実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています 故事に云われる「赤坂(アカサカ)」とも比定されている地に鎮座しています

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

和爾坐赤阪比古神社Waninimasu Akasakahiko Shrine)
わににますあかさかひこじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

奈良県天理市和爾町1194

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》阿田賀田須命Atakatasu no mikoto)
   市杵島比売命Ichikishimahime no mikoto)

※本来の祭神「赤坂比古命(Akasakahiko no mikoto) 」については不詳

市杵島比売命(Ichikishimahime no mikoto)は 後世に合祀

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の祭神一座については
阿田賀田須命(Atakatasu no mikoto)であり 神社名称の「赤坂比古」と同神とする説もあり 和爾神(Wani no kami)とも呼ばれます

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【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳

当社の文献への所載として
〈天平元年(729)編纂〉『大和国正税帳』正倉院文書に記されている

【由  (history)】

不詳

【境内社 (Other deities within the precincts)】

中央に本殿 その両脇鎮座

向かって 
春日Kasuga no yashiro)
《主》天児屋根命Amenokoyane no mikoto)
向かって 
八幡Hachiman no yashiro)
《主》品陀別命Homutawake no mikoto)

※境内社の二座は
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)

「大和国 添上郡 和尓下神社 二座」の論社です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

①本殿は 「大和国 添上郡 和尓坐赤坂比古神社」の論社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座
        …大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座
  (大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)

[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 和尓坐赤坂比古神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ]わににますあかさかひこの かみのやしろ)
         
(だい つきなめ にいなめ)
[Old Shrine name]Waninimasu akasakahiko no kamino yashiro)
         Dai tsukiname niiname)

境内社春日Kasuga no yashiro)八幡Hachiman no yashiro)は 「大和国 添上郡 和尓下神社 二座」の論社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座
        …大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座
  (大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)

[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和尓下神社 二座
[ふ り が な ](わにのしもの かみのやしろ にざ)
[Old Shrine name]Wani no shimo no kamino yashiro niza)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

和爾Wani)の名を冠する 各地の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の関連神社について

大和國添上郡 和尓坐赤坂比古神社 大(ワニニマス アカサカヒコ ノ カミノヤシロ)

和爾坐赤阪比古神社〈当社〉

一緒に読む
和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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大和国 添上郡 和尓下神社二座(ワニノ シモノ カミノヤシロ ニザ 

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

一緒に読む
和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を「櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」「第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)」の2柱を祀っていたとされます 明治初年には 延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

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➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

一緒に読む
和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

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和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座〈当社〉

一緒に読む
和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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若狭國 三方郡 和爾部神社(ワニベノ カミノヤシロ)

日吉神社 (美浜町佐柿)

尾張國 山田郡 和尓良神社(ワニラノ カミノヤシロ)

和爾良神社 春日井市上条町

朝宮神社 春日井市朝宮町

両社宮神社 春日井市宮町

和爾良神社 名古屋市名東区猪子石原

藤森神明社 名古屋市名東区本郷

神社 春日井市牛山町

景行天皇社 長久手市西浦

讃岐國 三木郡 和尓賀波神社(ワニカワノ カミノヤシロ)

引宮神社 木田郡三木町井上

鰐河八幡宮 木田郡三木町町下高岡

白山神社 木田郡三木町下高岡

和爾賀波神社 木田郡三木町井戸

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

櫟本(イチノモト)駅から 県道145号経由 北西方向へ約1.7km 車7分程度付近は道幅も狭く 櫟本高塚公園駐車場に停めて 徒歩をお勧めします
緩やかな細い上り坂が続き 和爾町の集落へと入ります
集落の地蔵を左折すると 消防団の火の見櫓があり
和爾坐赤阪比古神社Waninimasu akasakahiko Shrine)に参着

鳥居と社号標「式内村社 和爾座赤阪比古神社」と建ちます

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一礼をして 鳥居をくぐります

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鳥居をくぐると 真正面に拝殿が建ち
境内は こざっぱりとした印象です
拝殿の左手には 社務所のような和爾公民館があり 右手には神輿納庫があります

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拝殿にすすみます 
拝殿の奥には 朱色の鳥居が建ち 本殿が祀られています

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

中央に本殿 その両脇に鎮座する境内社にも併せてお詣りをします

向かって右 
春日Kasuga no yashiro)
《主》天児屋根命Amenokoyane no mikoto)

向かって左 
八幡Hachiman no yashiro)
《主》品陀別命Homutawake no mikoto)

本殿と境内社・春日社(Kasuga no yashiro)・八幡社(Hachiman no yashiro)の両方が 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)所載の論社となっています

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本殿の近くには 御垣があって近づけませんが 古墳になっているとも伝わります

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入口の鳥居へ戻ろうとすると 消防団の火の見櫓に半鐘があり 懐かしい風情です
鳥井を抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(nihon shoki)』養老4年(720)に記される伝承

第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉の10年の条に
四道将軍(シドエショウグン)を派遣し
大彦命(オオヒコノミコト)は 和珥坂上(ワニサカノウエに到着した

さらに
大彦(オオヒコ)と和珥臣(ワニノオミ) 彦国葺(ヒコクニフク)を派遣し そのときに 忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)と記されています

この和珥坂上(ワニサカノウエ)と和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)は 当神社「和爾坐赤阪比古神社(Waninimasu akasakahiko Shrine)」〈奈良県天理市和珥〉の事とされています

意訳

崇神天皇10年 秋7月24日 群臣を集め 天皇は詔(ミコトノリ)し
「民を導く根本は 教化にある
今 すでに神祇(アマツカミクニツカミ=天津神・国津神)祀り 災害(ワザワイ)はみな消えた しかし 遠くの国の人民は まだ知らず 未だに王化(キミノオモブケ)〈天皇の意に添う〉ていない 群臣から選び 四方に派遣して 朕(チン)が憲(ノリ)を知らしめたい」と言われました

即位10年9月9日
大彦命(オオヒコノミコト)〈孝元天皇の皇子・開化天皇の兄〉を北陸(クヌカノミチ)に派遣
武渟川別(タケヌナカワワケ)〈大彦命の子〉を東海(ウミツミチ)に派遣
吉備津彦(キビツヒコ)〈孝霊天皇の皇子・孝元天皇の弟〉を西道(ニシノミチ)に派遣
丹波道主命(タニワノチヌシノミコト)〈開化天皇の皇子 彦坐王の子〉を丹波(タニワ)に派遣

それで崇神天皇は詔(ミコトノリ)し
「もし 教(ノリ)を受けざるものがあれば すぐに兵を挙げてうて」
それで それぞれは 印綬(シルシ)〈天皇からの任命印〉を授かり 将軍となりました〈四道将軍(シドエショウグン)〉

9月27日
大彦命(オオヒコノミコト)は 和珥坂上(ワニサカノウエ)〈奈良県天理市和珥に到着した そのとき少女がいて 歌を歌いました
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・

大坂(オオサカ)で迎えて 大いに破り 吾田媛(アタヒメ)を殺し その軍卒を尽く斬った

また
大彦(オオヒコ)と 和珥臣(ワニノオミ) 彦国葺(ヒコクニフク)を派遣し 山背(ヤマシロ)に向かわせ 埴安彦(ハニヤスヒコ)を討たせました
そのときに 忌瓮(イワイベ)〈儀式用の 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)す〈戦勝祈願祭〉

精兵(トキイクサ)〈精鋭部隊〉を率いて進み 那羅山(ナラヤマ)に登って戦闘を始め 官軍(ミイクサ)は進軍し 草木を踏みならし それでその山を那羅山(ナラヤマ)といいます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承

皇別(コウベツ)と神別(シンベツ)の2系統の和爾(ワニウジ)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の大和国で 和爾氏(ワニウジ)が氏神として祀る神社が2つあり

和爾坐赤阪比古神社〈当社〉
神別(シンベツ)〈天津神・国津神の子孫〉
《祖神》阿太賀田須命(アタガタスノミコト)

和尓下神社 二座
皇別(コウベツ)〈日本の皇室から神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族〉
《祖神》天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシビトノミコト)

と祖神が別れていますが
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』でも 和爾氏(ワニウジ)について 皇別(コウベツ)と 神別(シンベツ)の2系統を載せています

 

大和国(ヤマトノクニ)神別(シンベツ)地祇(クニツカミ)の条

御祭神「阿田賀田須命(Atakatasu no mikoto)」が 大国主神(オオクニヌノカミ)の後裔で 和仁古(ワニコ)の祖として記されています

意訳

和仁古(ワニコ)
大国主神(オオクニヌノカミ)六世(ムツギノ)孫(ヒコ)
阿太賀田須命(アタガタスノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)

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右京(ウキョウ)皇別(コウベツ)の条

第5代 孝昭天皇(コウショウテンノウ)の皇子「天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシビトノミコト)」が祖で その後裔が「和爾部(ワニベ)」としています

意訳

和爾部(ワニベ)  天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシビトノミコト)三世(ミツギノ)孫(ヒコ) 彦国葺命(ヒコクニブクノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

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『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』延喜元年(901年)成立に記される伝承

神階授与記録として 大和国の他の神々と共に

意訳

貞観元年(859)正月27日  大和国従五位下 和爾(ワニ)赤坂彦神・・・に従五位上を授く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

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『先代旧事本紀(sendaikujihongi)』〈平安初期(806)~(906)頃の成立〉に記される伝承

第4巻「地祇本紀(一云、地神本紀)」に
御祭神「阿田賀田須命(Atakatasu no mikoto)」は 素盞鳴尊の系譜が語られ八世孫として記されています

意訳

八世孫
阿田賀田須命(アタカタスノミコト) 和迩君(ワニノキミ)等の祖(オヤ)

次に 建飯賀田須命(タケイヒカタスノミコト)
この命は 鴨部美良姫(カモベ ノ ミラヒメ)を妻となして 一男を生まれました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『先代旧事本紀』刊本(跋刊) ,延宝06年 校訂者:出口延佳 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

意訳

和尓(ワニ)坐赤坂比古神社 大月次新嘗

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』延喜元年(901年)
貞観元年(859)正月27日 和尓坐赤坂比古神 従五位上

『古事記(Kojiki)』和銅5年(712)
阿田賀田須命(Atakatasu no mikoto)和尓君(ワニノキミ)等の祖(オヤ)

〇按〈考慮〉 赤坂と阿田賀田の語 渉る〈関係し一方から他方へ移る〉

和尓村(ワニノムラ)に在り 今 天王(テンノウ)と称す 常楽寺の域内
梁文〈屋根の構造梁に記される工事の梁文(縁起文)〉には 天正6年修復とあり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

『神社覈録(jinja kakuroku)』明治3年(1870年)には
御祭神「阿太賀田須命(アタガタスノミコト)」を赤坂比古命(アカサスヒコノミコト)と同神と記されているが ハッキリとしない

必ずしも 和爾君(ワニノキミ)の祖(オヤ)とも決め難ければ もとのままに 赤坂比古神(アカサスヒコノカミ)と申しておいて 穏やかにしておくべき としています

意訳

和爾坐赤阪比古(ワニニマスアカサカヒコノ)神社   大月次新嘗

今按〈今考えるに〉
舊(旧)事記〈『先代旧事本紀(sendaikujihongi)』〉に
大国主神(オオクニヌシノカミ)8世孫 阿田賀田須命(アタカタスノミコト) 和迩君(ワニノキミ)等の祖(オヤ)

姓氏録〈『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〉に
和仁古(ワニコ)
大国主神(オオクニヌノカミ)六世(ムツギノ)孫(ヒコ)
阿太賀田須命(アタガタスノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)

また
宗形君(ムナカタノキミ)
大国主命(オオクニヌノミコト)六世(ムツギノ)孫(ヒコ)
吾田片隅命(アタカタスノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)

とあるによりて

『神社覈録(jinja kakuroku)』
備前国(ビゼンノクニ)赤坂郡(アカサカノコオリ)宗形神社(ムナカタノカミノヤシロ)すなわち 吾田片隅命(アタカタスノミコト)にして
その地が赤坂郡なれば 赤坂比古命(アカサスヒコノミコト)とも称ししを

その号を以って当国に祭れるなり
されば備前 宗形神社と同体なること明らけしと決め


奈良県注進状にも 同神を祭るとあれば これに従いて宜しき似たれども

岡山県注進状を検じるに〈検討するに〉
宗形神社の祭神は 宗形三女神にして 阿太賀田須命(アタガタスノミコト)という事はなければ とりがたく

和爾坐(ワニニマス)とあればといって 必ずしも 和爾君(ワニノキミ)の祖(オヤ)とも決め難ければ もとのままに 赤坂比古神(アカサスヒコノカミ)と申してあるぞ穏やかなるべき

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『大和志料(Yamato shiryo)』大正3年(1914)に記される伝承

当社の文献への所載として
『大和国正税帳』正倉院文書〈天平元年(729)編纂〉に記されているとしていいます

祭神の「赤坂比古命(アカサカヒコノカミ)」は何神なるを知らず〈どのような神か判らない〉
蓋し(ケダシ)〈物事を確信をもって推定する意〉
和珥(ワニ)氏の祖神(オヤガミ)ならん
と記しています

意訳

和爾坐赤阪比古(ワニニマスアカサカヒコ)神社

櫟本(イチノモト)町 大字 和爾 北垣内にあり

天平2年12月『大和国正税帳』正倉院文書に〈天平元年(729)編纂〉
「丸(ワニ)神戸 穀50斛(コク)漆斗9合 耗9斗9升4合 定49斛 漆斗1升5合、替衣 稲4910漆束1把半 穎452束 租113束 合1062束1把半 用4束 神祭 残 1050束 1把半」

『新抄格勅符抄』に〈平安時代 大同元年(806年)に書かれた法制書〉
「和爾神(ワニノカミ)四戸 大和」〈神戸の記載〉

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に
「和尓坐赤坂比古神社 大 月次新嘗」とありて

古(イニシエ)は 盛大なる社頭なりしも
中世以降 衰微し 今は 村社たり

祭神「赤坂比古命(アカサカヒコノカミ)」何神なるを知らず〈どのような神か判らない〉
蓋し(ケダシ)〈物事を確信をもって推定する意〉
和珥(ワニ)氏の祖神(オヤガミ)ならん

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813『大和志料』

和爾坐赤阪比古神社Waninimasu akasakahiko Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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大和国 添上郡 和尓下神社二座(ワニノ シモノ カミノヤシロ ニザ 

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

一緒に読む
和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を「櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」「第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)」の2柱を祀っていたとされます 明治初年には 延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

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➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

一緒に読む
和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

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和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座〈当社〉

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和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

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大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています