実践和學 Cultural Japan heritage

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箭代神社(氷見市北八代)〈『延喜式』箭代神社〉

箭代神社(やしろじんじゃ) 元は現在地の後方 中山丘陵にあったとされる 延喜式内社 越中國 射水郡 箭代神社(やしろ かみのやしろ)で 祭神は武内宿禰の第八子 葛城襲津彦命とされますが 武内宿禰の子 波多八代宿禰とする別説もあります いずれにしても氏子にも武内宿禰の後裔が多く「氏祖の神社」と里人に呼ばれています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

箭代神社(Yashiro shrine

通称名(Common name)

氏祖の神社

【鎮座地 (Location) 

富山県氷見市北八代787

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》葛城襲津彦命(かずらき の そつひこ のみこと

《配》火皇産霊神(ほむすびのかみ)
   菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

御由緒

延喜式内

旧縣社 箭代神社

 本神社は延喜式内箭代神社にて、祭神は葛城襲津彦命を祀る。本市内の市民其の子孫多き故か、氏祖の神社という。

 旧八代庄北八代村、箭代神社として、三十三ケ村の総社たり。明治五年七尾縣に郷社に加列せられ、昭和五年富山縣の縣社に昇格す。
氷見市内において最古、最高位の神社なり。

 祭神 葛城襲津彦命は武内宿禰の第八子にして、神功皇后摂政五年新羅を撃ち帰り、応神天皇十四年更に加羅国に使いし 三年を経て帰られたり。

 仁徳天皇の皇后、磐之媛命はこの命の御子にて、履中天皇・反正天皇の御生母なり。故に、命は二帝の御外祖父に坐す。

現地案内板より

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【由  (History)】

『高岡誌・射水誌・氷見誌』に記される内容

【抜粋意訳】

氷見誌 阿尾村

箭代神社

北八代に在り 葛城襲津彥命を祀る 延喜式に載する箭代神社は是なり 土人は氏祖の神社と唱ふ 大延元年大延恐らくは誤ならん創建す(祠官河内の上記)
初めは 此より二町許の後山に在りしとそ 現に郷社に列す

【原文参照】

和田文次郎 編『高岡誌・射水誌・氷見誌』,佐伯新聞舗,明33. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764647

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

祭神について゛按ずるに、新撰姓氏錄に、武内宿禰の子 波多八代宿禰あり、本社は此宿禰を祭るか猶考ふべし゛とも記しています

【抜粋意訳】

〇富山縣 越中國 氷見郡阿村大字北八代

郷社 箭代(ヤシロノ)神社

祭神 葛城襲津彦(カツラギソツヒコノ)

 創建は大寶元年勧請に係ると、誌に然れ 由緒の詳細は知られず、延喜式神名帳に箭代神社と有り、

又 同考証に
「箭代神社 今在ニ北箭代村、波多八代宿禰命、倭名抄云、布師、姓氏録云、布師首武内宿禰之後也、」

又三州誌に曰く、
「八代庄は今三十村に當る、東鑑八代保と見え、八代社は式内射水郡 箭代神社に當る」
とある。即當社の事なりとす、今も八代庄三十二ヶ村の総社也、ことに此の三十二ケ村の士氏は、氏祖の神社なりとして非常に當社を尊敬せり、其故を考ふるに、

三州志に曰く、
「天文中 郷士 八代安冬と云ふがあり、又 天正八年信長より菊地右衛門入道屋代十郎へ賜はる朱印狀に、越中氷見郡 屋代一家分云々」

などあるを見、

又其他の記録に屋代氏に縁ある事蹟散見すれば、本郡内には其氏孫の多くありしものと思はる、

明治五年七月郷社に列す、建物は、本殿・拜殿、神樂庫あり、境内千九百九十三坪 (官有地第一種)を有す、舊社地は方今の社地より二町許後方のー孤山にありて、今も古松數十株 其の舊趾に殘り、景趣風致に富めり。

又按ずるに、新撰姓氏錄に、武内宿禰の子 波多八代宿禰あり、本社は此宿禰を祭るか猶考ふべし。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・感之社〈箭代神社の古社地の中山南麓に再建〉

古社地であった中山の社地は 能越自動車道の建設に伴う買収用地として買い取られ 古社地には何も残されていない

感之社は 中山の南麓に再建されたものです

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

 

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中國 34座(大1座・小33座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)射水郡 13座(大1座・小12座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 箭代神社
[ふ り が な ]やしろの かみのやしろ
[Old Shrine name]Yashiro no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

・箭代神社のかつての奥宮「八代仙(はったいせん)」

一説には
箭代神社は もとは 八代村の奥山に「八代仙(はったいせん)」と呼ぶ洞窟を奥宮として〈明治34年(1901)の「富山越中地震」で洞窟は埋もれてしまったと云う〉
・箭代神社のかつての奥宮遥拝所〈里宮〉「現 磯部神社の社地」

