実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

吉見神社(熊谷市相上)

吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられ善政をしいたとされる御諸別王みもろわけのみこ)が 天照大神祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

吉見神社(Yoshumi shrine)

通称名(Common name)

大神宮様だいじんぐうさま

【鎮座地 (Location) 

埼玉県熊谷市相上1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天照坐皇(あまてらすにます すめおほみかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

吉見神社 大里村相上一(相上字宮前区)

 当社は『風土記稿』に神明社と載り「古へは上吉見領の総鎮守なりしが、名村へ鎮守を勧請して、今は村内のみの鎮守とせり、社の傍に纔の沼あり、神竜潜み住と言伝ふ、神主須永大内蔵 入間郡塚越村勝雅楽が配下なり」と説明している。

 上吉見領とは『風土記稿』に見える領名で、村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八ツ林・箕輪・甲山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曾根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・平塚新田の二三か村である。
 この二三か村は、現在の大里村を中心に熊谷市と江南村の一部に当たり、当社はこのほぼ中央に位置する相上にある。
 ここで注目すべき点は、二三か村のうちに上・中・下の恩田があることで、この恩田は、鎌倉円覚寺正統院文書貞和五年(一三四九)のものに「武州恩田御厨」とあり伊勢神宮の神領であったことが知られる。御厨は、平安時代に荘園が全国的に広がり、公的な神宮の財源であった神郡・神戸・神田の実が失われ、神宮の私経済的な一種の荘園として発達したもので、年貢として上分米を神宮に納め、あるいは土地の産物を供進した。この御厨で伊勢神宮の分祀を祀ることは広く行われている。当社もこの例の一つとして天照大神を祀ったと考えられる。なお、中恩田には豊受大神を祀る神明社があった。

 当社には、創建を物語る文書が何点か伝えられている。このうちの一つに、
和銅六年(七一三)の伝として、景行天皇五十六年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、倭国・山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して、多里郡(大里郡)を置き、後に豊かな地となった奉賽として、太古に武夷鳥命が高天原から持ち降ったという、天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀り、以来、御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している、とある、現宮司須長二男家はこの末である。

また、別の文書には、御諸別王が関東下向の時、当地を開こうとして天照大神に祈誓したところ、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成った、ここに天照大神を斎い祀った、とある。
このように、当社の創建を語る時には、必ず天照大神を祀って水田を開き豊かな土地となる話が基になっている。これは、伊勢御厨の設定につながる伝承と言えるであろう。

 『大里郡神社誌』は、大里村玉作の須藤開邦家文書として当社は上吉見領の総鎮守であったが、応永(一三九四一四二八)の戦乱により神領を失い、天正のころ(一五七三九二)には旧五か村と呼ぶ相上・玉作・箕輪・甲山・小八ツ林の鎮守となったと載せている。ちなみに、旧神領は七五〇貫の地であったという。

埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

【由  (History)】

村指定無形文化財

相上神楽(あいあげかぐら)

指 定 昭和五十四年五月十四日
所在地 大里村大字相上
期 日 七月十五日 吉見神社境内

相上神楽の起源は、江戸時代中期、天保六年(一八三五年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに結界しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し奉賽したのが始めと言われている。
相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
そして、平成七年相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
大里村教育委員会

曲目には「岩戸開(いわとひらき)」「氷(ひ)の川(かわ)」「大蛇退治(だいじゃたいじ)」「剣玉(けんだま)」などがあるそうです

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

一の鳥居

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二の鳥居

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二の鳥居くぐり右手 石碑

奉納 永代御供米田地 日光道中壹丁驛 上埜屋庄兵衛゛と刻字ある慶應二年(1866)石碑

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〈参道向かって右手〉井戸水の手水舎 & 石燈籠の横に の小石祠門神

の小石祠
向かって右・《主》豊岩間戸
向かって左《主》櫛岩間戸

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参道向かって左手 八宇の石祠

祠に刻字あり判読すると 向かって右から八幡宮(判読出来ず天満宮牛頭天王辣才天女宮頭大宮金比羅大神社天神宮

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〈社殿向かって左手前に境内社 七社合殿が二つ 計十四社〉

向かって右の七社合殿

向かって右から
・豊受荒魂神・養蚕神・秩父神・二荒神・賀々美神・雨降神日枝神

向かって左の七社合殿

向かって右から
・浅間神・斎神・玉造神・荒祭神・水分神・興玉神三嶋神

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拝殿の前に 拝所〈遥拝所〉

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拝殿前の 御神木のスダジイ と社殿

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・社殿向かって右前゛鈴水神楽記゛の石碑

〈碑文は読めず〉

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・社殿向かって右 十社の境内社

向かって右から
・御年神・住吉神・伊邪那岐神・杵築神・氷川神・香取神・鹿神・春日神・風祈神月読神

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境内東側 三社の境内社

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向かって右から

〈石板に刻字天神社《主》天穂日命,武比奈鳥命

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東宮社《主》健予斯味命,御諸別王

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伊奈利神社《主》宇迦乃魂命

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纔の沼神龍潜み住む 言い伝えあり境内東側

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 横見神社
[ふ り が な ]よこみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Yokomi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

武蔵國 横見(よこみ)郡謂れ(いわれ)について

 この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます
 これは第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛横渟(よこゐ)゛伝承

埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が 武蔵国造の地位をめぐって争った事が 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時の武蔵國が 東国の蝦夷(えみし)への前線として 朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます

因みに 武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで 第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます

【抜粋意訳】

第十八巻 安閑天皇 宣化天皇

安閑天皇 元年閏十二月の

武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主かさはらのあたいおみと同族の小杵おきが 国造くにのみやつこの地位を争い 長年決着しなかった

使主(おみ)・小杵おきはどちらも名前です

小杵おき 性格が激しく逆らうことがあった 心が高慢で順(まつろう)〈従う〉ことがなかった
ひそかに上毛野小熊かみつけのきみおくまに助を求め 使主おみを殺そうと謀りました
使主おみ悟って 逃げ走り (みやこ)詣で到り 実状を言上しまし

朝廷は 臨断裁断を下され 使主おみを国造くにのみやつことし 小杵おきを誅殺しました

国造くにのみやつこ使主おみ 恐懼感激して黙し得ず黙っていられなくなるほど 喜び心に満ち

国家のために横淳よこぬ)〈横渟(よこゐ)〉・橘花たちばな)・多氷おおひ)・倉樔くらすの四力所屯倉みやけを設け奉りました

この年 太歳甲寅(をほとし きのえとら

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社について

・横見神社(吉見町御所)

一緒に読む
横見神社(吉見町御所)

横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます

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・横見神社(吉見町久保田)
建長年間(1249~56大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)の御神体が窪田村(当時)に漂着し 現在まで祀られている神社

一緒に読む
横見神社(吉見町久保田)

横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています

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・氷川神社(吉見町上細谷)

一緒に読む
氷川神社(吉見町上細谷)

氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります

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・吉見神社(熊谷市相上)

一緒に読む
吉見神社(熊谷市相上)

吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられて善政をしいたとされる御諸別王(みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています

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・野芽神社(吉見町和名)〈郷土史研究家による推定 参考論社〉

一緒に読む
野芽神社(吉見町和名)

野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR高崎線 吹上駅から県道307号を南下 約6.2km 荒川に架かる大芦橋を渡り 車15分程度

和田吉野川の南岸に位置します
郷社 吉見神社 と刻字された社号標と鳥居が建ちます

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参道の途中に墓地があり 鳥居のある大きな墓は 社家 須長家の墓所
反対側には 鎮守の杜があります

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南を向いている社殿と境内鎮守の杜 南向きに 二の鳥居が建ちます 

吉見神社(熊谷市相上)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり 境内へと進むと 木々に囲まれて木漏れ日の射しこむ 砂利が敷き詰められた広い空間があり 周囲に境内社が祀られ 細い石畳の参道の先に 玉垣に囲まれた 一段高い社檀に社殿が建ちます

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玉垣とともに設けられている神門が拝所となっていて 拝殿ではなく こちらで参拝 

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参道と社殿は共に南向きですが わずかに向きが違います
これは 参拝者が正中を進まないように 意図的に工夫がされているものです
古社には よくある方法です
社殿の正面から見ると良くわかります

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遥拝所にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿構成は 前面から 神門〈遥拝所〉 拝殿 幣殿 本殿と続いています

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沢山の境内社があり お詣りをします

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境内の東側に向かう小道があり 進んで行くと 静けさの漂う沼のようなものがあります
ここは゛纔の沼゛と呼ばれるらしく゛神龍潜み住む゛との言い伝えがあります

その雰囲気はあります

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社殿一礼をして 参道を戻ります

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田圃越しに 二の鳥居の正面を振り返る 神社の向かって左〈西側〉の堤は 相上堤あいあげのつつみ)です 江戸時代初期に築かれた堤防で 暴れ川だった和田吉野川の右岸堤防に直角に接続して 大里地区への氾濫を防いだとの事で 神龍潜み住む゛纔の沼゛はこの氾濫の守護神なのでしょうか

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される御諸別王みもろわけのみこ伝承

吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられ善政をしいたとされる御諸別王みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています

【抜粋意訳】

景行天皇 五十六年秋八月の条

五十六年秋八月 御諸別王ミモロワケノミコに詔された
「お前の父 彦狭島王ヒコサシマノミコ に行けず 早く死んだ そこで お前が 専ら東国(アヅマノクニ)(オサ)めよ」

それで 御諸別王ミモロワケノミコ 天皇の命を承り 父の業(ツイデ)成そうとした 早速に行って治めて 速やかに良い政(マツリゴト)〈善政をしいた

そのとき 蝦夷(エミシ)が騒いだので すぐ兵を挙げ撃ちとった
そのとき 蝦夷(エミシ)首帥首領の足振アシフリベ)・大羽振辺オオハフリベ遠津闇男辺トオツクラオ)など 頭を下げてやってきた
おとなしく罪を受け入れ その領地をすべて献上したので
よって 従う人を許し 降伏せぬ者は誅殺まし

こうして 東の方〈東国 久しく事なき〈反乱など無く〉を得ました
その子孫は 今も東国にいます

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

吉見神社(熊谷市相上)について 大里郡 相上(あいあげ)の神明社として 記されています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二二一 大里郡 巻之三 御正領 相上村

神明社

當社 古へは上吉見領の總鎮守なりしが 各村へ鎮守を勧請して 今は村内のみの鎮守とせり
社の傍に纔の沼あり 神龍潜み住と云傳ふ
神主 須永大内蔵 入間郡塚越村雅楽が配下なり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 横見神社所在について (高負比古根神社に由来して 古くは高負村と呼ばれた田甲村〈現 吉見町田甲〉の゛横見松゛と記していますが 現在どこにあるのかは判りません
その他に 御所村に飯玉氷川〈現 横見神社(吉見町御所)

【抜粋意訳】

横見神社

横見は郡名に同じ
○祭神 素戔鳴尊、倉稻魂命、(地名記)
○田甲村に在す、(同上)
例祭、  日、

地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神拝の人是を横見神社と云、然れど村役人に問に証たる事なし、

 田甲村名主云、三社共に田甲村にありと、此説も亦信用がたし、伊波比神社は黒岩村にあり、高負比古神社は田甲村にあり、尤此所に横見松などあれば、横見神社は田甲村なるべし、

類社
美作國 大庭郡 横見神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 横見神社について 社号のみ 記されています

【抜粋意訳】

横見(ヨコミノ)神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 横見神社所在について 御所村〈現 横見神社(吉見町御所)〉と記しています

【抜粋意訳】

横見神社

祭神
今按〈今考えるに〉
明細帳 祭神 素戔嗚尊 稲倉魂神 大己貴命とあり
武蔵式社道程命附に大己貴命はなくて 二社を祭る由 云れど主神は何れの神にますや詳かならず 思ふに素戔嗚尊 大己貴命の内 一座なるべし
稲倉魂命は由ありとも聞えざれば也

祭日 九月十五日
社格 郷社
所在 御所村(比企郡西吉見村大字御所)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

吉見神社(熊谷市相上)について 創立年代詳ならず としながらも「社傳に云く、人皇十二代景行天皇ノ御宇・・創建」と記しています

【抜粋意訳】

〇埼玉縣 武蔵國 大里郡吉見村大字村上

郷社 吉見(ヨシミノ)神社

祭神 天照皇大御神(アマテラススメオホミカミ)

本社は元と神明社と称す、創立年代詳ならず、
但し社傳に云く、「人皇十二代景行天皇ノ御宇、御諸別王、東国巡視ノ際、此地ニ来リ給ヒシ頃創立」云々と、御神体は御鏡に坐ます、
新編武蔵風土記稿に云ふ、「古ヘハ上吉見領ノ総鎮守ナリシカ、各村へ鎮守ヲ勧請シテ、今ハ村内ノミノ鎮守トセリ」と見え、現に当村の氏神なり、
明沿年村社に列せしが、十七二月六日郷社に昇格す、
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他拝礼所、八足門等にして、境内895坪(官有地第一種)古来吉見の社と称し、老杉古檜叢生し、其の間櫻花介在す、春時紅花緑翠差として、美観を呈す、社記に云く、「社ノ傍ニ纔ノ沼アリ、神龍潜ミ住ト云伝フ」
当社宝物には和銅年間の古文書を始め、後宇多帝当時の旭日章旗一流、紺紙金泥の大同類聚一巻等あり

境内神社
伊邪那岐神社 鹿島神社 月讀神社 香取神社 風祈神社 豊受荒神社 春日神社 氷川神社 住吉神社 右九社合併

杵築神社 養蚕神社 八幡神社 瀧祭神社 犬祠 於呂知祠 御門神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

吉見神社(熊谷市相上)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています