横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
横見神社(Yokomi shrine)
【通称名(Common name)】
郷社様(ごうしゃさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県比企郡吉見町御所1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
櫛稲田比売命(くしいなだひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・穀霊信仰
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝によれば 創建は和銅年間(708~715)
【由 緒 (History)】
横見神社
横見町御所一(御所字稲荷前)
御所の地名は、平安時代末から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内に築かれ、人々がそれを「吉見の御所」と呼んでいたところから名付けられた。その吉見氏は、源頼朝の弟、範頼の子孫で永仁四年(一二九六)まで四代にわたり当地を支配した。
当社は、吉見丘陵の東端部に近い麓の平地に鎮座している。付近には、古墳時代後期の集落跡である稲荷前遺跡があり、当社も同時期の古墳の上に築かれている。
境内末社である稲荷社も「稲荷塚」と称する御所古墳群の上に鎮座しており、当地は、これら遺跡の発見から低地開発が古墳時代に始まっていたことが明らかとなっている。社伝によれば 創建は和銅年間(七〇八~一五)である。『延喜式』神名帳に載る式内社で、旧横見郡三社のうちの一社である。
その中で最も早い列格は 田甲の高負彦根神社で、宝亀三年(七七二)の太政官符にみえる。したがって、当社はその後に列した官社である。
旧郡の式内三社は 狭い地域に集中しており、当地一帯が朝廷から重視されていたのが分かる。式内社は、一部に有力氏族の氏神的な社もあるが、大半はその神験が高いことで列格している。
それは国家の有力社として 国家大事の際に 神験の発揚が期待されたからである。
その神験をはかるのは 民衆の信仰で、例えば 承和四年(八三七)の豊前国田河郡の四神は「水旱疾疫の災ある毎に郡司・百姓が祈禱すると必ず感応し、年が登るにつれて人々が多く祈る。」(『続日本後紀』)という申請であるし、また、武蔵国播羅郡の奈良神の例も、嘉祥三年(八五〇)に「民に疫癘あらば祈りて癒す。」(『日本文徳天皇実録』)という理由で官社に列した。
当社も、朝廷に認められるほど霊験あらたかで 祈願に訪れる人も多かったに違いない。また、官社列格は名誉ではあるが経済的制約が多く、民衆の信仰に支えられたところは大きい。中世に至ると、吉見氏が衰退し、以後は有力支配者が姿を消してしまい、当地は名主などの有力農民層の管理に移る。
その混乱期の中で 当社は 飯玉氷川明神社と社号を改称している。飯玉は、江南町の飯玉神社の由緒に説かれるように、飯は炊いた米、玉は魂・霊の意で穀霊信仰を表している。
『風土記稿』には、当社は上細谷村の項に記されているが、「御所村の持にして」とある。これは、行政区域の変更によるもので、上細谷村域となった時期にも、旧例により御所村民の管理が続いたのであり、鎮座地は移動していない。
後に社号が旧に復しており、『郡村誌』は横見神社と記している。
明治七年に郷社に列格した。
なお、明治五年ごろ、境内末社として稲荷社が創建された。一説には、古墳群(稲荷塚)の保持のためにその上に建立したと伝える。『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿は 古墳上
・三峯神社〈社殿 向かって左手〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・稲荷神社〈社頭の鳥居向かって すぐ左手の稲荷塚(稲荷古墳)に鎮座〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 横見神社
[ふ り が な ](よこみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yokomi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れ(いわれ)について
この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りです
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます
これは第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛横渟(よこゐ)゛伝承
埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が 武蔵国造の地位をめぐって争った事が 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時の武蔵國が 東国の蝦夷(えみし)への前線として 朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
因みに 武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで 第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
【抜粋意訳】
第十八巻 安閑天皇 宣化天皇
安閑天皇 元年閏十二月の条
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)とが 国造(くにのみやつこ)の地位を争い 長年決着しなかった
※使主(おみ)・小杵(おき)はどちらも名前です
小杵(おき)は 性格が激しく逆らうことがあった 心が高慢で順(まつろう)〈従う〉ことがなかった
ひそかに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助を求め 使主(おみ)を殺そうと謀りました
使主(おみ)は悟って 逃げ走り 京(みやこ)に詣で到り 実状を言上しました
朝廷は 臨断〈裁断〉を下され 使主(おみ)を国造(くにのみやつこ)とし 小杵(おき)を誅殺しました国造(くにのみやつこ)使主(おみ)は 恐懼感激して黙し得ず〈黙っていられなくなるほど 喜びが心に満ちた〉
国家のために・横淳(よこぬ)〈横渟(よこゐ)〉・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四力所に屯倉(みやけ)を設け奉りました
この年 太歳甲寅(をほとし きのえとら)
【原文参照】
延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社について
・横見神社(吉見町御所)
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます
横見神社(吉見町御所)
・横見神社(吉見町久保田)
〈建長年間(1249~56)大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 現在まで祀られている神社〉
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
横見神社(吉見町久保田)
・氷川神社(吉見町上細谷)
氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります
氷川神社(吉見町上細谷)
・吉見神社(熊谷市相上)
吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられて善政をしいたとされる御諸別王(みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
吉見神社(熊谷市相上)
・野芽神社(吉見町和名)〈郷土史研究家による推定 参考論社〉
野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります
野芽神社(吉見町和名)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武東上線 東松山駅から 県道271号を東へ約6.1km 車15分程度
社頭の社号標に 郷社 横見神社と刻字
横見神社(吉見町御所)に参着
鳥居の扁額には 延喜式内 横見神社と朱文字で刻されています
注連縄の低く掛かる鳥居 頭をたれて くぐり抜けると 狭い参道を挟むように石燈籠があり その先の神橋を渡ると 紅葉し始めている銀杏が注連縄柱のように参道を挟んで生えていて 社殿があります
二本の銀杏の内 一本が黄色く色付いています
拝殿にすすみます 向かって左手に 境内社 三峯社の石祠
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の裏手に廻ると 古墳とおもわれる上に 本殿の覆屋が建ちます
神聖な古墳の上は歩けませんので 脇から境内を振り返ると
社殿と古墳に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
横見神社(吉見町御所)について 飯玉氷川明神社と号して 七ヶ村の鎮守だが 古は 金の弊束があったが 中古 洪水の時 社と共に久保田村へ流れて行き 今は失っなっている と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之一九七 横見郡 巻之二 下吉見領 上細谷村
飯玉氷川社地之圖
飯玉氷川明神社
是 延喜式神名帳に載る横見の神社にて 祭神 素戔嗚尊 稲倉玉命なりと云傳れど 慥なる據あるにはあらず
當村 及 下細谷 黒岩 御所 谷口 中新井 久保田 七ヶ村の鎮守なり
社の後に 神木とて 圍〈囲〉一丈五尺程の松あり 此下に石槨ありと云傳ふ
古は 社に金の弊束ありしが 中古 洪水の時 社共に久保田村へ流れ行て 今は失へりとぞ
別當は 下細谷村 照明寺なれど 御所村の持にして 平日は黒岩村 大寶院進退せり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について (高負比古根神社に由来して 古くは高負村と呼ばれた)田甲村〈現 吉見町田甲〉の゛横見松゛と記していますが 現在どこにあるのかは判りません
その他に 御所村に飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉
【抜粋意訳】
横見神社
横見は郡名に同じ
○祭神 素戔鳴尊、倉稻魂命、(地名記)
○田甲村に在す、(同上)
例祭、 月 日、
地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神拝の人是を横見神社と云、然れど村役人に問に証たる事なし、
又 田甲村名主云、三社共に田甲村にありと、此説も亦信用がたし、伊波比神社は黒岩村にあり、高負比古神社は田甲村にあり、尤此所に横見松などあれば、横見神社は田甲村なるべし、
類社
美作國 大庭郡 横見神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 横見神社について 社号のみ 記されています
【抜粋意訳】
横見(ヨコミノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について 御所村〈現 横見神社(吉見町御所)〉と記しています
【抜粋意訳】
横見神社
祭神
今按〈今考えるに〉
明細帳 祭神 素戔嗚尊 稲倉魂神 大己貴命とあり
武蔵式社道程命附に大己貴命はなくて 二社を祭る由 云れど主神は何れの神にますや詳かならず 思ふに素戔嗚尊 大己貴命の内 一座なるべし
稲倉魂命は由ありとも聞えざれば也祭日 九月十五日
社格 郷社
所在 御所村(比企郡西吉見村大字御所)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
横見神社(吉見町御所)について 一般に式内社 横見神社としている しかし村役人に聞いても判らないと答え むしろ(古くは高負村と呼ばれた)田甲村〈本文は 田中村と誤写している〉にあるという説を載せています
又「往古は 社内金の幣束を蔵せしが、中古 洪水ありて、社殿 久保田村に流失せし時に失へりと」と神体などが 横見神社(吉見町久保田)に流れて行って失ってしまった と記しています
【抜粋意訳】
〇埼玉縣 武蔵國 比企郡西吉見村 大字御所
郷社 横見(ヨコミノ)神社
祭神
建速須佐男(タケハヤスサノヲノ)命
櫛稻田比賣(クシイナダヒメノ)命創立年代詳ならずと雖も、延喜の制武内の小社に列し。当国四十四座の一に坐ます、
中古 当村 及 上細谷 下細谷 黒岩 御所谷口 中新井 久保田 七ケ村の鎮守にして、飯玉氷川明神社と称せり、新編武蔵風土記に云く、
「社ノ後ニ神木トテ、圍〈囲〉一丈五尺程ノ松アリ、此下ニ石槨アリト云フ、」
と見えたるが、明治五年六月二十八日、暴風雨落雷に当り、土地崩壊して石櫃発らはる、其の石蓋を開くに一物あるなし、
明細帳付記して云く「蓋シ太古国造県主等ノ墳墓ナラン」と、傳云ふ、
往古は 社内金の幣束を蔵せしが、中古 洪水ありて、社殿 久保田村に流失せし時に失へりと、
明治七年郷社に列せらる、社殿一宇、境内千九十六坪(官有地第一種)あり。新編武蔵風土記稿 及 特選神名牒 及 当國式社考 共に当社を以て 式の横見神社とすと雖も、
神社覈録 地名記に依り 田中村に在す と記し「地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神殿の人 是を横見神社と云、然れども 村役人に問に証たる事なし」と付記す、又 武蔵国式内四十四座神社命附にも「御所村ニ、飯玉氷川卜称スル社アレド、信ジカタシ、田中村ナルベシ、ト云アリ」と注す、参考に供す。境内神社 稲荷社 天神社
【原文参照】
横見神社(吉見町御所)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について