山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が東夷征伐の折 勧請したと云う 尊が腰を掛けたという御腰掛石があります 神護景雲2年(768)坂上苅田丸が社殿を造営し 貞観元年(859)甲斐守紀貞守 幣を奉る 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
山梨岡神社(Yamanashioka shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
山梨県山梨市下石森1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》熊野権現と国立明神を併せ祀る
〈熊野権現〉
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
事解男命(ことさかのをのみこと)
速玉男命(はやたまのをのみこと)
〈国立明神〉
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
大国主命(おほくにぬしのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)
創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」(下記参照)とよばれる古い石信仰の場として崇拝され、石森岡神社とも呼ばれました。
本殿には熊野大権現と国建大明神が2座相殿としてまつられています。
江戸時代初期には徳川家によって社領が安堵され、幕臣で当地付近を領した石谷氏と蒔田氏によって社殿が造営されています。
『甲斐国志』『甲斐叢記』など多くの書物によって紹介され、主だった大石・巨岩には名が付けられているところからも、石の山が平地に突出した景観が存在感をもって人々に崇拝されていたことがわかります。
磐座(いわくら)
神霊が石に宿るという信仰に基づいて、石を御神体として祀ったことに由来する。祀られる石は、巨石や陰陽石など石の大きさや他とは違った特徴がみられるものがその対象となった。神社の社殿建築発生の前段階には、この石に神が降り下るとされて祭りが行われた。
やがて神が鎮座するところという観念が固定し、石は神聖視され「磐座」と呼ばれるようになったのである。『古事記』『日本書紀」また『風土記』にその名称が散見され、古代の信仰形態のひとつとなっている。
文化財
県指定有形文化財 山梨岡神社本殿(やまなしおかじんじゃほんでん)
昭和35年11月7日指定
社記によると、社殿の造営は神護景雲2年(768)、文治3年(1187)、文明6年(1474)、永禄6年(1563)・天和2年(1682)としていますが、造営を担った領主と地域との関係が確認できるのは、天和2年の石谷長門守・蒔田八郎左衛門のみです。
本殿は、その時代の建築的特徴をもちますが、昭和36年の解体修理の際に大斗裏に元禄16年(1703)の墨書が発見され、それが建立年代を示すものと考えられています。2座相殿の二間社流造で、蟇股や水引虹梁に優れた彫刻が施されており、元禄期の建築意匠を知る上で貴重な遺構です。
市指定天然記念物 石森山(いしもりやま)のハリモミ
平成14年5月1日指定
ハリモミは、日本固有の常緑針葉高木であり、大きなものは樹高30m、直径1mにもなります。
北は福島県から南は九州の一部にまでみられ、マツ科トウヒ属中最も暖かい所まで分布しています。
石森山のハリモミは自生種と考えられ、今日では主に山地に分布しているものが、平地に隔離されて残っており、この付近の植生を考える上で貫重です。目通り1.70mm、樹高約23m。現地案内板より
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【由 緒 (History)】
由緒沿革:
日本武尊東夷征伐の折 勧請したと云ふ。社殿の東に尊の御腰掛石があり、其の頂の天神社には尊が祀られてゐる。
往事は毎年弓祭があった。神護景雲二年、坂上苅田丸 神殿造営後 武将等の造営が度々あった。
山梨県神社庁HPより
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/2036
山梨岡碑
山梨縣治于 甲斐萬山中治東三里曰 加納厳邨小岡掘起畎畝中 延喜式称之山梨岡 蓋縣名所由也伝云 日本武尊東征駐師于 此明治二年
穿輿遷東京越十三年巡 本縣縣令献 岡圖証古蹟云 二十年秋邨人清水市右衛門導余登岡奇石怪厳㠝岏森列不知 幾千百老松亂立 其間亭亭鶯鬱蒼 皆刺天有泉縣焉 有池匯焉 中腹有古廟祀 國常立 伊弉冊 両尊右側有 一扁石 武尊曽踞此云上有小祠祀 尊登至絶嶺眼界渓然沃野数十里重川栄東南笛吹川燎西北疉嶂層嶺 環合其外 而富岳巍然卓立正南景致絶佳 又有 要害武尊駐師良有以也嗚呼事之成心有啓之前者明治之東遷得非武尊東征啓之千歳之前乎乃岡図之入乙覧聖感果何如也項市右衛門與同志謀建碑表之乞余銘銘曰
維石厳厳 維松累累 驟雨丘陵 確乎根祇 皇化東漸 此其先啟明治廿二年春王一月
大審院検事従五位 三島毅撰 従五位 長英書
宮内大臣従二位勲一等子爵 土方久元 篆額現地石碑文より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈境内案内図〉石森山案内図
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・山梨岡神社 本殿
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山梨県指定有形文化財 山梨岡神社本殿
昭和三十五年十一月七日指定
山梨岡神社は 社記によれば創祀年代は未詳だが、神護景雲二年(七六八)造営以来しばしば再興されたといわれる。
祭神は 熊野大権現(伊弉諾尊・事解男命・速玉男命)及び 国建大明神(国常立尊・大国主命・少彦名命)を併せ祀る。
本殿は二座相殿の二間社流造り、銅板葺き、身舎(もや)は円柱、 斗供(ときょう)は拳鼻(こぶしはな)付き出組みで、正面 幣軸構(へいじくがまえ)板扉、擬宝珠(ぎぼし)高欄付き 縁、側面 後端(うしろはし)に脇障子がある。
妻飾りは懸魚(げぎょ)・板蟇股(いたかえるまた)など見るべきものが多い、向拝(こうはい)は一間で、面取り角柱を海老虹梁(えびこうりょう)でつなぐ。この建物は細部の手法が装飾的で、桃山期以降の技法がよく認められる江戸初期の優れた遺構である。
尚、昭和三十六年の解体修理の際、元禄十六年(一七〇三)に修理したことを示す墨書が大斗裏から発見された。
平成七年三月設置 山梨県教育委員会 山梨市教育委員会
現地案内板より
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・山梨岡神社 拝殿
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・〈境内社〉天神社《主》日本武尊
社伝に「日本武尊東夷征伐の折 勧請したと云ふ。社殿の東に尊の御腰掛石があり、其の頂の天神社には尊が祀られてゐる。」
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・〈境内社〉阿夫利神社
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・境内の巨石群
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山梨郡 9座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 山梨岡神社
[ふ り が な ](やまなしをかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yamanashioka no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 甲斐國 山梨郡 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の論社について
・吾妻屋宮(笛吹市春日居町鎮目)〈山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)の旧鎮座地〉
吾妻屋宮(あずまやぐう)は 社記に「日本武尊が東征の折に当地の山路〈虫切坂〉で休息したことに因み 旧跡を「四阿山権現(あづまやさん ごんげん)」として尊を祀り創祀」と云う 延喜式内社 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の旧鎮座地とする説 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)であるとする説があります
吾妻屋宮(笛吹市春日居町鎮目)〈『延喜式』甲斐奈神社・山梨岡神社〉
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)の旧鎮座地〉
・山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)
山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 背後の御室山(みむろやま)を御神体とする古代信仰であったとされ 第十代 崇神天皇の御代 国内に疫病の流行や災害が多発し これを憂い勅命により御室山中腹に創祀され 第十三代 成務天皇の御代 麓の梨樹を伐り拓いて神戸を遷し「甲斐ヶ根・山梨岡神社」と号したと伝えています
山梨岡神社(笛吹市春日居町鎭目)〈『延喜式』山梨岡神社〉
・山梨岡神社(山梨市下石森)
山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が東夷征伐の折 勧請したと云う 尊が腰を掛けたという御腰掛石があります 神護景雲2年(768)坂上苅田丸が社殿を造営し 貞観元年(859)甲斐守紀貞守 幣を奉る 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の論社です
山梨岡神社(山梨市下石森)〈『延喜式』山梨岡神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR中央本線 山梨市駅から東南方向へ 約1.7km 車で3分程度
石森山つつじ公園の駐車場に向かい 駐車場から境内に進めます
社殿の下に出ます
山梨岡神社(山梨市下石森)に参着
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石段を上がり 拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の奥には 透塀に囲まれて本殿が祀られています
石森山には さらに巨石が祀られています
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石森山の山頂には 日本武尊東夷征伐の折 勧請したと云ふ 日本武尊の御腰掛石があり 其の頂の天神社には尊が祀られています
山梨岡神社(山梨市下石森)も 古くは石森岡神社とも呼ばれました
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社殿に一礼をして 参道を戻ります
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石森山は 日本武尊の伝承の他に「だいだらぼっち」〈デイダラボッチ〉が造った山〈2つの山を苧殻の棒で担っていると 途中で棒が折れ この場所に置いた〉との伝承も持ちます
以前 2005年頃には ダイダラボッチの大わらじ が飾られていました
石森山の山頂には 何度か訪れていますが 桃の花の咲く頃〈四月上旬〉は 石森山の山頂から 桃園に桃花が咲き とても美しいです
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桃園の様子です
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 山梨岡神社について 所在は゛鎭目村に在す゛〈現 山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)〉と記しています
【抜粋意訳】
山梨岡神社
山梨岡は 夜萬奈之乎加と訓べし、和名鈔、〔郡名部〕山梨、〔也万奈之〕
○祭神 大山祇命、〔名勝志、叢記〕
○鎭目村に在す、〔叢記〕例祭、月 日、
甲斐名勝志に、神前に虁(キ)と云 一足の獣の像あり、實に古物也云々といふ、叢記にも此 虁(キ)の事をいへり、
國人云、是は所謂 獅子の朽たるを取つくろへるなりと云り、社領
当代御朱印高 九石八斗余
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 山梨岡神社について 所在は゛鎭目村山梨岡にあり゛〈現 山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)〉と記しています
【抜粋意訳】
山梨岡(ヤマナシヲカノ)神社
今 鎭目村山梨岡にあり、每年三月十一月初午日、御室山に神幸あり、七月七日七夕祭を行ふ、〔甲斐國志、巡見通行記、巡拝舊祠記〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 山梨岡神社について 所在は゛萬力筋鎭目村(東山梨郡岡部村)゛〈現 山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)〉と記しています
【抜粋意訳】
山梨岡神社
祭神
祭日 三月十一日初午日
社格 郷社所在 萬力筋鎭目村(東山梨郡岡部村)
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
山梨岡神社(山梨市下石森)について 郷社に列したと記されていて 社説には 式内社 山梨岡神社と記しているが
諸説は 式内社 山梨岡神社については 山梨岡神社(笛吹市春日居町鎮目)を推奨しているので そちらに従う と記しています
【抜粋意訳】
〇山梨縣 甲斐國 東山梨郡加納岩村大字上石森下石森ノ境
郷社 山梨岡(ヤマナシノヲカノ)神社
祭神 伊弊冉尊 國常立尊 事解男命
大國主命 速玉男命 少彦名命創立は景行天皇の四十一年 日本武尊云々と社記にあれど、徴証なし、
「上下石森両村の産土神にして、國建明神を配祀す、」(甲斐国志)貞観元年甲斐守紀貞守 幣を奉る、又 神護景雲二年 坂上苅田麿、降つて文治三年 加賀美遠光、修営の事ありと傅ふ、〔社記〕
徳川氏の時 朱印社領二石五斗余〔在下石森〕黒印社領三石七斗四升、〔在上石森〕を有し、石森丘上に鎭座す、此丘屹然として平田萬頃の中より峙ち、遥に衆峯と隔りて、廻廻数萬歩高数十仭、奇岩怪石、磊々として森列す、此に至れば殆ど深山幽谷の趣あり、石各、其形を以て名づく、頗る奇観なり、里人の口碑に存する歌あり。
「天津日のひかりもそひて玉かしは動かね神の国ぞひさしき」読人しらず「足曳の山路へだてゝあしひきの山なすこれの石森のをか」季鷹
〔甲斐国志 甲斐叢記〕此の丘を甲斐風土記に、山梨岡と云ひて、社記には当社を式内社に擬すれども、諸説皆 鎭目村なるを採れば今従はず。
社殿は本殿、拝殿を有し、境内二千二百六十二坪(官有地第一種)にして、頗る大社なり、明治の初年社領を上地し、次いで五年郷社に列す。
境内神社
事比羅社 大神社 天神社 疱瘡神社
山神社 稲荷神社 鹿島神社 八幡神社
阿夫利神社 道祖神社 厳島神社
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
山梨岡神社(山梨市下石森)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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甲斐国 式内社 20座(大1座・小19座)について に戻る
甲斐国(かひのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 甲斐国には 20座(大1座・小19座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
甲斐國 式内社 20座(大1座・小19座)について