現在の磯部神社のある所に箭代神社の遥拝所〈里宮〉があったと云う

磯部神社は もと上宮(磯部部落の北方1kmの山中)にあつたが 中世の戦乱で この二社は荒廃して 後世に再興された時 箭代神社は北八代の中山(旧社地)に遷座し 箭代神社の旧社地に磯部神社が遷座したのだと云う

延喜式内社 越中國 射水郡 箭代神社(やしろ かみのやしろ)

・感之社〈箭代神社の古社地の中山南麓に再建〉
・箭代神社(氷見市北八代)

一緒に読む
箭代神社(氷見市北八代)〈『延喜式』箭代神社〉

箭代神社(やしろじんじゃ)は 元は現在地の後方 中山丘陵にあったとされる 延喜式内社 越中國 射水郡 箭代神社(やしろ かみのやしろ)で 祭神は武内宿禰の第八子 葛城襲津彦命とされますが 武内宿禰の子 波多八代宿禰とする別説もあります いずれにしても氏子にも武内宿禰の後裔が多く「氏祖の神社」と里人に呼ばれています

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〈礒部神社の元鎮座地〉神明宮(氷見市磯辺 上宮)

一説には

磯部神社は もと上宮(かみや)集落(磯部集落の北方1kmの山中)にあったと云う
又 現在の磯部神社のある所に 箭代神社の遥拝所〈里宮〉があったと云う
中世の戦乱で この二社は荒廃して 後世に再興された時 箭代神社は北八代の中山(旧社地)に遷座し 箭代神社の旧社地に磯部神社が遷座したのだと云う

延喜式内社 越中國 射水郡 礒部神社(いそへ かみのやしろ)

〈2022年11月26日〉神明宮は 礒部神社に合祀の神事が執り行われました

上宮(かみや)集落は 徐々に人が離れ過疎化の為 神明宮の維持管理ができなくなり ご神体を同じ八代地区の礒部神社へ遷座合祀されました

・神明宮(氷見市磯辺 上宮)については この記事〈参拝日2019/9/30〉を参照

一緒に読む
神明宮(氷見市磯辺 上宮)〈『延喜式』礒部神社の元鎮座地〉

神明宮(しんめいぐう)は 磯部神社(氷見市磯辺)の旧社地とも云われ 延喜式内社 越中國 射水郡 礒部神社(いそへ かみのやしろ)の論社となっています 磯部集落の中でも山間部の上宮(かみや)集落に鎮座したが 集落過疎化の為 神社の維持管理ができなくなり 礒部神社に合祀の神事〈2022年11月26日〉が執り行われました

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箭代神社の奥宮であった(八代仙洞窟)・里宮〈遥拝所〉であった(現 磯部神社の境内)と 磯部神社の元鎮座地(神明宮(氷見市磯辺 上宮))の位置関係

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR氷見線 氷見駅から県道373号・306号経由で北上して約6.2km 車での所要時間は12~13分程度

氷見の街を抜けて海岸線を走る県道373号を北上します

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阿尾北の交差点で県道306号へと左折して1.4km ほど走ると 左手に箭代神社の鳥居が見えてきます

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鳥居の横に参拝者用の駐車スペースがあります

箭代神社(氷見市北八代)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐって参道を進むと 右手に手水舎があり清めます

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 拝殿の奥には 幣殿 本殿

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 箭代神社について 所在は゛北八代村に在す、゛〈現 箭代神社(氷見市北八代)〉と記しています

【抜粋意訳】

箭代神社

箭代は 夜志呂と訓べし

○祭神 葛城襲津彥命〔神社帳〕

〇北八代村に在す、〔同上〕
例祭

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 箭代神社について 所在は゛今 箭代村にあり、゛〈現 箭代神社(氷見市北八代)〉と記しています

祭神について゛新撰姓氏録に、武内宿禰の子 波多八代宿禰あり、本社 或は八代宿禰を祭れる乎゛と記しています

【抜粋意訳】

箭代(ヤシロノ)神社

今 箭代村にあり、四月九日、十四日祭を行ふ、〔神名帳考証、新川縣式社調帳〕
〔〇按 新撰姓氏録に、武内宿禰の子 波多八代宿禰あり、本社 或は八代宿禰を祭れる乎

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 箭代神社について 所在は゛北八代村〔字宮谷〕(氷見郡阿村大字北八代)゛〈現 箭代神社(氷見市北八代)〉と記しています

【抜粋意訳】

箭代神社

祭神 葛城襲津彥命

祭日 今四月九日 九月十四日
社格 郷

所在 北八代村〔字宮谷〕(氷見郡阿村大字北八代)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

箭代神社(氷見市北八代) (hai)」(90度のお辞儀)

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越中国 式内社 34座(大1座・小33座)について に戻る

一緒に読む
越中國 式内社 34座(大1座・小33座)について

越中国(えっちゅうのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越中国には 34座(大1座・小33座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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