実践和學 Cultural Japan heritage

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蛟蝄神社 門の宮(北相馬郡利根町立木)〈『延喜式』蛟蝄神社〉

蛟蝄神社 門の宮(こうもうじんじゃ かどのみや)は 第7代 孝霊天皇3年(前228年)に 水神 弥都波能賣命・第42代 文武天皇2年(698)に 土神 波邇夜須毘賣命を祀り創建と云う 又 日本武尊が東征の時 文馬を木に繋ぎ祈願をしたと伝えられる 延喜式内社 下總國 相馬郡 蛟蝄神社(み(あ)つちの かみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

蛟蝄神社 門の宮(komo shrine kadonomiya

通称名(Common name)

・文間両社明神(もんまりょうしゃみょうじん)

明神社(みょうじんしゃ)

【鎮座地 (Location) 

茨城県北相馬郡利根町立木(たつぎ)882番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神
 罔象女大神(みつはのめのおほかみ)

相殿神
 埴山姫大神(はにやまひめのおほかみ)
 句句廻馳大神(くくのちのおほかみ)
 軻遇突知大神(かぐつちのおほかみ)
 金山彦大神(かなやまひこのおほかみ)
 倉稲魂大神(うかのみたまのおほかみ)
 素戔嗚尊(すさのをのみこと)
 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
 誉田別大神(ほむたわけのおほかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

史跡案内 蛟蝄神社周辺

蛟蝄(こうもう)神社は孝霊天皇(こうれいてんのう)三(前二二八)に水神の弥都波能売命(みつはのめのみこと)、文武天皇(もんむてんのう)二(六九八)に土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)をまつったのが、そのはじまりと伝えています。
記録にあらわれた最初は、延喜(えんぎ)五(九〇五)に編集を開始した『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(しんめいちょう)で、「相馬郡一座 蛟蝄(みつちの)神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇(みづち)に似ていたためといわれています。

門の宮(かどのみや)のある所は、縄文後晩期 貝塚(じょうもんこうばんき かいづか)(前二五〇〇~前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡(いきせ)として大切にされています。
門の宮の社殿は慶長(けいちょう)三(一五九八)に布川藩主(ふかわはん)松平信一が再建したという記録と元禄十一(一六九八)再造営(さいぞうえい)の棟札(むなふだ)が残されています。
奥の宮(おくのみや)は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です

蛟蝄神社には日本武尊(やまとたけるのみこと)参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫(おとたちばなひめ)の櫛塚(くしづか)や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。

昭和五十五月 利根町教育委員会 文化財保護審議委員会

現地案内板より

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利根町指定史跡 立木貝塚

 この周辺は、「立木貝塚(たつぎかいづか)」といわれる縄文時代(じょうもんじだい)後晩期(こうばんき)の遺跡です。
 縄文時代には、集落(しゅうらく)の周りの斜面(しゃめん)や窪地(くぼち)などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻(かいがら)が多く捨てられ、馬の蹄(ひづめ)のような形をした「貝塚(かいづか)」として今も残つています。

 この遺跡は、古くから知られておりましだが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです、そのため、当時多くの採集家(さいしゅうか)が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です、この調査では、縄文時代晩期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が蛤まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。

 そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶(どぐう)、土製耳飾(どせいみみかざり)、貝輪(かいわ)、骨角器(こっかくき)などの「珍品」(ちんぴん)といわれる遺物(いぶつ)が豊富に出土することでした、殊に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。

 土偶は、祭礼(さいれい)や儀式(ぎしき)に使われたという説がありますが、今でも、この遭跡の上に蛟蝄(こうもう)神社が建っているのは歴史の溌れを感じさせます。

利根町教育委員会

現地案内板より

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【由  (History)】

蛟蝄神社の歴史

蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様、罔象女大神を祀ったのが始まりといわれております。詳しい年代はわかっておりませんが社殿を東の高台(奥の宮)に建てました。

明治42年(1909年)に立木地区にお祀りしていた「稲荷神社」「八坂神社」「天神社」「八幡神社」を合祀し、なお一層の御神徳をもって下総國相馬の郷を見守っておられます。

蛟蝄神社公式HPより
https://koumoujinja.jp/history/

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

○茨城縣 下總國 北相馬郡文間村大字立木

郷社 蛟蝄(ミツチノ)神社

祭神 水波能女神 埴山比賣命

利根川圖志に云く、式內相馬郡 蛟蝄神社は立木村の山上に在り、兩社にして西なるを角の宮と爲し、額に蛟蜩神社と標す、東を奥の宮と云ひ、專ら文間明神と唱ふと、創建は文武天皇三年にして、延喜の制 式内小社に列せられ、古来 武門武将の崇敬厚く、慶長三年八月、藤井信一社殿を増修し奉り、同九年三月、德川家康 社領五十石を寄せ奉る、後 享保元年八月神位正一位たられ、明治四年七丹郷社に列す。

社殿は本殿・拜殿、幣殿等あり、境内は奥之宮 拾七坪、角之宮 百七十五坪、共に官有地第一種たり。

境內神社
 琴平神社 石神神社

例祭日 月十五日
神饌幣帛料供進 明治四十年五月二十日

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

蛟蝄神社 門の宮 本殿

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蛟蝄神社 門の宮 社殿

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蛟蝄神社 門の宮 拜殿

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・手水舎

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・大黒天

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・猿田彦大神

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・鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・蛟蝄神社 奥の宮(利根町立木)

・蛟蝄神社 奥の宮(利根町立木)については下記の記事を参照

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下総國 11座(大1座・小10座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)相馬郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 蛟蝄神社
[ふ り が な ]み(つちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Mi(atsuchi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 下總國 相馬郡 蛟蝄神社(み(あ)つちの かみのやしろ)

・蛟蝄神社 奥の宮(利根町立木)

・蛟蝄神社 門の宮(利根町立木)

一緒に読む
蛟蝄神社 門の宮(北相馬郡利根町立木)〈『延喜式』蛟蝄神社〉

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR成田線 布佐駅から利根川を渡り 北東方向へ約5.8km 車での所要時間は12~15分程度

新利根川に沿って東へ2km利根町指定史跡 立木貝塚の上に鎮座します

「立木貝塚(たつぎかいづか)は 縄文時代(じょうもんじだい)後晩期(こうばんき)の遺跡で 祭礼(さいれい)や儀式(ぎしき)に使われたという説があ土偶(どぐう)土製耳飾(どせいみみかざり)輪(かいわ)骨角器(こっかくき)などの「珍品(ちんぴん)」といわれる遺物(いぶつ)が豊富に出土した 殊に土偶は 全国でも最多出土遺跡の一つとして知られたとのこと

縄文時代当時は この辺り海に囲まれていたらしく 此処も島々であつたらしい

社頭にある「蛟蝄神社周辺略図」を見ると 蛟蝄神社の辺りは小高くなっていて 島であったことが想像できます

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実際に 太古は海岸線であったのかも知れません

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蛟蝄神社 門の宮(利根町立木)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり抜けて 石段を上がります

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社頭 参道 社殿は南向きです

拝殿にすすみます

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拝殿前の石碑には「中臣祓 一万度行事」と刻字されています

神仏習合の時 『中臣祓(大祓詞)』を神前で一万回唱え 強烈な罪穢れを祓い 心願成就や疫病退散 国家安寧などを祈願する民間信仰・修法てあったらしい

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 蛟蝄神社について 所在は゛川庄立木村に在す、゛〈現 蛟蝄神社 門の宮(利根町立木)〉と記しています

【抜粋意訳】

蛟蝄神社

蛟蝄は美豆知と訓べし

○祭神 埴山姫命、罔象女命、〔地名記〕 

川庄立木村に在す、〔同上〕今 文間兩社大明神と稱す、
例祭 月日、

〇惣國風土記百一殘缺云、蛟蝄神社、圭田三十九束三畝田、所祭罔象女也、天平二年庚午六月、始奉ニ 圭田、神事式祭等始也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 蛟蝄神社について 所在は゛今 立木村に在り、文間明神と云ふ、゛〈現 蛟蝄神社 門の宮(利根町立木)〉と記しています

【抜粋意訳】

蛟蝄(ミツチノ)神社

今 立木村に在り、文間明神と云ふ、〔巡拝舊祠記、下総式社考、利根川圖志、〕

 伊弉冉尊の御身に成坐る 彌都波能賣神を祀る、〔日本書紀、古事記、蛟蝄社傳

此は即 水神也、〔日本書紀、〇按 本書 罔象女に作る

凡 毎年六月 九月十五日を例祭とす、〔下総式社考、利根川圖志、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 蛟蝄神社について 所在は゛立木村(北相馬郡文間村大字立木)゛〈現 蛟蝄神社 門の宮(利根町立木)〉と記しています

【抜粋意訳】

○相馬郡一座

蛟蝄神社

祭神
 罔象女神
 埴山姫命

 今按 社 祭神かくの如くなるは 一説に蛟蜩の 水土とかよふによりて附せしものならんと云へれど

 和名抄に水神和名美豆知とよめるを以て 思ふに蛟蜩 即 水神にて書記に水神 罔象女とあるにもかなへば 社の説 ありて聞ゆ 故今 之に従へり

祭日 六月十五日 九月十五日
社格 郷社

所在 立木村(北相馬郡文間村大字立木)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

蛟蝄神社 門の宮(利根町立木) (hai)」(90度のお辞儀)

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下緫国 式内社 11座(大1座・小10座)について に戻る

一緒に読む
下総國 式内社 11座(大1座・小10座)について

下緫国(しもふさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 下緫国には 11座(大1座・小10座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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