実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

八阪神社・千代神社(田原本町阪手)

八阪神社・千代神社(やさかじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 式内社 千代神社は 千代村に鎮座 春日神社境内摂社だったが 洪水の為に流失して下流 大安寺の森市神社の境内に祀られた 明治四十二年三月四日 同村 阪手村社 八坂神社〈現 八阪神社・千代神社(田原本町阪手)〉に合祀 延喜式神名帳927 AD.所載 大和國 城下郡 千代神社ちしろの かみのやしろ)現在の合祀とされます

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

八阪神社・千代神社(Yasaka shrine・Chishiro shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

奈良県磯城郡田原本町阪手303

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

八阪神社
《主》須佐男命(すさのをのみこと)

千代神社《式内社》
《合》八千千姫命(やちちひめのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

史遺産 神々を訪ねて
旧村社 阪手北 八坂神社 祭神 須佐男命

勧進年代、由緒は明らかでないが、江戸時代には牛天王社と云われたが、明治22年(1889)に現在の八阪神社と改められた。
それまでは、神宮寺・西之坊と称し、釈迦堂三間四方・本尊 釈迦如来像)、薬師堂(丈間四方・本尊 薬師如来像)があつたが.明治7年(1874)に廃寺となり、釈迦堂の本尊 釈迦如来像は、現在.八阪神社北隣の阿弥陀寺に遷されている。
 牛王天王の名残は、八阪神社の境内で、毎年2月に行われる伝統祭礼行事「華鎮祭」で北阪手の各戸に配られる「牛王さん」の「牛の玉 西坊法印」と版木で刷られた和紙と「華鎮祭」で読み上げられる「結鎮祭文(寛政五年1793)に残されている。

 

旧城下郡 阪手北 延喜式内社 千代神社 祭神 八千々姫命

天長年間(824-833
千代神社は、元八条村にあったが、初瀬川の洪水の為、社殿流失、川下の大安寺村字西馬場の森市神社境内に漂看したので以来、森市神社境内で祭祀され、社地は大安寺村、毎年例祭に元社地の八条村より奉幣をなし、社殿の維持は阪手村が行ってきた。

延長五年927
千代神社は延喜式神名帳に記載された古社である。

享保二十一年1736
「大和志」に「干代神社 八条村 今称八幡 与祭安部田村 共預祭祀 式ニ載テ在城下正保三年此地 本郡」とあって、式内千代神社に比定された。

明治42年(1909)それまで社殿の維持を行ってきた阪手村の八阪神社に合祀された。

平成21 No.3 田観53 田原本町観光協会

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

華鎮祭

五穀豊穣と村人の無災を祈るために行われる古典味豊かな神事。弓矢で悪霊をうちすくめ、その年の安泰を祈り、稲作の豊かである事を願う正月の行事。
神事では神主の祝詞奏上に続いて華鎮祭文が読み上げられ、まずは神主が梅の弓に女竹の矢を番えて射る。次に五人組の若者が各9本ずつ矢を射り、皆射終わると参詣者は的を木っ端微塵に打ち破り、取り合いを演じる。その破片を各自家に持ち帰り、災難除けや蛇除けのまじないとして神棚に祀る。
日時:2月24日(第4日曜日) 午後13時30頃
場所:八坂神社 〒636-0247 磯城郡 田原本町 阪手北
※兼務社の八坂神社で行います。

村屋坐弥冨都比売神社公式HPよりhttp://murayajinja.com/nenjugyoji/kechinsai/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 千代神社
[ふ り が な ]ちしろの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Chishiro no kamino yashiro)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 大和國 城下郡 千代神社ちしろの かみのやしろ)の論社は 三つあります

『磯城郡誌』には「千代村に鎮座の春日神社に境内摂社であった式内社の千代神社が 洪水の為に流失して下流に流れ着き 現在は大安寺の森市神社の境内に祀られている」と記され

『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に
更に明治四十二年三月四日 同村 阪手村社 八坂神社〈現 八阪神社・千代神社(田原本町阪手)〉に合祀、同九年十六日合祀済 と記しています 

・春日神社・千代神社(田原本町千代)

一緒に読む
春日神社・千代神社(田原本町千代)

春日神社・千代神社(かすがじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とされます 天長年間(830年頃)洪水によって社殿が流れ 大安寺に漂着し遷座 大正九年(1920)地元の崇敬が厚く 当地の春日神社の境内社として祭祀を行なっています

続きを見る

・森市神社・千代神社(田原本町大安寺)

一緒に読む
森市神社・千代神社(田原本町大安寺)

森市神社・千代神社(もりいちじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『磯城郡誌』には「千代村に鎮座の春日神社に境内摂社であった式内社の千代神社が 洪水の為に流失して下流に流れ着き 現在は大安寺の森市神社の境内に祀られている」と記され『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)とされます

続きを見る

・八阪神社・千代神社(田原本町阪手)

一緒に読む
八阪神社・千代神社(田原本町阪手)

八阪神社・千代神社(やさかじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 式内社 千代神社は 千代村に鎮座 春日神社の境内摂社だったが 洪水の為に流失して下流 大安寺の森市神社の境内に祀られた 明治四十二年三月四日 同村 阪手村社 八坂神社〈現 八阪神社・千代神社(田原本町阪手)〉に合祀 『延喜式神名帳927 AD.』所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)の現在の合祀先とされます

続きを見る

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄橿原田原本駅から東へ約1.2km 寺川をを渡り R24号を渡り 北阪手環濠集落の中に鎮座します

八阪神社・千代神社(田原本町阪手)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

社号標には「村社 八阪 千代 神社」と記されています
八坂神社に 千代神社が合祀されています 

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

田原本町 大字 阪手北(さかてきた)の歴史

田原本町 町・村の歴史 大字 阪手北(さかてきた)

大字阪手北は古くは 萬葉集13 3230で詠われ
幣巾(みてぐら)を 奈良より出でて 水蓼(みつたで)の 穂積(ほづ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手(さかて)を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山(かむなびやま)に 朝宮(あさみや)に 仕へ奉(まつ)りて 吉野へと 入ります見れば 古(いにしへ)思ほゆ

 また古代から交通(下ツ道や保津、坂手道)の要衝であり、古代・中世始めには、役所的な遺跡が存在し、中世には、桧物(ひもの)を売るサカテ座が知られるなど商業の発達する土地であった。
・・・・・
・・・・・
CN35周年事業 大和磯城ライオンズクラブ贈 平成23年度 LNo.23阪手自治会

現地立札より

Please do not reproduce without prior permission.

『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌

天皇が吉野の離宮への行幸に供奉した官人の歌とされます
歌中の「坂手」は奈良県田原本町阪手付近

【抜粋意訳】

巻十三 雑歌3230

訓み

幣巾(みてぐら)を 奈良より出でて 水蓼(みつたで)の 穂積(ほづ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手(さかて)を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山(かむなびやま)に 朝宮(あさみや)に 仕へ奉(まつ)りて 吉野へと 入ります見れば 古(いにしへ)思ほゆ


幣巾(みてぐら)を手向けて 奈良の都を出発し 水蓼(みづたで)草の生い茂る穂積(ほづみ)に至り 鳥網を張る坂手を過ぎ 激しい川の流れる神奈備山(かむなびやま)で 朝廷に仕えまつり 吉野へとお入りになるのを見ると 昔がしのばれる

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 千代神社の所在について 田原本町法貴寺の辺りにある と記しています

【抜粋意訳】

千代(チシロノ)神社

書記 千敷神
〇今 法貴寺辺りに有る 斎宮之社 按に道祖(和抄)佐倍乃加美 佐倍乃宮の訛字

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 千代神社の所在について「八條村に在す、今 八幡宮と称す」〈現 春日神社・千代神社(田原本町千代)〉と記されています

【抜粋意訳】

千代神社

千代は 知之呂と読り
〇祭神 詳ならず
〇八條村に在す、今 八幡宮と称す、今 十市郡に属す、大和志

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 千代神社の所在について 大安寺村 森市神社境内 と記しています

【抜粋意訳】

千代(チシロノ)神社

祭神 八千千姫(ヤチチヒメノ)

祭日 九月十三日
社格 (明細帳に森市神社境内 千代神社とあり無格社)
   (大安寺村字西馬場 無格社 森市神社あるのみ 覈録には十市郡八條村とあり 明細帳には見えず この森市境内の方なるべし)

所在 大安寺村字西馬場(磯城郡 川東村大字大安寺)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承

式内社 千代神社の所在について 旧跡は〈現 春日神社・千代神社(田原本町千代)
その後 森市神社境内神社、千代神社〈現 森市神社・千代神社(田原本町大安寺)〉と記し
更に明治四十二年三月四日 同村 阪手村社 八坂神社〈現 八阪神社・千代神社(田原本町阪手)〉に合祀、同九年十六日合祀済 と記しています

【抜粋意訳】

千代(チシロ)神社

川東村大字大安寺にあり、延喜式神名帳に「城下郡 千代神社」とこれなり。
もと十市郡にあり、大安寺流記資材帳に「大倭國伍處、一は在に十市郡千代郷に・・」と 即ち その所なり。
後、洪水の為に社殿を流失し、本郡大安寺に漂着せるにより 遂に ここに祭れるものと云う。年代詳ならず、村屋神主の家には天長中と云へり 旧址 彼の郡八條にありて 今尚 千代と字せり。註

(註)神社明細帳に、森市神社境内神社、千代神社、祭神 八千千姫命、明治四十二年三月四日 同村 阪手村社 八坂神社に合祀、同九年十六日合祀済とあり。

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

2.千代神社の話(広報たわらもと1991年8月号掲載)

2.千代神社の話(広報たわらもと1991年8月号掲載)

 川東村大安寺にあり。元千代(ちしろ)にありしかども、洪水のために社殿流失し、大安寺村に漂着せるにより、ここにまつれるなりと。その後神社を元の千代に持ち帰りてまつりしことありしが、神の崇りにて米の出来不作なりしかば、遂に大安寺にまつりしという。(『磯城郡川東村外三ヶ村風俗誌』より)

田原本町役場公式HP 担当課 図書館より
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/soshki/kyouikuiinkai/library/kanko/story/1198.html

八阪神社・千代神社(田原本町阪手)に (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

一緒に読む
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています