上に鎮座しているとされます
杉尾山の麓には石畳の参道入り口があり 鳥居が建っています
天石門別八倉比賣神社(Amanoiwatowake Yakurahime Shrine)に参着
一礼をして 鳥居をくぐると 石畳の参道は 登坂になっていて 2連の鳥居が建ち雰囲気があります
鳥居の扁額には「天石門別八倉比賣神社」とあり 奥の石鳥居の前には 注連縄柱 石灯篭が建ち重層感があります この鳥居の右に社日碑があり 境内社として祀られています〈・地神社《主》天照大神 少名彦名命 倉稲魂命 大己貴命 埴安姫命〉鳥居の奥に鎮座しているのが境内社の・箭執神社《主》櫛岩窓命 豊岩窓命で 併せてお詣りをします
参道を進むと「阿波史跡公園」の入口と左に進むと神社への道の分岐点に出ます 正面の山が気延山だと思います
暫く道を進むと 長い石段が現れて 木の鳥居が建っています 一礼をして 石段を上がります
参道を上がると 境内地になっていて 手水舎の手水鉢には「洗心」と銘打たれています 清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後ろには 幣殿 本殿が建っていて 本殿は一段高い境内地に建てられています
社殿の向かって右手から 奥院への石段があります 5角形に平石を積み上げた上に祠が建っています 一説によれば この石積みが「邪馬台国の卑弥呼」の墓と云われますが 石積みは苔むしてもおらず 江戸期の構築物とされています しかし 古墳の上に神社はありますので真義は判りません
社殿に一礼をして 境内から参道石段を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(Shoku nihon koki)』〈貞観11年(869)完成〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【意訳】
承和8年(841)8月21日(戊午)の条
奉(タテマツ)り授(サズク)に
阿波国(アワノクニ)正8位上
天石門和気八倉比咩神(アマノイワトワケ ヤクラヒメノカミ)
対馬島(ツシマシマ)
無位 胡禄神(コロクノカミ)
無位 平神(タイラノカミ)
並(ナラビ)に 従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観7年(865)2月27日(己卯)の条
豊前国(ブゼンノクニ)従5位上
辛国息長比咩神 忍骨神 並に授く 従4位上阿波国(アワノクニ)正5位下
天石門和気八倉比咩神(アマノイワトワケ ヤクラヒメノカミ)に 従4位下
和泉国(イズミノクニ)従5位下 泉穴師神 従5位上
出羽国(デワノクニ)正6位上 城輪神 高泉神 並に 従5位下
【意訳】
貞観13年(871)2月26日(壬辰)の条
授(サズク)に
常陸国(ヒタチノクニ)正4位下 筑波男神 従3位
因幡国(イナバノクニ)従4位下 宇倍大神 正4位下
阿波国(アワノクニ) 従4位下
天石門和気八倉比咩神(アマノイワトワケ ヤクラヒメノカミ)に 従4位上
【意訳】
貞観16年(874)3月14日(癸酉)の条
授(サズク)に
因幡国(イナバノクニ)正4位上 宇倍神 従3位阿波国(アワノクニ) 従4位上
天石門和気八倉比咩神(アマノイワトワケ ヤクラヒメノカミ)に 正4位下河内国(カワチノクニ)正5位上 建水分神
下総国(シモフサノクニ)意富比神
上野国(コウズケノクニ)赤城神
阿波国(アワノクニ)葦稲葉神 並従4位下但馬国(タジマノクニ)正5位下 出石神 養父神 禾鹿神 並 正5位上
【意訳】
元慶3年(879)6月23日(壬午)の条
授(サズク)に
阿波国(アワノクニ)
正4位下
天石門別八倉比咩神(アマノイワトワケ ヤクラヒメノカミ)に 正4位上
従4位下 葦稲羽神 従4位上加賀国 正6位上 畔分堰神 垂比咩神 並 従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
所在は 矢野村に鎮座の〈天石門別八倉比賣神社〉と記しています
【意訳】
天石門別 八倉比賣(ヤクラヒメノ)神社 大 月次 新嘗
承和8年(841)8月21日(戊午)の条・・正8位上
貞観7年(865)2月27日(己卯)の条・・従4位下
貞観13年(871)2月26日(壬辰)の条 ・従4位上
貞観16年(874)3月14日(癸酉)の条 ・正4位下
元慶3年(879)6月23日(壬午)の条・・正4位上
〇精古按 長寛勘文 天慶3年2月1日 為正3位
旧事記 天照大神 入にて 天窟 云々 今 牛力雄神 云々 今 大宮賣神侍 於 御前如 今世内 侍善言美詞和君臣間令震襟悦
△矢野村にり
当国神社帳 名東郡佐那河内村 天磐戸別神社
〇信友云う 八倉棚の事可考
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
【抜粋意訳】
天石門別 八倉比賣 祠
延喜式為 大祀 月次 新嘗 並祀
在は 矢野神山 今称すに杉尾
昔の在は 東嶺 今移り 南麓々に有り大泉小泉 各祠あり 又 天石門と呼ぶ地有り 及び 神田者
続日本後紀 承和8年(841)8月21日(戊午)の条・・正8位上
三代実録 貞観7年(865)2月27日(己卯)の条・・従4位下
三代実録 貞観13年(871)2月26日(壬辰)の条 ・従4位上
三代実録 貞観16年(874)3月14日(癸酉)の条 ・正4位下
三代実録 元慶3年(879)6月23日(壬午)の条・・正4位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『阿波志』著者:佐野憲 文化12年(1815年)全12巻[旧蔵者]教部省 写本 ,明治
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002320&ID=M2018051415051134342&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
所在について 確かなことは不明であると 記しています
【意訳】
天石門別八倉比賣神社 大 月次 新嘗
天石門別は 阿米乃伊波止和気
八倉は 也久良と 訓ずべし
比賣は 仮字なり
〇祭神 明らかなり〇在所 慥(たしか)ならず
或いは云う 天野村にあり(郡東四の別をいわず)当国神社帳 名東郡佐那河内村 天磐戸別神社
神位
続日本後紀 承和8年(841)8月21日(戊午)の条・・正8位上
三代実録 貞観7年(865)2月27日(己卯)の条・・従4位下
三代実録 貞観13年(871)2月26日(壬辰)の条 ・従4位上
三代実録 貞観16年(874)3月14日(癸酉)の条 ・正4位下
三代実録 元慶3年(879)6月23日(壬午)の条・・正4位上
長寛勘文 天慶3年2月1日 正3位
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
所在について 様々に考慮すると 矢野村に鎮座の〈天石門別八倉比賣神社〉ではなく 神山町神領に鎮座の〈上一宮大粟神社〉を比定したと 記しています
【意訳】
天石門別八倉比賣神社 大 月次 新嘗
祭神
今 按〈考えるに〉
阿波志編料書上ヶ旧記に 祭神 大宜都比売命(オオゲツヒメノミコト)伊古那姫命(イコナヒメノミコト)大阿波姫命(オオアワヒメノミコト)の3神にて この神 粟(あわ)を作り初めたまう故(ゆえ)大粟姫命(オオアワヒノミコト)とも申し奉(たてまつ)るなり
御神系は 伊弉諾尊(イザナギノミコト)伊弉冉尊(イザナミノミコト)2柱の御神の御子(みこ)にて 伊予国(いよのくに)大三島にご鎮座 始めは伊勢国(いせのくに)丹生(にう)の内より神領村にご鎮座あり その後 鬼籠村にご鎮座ありと云えども 年暦 不分明云々
又 社伝に大阿波姫命(オオアワヒメノミコト)鹿に乗って 伊予国(いよのくに)大三島へ通はせたまう云々とありて3座なれど 実は大阿波姫命(オオアワヒメノミコト)主神にます事 社伝の趣(おもむき)にて知られるによりこれを考えるに大阿波姫命(オオアワヒメノミコト)は 式帳に伊豆加茂郡阿波神社に祭る阿波比咩命と同神にして 伊豆三島大神の本后にます神なる事 著し 然(しか)るに 帳に天石門別八倉比賣神とあれば 同じ神とも定めがたけれど由縁ある事なるべし 姑く附て考に備ふ
神位
仁明天皇 承和8年(841)8月21日(戊午)の条・・正8位上
清和天皇 貞観7年(865)2月27日(己卯)の条・・従4位下
清和天皇 貞観13年(871)2月26日(壬辰)の条 ・従4位上
清和天皇 貞観16年(874)3月14日(癸酉)の条 ・正4位下
陽成天皇 元慶3年(879)6月23日(壬午)の条・・正4位上
朱雀天皇 天慶3年2月1日 正3位所在
今 按〈考えるに〉
この神社の所在を 阿府志には 名西郡矢野村 杉尾宮なる由に記し
阿波志にも在 矢野神山 今称すに杉尾 昔の在は 東嶺 今移り 南麓々に有り大泉小泉 各祠あり 又 天石門と呼ぶ地有り 及び 神田者とみえたるは 矢野神山八倉比賣神社本記によれる説なれど この本記を見るに 後の人の古めかしく偽造せる文にて 八倉比賣神社の証とすべきものある事なきを 天保の初め矢野村の住森眞秀が依記によりて 出雲国造 俊信杉の小山記を作り件の本記に略注わ下し 紀伊本居太平が その序を書するものあるより 杉尾明神を実に八倉比咩神社と思う輩(やから)もありと聞こえたり
されど国人 永井精古か 式社略考には それを諾(うべに)はずして 今の名東縣一宮村の一宮なるべしと云えるを旧藩にては 矢野村と定めたるに因りて 国人 吉田喜七郎が考えには 矢野村と云い 一宮村と云うは非(あらず)にして 神領村上一宮大明神これなり 神領村より一宮村まで 昔は総名を一宮村と称し 上下の唱(となえ)あり 神領村は旧名 上一宮村なるを宮領にてありし故 終(しまい)に今名に改めり 旧名は却て下一宮村に残り接境なりしが 後 神領村を割いて兎籠野村を中間に置れて 今の如くなれり因て考えるに上一宮大明神は 一宮の本社なり 神領村は一宮村の本拠なり 名方郡中 式社9座の内 8座は小社にして八倉比賣神のみ大社なれば混じる神なし 一宮を称するのは それ故なり
近昔まで 祭官を大宮司と唱えるは 大社の故なり 中社を正一宮大明神と云うも この神社を置いて他にあるべき事なし
又 当社を八倉比咩神と記せるものは 一宮村勧進帳の跋(ばつ)にみえたり
一宮村は末社なれども もと同じ神なる故にかく云えるなれば 以って証とすべしと云える中に神領村割きて一宮村を置きし事 兎籠野村を置きし事 土人の口碑のみにて一の微証あることなく その分割の年月も詳(つまびらか)ならず 上一宮村と云う事も古き物にみえず却て その末社とし分村と云える方には 村に一宮の称あり 社に一宮明神の名あり 祭官に大宮司の唱えあり 又 当社 寛延2年 神輿勧進帳の序跋ともに正しく天石門別八倉比咩神社とみえ 社殿にある神像の女体にていと古いたるなと証と云うべし
阿府志に大粟神社 名西郡神領村 大粟山に在す大宜都比売命(オオゲツヒメノミコト)なり
近頃まで 田口大明神と謂う今は上一宮大明神 これ今の一宮に上古(じょうこ)遷し奉るて年月不詳とあるにても上一宮の称は一宮村一宮明神の称に対へて後に云えりしものと聞こえるを以って 云う時は矢野村と云うも非(あらず)にして 一宮村一宮明神 即実の八倉比賣神社なるべく思えるるなり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
『大日本名所図録. 徳島県之部(Dainihon meishozuroku・Tokushimaken nobu)』〈明治31-37年(1898-1904)出版〉に記される内容
名西郡の条に「天石門別八倉比売神社 入田村」として図絵が挿入されています
【意訳】
阿波国名西郡矢堅村 式内縣社
天石門別八倉比賣神社 真景之図
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大日本名所図録. 徳島県之部』清水吉康 著 明治31-37年(1898-1904)出版 大成館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762204
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
『特選神名牒』の説「所在について 様々に考慮すると 矢野村に鎮座の〈天石門別八倉比賣神社〉ではなく 神山町神領に鎮座の〈上一宮大粟神社〉を比定したと 記しています」を主として 記しています
【意訳】
徳島県 阿波国 名西郡入田村 大字 矢野 字 神山
縣社 天石門別八倉比賣(アマノイハトワケヤクラヒメノ)神社
祭神 大日靈女命(オホヒルメノミコト)
創祀年代詳(つまびらか)ならず 旧 杉尾大明神と称す
明治3年 現号に改称し 5年 縣社に列す
因に記す 阿波式内神社考に当社を以って 式内社 天石門別八倉比賣神社とし 神社覈録の一説もこれに従い 神社明細帳も 亦これに拠れるものの如し 然れども その拠(よ)る所を知らず
阿波志の詳註に曰く
「按ずるに八倉比賣社は 名東郡一宮なり 寛延の勧進帳序に見えたり 先輩の説も然り 云々 この矢野村 杉尾社は 大御和神社なるべし さるは杉は三輪神に因由あり」と故に特選神名牒に説あり 云く
「天石門別八倉比賣神社 大 月次 新嘗
所在
今 按〈考えるに〉
この神社の所在を 阿府志には 名西郡矢野村 杉尾宮なる由に記し
阿波志にも在 矢野神山 今称すに杉尾 昔の在は 東嶺 今移り 南麓々に有り大泉小泉 各祠あり 又 天石門と呼ぶ地有り 及び 神田者とみえたるは 矢野神山八倉比賣神社本記によれる説なれど この本記を見るに 後の人の古めかしく偽造せる文にて 八倉比賣神社の証とすべきものある事なきを 天保の初め矢野村の住森眞秀が依記によりて 出雲国造 俊信杉の小山記を作り件の本記に略注わ下し 紀伊本居太平が その序を書するものあるより 杉尾明神を実に八倉比咩神社と思う輩(やから)もありと聞こえたり されど国人 永井精古か式社略考には それを諾(うべに)はずして 今の名東縣一宮村の一宮なるべしと云えるを旧藩にては 矢野村と定めたるに因りて 国人 吉田喜七郎が考えには 矢野村と云い 一宮村と云うは非(あらず)にして 神領村上一宮大明神これなり 神領村より一宮村まで 昔は総名を一宮村と称し 上下の唱(となえ)あり 神領村は旧名 上一宮村なるを宮領にてありし故 終(しまい)に今名に改めり 旧名は却て下一宮村に残り接境なりしが 後 神領村を割いて兎籠野村を中間に置れて 今の如くなれり因て考えるに上一宮大明神は 一宮の本社なり 神領村は一宮村の本拠なり 名方郡中 式社9座の内 8座は小社にして八倉比賣神のみ大社なれば混じる神なし 一宮を称するのは それ故なり
近昔まで 祭官を大宮司と唱えるは 大社の故なり 中社を正一宮大明神と云うも この神社を置いて他にあるべき事なし
又 当社を八倉比咩神と記せるものは 一宮村勧進帳の跋(ばつ)にみえたり
一宮村は末社なれども もと同じ神なる故にかく云えるなれば 以って証とすべしと云える中に神領村割きて一宮村を置きし事 兎籠野村を置きし事 土人の口碑のみにて一の微証あることなく その分割の年月も詳(つまびらか)ならず 上一宮村と云う事も古き物にみえず却て その末社とし分村と云える方には 村に一宮の称あり 社に一宮明神の名あり 祭官に大宮司の唱えあり 又 当社 寛延2年 神輿勧進帳の序跋ともに正しく天石門別八倉比咩神社とみえ 社殿にある神像の女体にていと古いたるなと証と云うべし
阿府志に大粟神社 名西郡神領村 大粟山に在す大宜都比売命(オオゲツヒメノミコト)なり
近頃まで 田口大明神と謂う今は上一宮大明神 これ今の一宮に上古(じょうこ)遷し奉るて年月不詳とあるにても上一宮の称は一宮村一宮明神の称に対へて後に云えりしものと聞こえるを以って 云う時は矢野村と云うも非(あらず)にして 一宮村一宮明神 即実の八倉比賣神社なるべく思えるるなり」と又 地名辞書に曰く
「紀州石垣庄 中尾氏文書に 承平6年8月16日 阿波区に北方杉尾より 明神兄23才 弟19才 紀国石垣中村へ渡り 彼の地にて中尾大明神と祟むる由と載せたり この矢野の杉尾社は 即ちその明神なるべし」と又 一説 当社を以って式内 天石門別豊玉姫神社 或いは 麻能等比古神社となすものあり
故に 又 特選神名牒に説あり 云く
「天石門別豊玉姫神社 所在 今 按〈考えるに〉
本社所在 阿波志 阿府志ともに徳島城内の龍王なりと云えるを
式社略考には 今の城郭築きたまわざる以前より在りし社ならば この所ならんが 恐らくは国の初めの御時 勧請せさせ給いしにはあらぬかと云えども この龍王に明應中の鰐口(わにぐち)もあれば 天正以来の社ならざることは著しい
一説に 龍王といえば 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめじんじゃ)ならん 但し その社は 今 名東郡和田村の王子権現なりとの説もあれど こは和多と和田との同音より 付会せしならんと云えり
又 或いは 名西郡矢野村の杉尾明神 今云う 八倉比賣社ならんとの説もありとぞ 尚能く考ふべし
麻能等比古神社 所在 今 按〈考えるに〉
阿府志に 冨田浦にあり 俗大麻比古大明神と云う
又 阿波志に所在未詳とみえ
式社略考に 矢野村 杉尾明神なるべし云々
一説に 名西郡入田村まのの原の小社なりと云えり 尚 尋ぬべし」と姑く掲げて後考を俟(ま)つ社殿は 本殿 拝殿 行事殿 幣殿 家壹庫等を具備し
境内 5373坪(官有地第一種)にして 外に神幸地26坪を有せり境内神社 稲荷神社 道祖伸
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料1 『明治神社誌料2 『明治神社誌料3
天石門別八倉比賣神社(Amanoiwatowake Yakurahime Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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阿波国(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 阿波国 50座(大3座・小47座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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