実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

八溝嶺神社(八溝山)

八溝嶺神社は ・栃木・福島との県境にそびえ・茨城県内最高峰(1,022m)を誇る「八溝山Yamizosan)」の山頂に鎮座しています その歴史は古く 第12代景行天皇40年 日本武尊が東征軍を率い 当山の賊を打ち払い ここにおいて二神を祀られたと伝えられています 又 大同2年(807年)には 弘法大使が神殿を修営し 霊場とした際に山頂に立ち見渡すと 谷が8つに分れ 八方に湧水が流れ落ちる様を見「八溝の嶺」と名づけられたと伝わります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

八溝嶺神社(Yamizomine Shrine)
やみぞみねじんじゃ

 [通称名(Common name)]

八溝山(Yamizo san)

【鎮座地 (location) 

茨城県久慈郡大子町大字上野宮2129(八溝嶺神社)

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(onamuchi no mikoto)
   事代主命(kotoshironushi no mikoto)

大物主命(omononushi no mikoto)
   迦具突智命(kagutsuchi no mikoto)
   倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社

【創  (Beginning of history)】

八溝嶺神社 大子町上野宮2129

祭 神 大己貴命 一事代主命

茨城・栃木・福島の三県境に位置する茨城県最高峰の八溝山頂に鎮座。
第十二代景行天皇の40年、日本武尊 東征を率い、八溝山の賊を討ち払い、ここに二神を祀られたという。

大子町鎮座神社マップ 発行 大子町氏子総代会より

【由  (history)】

由緒沿革
 当社は、本県最高峰の八溝山頂にまつられ茨城・栃木・福島の県境に位置し、壮年的開折をうけて八方に放射する谷は、山名にふさわしく、強く静にどっしりと構えている。
山頂を日高見岳(山王獄)とよび、第12代景行天皇40年、日本武尊が東征軍を率い、当山の賊を打ち払い、ここにおいて二神を祀られたと伝えられている。

延暦16年 陸奥の安倍高麿悪路王の謀叛に坂上田村麿の軍が当山に陣し、高笹の険を攻撃に、大神助を戴き大勝し、将軍は宝剣一口を奉納して大神に感謝した。
大同2年 空海は 神殿を修営し、霊場とした。この年、災害・病気流行に勅令を奉じ、これらの消除を天下安隠の大祈祷を行った。

第54代仁明天皇 承和3年正月に、当山産出の砂金を遣唐使派遣資金として献金をした功績により、従五位下勲十等 八溝黄金神(続日本後記)とたわまり、奉幣使が下同し、勅額をいただいた。
貞観3年、従四位下勲五等に神階が進む(日本三代実録)延式式内小社に列格。第70代御冷水天皇が天喜5年に源頼義、安倍頼時叛を鎮定する時 当社に参籠、宝刀を奉って祈願した。

第75代崇徳天皇が天治2年に、岩獄丸が支脈高笹の岩にたてこもって、良民を苦しめたので、首藤権守貞信が神助ををいただいて討伐し、宝刀を納めて奉納した。

分智5年、源頼朝、藤原泰衡一族を衣川に滅すとき、当社に奉幣使を参向させ、平定後社領一万石の寄進があって、建武元年白河城主 上野介結城宗広・足利尊氏を攻撃に際し奉納。

正平17年 東奥大飢饉で住民の惨状がひどく、式部丞依上義長、当社に奉幣熱祷をささいだ。
永正7年 佐竹義瞬・結城義親の合戦で社殿炎上。佐竹氏の勝利で、当山東西の地が領有となるとすぐに、社殿を造営した。
享禄元年 刑部大輔 佐竹義篤、社殿を修営し、宝刀を奉納。その後も代々崇敬厚く、年々奉納した。

寛永7年 水戸藩主徳川頼房が社殿を造営し、登拝されたときに、葵の紋を許された。
慶安元年 10月24日 徳川家光より高七石の御朱印を賜った。
天保15年には斎昭公の社領20石の寄進。
明治2年 水戸藩から烈公手振りの弓の奉納があった。

『茨城県久慈郡大子町黒沢地区民俗調査報告書』
茨城高等学校史学部OB会HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

大山祗神社Oyamazumi shrine)
《主》大山祇命(oyamazumi no mikoto)

妙見神社(myoken shrine)
 《主》木花咲耶姫命(konohanasakuyahime no mikoto)
稲荷神社(inari shrine)
 《主》倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 八溝嶺神社
[ふ り が な  ](やみぞみねの かみのやしろ)
[How to read ]Yamizomine no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

八溝嶺神社(Yamizomine Shrine)の 梵天(bonten)祭について

八溝嶺神社の梵天祭

ぼんでんは、木に金紙や銀紙を貼った長さ1.5m位の鉾を中心に、稲、干瓢(かんぴょう)、芋幹(いもがら)、餅、麻、布などで飾った御幣(ごへい)で、八溝嶺神社の例祭(旧4月17日、現在は5月3日)に奉納される祭りです。
若衆30人ほどでかつぎ、山麓から山頂まで登っていきます。朝、地区を出発し、途中このぼんでんをもみながら正午近く頂上に着きます。頂上に着くと神社の周りを3周し、拝殿前にぼんでんを納め、神官の祝詞(のりと)奏上ののち、お札が配られ、人々はぼんでんを置いて下山します。かつては、福島、栃木の各山麓の村々からもぼんでんが上がり、相当な賑わいであったといわれています。また、1年上げれば3年続けて上げる習わしであったといいますが、現在は上野宮の氏子たちが不定期で上げています。

多数の餅を付けて飾ったぼんでんは、稲の実りを表わしたものです。作神である八溝の神に稲の実りを模したぼんでんを奉納し、豊かな実りに祈りを捧げるのが、この祭りの本質でした。人々は、山上の神社にお参りし、分与されたお礼を持ち帰ります。そして、八溝の神の御守護による稲作の実りを祈って、各自の田畑にそのお礼を立てます。また、かつては秋にもこの祭りがあり、秋は収穫の感謝で、山上の神の御前で、来年の種子が分与されるという信仰でした。

ぼんでんの語源について、民俗学では、さおの先に藁や弊束などを結びつけた「ほて」から出たと考えられています。すなわち、大きな御弊のことで、神霊のよりましたまう標識でした。八溝のぼんでんは、作神を山から迎える古い信仰をよく伝えています。

大子町文化遺産ホームページより

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

下野宮駅から 県道28号経由 約22km 車45分程度
上野宮近津神社(Uenomiya Chikatsu Shrine)からは 約14km 車30分程度

途中 林道 八溝山公園線へ右折して 八溝山(Yamizosan)山頂を目指します

道路の脇 上方に
大山祗神社Oyamazumi shrine)
《主》大山祇命(oyamazumi no mikoto) 急斜面ですので道路からお詣りをします

更に道が細くなり注意が必要ですが 一本道なので迷うことはありません
日輪寺と山頂展望台の分岐がありますので 山頂へ向かいます 霧が出てきました

八合目の南麓には「白毛水」湧水の案内があり 環境庁の「名水100選」の一つに選定された八溝川湧水群の一つです
道路から20mとありますので 清めの水にと 立ち寄ります

20mではないような感じですが 階段を下りた先に石碑が建ち水が湧いています

お清めと思っていましたが あまりにも気持ちよく 美しい水です 口に含んだら 美味しい ありがたくいただきました

八溝嶺神社(Yamizomine Shrine)に到着

両部鳥居(ryobu torii)が建ちます

一礼して 鳥居をくぐり 階段を上がります
霧の中に 直ぐ目の前に 拝殿が建ちます

石碑には「霊峰八溝山」とあり 霊山と刻まれています

自然石の社号標には「奉納 御大典記念 八溝嶺神社 昭和参年」と刻まれています

拝殿にすすみます 

拝殿の目の前には 岩を削り出したような表面の荒い 古い狛犬が構えます

扁額には「延喜式内 八溝嶺神社」とあります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

本殿は風雪から守られるように土塁で囲まれて建てられています

その裏手が一段高くなって三角点1021.84mの山頂です

立て看板には「八溝山頂 海抜1,022 m」とあります

頂上には 城をモチーフにした展望台が建ちます

今日は霧ですが 以前訪れた時は 夕暮れで ここからの眺望は素晴らしいです

ちょうど赤とんぼの季節で 山頂には無数の赤とんぼが飛んでいます

社殿の前で一礼して 境内を後にします

神仏習合時の石碑があり
「山王大権現奥乃院 八溝山日光大権現 有 常陸 遠鳥居 下野」と刻まれています

梵字の石碑

石段を下がります

鳥居をくぐり抜けて振り返り一礼

表参道の車道を下っていると 大きな「アズマヒキガエル」が 道の真ん中にいて動きません

神の使いのような気がしてしまい 後続の車があるかもなどと気になり ガマの毒のことなどを思い出して木の枝で道路脇まで

参道を下ると 八溝林道の入口に 木製の鳥居が建っていて くぐり抜けます
こちらが 表参道の入り口になります

鳥居の扁額には「延喜式内 八溝嶺神社」と書かれています

車を降りて 八溝山(Yamizosan)に一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和三年(836)正月乙丑(25日)に記される伝承

陸奥国司が朝廷の命に応じて 金の増産を八溝黄金神(八溝嶺神社)に祈ると その数は常に倍となって 能く遣唐使の資金を助けた
その功績から 八溝黄金神は朝廷より 神階及び封戸を授与され「八溝黄金神」の勅額を賜ったとのこと

意訳

「 正月乙丑(25日) 
 陸奥國 白河郡の 従五位下勳十等 八溝黄金神八溝嶺神社)に封戸二烟授与 国司の祈祷に応え 採掘の命により砂金を得た その数は常に倍し 能く遣唐使を助けの資なる

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

「大蛇退治」と「鬼退治」の伝承について

八溝山の東隣(東南東)にある高笹山に残る伝承 と 八溝山の池田の鏡城主 藤原富得の鬼退治の伝承

ふるさとの昔ばなしシリーズ 久慈郡大子町

大蛇退治

福島県との県境に茨城県の最高峰・八溝山があります。そして、その東隣(東南東)に高笹山があります。

むかし、高笹山の中腹に洞穴があり、そこに大蛇がすんでいるといわれておりました。この大蛇は、鬼*1や美女、時には小さな子供の姿に化けて、近隣の村々に下りては危害を加えておりました。

困り果てた村人たちが、時の朝廷に大蛇退治を申し出ると、那須国守 須藤貞延という人が朝廷の命を受けて鬼退治にやって来ました。

ところが、貞延が共を連れて高笹山まで来ると、突然、雷鳴がとどろいて凄まじい雷雨となり、まるで行く手をさえぎるかのようにあちこちで崖崩れが起こったのです。
貞延一行がやっとの思いで洞穴にたどり着いたとき、稲光りが一瞬洞穴の中を明るく照らし出しました。すると、そこには、鎌首をもたげ今にも襲いかかろうとしている大蛇の姿があったのです。

貞延は勇気を奮い起こし、八幡大菩薩に祈願した時に授かった弓矢と弓引きの技をもって、見事に大蛇の口から頭を射抜きました。大蛇は崖を転げ落ちて息絶えたということです。やがて死骸からにじみ出た油がそばの沢に流れ込んだことから、その沢は「腐沢」といわれるようになったということです。

八溝山に関しても同じような話があります。
むかし、池田の鏡城主 藤原富得という人が八溝の山にすむという鬼を退治にやってきました。

途中、大きな沼の前まで来ると、突然、山が揺れんばかりの強い風が吹き始め、静かだった沼の水面に不気味な渦が巻き起こりました。近づいて渦の中をのぞくと、沼の底から、恐ろしい大蛇が口から炎を吐きながら現れたのです。

思わず後ずさりしたそのとき、富得の耳に、「村人を害から守るため、速やかに大蛇を退治しなさい。」という神の声が届いたのです。その声に奮い立った富得は見事に大蛇を退治したということです。

大蛇のすんでいた土地は はじめ「蛇下地」といわれましたが、後に「蛇穴」と改められたということです。

参考資料「茨城の伝説」(今瀬文也・武田静澄共著)
「茨城・蛇の民俗と民話」(更科公護著)

茨城いすゞ自動車株式会社HPより
https://www.ibaraki-isuzu.co.jp/story/detail/id=190

八溝嶺神社(Yamizomine Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

「近津三社八溝川沿いに並鎮座それぞれの記事をご覧ください

・〈上野宮〉上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)

一緒に読む
近津神社(上野宮)

上野宮近津神社(うえのみや ちかつじんじゃ)は 社伝によれば 慶雲4年(707年)に 池田鏡山城主「藤原富得」が勧請して 神鏡 霊剣 金鈴を奉納されたと伝わります 坂上田村麻呂(758~811)が 八溝山の岩竹丸討伐の際は 當社に参籠したとも伝わる由緒ある古社です

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・〈中野宮〉町附近津神社(Machitsuki Chikatsu Shrine)

一緒に読む
近津神社(町付)

町付近津神社は 大子町にある 3つの近津神社の「中之宮」にあたります 上野宮の近津神社周辺が稲村という地名でしたので「稲村三社(inamura sansha)」とも云われていて その総称として「近津三社(Chikatsu Sansha)」とも呼ばれています 水戸藩(徳川御三家)の初代藩主が石鳥居を奉納するなど 篤く崇敬されている神社です

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・〈下野宮〉下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)

一緒に読む
近津神社(大子町下野宮)

下野宮近津神社は 奥久慈大子地方が 陸奥國 依上郷と呼ばれていた頃 久慈川沿いに並び鎮座する3神社を゛近津三社゛と総称していました・〈上宮〉馬場都々古別神社・〈中宮〉八槻都々古別神社・〈下宮〉下宮近津神社(当社)の三社で〈上宮〉〈中宮〉の2つの都々古別神社は 陸奥国一宮です 当社〈下宮〉は「石都々古別神社」であると自認し 陸奥国一宮を主張します 又 式内社 常陸國 稲村神社であるとする説もあります

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八溝嶺山Yamizomine yama)を源とする八溝川

・八溝嶺神社Yamizomine Shrine)の記事をご覧ください〈当社〉

一緒に読む
八溝嶺神社(八溝山)

八溝嶺神社は ・栃木・福島との県境にそびえ・茨城県内の最高峰(1,022m)を誇る「八溝山(Yamizosan)」の山頂に鎮座しています その歴史は古く 第12代景行天皇40年 日本武尊が東征軍を率い 当山の賊を打ち払い ここにおいて二神を祀られたと伝えられています 又 大同2年(807年)には 弘法大使が神殿を修営し 霊場とした際に山頂に立ち見渡すと 谷が8つに分れ 八方に湧水が流れ落ちる様を見て「八溝の嶺」と名づけられたと伝わります

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東山道に鎮座する 382座『延喜式神名帳』の所載一覧に戻る

一緒に読む
東山道に鎮座する 382座『延喜式神名帳』の所載一覧

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました 当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています このページは 「東山道」に鎮座する(382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340)神社の一覧表です

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

一緒に読む
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について

陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています