実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

和爾下神社Wanishita Shrine)
(わにしたじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

奈良県大和郡山市横田町23

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞嗚尊Susanowo no mikoto)
   大己貴命Ohonamuchi no mikoto)
   櫛稲田姫命Kushi inadahime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

創建不詳
かつて横田 治道に住んでいたという横田物部氏の氏神か?

【由  (history)】

延喜式内郷社 和爾下神社

祭神 素盞嗚尊
大己貴命
櫛稲田姫命
横田物部命

例祭日 本祭日 9月13日
宵 宮 9月12日
夏 祭 7月7日

語神徳 農耕、学芸の神
一件に 真心こめて 祈願すれば叶えてくださる

  この森は下治道宮といい まほろば歴史神話と聞くが 古代6世紀ごろ横田物部の旧墳の丘に 和爾下の御社を安置されしと昔人の言い伝えに聞く

尚 この神社の崇敬者は 京都の南山城方面より祝園一帯と大和は添上山辺西部と広範囲におよぶ 氏子崇敬者と聞く
神徳の高い神様として 信仰が厚かりしと聞く

境内案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿脇に左右に並んで鎮座

・金比羅神社・天照大神社・春日神社・春日若宮神社
・貴船神社・高龗神社・子守神社・白山神社・八幡神社・住吉神社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座
        …大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座
  (大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 和尓下神社 二座
[ふ り が な ](わにのしもの かみのやしろ にざ)
[Old Shrine name]Wani no shimo no kamino yashiro niza) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)大和国 添上郡 和尓下神社二座Wani no shimo no kamino yashiro niza)二座の論社として3つ

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

一緒に読む
和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を「櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」「第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)」の2柱を祀っていたとされます 明治初年には 延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

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➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

一緒に読む
和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

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和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

一緒に読む
和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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和爾Wani)の名を冠する 各地の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の関連神社について

大和國添上郡 和尓坐赤坂比古神社 大(ワニニマス アカサカヒコ ノ カミノヤシロ)

和爾坐赤阪比古神社

一緒に読む
和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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大和国 添上郡 和尓下神社二座(ワニノ シモノ カミノヤシロ ニザ 

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

一緒に読む
和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を「櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」「第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)」の2柱を祀っていたとされます 明治初年には 延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

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➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

一緒に読む
和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

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和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

一緒に読む
和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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若狭國 三方郡 和爾部神社(ワニベノ カミノヤシロ)

日吉神社 (美浜町佐柿)

尾張國 山田郡 和尓良神社(ワニラノ カミノヤシロ)

和爾良神社 春日井市上条町

朝宮神社 春日井市朝宮町

両社宮神社 春日井市宮町

和爾良神社 名古屋市名東区猪子石原

藤森神明社 名古屋市名東区本郷

神社 春日井市牛山町

景行天皇社 長久手市西浦

讃岐國 三木郡 和尓賀波神社(ワニカワノ カミノヤシロ)

引宮神社 木田郡三木町井上

鰐河八幡宮 木田郡三木町町下高岡

白山神社 木田郡三木町下高岡

和爾賀波神社 木田郡三木町井戸

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

櫟本(イチノモト)駅から 県道192号を西へ約2km程度  車 約5分
県道192号の北側に朱塗りの鳥居が建っています

和爾下神社Wanishita Shrine) に参着

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一礼して鳥居をくぐります 鳥居扁額には「和爾下神社」とあります

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コンクリートの参道の先は 一段高い境内となっていて 朱色の御垣塀が廻されています 社殿の前に狛犬が座し 参拝者を向かえます
拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

本殿の垣内の境内敷地の左右には 朱色の境内社の祠が並びます
拝所より 併せてお詣りをします

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境内を出で 振り返り一礼をします
神社の裏手には
櫟本(イチノモト)の和爾下神社の脇を流れる高瀬川が流れています

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『先代旧事本紀(sendaikujihongi)』〈平安初期(806)~(906)頃の成立〉に記される伝承

饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が 天神の御祖神のご命令で 天の磐船(アメノイワフネ)にのり 河内国の河上の哮峯(イカルガミネ)に天降られた際に随従した天物部(アメノモノノベ)25部族の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏が記されています

意訳

天物部(アメノ モノノベ) 25部の人が 同じく兵杖(ヘイジュウ)〈随身(ズイジン)の持つ弓矢や太刀(タチ)などの武器〉を帯びて天降り お仕えした

二田(フタツダノ)物部     当麻(タヘマノ)物部
芹田(セリダノ)物部      鳥見(トミノ)物部
横田(ヨコタノ)物部      鳥戸(トリベノ)物部
浮田(ウキタノ)物部      巷宜(アンキノ)物部
足田(タルダノ)物部      酒人(サカフドノ)物部
田尻(タシリノ)物部      赤間(アカマノ)物部
久米(クメノ)物部       狭竹(サタケノ)物部
大豆(オオマメノ)物部     肩野(カタノノ)物部
羽束(ハヅカシノ)物部     尋津(シキツノ)物部
布都留(フツルノ)物部     住跡(スムチノ)物部
讃岐三野(サヌキノミノノ)物部 相槻(アヒツキノ)物部
筑紫聞(ツクシノキクノ)物部  播麻(ハリマノ)物部
筑紫贄田(ツクシノニエタノ)物部

船長(フナオサ)が同じく 梶を共にとる人たちを率いて 天降りお仕えした

船長(フナオサ)・跡部首(アトベノヲフド)らの祖(オヤ)天津羽原(アマツハハラ)
梶取(カンドリ)・阿刀造(アドノヅコ)らの祖(オヤ)天津麻良(アマツマロ)
船子(フナコ)・倭鍛師(ヤマトカヂ)らの祖(オヤ)天津真浦(アマツマウラ)
笠縫(カサヌイ)らの祖(オヤ)天津麻占(アマツマウラ)
曽曽笠縫(ソソノカサヌイ)らの祖(オヤ)天都赤麻良(アマツアカマロ)
為奈部(イナベ)らの祖(オヤ)天津赤星(アマツアカボシ)

饒速日(ニギハヤヒ)尊は 天神(アマツカミ)の御祖(ミオヤ)のご命令で天磐船(アマノイワフネ)にのりて 河内国の河上(カワカミ)の哮峯(イカネイノミネ)に天降られた さらに 大倭国(オオヤマトノクニ)の鳥見(トリミ)の白庭山(シラニワノヤマ)にお遷りになった

天磐船(アマノイワフネ)に乗り 大虚空(オホゾラ)をかけめぐり この地をめぐり見て天降られた すなわち“虚空(ソラ)見つ日本(ヤマト)の国”といわれるのは このことである

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『先代旧事本紀』刊本(跋刊) ,延宝06年 校訂者:出口延佳 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

意訳

和尓下(ワニノシモノ)神社 二座

『日本書記』「天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」は和珥臣(ワニノオミ)等の始祖(シソ)なり
『日本書記』雄略天皇紀 春日 和珥臣(ワニノオミ)深目

今 和珥(ワニノ)村の南に有る 櫟本(イチノモト)社を 按(考えるに) 櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)は 同祖(オナジオヤ)

一座は 櫟本(イチノモト)村に在り 櫟本(イチノモト)上治道天王(ウエハルミチノテンノウ)と号曰く〈呼ばれている〉

一座は 横田(ヨコタ)村に在り 下治道天王(シタハルミチノテンノウ)と号曰く〈呼ばれている〉

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(jinja kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

意訳

和爾下神社

和爾(ワニ)は前に同じ 下(シモ)は志母と訓(クン)ずるべし〈訓読み〉

和爾坐赤阪比古(ワニニマス アカサカヒコ)神社〈上社〉に對へて(コタエテ)下(シモ)の字を加えている

〇祭神 和爾部(ワニべ)氏 祖神 欣(ヨロコブ)

〇一座 櫟本(イチノモト)村に在す 今は 上治道天王(ウエハルミチノテンノウ)と称す
 一座 横田(ヨコタ)村に在す 下治道天王(シタハルミチノテンノウ)と称す 大和志 同名所園會

〇日本書紀 神武天皇 巳未年2月 和珥坂下(ワニノサカシタ)に居勢祝(コセノハフリ)という者があり云々

類社として
若狭國(ワカサノクニ)三方郡(ミカタノコオリ)
和爾部(ワニベノ)神社
の條を見合うべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

意訳

下(ワニノシモノ)神社 二座

祭神
祭日 8月13日
社格 村社(両社とも村社)
所在 一座 櫟本(イチノモト)村 上治道天王(添上郡櫟本町本町大字櫟本)
一座 横田(ヨコタ)村 下治道天王(添上郡治道村大字横田)

今 按(考えるに)

社伝 二座の内
一座は 櫟本(イチノモト)村
一座は 横田(ヨコタ)村 にあり

櫟本(イチノモト)村の社伝
上治道社は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)大国主命(オオクニヌシノミコト)稲田姫命(イナダヒメノミコト)

また

横田(ヨコタ)村の社伝
下治道社は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
とあるによる時は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)の二座を祀るごとく思われるけれど
考昭天皇の皇子「天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」の族「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」の五世孫「米餅春大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)」を祀るものなるべし

それは 日本紀〈日本書紀〉に「天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」これは和珥臣(ワニノオミ)等の祖(オヤ)なりと
又 和珥臣(ワニノオミ)の祖(オヤ)「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」云々

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に
櫟井臣(イチヒイノオミ)・和珥部(ワニノべ)の朝臣(アソン)は同祖(オナジオヤ)「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」の五世孫「米餅春大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)」の後(スエ)なり とみえ

この神社の 一座の櫟本(イチノモト)にあるのは 櫟井臣(イチヒイノオミ)に由(イワレ)あり

横田(ヨコタ)村の神主の櫟井(イチヒイノ)姓なるのも また由縁(ユエン)あって聞こえる事を思うに 櫟井臣(イチヒイノオミ)・和珥部臣(ワニノべノオミ)の祖神(オヤガミ)を祀りしものなること決ければ〈決定している〉

明細帳に記せるは 後人(ノチノヒト)の社撰(ヤシロエラビ)にて 何の由縁(ユエン)もなく 疑わしき故に 取らず〈採用せず〉

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『特選神名牒』

『大和志料(Yamato shiryo)』大正3年(1914)に記される伝承

鎮座地「横田(ヨコタ)」は 横田氏の地であり 横田氏の氏神として「和爾下(ワニノシモ)神社」は祀られている
横田氏の本姓は 物部氏であり
先代旧事本紀にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨で 命に随従した25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)としています

下(ワニノシモ)神社の条

意訳

下(ワニノシモ)神社

延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)に「和爾下神社 二座」とあり

一座は 櫟本(イチノモト)町 治道にありて 俗に上治道天王(ウエハルミチノテンノウ)と称し
一座は 大字横田 治道山にありて 下治道天王(シタハルミチノテンノウ)と称す

共に今は 村社たり

祭神は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)大国主命(オオクニヌシノミコト)稲田姫命(イナダヒメノミコト)の三神を祀るという

按ずるに〈考えるところ〉 
横田は 横田物部(ヨコタ モノノベ)氏の住居にして 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に関係あること 横田塁下〈下記に記すに述ぶるが如し

(シカレドモ) 筒井雑記(1570・戦国末期)に 当村の事績を記して
当村鎮守 下治道 牛頭天王(シタハルミチノ ゴズテンノウ)と云ふ
又の説 横田物部社(ヨコタ モノノベ ノ ヤシロ)とあり
文禄御高 12177石2斗9舛

慶長已後春日社領御寺務御殿御支配  添上郡横田村 」とあり

の一説によれば 物部氏(モノノベウジ)の祖神(オヤガミ)を祭れるものなり 
後考(コウコウ)を俟(マ)後代の人の考えを待つ

『大和志料』1

横田塁(城塞)の条に記される内容

横田塁

治道村大字横田にあり 横田氏(ヨコタウジ)これに依る
郷土記に「・横田平城・横田治部」とは 即ちこれなり
横田氏は 本姓物部(モノノベ)にして 天孫降臨(テンソンコウリン)の時 随従(ズイジュウ)せし 25部族の一なる横田物部(ヨコタモノノベ)の苗裔(ビョウエイ)なりと云ふ

・・・以下 系図・・・

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813

『大和志料』2 『大和志料』3

和爾下神社Wanishita Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

一緒に読む
和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を「櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」「第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)」の2柱を祀っていたとされます 明治初年には 延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

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➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

一緒に読む
和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

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和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

一緒に読む
和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

一緒に読む
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています