矢田部神社(やたべじんじゃ)は 物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)〈一説には 伊香色雄命の孫 武諸隅命(たけもろすみのみこと)〉を祀ると云われる 物部系氏族の゛矢田部氏゛に関連する神社です 延喜式内社 丹後國 與謝郡 矢田部神社(やたへの かみのやしろ)であるとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
矢田部神社(Yatabe shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府与謝郡与謝野町石川矢田4626
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊香色雄命(いかがしこをのみこと)〈物部氏の祖〉
一説に《主》武諸隅命(たけもろすみのみこと)〈伊香色雄命の孫〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
矢田部神社
石川村 小字 矢田鎮座、村社、祭神 伊香色男命、延喜式内社にて神祇志料 地理志科ともに矢田部神社 石川庄石川村字矢田山麓にあり矢田荒神と云ふと爲す。
明治六年二月村社に列せらる、
一説もと香河の谷にありしも何時の頃にや流出せしとも傳ふ、氏子三十戸 祭四月二十五日。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後国 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 矢田部神社
[ふ り が な ](やたへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yatahe no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される゛矢田部氏゛の伝承
次の矢田部氏の関連氏族が登載されています
左京神別゛矢田部連゛〈伊香我色乎命の後〉
山城国神別゛矢田部゛〈鴨建津身命の後〉
大和国神別゛矢田部゛〈饒速日命の七世孫 大新河命の後〉
摂津国神別゛矢田部造゛〈伊香我色雄命の後〉
河内国神別゛矢田部首゛〈神饒速日命の六世孫 伊香我色雄命の後〉
【抜粋意訳】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十一巻 左京神別上 矢田部連(ヤタベノムラジ)
伊香我色雄乎(イカガシコヲノ)命 男。
大水口宿祢(オホミナクチノスクネ)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十六巻 山城國神別 矢田部(ヤタベ)
鴨縣主(カモノアガタヌシ)同祖。
鴨建津身命(カモタケツミノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十七巻 大和國神別 矢田部(ヤタベ)
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)七世(ナナヨツギノ)孫(ヒコ)。
大新河命(オホニヒカハノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十八巻 攝津國神別 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)
伊香我色雄命(イカガシコヲノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十九巻 河内國神別 矢田部首(ヤタベノヲビト)
同神(オナジカミ)〈神饒速日命〉六世(ムツギノ)孫(ヒコ)。
伊香我色雄命(イカガシコヲノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
『先代舊事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される゛矢田部連公゛の伝承
仁徳天皇の時代に 皇后 矢田皇女(やたのひめみこ)に因んで 饒速日命の8世の孫 物部武諸隅の孫の大別連公が 氏を氏造と 姓を矢田部連公と賜ったという伝が記されています
【抜粋意訳】
先代舊事本紀 巻第八 神皇本紀 仁徳天皇
二十二年 春正月〈一月〉
天皇は語って 皇后に仰せになった「矢田皇女(やたのひめみこ)を妃と為したい」
しかし 皇后は不聴(ゆるしたまわらず)〈許されなかった〉三十一年春正月癸丑朔丁卯〈一月十五日〉
去来穂別尊(いさほわけのみこと)を皇太子と立て爲された
三十五年夏六月
皇后 磐之媛命(いはのひめのみこと)が 筒城宮(つづきのみや)に薨(みまかり)〈亡くなられた〉
三十七年冬十一月甲戌朔乙酉〈十二日〉
皇后を那楽山(ならやま)に葬られた
三十八年春 正月癸酉朔戊寅〈一月六日〉
矢田皇女(やたのひめみこ)を立て 皇后と爲された
八十二年春二月乙巳朔
詔(みことのり)侍臣の物部大別連公(もののべのおおわけのむらじきみ)に仰せられた
「皇后には 久しく経ても数年(あなたとし)〈長い間〉皇子が生まれなかった 以て お前を皇子の代(しろ)〈代理〉に定めよう
皇后の號〈名〉を氏と爲し 氏造(ウジノミヤツコ)
矢田部連公(やたべのむらじのきみ)姓(かばね)を 改めて賜った
【原文参照】
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の内゛矢田゛と号する式内社について
いずれも物部系氏族の「矢田部氏」に関連する神社とされています それぞれの論社について
大和國 添下郡 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)(やたのます くしたまひこの かみのやしろ ふたくら)の論社
・矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)
矢田坐久志玉比古神社(やたにいます くしたまひこ じんじゃ)は 延喜式内社です『先代舊事本紀』故事由来には 物部氏の祖神 櫛玉饒速日命が 天神御祖の詔により天孫降臨をされた時 天磐舩(あまのいわふね)に乗り 射放たれた三本の天乃羽羽矢(あめのははや)が この地〈矢田〉に落ちたので゛矢落社(やおちしゃ)゛と称されます
矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)〈延喜式内社〉
丹後國 與謝郡 矢田部神社(やたへの かみのやしろ)の論社
・矢田部神社(与謝野町石川)
矢田部神社(やたべじんじゃ)は 物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)〈一説には 伊香色雄命の孫 武諸隅命(たけもろすみのみこと)〉を祀ると云われる 物部系氏族の゛矢田部氏゛に関連する神社です 延喜式内社 丹後國 與謝郡 矢田部神社(やたへの かみのやしろ)であるとされます
矢田部神社(与謝郡与謝野町石川矢田)〈延喜式内社〉
丹後國 丹波郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)の論社
・矢田神社(京丹後市峰山町矢田)
丹後國 熊野郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)の論社
・矢田神社(京丹後市久美浜町海士)
・矢田八幡神社(京丹後市久美浜町佐野)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 与謝野駅から府道16号を南下 約3.3km 車7分程度
一説には かつては南隣 香河(かご)集落に鎮座とたが流出して 現在地に再建されたと云います 香河には伝承地があるのかはわかりません
香河方面から府道16号を北上すると 道路に何かがいます
望遠で見ると 鳶(トンビ)or鷹(タカ)たぶん 鳶が 社頭あたりにいて 飛び立ちました
府道16号沿い 鳶がいた辺りが 社頭で 石灯籠があり ここから参道が伸びています
一旦歩いてみると
この先に駐車スペースはないので府道の脇に駐車しました
のどかな田の中の参道を進みます
小川に鉄板の橋が架けられています
この小川が 多分ですが 一説には かつては南隣 香河(かご)集落に鎮座とたが流出して 現在地に再建されたとされる云い伝え
度々 洪水が起きていた゛香河川゛だと想います
川を渡ると山裾に道が付いていて おそらく参道
やはり 鳥居が建っていました
矢田部神社(与謝野町石川)に参着
鳥居の先には 石段があり その先に覆屋の中に本殿が祀られています
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上がります
拝殿にすすみます
社殿の前に 古木が被り 幻想的な雰囲気です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
参道の落ち葉の上に カエルがいました
田の中の参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 矢田部神社について 所在などの詳細は記されていません
【抜粋意訳】
矢田部(ヤタヘノ)神社
「旧事紀」矢田部造遠祖 武諸隅命
「姓 氏」矢田部
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 矢田部神社について 所在は山田村〈現 矢田部神社(与謝野町石川)〉と記しています
祭神は 矢田部氏の祖神であろうと考察し 『先代舊事本紀』に記される゛矢田部連公゛の伝承を記しています
又 当國の丹波郡 熊野郡の矢田神社は 同じ神ではないかとも提唱しています
【抜粋意訳】
矢田部神社
矢田部は假字也
〇祭神 矢田部氏祖歟〇山田村に在す、舊事記
〇日本紀、崇神天皇六十年七月丙申朔己酉、詔群臣曰「武日照命(一云武夷鳥、又云天夷鳥)從天將來神寶、藏于出雲大神宮。是欲見焉。」則遣矢田部造遠祖武諸隅(一書云、一名大母隅也)而使獻。姓氏録、左京神別上 矢田部連、同、摂津國神別 矢田部造、同、河内國神別 矢田部首、神饒速日命六世孫 伊香我色雄命之後也、
〇當國 丹波郡 熊野郡に矢田神社あり、同神歟 考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 矢田部神社について 所在は石川村〈現 矢田部神社(与謝野町石川)〉矢田荒神と呼ばれている と記しています
【抜粋意訳】
矢田部(ヤタベノ)神社
今 石川庄 石川村 字 矢田山麗 岩屋村にあり、矢田荒神と云ふ、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 矢田部神社について 所在は石川村〈現 矢田部神社(与謝野町石川)〉と記しています
【抜粋意訳】
矢田部(ヤタベノ)神社
祭神 伊香我色男神(イカガシコヲノカミ)
祭日 十月十八日
社格 村社
所在 石川村 字矢田山(與謝郡石川村大字石川)
【原文参照】
矢田部神社(与謝野町石川)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について