意宇杜(おうのもり)は 『出雲國風土記733 AD.』の中でも著名な国引き神話の最後に登場する舞台です 八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が「今は国引きを終えた」と勅された時「意恵・おゑ」と云われ 国庁が在った意宇辺り 田の中にある小山に杖を衝き立てた その上には木が茂っているので「意宇のもり」と云うと記されます
【神社名】(shrine name)
意宇杜(Ounomori)
【通称名】(Common name)
天平路(客の森)
【鎮座地】(location)
島根県松江市竹矢町494
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《主》八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)
【御神格】(God’s great power)
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』所載
【創建】(Beginning of history)
『出雲國風土記(いずものくにふどき)733 AD.』に記される「意宇杜(おうのもり)」
国引き神話の中で 最後に国引きをおえた と杖を突きさした処と記されています
【原文】
今者 國者引訖 詔而 意宇社爾 御杖衝立而 意恵 登詔 故云
意宇 所謂 意宇者杜 郡家東北邊 田中在塾是也 圍八歩許 其上有一以茂
【抜粋意訳】
「今は国引きを終えた」と勅された
意宇社(おうのもり)に杖を突き立て「意恵(おゑ)」と勅された
故に 意宇(おう)と云う
〔意宇社というは 郡家(ぐうけ)の東北辺り 田の中にある塾(こやま)これなり 周り八歩ばかり その上に木が茂る〕
【原文参照】
【由緒】(history)
意宇杜(おうのもり)(遺跡)
「出雲風土記」によれば、国引きを終えられた八束水臣津野命(やつかみずおみづのみこと)が「『今は国引き訖(お)へつ』と詔(の)りたまひき。故、意宇(おう)という。」と述べられ、注に「謂(い)はゆる意宇の杜(おうのもり)は郡家(こおりのみやけ)の東北の辺、田の中にあるこやま〈敦の下に土〉是(これ)なり。囲み八歩ばかりその上に木の茂れるあり。」とある。
国引きの大業を終えられた八束水臣津野命が用いられた呪力を持った御杖の「より代(しろ)」がこのタブの木であり、古来「意宇のタブ」として近隣から広く崇拝されている。毎年十月一日、上竹矢、中竹矢の講中の人々によって祭りが営まれている。
このように里人の信仰に支えられて長い歳月を風雪に耐えてきたこの遺跡は、歴史学的にも、民俗学的にも貴重なものである。
現地案内板より
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
『出雲國風土記733 AD.』意宇杜(おうのもり) 比定地について
意宇の杜
『出雲国風土記』の中でも著名な国引き神話 八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が 出雲国が小さいので「国くに来こ 国来」と各地から土地を引き寄せ 最後に「おゑ」と言って杖をついた場所であり 意宇という地名の由来と記されています
・比定地とされるのは 三ヶ所・参考箇所が 一ヶ所 の計 四ヶ所
1.比定地①
意宇杜(松江市竹矢町)〈天平路(客の森)〉
・意宇杜(松江市竹矢町)〈天平路(客の森)〉
意宇杜(おうのもり)は 『出雲國風土記733 AD.』の中でも著名な国引き神話の最後に登場する舞台です 八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が「今は国引きを終えた」と勅された時「意恵・おゑ」と云われ 国庁が在った意宇辺り 田の中にある小山に杖を衝き立てた その上には木が茂っているので「意宇のもり」と云うと記されます
意宇杜(松江市竹矢町)〈天平路(客の森)〉
2.比定地➁
面足山(おもたるやま)(東出雲町出雲郷)〈阿太加夜神社境内〉
・田中神社〈阿太加夜神社の相殿〉
阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)は 神代の国引き神話のエンディングとなる 八束水臣津命(やつかみづおみずのみこと)が「今は国引きを終わった」ので「おえ(意恵)」とおっしゃられて 杖を突き立てたとされる「意宇社(ou no mori)」の比定地が境内にあります 御祭神は 大国主命の御子で 謎多き女神と伝わる「阿陀加夜奴志多岐喜比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)」を祀ります 中世には 神主であった「松岡兵庫頭(matsuoka hyogo no kami)」の効験が誉れ高く それ故に松江の城山稲荷神社の御神霊を当社に船渡御させたことから「ホーランエンヤ・日本三大船神事」が始まりました
阿太加夜神社(東出雲町出雲郷)
3.比定地➂
八幡森〈意宇の杜 比定地〉六所神社のすぐ東に立地
・六所神社
六所神社(ろくしょじんじゃ)は かつての出雲国府に鎮座して「出雲国総社(いづものくにそうじゃ)」とも呼ばれ高い格式を有して坐ます 社伝では もと「佐久佐社(sakusa no)yashiro」と伝わり『延喜式神名帳』にも『出雲國風土記』にも記載されている 由緒ある古社です
六所神社(松江市大草町)
4.参考地①
意宇ノ杜(明治七年に須田神社に合祀されたとする 意宇ノ杜の跡地)
・須多神社(東出雲町出雲郷須田
須多神社(すたじんじゃ)は 国引き神話の神「八束水臣津野命(yatsuka mizuomizu no mikoto)」を氏神として祀ります 田の神である宇迦之魂命(uka no mitama no kami)も祀りますので 氏子の集落には須田川に沿うように稲田が続いて坐ます
須多神社(東出雲町出雲郷須田)
『東出雲町誌』には 合祀の「意宇ノ意宇杜」については 次の通り 記されています
「須田神社 ・・・明治七年九月には、字堀谷に鎮座の「意宇ノ杜神社」もここに合祀されたというが、「風土記」にのせる「意宇ノ杜」の記述とは一致しない。」 『東出雲町誌』
意宇ノ杜(おうのもり) の比定地・参考地の【地 図】(Google Map)
青丸〈史跡印〉が 意宇ノ杜(明治七年に須田神社に合祀されたとする 意宇ノ杜の跡地)
青丸〈鳥居印〉が 須田神社
赤丸〈史跡印〉が 意宇杜(松江市竹矢町)〈天平路(客の森)〉(意宇杜(おうのもり)比定地)
赤丸〈鳥居印〉が 意宇杜(東出雲町出雲郷)面足山(おもたるやま)〈阿太加夜神社境内〉(意宇杜(おうのもり)比定地)
黄丸〈鳥居印〉が 意宇杜〈八幡森〉六所神社のすぐ東に立地(意宇杜(おうのもり)比定地)
出雲国風土記にある 意宇杜(おうのもり)と比定される場所も須多神社から3km程の所です
4.参考地①
意宇ノ杜(明治七年に須田神社に合祀されたとする 意宇ノ杜の跡地)について 再考
『出雲國風土記733 AD.』にしっかりと場所まで明記してありますので 判り易いのですが
「国引き神話」は出雲国の創成の神話ですので
8世紀の出雲風土記の編纂者にとっても 太古の神代であり 場所の特定は難しかったであろうと心得ます
仮に出雲国の創成期が 縄文期であったとすると
縄文時代の海進「縄文海進」は 日本海側では20mとの伝承もありますが 例えば 5mの海面上昇があった場合 どうなるのかを イメージ図を作成してみました
現在「意宇杜(松江市竹矢町)〈天平路(客の森)〉(意宇杜(おうのもり)比定地)」とされている辺りは 一面海面となってしまいます
一方 「須多神社(suta shrine)」辺りが 海岸線となっていて むしろ
ここに「意宇杜(ou no mori)」があっても不思議ではないような気がします
現在の鎮座地に明治7年に合祀された「意宇ノ社(南方堀谷)」には「《主》八束水臣津野命(yatsuka mizuomizu no mikoto)」祀られていますので 意宇杜(ono mori)の有力候補かもしれません
国引き神話を終えた地「意恵(おえ)」は何処だったのでしょうか?
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
出雲国分寺跡から 天平古道を南下して 田の中の農道を南下すると こんもりと木が茂る天平路(客の森)が見えてきます
正に 田の中の茂み の通り 周りは田園地帯です
意宇杜(松江市竹矢町)に参着
客の森と呼ばれているこの地は 田よりは高く 石垣が積まれていて
推定500年とされるタブの木 エノキ ヤマモモの木があり 毎年10月1日には 祭りがあり 幣串三六本 樫の葉に盛られたシトギ餅三六箇が供えられるとのこと
この木々の周りには 注連縄が巡られています
賽銭箱はなく 水路の橋の上から お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
「国引き神話」の図説
『出雲國風土記733 AD.』に 八束水臣津努命(やつかみずおみづぬのみこと)が 出雲の国土を造る国引きをなされた「国引き神話」が記されます この国引きに用いた「綱」が「薗の長浜(そののながはま)」になったとされています
「薗の長浜(そののながはま)」は 大社町の稲佐の浜から出雲市の長浜に渡る8kmほどの海岸砂丘地帯です
この綱を繋ぎ止めた杭が
東が「佐比賣山(さひめやま)〈三瓶山〉」
西が「火神岳(ほのかみだけ)〈大山〉」とされます
火神岳(ほのかみだけ)〈大山〉の火山活動は 約3000年前に火砕流堆積物とその降下火砕物を発見したとする報告もあるようですが 現在のところ活火山(概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山)には指定されていません
因みに
三瓶山の火山活動は 3600年前(縄文時代後期)まで噴火・噴煙が上がっていたそうです
近畿中国森林管理局作成の【「古記の森」再生事業『出雲の国風土記』を見つめて】の中に「国引き神話と三瓶山国有林」の図があり 非常に判り易いので転用させて頂きました
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』意宇郡にある伝承
意宇郡の総記に 御祭神の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の国引き神話が書かれ
「その引いた綱は 薗の長浜(そののながはま)」
「この国を堅固にと立てた杭は 石見国(いわみのくに)と出雲国との堺にある佐比賣山(さひめやま)」
「繋ぎ固めた立てた抗は 伯耆国(ほうきのくに)の大神岳(おおかみのたけ)」
「国引きを終えたのは 意宇意宇杜(おうのもり)」とあります
【抜粋意訳】
意宇郡の総記
意宇と以って号するのは 国引きを坐(ましま)す八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が勅されるには
「八雲立つ出雲の国は 幅の狭い布のような幼い国である 初め国を小さく作った故 縫いつける作るとにしよう」と勅されて「志羅紀の三崎を 国の余りがありはしないかと見れば 国の余りがある」と勅されて 童女(おとめ)の胸のような鋤(すき)を手に取られて 大魚の鰓(さだ)を衝くように土地を断ち切り 割き離し 三本縒り(より)の強い綱を掛け 霜枯れた黒葛(つづら)を繰り寄せ 河船を引くようにそろりと「国来(くにこ)」と引き来て 縫いつけた国は 去豆の折絶(こづのおりたえ)から八穂米支豆支御埼(やほしねきづきのみさき)
そして この国を堅固にと立てた杭は 石見国(いわみのくに)と出雲国との堺にある佐比賣山(さひめやま)で またその引いた綱は 薗の長浜(そののながはま)これなり
また
「北門の佐伎之国(さきのくに)を 国の余りがありはないかと見れば 国の余りがある」と勅されて 童女の胸のような鋤を手に取られ 大魚の鰓を衝くように土地を断ち切り 割き離し 三本縒りの強い綱を掛け 霜枯れた黒葛を操り 繰り寄せ 河船を引くようにそろり「国来(くにこ)」と引き来て 縫いつけた国は 多久乃折絶(たくのおりたえ)から狭田の国(さだのくに)がこれなり
また
「北門の良波乃国(えなみのくに)を 国の余りがありはないかと見れば 国の余りがある」と勅されて 童女の胸のような鋤を手に取られ 大魚の鰓を衝くように土地を断ち切り 割き離し 三本縒りの強い綱を掛け 霜枯れた黒葛を操り 繰り寄せ 河船を引くようにそろり「国来(くにこ)」と引き来て 縫いつけた国は 宇波折絶(うはのおりたえ)から闇見国(くらみのくに)これなり
また、
「高志之津津乃三埼(こしのつつのみさき)を 国の余りがありはないかと見れば 国の余りがある」と勅されて 童女の胸のような鋤を手に取られ 大魚の鰓を衝くように土地を断ち切り 割き離し 三本縒りの強い綱を掛け 霜枯れた黒葛を操り 繰り寄せ 河船を引くようにそろり「国来(くにこ)」と引き来て 縫いつけた国は 三穂之埼(みほのさき) 持って引いた綱は 夜見島(よみしま) 繋ぎ固めた立てた抗は 伯耆国(ほうきのくに)の大神岳(おおかみのたけ)これなり
「今は国引きを終えた」と勅されて 意宇杜(おうのもり)に杖を突き立て「意恵(おえ)」と勅された 故に 意宇(おう)と云う
〔意宇杜というは 郡家(ぐうけ)の東北辺り 田中にある塾これなり 周り八歩ばかり その上に木が茂る〕
【原文参照】
「その引いた綱は 薗の長浜(そののながはま)」
・長浜神社(出雲市西園町)
長浜神社(ながはまじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』意宇郡の総記に 御祭神の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の国引き神話が書かれ「その引いた綱は 薗の長浜(そののながはま)」とあるその地に鎮座します 出雲郡 神祇官社「出雲社(いずも)のやしろ」の論社でもあります
長浜神社(出雲市西園町上長浜)
「この国を堅固にと立てた杭は 石見国(いわみのくに)と出雲国との堺にある佐比賣山(さひめやま)」
・佐比賣山神社(大田市三瓶町多根)
佐比賣山神社(さひめやまじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』所載の石見国 安濃郡 佐比賣山神社(さひめやまの かみのやしろ)の論社です 『出雲國風土記733 AD.』の国引き神話では くにを引き寄せた「綱」が「薗の長浜(そののながはま)」この綱を繋ぎ止めた東の杭が「佐比賣山(さひめやま)〈三瓶山〉」とされます
佐比賣山神社(大田市三瓶町多根)
「繋ぎ固めた立てた抗は 伯耆国(ほうきのくに)の大神岳(おおかみのたけ)」
・大神山神社 奧宮(大山町大山)
「国引きを終えたのは 意宇意宇杜(おうのもり)」意宇杜(松江市竹矢町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』にすすむ
出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳』399社
『出雲国 式内社 187座(大2座・小185座)について』にすすむ
出雲國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 出雲國には 187座(大2座・小185座)の神々が坐します 現在の論社についても掲載しています
出雲國 式内社 187座(大2座・小185座)について