由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は 西ノ島の「いか寄せの浜」に鎮座します 伝説では ご祭神 由良比女命が海を渡っている時 海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた その非礼をわびて「いか」が 毎年 由良の浜に群れで押し寄せるようになったと伝わります 当社が〈西ノ島の由良の浜に神社が遷座後〉もとの鎮座地 知夫里島の「いか浜」には「いか」は寄らなくなったと伝えられます
※(朱印の記帳は 西ノ島町観光協会 窓口にて)
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
由良比女神社(Yurahime Shrine)
(ゆらひめじんじゃ)
[通称名(Common name)]
由良さん(yura san)
【鎮座地 (location) 】
島根県隠岐郡西ノ島町浦郷922
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》由良比女命(yurahime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・海上安全 Maritime safety
・漁業大漁 Big catch of fishery
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 隠岐国一之宮(oki no kuni ichinomiya)
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
祭神 由良比女命
例祭 7月28日(大祭は平成17年より7月の最終土日曜日となる)当社は、仁明天皇承和9年(842年)官社に預き、延喜式神明帳には「明神大」として、神中抄には「わたす宮」、土佐日記には「ちぶりの神」として見えたり。
海上守護の神として古来より上下の崇敬篤く、外国の使節を遣する際、或いは外患を防ぐ時等に鄭重なる祈祷ありと続日本後紀 三代実録に記されたり。
安永2年(1773年)各村の庄屋集りて大祭の儀を復興し、島前一統の祭としその制を今尚伝えたり。
隔年に行れる御旅の祭には、遠く雲石(島根県)伯耆(鳥取県西部)但馬(兵庫県北部)より、新造の漁船を曳航し競って神船に列せんとしたり、近郷の漁船供奉して漕ぎ競えをなせり。
社前の由良の浜には、毎年10月より翌年2月にかけて「いか」の群集するあり、その寄来るときは滝の響の如くなり。小屋掛けをして待ちこれを掬い取る。多きときは一夜数千連(一連=20パイ)も押寄せり。
11月29日の神帰祭(かみがえりさい)には少しと雖(いえど)も寄らざることなし。これ遠き古より今に至るまで、変わることなき不思議の一なり。
昭和29年6月28日 宮司境内案内板より
【由 緒 (history)】
祭神 由良比女命
例祭 7月28日 特殊祭 神帰祭(かみがえりさい)
11月29日由緒 当社は 仁明天皇 承和9年(842)官社に預かり
承和15年、清和天皇 貞観8年、陽成天皇 元慶元年に朝廷より丁重な祈祷ありと六国史に見え、
醍醐天皇の延喜式(905)に名神大・元名和多須神とあり、
袖中抄、土佐日記に「ちぶり神」としてあります。海上安全守護の神として 遣唐使や使節を遣わす時、新羅の賊兵を防ぐなど大陸交通の要点として隠岐の国の諸神とともに朝廷に尊崇せられ、
一般世人にも信仰されたと思われます。平安朝末期に隠岐国の一宮と定められましたが、以後 徳川時代の中頃まで衰微していました。
寛文7年(1667)松江藩士斎藤豊宣の隠州視聴合記に「由良明神と号する小社あり極めて小さく古りはてて亡きが如し」とあり、
元禄9年(1696)1国1宮に詣でし橘三喜、都々美一光もその衰微を慨き神光あらわれることを願い、都々美一光は おきつ風吹きつたへなむ由良姫の御籬によする浪のしらゆふ と詠って去りました。慶長12年、元禄5年に本社建立をしていることは里人もかなり努力したと思われますが、衰微の原因として武士の時代になると遠流の地 隠岐の国は、覇権を奪るには不要な土地であり、造船、航海術の進歩は九州拠点となり、隠岐の神々の加護を必要としませんでした。
また、田畑の少ない浦郷では、天災による影響も大きかったことが神社衰微の原因と推測されます。
安永2年(1773)島前13ヶ村の庄屋が集まり、御旅祭の再興を相談していることは島前に於ける当社の位置を示しています。
明治5年郷社に列し、22年精巧な本殿を改築し、昭和6年拝殿改築、境内地を整備して神域を整え、昭和50年 島根県特別神社神社に指定されました。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿横の3社合殿
・伊勢之宮(ise no miya)
《主》天照大神(amaterasu okami)
・豊受宮(toyoke no miya)
《主》豊受大神(toyoke no okami)
・出雲大社(izumo no oyashiro)
《主》大国主命(okuninushi no mikoto)
・恵比須社(ebisusha)
《主》事代主大神(kotoshironushi no okami)
・龍蛇社(ryuja no yashiro)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)隠岐国 16座(大4座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)知夫郡 7座(大1座・小6座)[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社名 ] 由良比女神社(貞・名神大・元名和多須神)
[ふ り が な ] (ゆらひめの かみのやしろ)
(みょうじんだい・もとな わたすのかみ)
[How to read ](yurahime no kamino yashiro)(myojindai・motona watasu no kami)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
由良比女神社(yurahime shrine)の大祭(taisai)について
海辺に建つ鳥居は 大祭のコースにあります
開催時期:隔年(西暦奇数年)7月最終土日
開催場所:由良比女神社周辺(浦郷)隔年(西暦奇数年)の7月最終の土日に由良比女神社の大祭が執り行われます島にある数多くの祭の中でも 最大規模のもとされています
初日は 朝から式典と相撲が奉納され 夕方から大神興(みこし)が神社横の広場にくり出されます この神輿の要員は 約250人に近くいて 神船のつながれている船着場まで練り歩きます神輿が 神船に乗ると この神船をはさんで2隻の船に観光客なども乗り込み ゆっくりと浦郷湾を一時間ほどかけて巡航します 花火が海上に打ちあがり 夜の海上渡御(かいじょうとぎょ)は終わります
翌日は 還幸(かんこう)式で 前日の夜に御仮屋に納められた御輿を再び神社に担いで帰ります 由良比女神社の境内では 若者たちが 次は2年後まで担(かつ)げないと 神輿の練り歩きが夜遅くまで続きます
隠岐の式内社〈16座〉について
隠岐国には16座(大4座・小2座)の式内社があります
その論社も含めてご紹介します
隠岐の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 隠岐國の16座(大4座・小12座)の神社のことです 現在の論社は 22神社となり 隠岐の固有の神々を祀る神社が多く貴重です
隠岐国 式内社16座(大4座・小2座)について
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西ノ島 別府港ターミナルから R485号経由 約6.2Km 車10分程度
「いか寄せの浜」に到着
由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は 西ノ島の「いか寄せの浜」に鎮座します 伝説では ご祭神 由良比女命が海を渡っている時 海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた その非礼をわびて「いか」が 毎年 由良の浜に群れで押し寄せるようになったと伝わります 当社は もと知夫里島の「いか浜」にあって 浦郷の由良の浜に神社が遷されてからは「いか」が「いか浜」には寄らなくなったとも伝えられています
由良比女神社(yurahime shrine)に到着
一礼して鳥居をくぐります すぐ左手に手水舎があり 清めます
右手には 土俵があります 隠岐の神社には土俵が良くあります
隋神門が建ち 石畳の参道が延びます
隋神門をくぐり抜けると 社殿の建つ一段高くなっている境内へ石段があり その前に石灯篭と鳥居が建っています
左手には 社務所がありますが 不在です ご朱印は西ノ島観光協会で受け付けると案内紙が張られています
鳥居をくぐり抜けて 石段を上がると 立派な社殿が建っています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参拝は9月1日でしたが 夏の終わりを惜しむかのように 境内中に「ミンミンゼミ」が 名通りの「ミーンミンミンミンミンミー…」という鳴き声が響き渡っています
あまりにも大きな声で鳴いているので探してみると お詣りの際も逃げもせずに 鈴尾で鳴いていて 頭の芯まで御祭神の投げかけのように響き渡っています
その後 飛んで 私の肩に留まっていたのには驚きました
社殿の向かって左側は 広々とした空間になっていて 社殿を良く眺められます
真横から眺めると 拝殿・幣殿・本殿と繋がってとても綺麗です
御本殿は 春日造りに近い造りです
社殿の向かって右側には 境内社があり お詣りをします
参道を戻ります
鳥居 隋神門をくぐり抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
「いか寄せの浜」について
御祭神と「いか(烏賊)」に深い関連が言い伝えとして残されています
島前(dozen)の伝承
神無月の頃、御祭神の由良比女命が 出雲へ渡るとき 芋桶に乗って海を渡っているとき 海に浸した由良比女命の手をイカが引っ張った(噛み付いたともいう)神様とは思わなかったイカが お詫びとして毎年社前の浜にイカが押し寄せるようになったと伝わります
昭和の始め頃までは 毎年のようにイカの大群が寄っていて 現在でも数年に一度イカ寄せがあります
御祭神と「いか」の関係について
案内板によれば
由良の浜「いか」寄せのこと
・伝説
一、
祭神当地にご渡海の際に海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた。その非礼をわびて「いか」が寄るようになったと伝えられています。二、
神武天皇の御代に祭神が「いか」を手に持つて現れたとも伝えられています。三、
当社は もと知夫里島の「いか浜」にあつたが浦郷の由良の浜に神社が遷されてから「いか」が「いか浜」には寄らなくなつたとも伝えられています。四、
11月29日の夜には祭神が出雲の国から帰つてこられるので、神帰祭が奉仕されます。この夜には多少にかかわらず「いか」が寄ると伝えられ戦後も随分このことがありました。・実績
一、
昭和3年2月 当地の住民2名で数万匹の「いか」を拾い浜は足の踏み場もないほどで、一人は水田、一人は畑を各々一反歩買つたとのこと。
二、
昭和20年秋は、終戦直後で日本中食料難、金より物の時代、当地の警察官が小舟いつばいの「いか」を拾い売却し、これを事業資金にして転職したとのこと。
三、
昭和43年11月30日夜、当地の浦郷警察署の署員が歳末警戒の帰途「いか」の寄るのを発見し、署長、非番職員に土地の者も加わつて一万六千匹拾いました。
●昔は
「いか」拾い小屋が連立していました。当社は「するめ大明神」「いか神様」として崇敬を集めています。土地の人達は殆ど「いか」拾いの経験があります。
数百匹・数干匹も珍しいことではなく、拾つた人の個人所有で上納などのことはありません。
●なぜ最近「いか」が寄らないのか。
「いか」が寄るのは11月から2月まで。
[日本海中央、大和堆の多数のいか釣り船、海況の変化、埋立による由良湾の狭少、養殖いけす、防波堤などの漁業施設、昼夜を分かたぬ漁船の航行などが考えられます。
しかし、浦郷湾内にある2統の大敷網には12~1月は「いか」が沢山とれています。
近年、秋には紅イカ(主地ではドウタレイカ体長1m)が沢山とれています。
平成4年4月 由良比女神社宮司
知夫里島にある島津島に鎮座する「渡津神社(watatsu shrine)」の伝承では
知夫里島の言い伝えでは
知夫村の地名は 島津島に「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られた神社があったので名付けられたとしています
この「地触神 ちぶり神(chiburi no kami)」が 知夫里島にある島津島(無人島)に鎮座する「渡津神社(watatsu shrine)」としています
「紀貫之(ki no tsurayuki)」が 土佐国から宮に帰る道中日記『土佐日記(tosa nikki)』にも詠われていて
「 わたつみの 道触の神に 手向する ぬさの追い風 止まず吹かなん 」
とは 島津島に鎮座する「渡津神社(watatsu shrine)」としています
とすると 西ノ島の「由良比女神社(yurahime shrine)」の「いか寄せ浜」に残る伝承が気になります
元々 知夫里島の古海に鎮座していた由良比女神社が 浦郷に移されてから 知夫里島に烏賊が寄らなくなったと伝えられています
当社は もと知夫里島の「いか浜」にあつたが 浦郷の由良の浜に神社が遷されてから「いか」が「いか浜」には寄らなくなつたとも伝えられています。
由良比女神社 いか寄せ浜 案内板より
・渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています
渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
『続日本後紀(shoku nihon koki)』仁明天皇承和9年(842)9月の条 に記される伝承
隠岐の国の3つの神社が同時に 官社に預かる旨が記されています
由良比売命神(西ノ島の由良比女神社)・宇受加命神(中ノ島の宇受賀命神社)・水若酢命(島後の水若酢神社)
「 隠岐国 智夫郡 由良比賣命神(yurahime no mikoto no kami)
海部郡 宇受加命神(ukeka no mikoto no kami)穏地郡 水若酢命(minawakasu no mikoto)
並預官社 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
由良比女神社(yurahime shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
隠岐には もうひとつ一之宮があります
島後の一之宮「水若酢神社」の記事もご覧ください
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)は 創建は 第10代崇神天皇の時代と云われ 隠岐国の一之宮 隠岐の島町(島後)の五箇地区に鎮座し 老いた黒松の生える境内が美しい古社です 御祭神の水若酢命(mizuwakasu no mikoto)は 隠岐国の国土開発と日本海鎮護の神であったと伝承されています
水若酢神社(隠岐の島後 隠岐の島)
隠岐国 式内社16座(大4座・小2座)について に戻る
隠岐の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 隠岐國の16座(大4座・小12座)の神社のことです 現在の論社は 22神社となり 隠岐の固有の神々を祀る神社が多く貴重です
隠岐国 式内社16座(大4座・小2座)について
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について