由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ)は 『三代實録』仁和元年(885)11月21日条に由豆佐乃賣神を篤く奉るように勅命が下されています 『延喜式927 AD.』には式内社 出羽國 田川郡 由豆佐賣神社(ゆつさひめの かみのやしろ)と記載のある由緒ある古社です 和銅5年(712年)開湯 湯田川温泉の鎮護の神社として崇拝されてきました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
由豆佐賣神社(Yuzusame shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
山形県鶴岡市湯田川岩清水86
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》由豆佐賣神
〈中座〉溝樴姫命(みぞくひひめのみこと)
〈右座〉少彦名命(すくなひこなのみこと)
〈左座〉大己貴命(おほなむちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内社 由豆佐賣神社
由豆佐賣神社は、白雉元年(六五〇)の創建と云われ、古書「三代実録」や、延喜五年(九〇五)に起草の延喜式神名帳にも登載された格式の高い神社である。
祭神は、溝樴姫命、大己貴神、少彦名神の三神で、代々の領主をはじめ近郷庶民の崇敬厚く、最上義光は黒印一五五石を、又酒井家による社殿造営など、数々の寄進があった。
現在の拝殿は、安永年間(一七七五年頃)の造営で、昔は観音堂と称し十一面観音を祀り、又社名も滝蔵権現と称し、神仏習合時代の密教寺院に多く見られる平面構造(松田良助氏説) で五間堂・内柱・向拝屋根・唐破風・内部は 外陣・内陣・内々陣・格子(結界)・脇陣・ 周り縁・床が高く貴重な遺構である。
本殿の造営は、明治十五年時の庄内の名棟梁「高橋兼吉」の建築である。
平成七年十二月建立
湯田川郷土史研究会
鶴岡市文化財愛護協会現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
鎮座地 鶴岡市湯田川字岩清水八六
祭 神 溝樴姫命 大己貴命 少彦名命
境内神社 興喜天神社(天満宮) 古峯神社 稲荷神社 諏訪神社
祭 日 例祭 5月1日、祈年祭 3月13日、新嘗祭 11月23日、温泉清浄祭 7月土用丑の日
社 殿 本殿 1.8坪、幣殿 2.5坪、拝殿 64坪、手水舍 1.2坪
主要建物 社務所 11.2坪
工作物 鳥居石造1基、燈籠石像1対、歌碑1基
境内地 3863坪 氏子数 260世帯由緒
当神社は、湯田川温泉のほぼ中央にある源湯、正面の湯の真向かいの、集落を見下ろす石段を登った高台に鎮座。
創建は白雉元年(695)3月17日と伝える。
延喜式内社で「延喜式」神名帳にみえる田川郡三座のうちの由豆佐賣神社に比定される。
「三大実録」仁和元年(885)11月21日条によれば、同年6月21日出羽国秋田城中と飽海郡神宮寺西浜(現同郡遊佐町)に石鏃が降り、凶狄陰謀兵乱の前触れと占われ、これに対し神祇官から、この凶兆は「田川郡由豆佐乃売」など三神を崇敬しなかったためであると奏上があり、三神を厚く祀るようにとの命令が出されている。
神仏混淆していた中古の昔には、観音堂と称されて十一面観音を祀っていたと伝えられる。
近年には湯蔵権現、また龍蔵権現とよばれていた(出羽国風土略記)温泉鎮護の神とされ、庄内6座の一といわれた(天保3年木版刷羽州庄内田川温泉図付温泉の記)。
別当は南隣の大日山妙幢院長福寺が務めた。
慶長17年(1612)最上義光から大日領として田川湯村155石余の黒印状19通が与えられ、神子分として4余が含まれる(延宝9年庄内寺社領高付帳)。
「出羽国風土略記」には「龍蔵権現10ヵ年前迄は3間四面の社作にして物寂なるけしきに見つけるに近年の長福寺住職是を建替社作にもあらず表裏格子にして神輿やとうけ見るがごとし神壇も見えず」と記される。
現在の社殿は、安永年間(1772~81)の造営といい、観音堂の形式をもつ。
例祭は3月17日であったが、(前掲温泉図付温泉の記)、現在は5月1日に行われている。また4月9日から12日までの4日間にわたり例祭前の氏子廻りとして、祓の行事を行っている。
道化神楽ともいわれる滑稽な仕草の湯田川神楽、素人の即興的に演ずる滑稽さで知られた湯田川の俄踊も例祭に奉納の神事として伝承されたもので、俄踊は大正初期に廃絶した。
神木の樹光30メートルの大銀杏は乳イチョウと呼ばれ県指定天然記念物となっている。樹齢1千年といわれて、宝永2年(1705)の「大概往来」(鶴岡市郷土資料館蔵)に「出羽一国の銀杏の大木あり」と記されている。
明治9年(1876)郷社に列せられ、同40年月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・由豆佐賣神社 社殿
・〈境内向かって右手の石段の上〉古峯神社
・〈境内社〉與喜天神社《主》菅原道眞公
・〈境内社〉諏訪神社《主》武御名方命
・祓戸大神・山形県指定天然記念物 湯田川の乳イチョウ
山形県指定天然記念物 湯田川の乳イチョウ
山形県内有数のイチョウの巨樹で、崖際にあるために、正確な根まわりや目通りの幹まわりの測定はできないが、高地面での周囲七.三メートルである。高さは約三七メートルであって、大枝からは大小数本の乳柱が垂れ下がるので 、乳イチョウの名がある。しかし、雄株であって実はならない。
昭和二十七年四月一日、山形県の天然記念物に指定された。
所有者 由豆佐売神社
現地案内板より
・水稲種子芽出法創始者 湯田川村 大井多右エ門の碑
水稲種子芽出法創始者 湯田川村 大井多右エ門の碑
水稲苗作りの大事なこととその心労は、現在も変わりないわけであるが、文明未開の昔の苗作りは、ことさらに困難を極めたことであった。
農耕に熱心な大井多右エ門は、さまざまな試験をし苦労を重ねた結果、今から約百三十年前の嘉永元年(西暦1848)の春、種籾を水に、そして温泉に浸し且つこれを蒸して発芽させる方法を生み出し、発芽期間の短縮と芽揃いを良くし、これを広く普及して当地方稲作農業に画期的な進歩を与えたのであった。
この碑は明治十七年、同氏の功績を讃えて建立されたものである。
昭和五十九年十二月吉日
湯田川 郷土史研究会
延喜式内社 由豆佐賣神社
鶴岡市文化財愛護協会現地案内板より
・参道石段・手水舎
・参道石段の杉・御即位記念石碑
・神橋
・斎藤茂吉の歌碑
・鳥居
・湯田川樹木園案内図
・映画「たそがれ清兵衛」によせて
・社号標
・社頭
・参道
・参道入口
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈由豆佐賣神社の参道正面にある温泉〉正面湯
・正面湯の「文化財案内図 湯田川」
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
仁和元年(885)11月21日条に 同年6月21日出羽国秋田城中と飽海郡神宮寺西浜(現同郡遊佐町)に石鏃〈石を材料として作られた鏃(やじり)〉が降り 陰陽寮にて凶狄陰謀兵乱の前触れと占われ 神祇官から この凶兆は「田川郡由豆佐乃賣」など三神を崇敬しなかったためと奏上があり 三神を厚く祀るようにとの勅令が下された と記されています
【抜粋意訳】
卷四十八 仁和元年(八八五)十一月廿一日辛丑
廿一日辛丑
是日。勅遣散位從六位上大中臣朝臣罕雄、判官一人、主典一人、造伊勢大神宮。拠式、二十年一度改作。去貞觀十一年修造、其後十八年于茲矣。
去する六月二十一日 出羽國 秋田城中 及び 飽海郡神宮寺の西浜、雨石鏃を 陰陽寮言す「當有に凶狄陰謀兵乱之事」 神祇官言す「彼國飽海郡大物忌神・月山神・田川郡 由豆佐乃賣神 倶成此恠 祟在不敬」
勅令 國宰を恭しく祀諸神を兼て慎警固
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)出羽國 9座(大2座・小7座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田川郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 由豆佐賣神社
[ふ り が な ](ゆつさひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yutsusahime no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
溝樴姫命(みぞくひひめのみこと)を祀る 延喜式内社の類社として
延喜式内社 陸奥國 宮城郡 伊豆佐賣神社(いつさひめの かみのやしろ)
・伊豆佐比賣神社(利府町飯土井長者)
《主》講昨比賣命(みぞくいひめのみこと)
延喜式内社 出羽國 田川郡 由豆佐賣神社(ゆつさひめの かみのやしろ)
・由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)
《主》溝樴姫命(みぞくいひめのみこと)
由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ)は 『三代實録』仁和元年(885)11月21日条に由豆佐乃賣神を篤く奉るように勅命が下され 『延喜式927 AD.』には式内社 出羽國 田川郡 由豆佐賣神社(ゆつさひめの かみのやしろ)と記載のある由緒ある古社です 和銅5年(712年)開湯 湯田川温泉の鎮護の神社として崇拝されてきました
由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川)〈『三代實録』由豆佐乃賣神『延喜式』由豆佐賣神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR羽越本線 鶴岡駅からR345号経由で南西へ約9.3km 湯田川温泉を目指します 車で18分程度
湯田川温泉に到着
温泉街に参道の入口があります 「宮」と書かれた提燈が目印
石畳を進みます
参拝日は2017/5/1 祭日だったのでしょうか? 幟旗があります
由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)に参着
社号標には゛延喜式内 由豆佐賣神社゛明治十年六月吉日と刻字あり
映画「たそがれ清兵衛」の撮影があったようで 記念案内板があります
ちなみに映画ロケでも使われた゛鯉が池゛は神社の西側にあります
一礼をして鳥居をくぐります
石畳みの参道には 小さな神橋が架かり 斎藤茂吉の歌碑
゛式内の由豆佐賣の神ここにいまし 透きとほる湯は湧きでて止まず゛
湯治に来た文人として 柳田国男、種田山頭火、斎藤茂吉、竹久夢二、横光利一の歌碑があると云う
杉の大木が連なる参道石段を上がります
石段を上がると 一旦平坦になっていて 手水舎があり清めます
手水舎の先は 再び石段を上がって拝殿へと進みます
右手には゛・祓戸大神・山形県指定天然記念物 湯田川の乳イチョウ゛があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
ちょうど 御神職が朝の御勤めをされておられました
社殿に一礼をして 参道石段を戻ります
神々しく中々趣のある参道石段です
下まで降りてくると 温泉街が見えて人里に戻ったような感覚になります
参道の入り口の正面には゛正面湯゛があります
まさしく神の湯です
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 由豆佐乃賣神社について 所在は゛温海村に在す、゛〈現 由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)〉と記しています
三代実録 仁和元年(八八五)十一月廿一日の条に大物忌神・月山神・由豆佐乃賣神を祀る勅命が記されています
【抜粋意訳】
由豆佐乃賣神社
由豆佐乃賣は 假字也
〇祭神明らか也
〇温海村に在す、
雑事
三代実録 仁和元年(八八五)十一月廿一日辛丑
去六月廿一日、出羽國秋田城中、及飽海郡神宮寺西浜、雨に石鏃、云々、神祇官言、彼國 田川郡由豆佐乃賣神 倶成に此恠、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 由豆佐乃賣神社について 所在は゛今 温海村温海嶽にあり゛〈現 由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)〉と記しています
三代実録 仁和元年(八八五)十一月廿一日の条に大物忌神・月山神・由豆佐乃賣神を祀る勅命が記されています
【抜粋意訳】
由豆佐賣(ユクサノメノ)神社
今 温海村温海嶽にあり、〔巡拝舊祠記、出羽國前圖〕
光仁天皇 仁和元年十一月辛丑、勅して特に此神を祭らしむ、初神祇官奏言に、是歳夏 本国に石鏃ふれる事は、大物忌神・月山神・由豆佐乃賣神を敬奉らざる祟也と云ふを以て也、〔三代実録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 由豆佐乃賣神社について 所在は゛湯田川村 (西田川郡湯田川村大字湯田川) ゛〈現 由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)〉と記しています
祭神について考証があり 神名の由豆佐賣神とは゛温泉の二神〈大已貴命 少彦名命〉の御功業を助けます姫神にます゛とあります
【抜粋意訳】
由豆佐乃賣神社
祭神
今按 註進狀に祭神 溝咋姫命とし 考證書を添て由豆佐賣神の由豆は伊豆に由あり 溝咋姫命は事代主神の嫡后にて 事代主は伊豆三島の神にます由云るは信がたし
さらば由豆佐賣神はいかなる神ならんと思ふに 古書に徵なければ 定めては云がたけれど 其神官の祝詞を申すに由豆佐賣神 大已貴命 少彦名命 三神の御名を唱ふる例なりと云ひ
神社のます地を湯田川と云ひ 其村は金峯山と云ふ山の西南の麓にして 温泉 其山より発して此所に湧出る由なるは 大已貴命 少彦名命二神の温泉を知し玉ふ御功業を助けます姫神にますを以て 神名に由豆佐賣神とは稱へ奉れるならん 由豆は湯出にて温泉の義と聞ゆれば 舊號のままに称へ奉りてあるべきなり祭日 三月十七日十八日
社格 郷社所在 湯田川村 (西田川郡湯田川村大字湯田川)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)について 式内社 由豆佐乃賣神社であり 郷社に列したと記されています
【抜粋意訳】
〇山形縣 羽前國 西田川郡湯田川村大字湯田川字岩清水
郷社 由豆佐賣(ユヅサノメノ)神社
祭神
〈中座〉溝樴姫命(みぞくひひめのみこと)
〈右座〉少彦名命(すくなひこなのみこと)
〈左座〉大己貴命(おほなむちのみこと)
創建年代詳ならざれども、古き祝詞に白鳳元年壬申 彌生中旬 當山に天降り給ふと記載せり、果して然りとせば、天武帝の卽位の年に當れり、
又 古老の口碑に據れば、元明天皇 和銅年間 白鷺の洛するを見て、初て此 地に温泉を発見すと云ふ、今に白鷺の湯と稱するものあり、本社の創建も此時ならずやとも云へり、尚 後考を俟つ
本社は延喜式内社にして、古より湯田川の湯藏(ユゾウ)権現と稱せられしは 卽ち本社のことなり、元來 由豆佐とは湯出澤の義なりと云ふ、
別當 長福寺は大和國 長谷寺の末派なれば 中世瀨地主の神、瀧倉神社を當社の相殿に勧請せしより、何時しか舊號 藪はれ 龍藏権現(リュウザウゴンゲン)とのみ唱へ來りしを、土人訛りて湯蔵山といふに至れり、
而して由豆佐の古祠の在所は歷史地理の上より之れを考ふれば、湯田川を推すべし、或は温海(アツミ)村 温海嶽(アツミダケ) (巡拜舊祠記、出羽國全圖 )と説くものあり、
庄内史などは 由豆佐賣神社は 或は温海嶽(アツミダケ)の熊野権現に擬せられ、古來 其所を定かになし得ずと云ふ、
又 三代實錄元慶八年の條に、
「仁和元年十一月二十一日辛丑、去六月二十一日、出羽國秋田、城中、及飽海郡神宮寺西演雨に石鏃、陰陽寮言、當有、凶狄陰謀兵為之事、神祇官言、彼國飽海郡、大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃賣神 俱成に此恠、祟在に不敬、勅令に國宰 恭祀に諸神兼慎に警固」とあり、是れは初め神祇官より、去六月本國に石鏃のふれるは、大物忌、月山、由豆佐乃賣三神を敬し奉らざる祟り也と上奏して、光仁天皇 仁和元年十一月辛丑、勅して特に神社を祭らしめられなることを云へるなり、
由豆佐賣神社と申し奉るは 神名式に謂ゆる陸奥國 宮城郡 伊豆佐賣神社、及び神名式に伊豆國 加茂郡 伊豆三島神社と同神なりと云ふ、
延喜式内神社として、住古より靈験新なり、
故に中古以來 代々の藩主の崇敬厚く、殊に武藤氏を初め 最上出羽守義光等許多の神地を寄附したりと云ふ、續いて藩主 酒井家の崇敬厚く、後桃園天皇 安永年間に社殿を造営し、旦つ社領五十餘石を寄附の事ありたり、
明治九年十月 延喜式内郷社と定められたり、當社は永續資本金額三千七百三十三圓餘を所有す。當地は鶴岡町の西南一里半、田川村の東に丘陵を隔て金峰山の西北陰にあり、境内三千八百六十三坪 (官有地第一種)にして、社殿は本殿、拜殿、幣殿等を備へ、寶物は鏡一面あり。
境内神社
與喜天(ヨキテン)神社 諏訪(スハノ)神社
【原文参照】
由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
出羽国 9座(大2座・小7座)
出羽国(でわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 出羽国には 9座(大2座・小7座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
出羽國 式内社 9座(大2座・小7座)について