和奈佐意冨曽神社(わなさおうそじんじゃ)は 旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1605)大里松原の地〈本宮〉大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)に遷座し 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の神名を伝えるため 明治時代に里人によって 八幡神社から中宮として遷座したものです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
和奈佐意冨曽神社(Wanasaouso shrine)
【通称名(Common name)】
・中宮(ちゅうぐう)
【鎮座地 (Location) 】
徳島県海部郡海陽町大里松原2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》神功皇后(じんぐうこうこう)
諸説あり
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命 あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建
松原や 凡そ一里の 蝉の声
高木 思風
【柳後亭 其雪(1788~1842)の高弟】大里八幡神社の創建については諸説ありますが、現在の大里松原の地に鎮座したのは、慶長9年(1604)、阿波蜂須賀藩、海部城主益田 豊後守が鞆浦の大宮にあった和奈佐意富曽(ワナサオフソ)神社とともにお祀りしたことに始まるとされます。
この和奈佐意富曽神社は、延喜式(927:平安初期の全国の神社名を登載)に記載される式内社として古来より地方の崇敬が篤かったと伝わります。その格式と祭神が異なることなどから、明治になり八幡神社から南、二百メートルのところに中宮(なかみや)として遷座されました。
さらに中宮さんから1kmほど南に寄った海南中学校運動場の横に小さなお社が三社あり、小宮さんと称されています。今も、八幡神社の秋祭と正月祭には、この三社(本宮、中宮、小宮)に幟や榊を奉(たてまつ)って御祭します。
大里松原への鎮座時から、八幡神社は海部川筋21ケ村の郷社として崇められ、いまも1200戸余の氏子の皆様に崇敬されています。
大里八幡神社総代会HPより
https://sites.google.com/view/osatohachiman/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E5%89%B5%E5%BB%BA
【由 緒 (History)】
『海部郡誌』〈昭和2年(1927)〉に記される内容
【抜粋意訳】
海部郡誌 町村誌 7.川東村 三.社寺と名勝
八幡神社(郷社)
大字大里字松原 ,大里松原の北部に鎭座してゐる、
祭神 譽田別(ホンダワケ)命、
建造物は 本殿檜皮葺桁二間半、梁一間半、拜殿 瓦葺桁五間、梁三間、総馬堂瓦葺桁六間梁二間半、共他石鳥居、銅馬等がある、社の背後には小丘があつて椎其他が茂り暖帶林をなしてゐる、當社の由緖と稱せられるものは 神功皇后三韓征伐の後 又 熊襲を平定し南巡して途中 那佐の水門に入座せられた、此時 皇子 譽田別命 (應神天皇 )の御影を遷し神に祀った、是即ち和奈佐意富會神社である、當社は延喜式神社で社地を大宮と稱し地方の崇敬が厚かったが、天正年間 大里村濱崎の地へ遷座し 更に慶長九年五月大里松原の現地に遷した 慶安三年閏十月 國主の御普請する所となつた、云々。
又 阿波志には左の如くある、
和奈佐意富曾祠 延喜式小祠たり、今八幡と稱す、古鏡及び金口 (鰐口)各一枚を納む、舊 鞘浦大宮山にあり、慶長九年 之を大里松林中に移す、興源公、屡々米若干を賜ひ、以て重葺之料となす、鞘浅川等二十一村共に祀る、
土人曰く、日本武尊を祀る也と、景行、成務、仲衣、神功、應神五帝及び息長田別皇子を以て配食す當社は右の如く 本來は延喜式の和奈佐意富曾神社であった所 慶長九年大里松原に遷座して八幡神社と改稱したものと察せられる、其後 八幡神社の別社として和奈佐意富會神社を別ち祀ったものである、
和奈佐意富曾神社 (無格社)
郷社 八幡神社の別社であって、八幡社より二町ばかり南方にある、祭神は八幡の御母、神功皇后 (息長足姫命)である、社殿は本殿のみで桁五尺幅三尺の檜皮葺である。本社は土人 中宮又は小宮と稱し 舊時の延喜式の神名を傳へる爲に八幡神社より分祀したものである、
【原文参照】
和奈佐意冨曽神社
式社考の通り大碓命にて 此 海邊に祭り奉りし 由は右に引
御神等の御祖神なれば 近き土地に斎奉りしなるべし神社は 大里村八幡なりと
先達色々説を何れなり これまつれるに この社は元 鞆浦の内大宮と云有 是八幡宮旧地なりと云伝ふ 濱地に奥浦東に脇宮と土地あり この地に脇宮神社あり 是を考ふるに︎この名 則 大鞆別命の御名を處し地名にて 八幡社に中社有 思ふに 和奈佐ノ社は 分にましますならん
八幡神社 元 鞆奥浦の氏神にて 和奈佐社は その奈佐宍喰高邊村 大里村 村人の斎き奉りし社ならんと思ふをからは 和奈佐 則 奈佐にて 大里と云は 大碓に近き名とみえる 写し大碓ノ名とし 宍喰は奈佐の濱地なればなり 往考
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
大里八幡神社の・本宮・中宮・小宮 について
八幡神社の秋祭と正月祭には、この三社(本宮、中宮、小宮)に幟や榊を奉(たてまつ)って御祭します
〈本宮〉・大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)
旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1604)に大里松原に遷座し 明治時代まで鎮座
大里八幡神社(おおさとはちまんじんじゃ)は 日本の「白砂青松百選」に選ばれた全長4kmにも及ぶ大里松原海岸に鎮座します 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)で 旧鎮座地は 鞆浦の大宮山で 慶長九年(1604)大里松原海岸に遷座し 明治時代まで鎮座したと伝わります
大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)〈延喜式内社〉
※参考まで 『海部町史』によれば 慶長九年十二月十六日(西暦 1605,2,3)に大地震と大津波の記録が残っています
゛慶長九 一六〇四 大地震・大津波 鞆浦北町の路傍にある高さ一丈・径一・二乃至一・八丈の研岩の蓮弁形輪廓内の銘、
(大岩碑文)
「南無阿弥陀仏、敬白右意取者、人王百拾代御宇慶長九甲辰季十二月十六日未亥刻於常月白風寒、凝行歩時分、大海三度鳴人々巨驚、拱手処逆浪頻起、其高十丈、来七度、名大塩也、剰男女沈千尋底百余人為後代言伝、奉興之、各平等利益者必也」゛
その後の大地震の記録は
寛政一年四月一七日(1789/05/11)・ 嘉永七年一一月四日(1854/12/23)にあり
地震史料集テキストデータベースより
https://materials.utkozisin.org/articles/search?document=%E3%80%94%E6%B5%B7%E9%83%A8%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%80%95%E2%97%8B%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C
有名な 安政南海地震1927(昭和2)年5月1日等
〈中宮〉・和奈佐意富曽神社(海部郡海陽町大里松原)
明治時代に 延喜式の神名を伝えるため 八幡神社から南200メートルのところに中宮(なかみや)として遷座
和奈佐意冨曽神社(わなさおうそじんじゃ)は 旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1605)大里松原の地〈本宮〉大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)に遷座し 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の神名を伝えるため 明治時代に里人によって 八幡神社から中宮として遷座したものです
和奈佐意冨曽神社(海部郡海陽町大里松原)〈延喜式内社〉
〈小宮〉・金刀比羅神社(海部郡海陽町大里松原)
海南中学校運動場の横に小さなお社が三社あり 小宮と呼ばれる
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和奈佐意富曽神社
[ふ り が な ](わなさおふその かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wanasaofuso no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『出雲国風土記』(和銅6年(713))の伝承にある「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の伝承について
『出雲國風土記』大原郡 条 船岡山(funaoka yama) に記される伝承
『出雲国風土記』の伝承に「阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が山になったので「船岡」という」とあります
【抜粋意訳】
『 船岡山(funaoka yama)
郡家の東北16里の所にあります
阿波枳閉委奈佐比古命(awa kihe wanasa hiko no mikoto)が 曳いてこられて据えられた船が この山です だから 船岡といいます 』
【原文参照】
『出雲国風土記』大原郡〔不在神祇官社〕船林社 (ふなはやし) (funahayashi no) yashiroの論社
・船林神社
船林神社(ふなばやしじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「船林社(ふなはやし)のやしろ」の論社で 『出雲国風土記』には 鎮座する「船岡山」について 「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が 山になったので「船岡」という」伝承が記されます
船林神社(雲南市大東町北村)〈船林社『出雲國風土記733 AD.』不在神祇官社〉
・貴船神社
舩林神社・貴船神社(ふなばやしじんじゃ・きふねじんじゃ)は 拝殿の扁額には「貴舩神社」と記されています 『出雲神社巡拝記(1833)』には゛南加茂村 貴船大明神は風土記に云 船岡山の麓にあり゛とし 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「船林社(ふなはやし)のやしろ」の論社としています
舩林神社・貴船神社(雲南市加茂町南加茂)〈船林社『出雲國風土記』不在神祇官社〉
船林社の祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)について
この神名「阿波(awa)」「和奈佐(wanasa)」の文字などから
『延喜式神名帳』の阿波国(awa no kuni)那賀郡に所載の社「和奈佐意富曾神社(wanasa ohoso no kamino yashiro)」があり この社との関連性が云われています
阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の音をたどれば 阿波(あわ)来(き)辺(へ)委奈佐比古命 となります
阿波の辺〈海辺〉から来た委奈佐比古命 の意味でしょうか
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の4つの論社
①和奈佐意富曽神社 徳島県海部郡海陽町大里松原32
《主》神功皇后(じんぐうこうこう)
諸説あります
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命
和奈佐意冨曽神社(わなさおうそじんじゃ)は 旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1605)大里松原の地〈本宮〉大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)に遷座し 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の神名を伝えるため 明治時代に里人によって 八幡神社から中宮として遷座したものです
和奈佐意冨曽神社(海部郡海陽町大里松原)〈延喜式内社〉
➁大里八幡神社 徳島県海部郡海陽町大里松原1
《主》天照皇大神・誉田別命・天児屋根命
大里八幡神社(おおさとはちまんじんじゃ)は 日本の「白砂青松百選」に選ばれた全長4kmにも及ぶ大里松原海岸に鎮座します 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)で 旧鎮座地は 鞆浦の大宮山で 慶長九年(1604)大里松原海岸に遷座し 明治時代まで鎮座したと伝わります
大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)〈延喜式内社〉
➂蛭子神社 徳島県那賀郡那賀町和食町
《主》蛭子大神・天照皇大神・素盞嗚神
蛭子神社(ひるこじんじゃ)は 御創立は古く不詳であるが 太龍寺縁起によれば「天長二年空海奉遷宮」とあり また延喜式神名帳に所載の阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)は当社であるという伝承があります 鎮座地名は゛和食(わじき)゛古くは゛鷲敷社(わじきのやしろ)゛と呼ばれたと伝わります
蛭子神社(那賀郡那賀町和食字町)〈延喜式内社論社〉
④羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曾神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32
《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
羽浦神社(はうらじんじゃ)は 明治四十三年(1890)阿波國 那賀郡の延喜式内社の二つの論社〈・和耶神社(わやの かみのやしろ)・和奈佐意富曽神社(わなさおふその かみのやしろ)〉を含んだ 旧中庄村 旧宮倉村に祀られていた23社の神社が合祀されました この時 村社 八幡神社から羽浦神社と改称し 式内論社となりました
羽浦神社(阿南市羽ノ浦町中庄千田池)〈二つの式内社・和耶神社・和奈佐意富曽神社〉
この4社の中で
④羽浦神社に合祀された(徳島県阿南市羽ノ浦町)和奈佐意富曾神社が 同一名の御祭神「和奈佐毘古命(wanasa hiko no mikoto)」を祀っています
同一名と云うのは 江戸期の『雲陽志(unyo shi)』よれば
船林神社(funabayashi jinja)の御祭神を「委奈佐比古命(wanasa hiko no mikoto)」としています
こうした際の留意点として 御祭神についての考証も より古い伝承から順にたどり観ていくようにすると見方も変わります
延喜式の成立は 927AD.であり 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は733 AD.です
より古い出雲 風土記の伝承から追ってみます
古代出雲に「粟の耕作」の神が坐ます
これを奉じる里人の移住とともに この神が 出雲から 丹後へ 由良川を上り 加古川を下り そこから志染へ そして播磨から阿波へ 移られていくことは想像に難くありません
阿波の西海岸沿いには この神の他にも 出雲族の神々が 多く祀られています
出雲の人々が そこから紀伊半島 そして尾張へと さらに太平洋岸を東に移動して行ったのだとすると様々な事象と符合していくでしょう
但し 阿波の人々は 阿波が日本の発祥の地としていますので これとは逆説になります
出雲から阿波に至る道筋には 阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)に関する 伝承が 風土記に記されています
『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承
「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています
【抜粋意訳】
丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社
丹後国風土記に云う
丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る
此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る
此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た
ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う
この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った
「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」
遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う
また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です
【原文参照】
延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
奈具神社(なぐじんじゃ)は 嘉吉三年(1443)旧鎮座地 奈具村が大洪水により流失〈遺跡地は未詳〉した時 船木奈具神社は溝谷神社の相殿に遷座しました 天保三年(1832)船木村が霊石の返還を求め 返還命令が出され 明治六年(1873)延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)として再建されたものです
奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)〈播磨國風土記所載社・延喜式内社〉
・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉
溝谷神社(みぞたにじんじゃ)は 社伝には 四道将軍の丹波道主命が神夢を受け 山麓の水口に新宮を建て天下泰平を祈念 この水の流れるところを溝谷と云う その子 大矢田宿禰〈神功皇后に使えた新羅の鎮守将軍〉が 帰朝の無事を素戔嗚尊の神徳に願い 帰朝後に新羅大明神として祀ったと云う 相殿には〈相殿 船木奈具神社〉を祀ります
溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉
延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)
・奈具神社(宮津市由良)
奈具神社(なぐじんじゃ)は 『丹後国風土記』にある天女の言葉「ここに来て わが心 奈具志久(なぐしく)なれり」とある この心が奈具(なぐ〈なごむ〉)が由来です 丹後國の式内社には 加佐郡と竹野郡の二ヶ所に゛奈具神社゛が所載されますが 当社は 延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)です
奈具神社(宮津市由良宮ノ上)〈豊宇賀賣命を祀る延喜式内社〉
・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)
八幡大神市姫神社(はちまんおおかみ いちひめじんじゃ)は 古老の口伝には 創立の年代等不詳だが 白糸浜は北海鎮護の要港で 往昔 厳島より市杵姫大神 白糸浜の御碕に鎮座され 海鎮明神と尊称された 中世 市杵姫大神の御神託により 宇佐八幡大神を合殿に奉祀して いつしか諸人は 八幡神社と称するようになったと云う
八幡神社〈八幡大神市姫神社〉(舞鶴市市場)〈延喜式内社の論社〉
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛阿波国の和那散(わなさ)゛の伝承
『播磨国風土記』美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)と名付けたと記されています
【抜粋意訳】
美囊郡(みなぎのこほり)
美囊(みなぎ)と号する所以 昔 大兄 伊射報和氣命〈履中天皇〉が 国境の時 志深里(しじみのさと)に到り 許曽社(こそのやしろ)で勅した「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 故に美囊(みなぎ)郡と号する
志深里(しじみのさと)土中中
志深(しじみ)と号する所以 伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に 勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」 故に志深里(しじみ)と号する
【原文参照】
延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)
志深里(しじみのさと)に鎮座する 式内論社
・御坂神社(三木市志染町御坂)
御坂社(みさかしゃ)は 『播磨国風土記』「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 履中天皇が許曽社で勅した故に美囊(みなぎ)となり 阿波国の和那散で食した信深貝(しじみがい)を見た故に 志深(しじみ)里となり 三坂社の神が坐すと記される 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の有力な論社です
御坂神社(三木市志染町御坂)〈播磨国風土記 三坂社の神・延喜式内社 御坂神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR牟岐線 阿波海南駅から 東へ約2.6km 日本の「白砂青松百選」に選ばれた全長4kmにも及ぶアカウミガメの産卵地としても知られる大里松原海岸に鎮座しています
和奈佐意富曽神社(海部郡海陽町大里松原)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり抜けて
本殿にすすみます
本殿には゛式内社 和奈佐意富曽神社゛の銘板があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 本殿のみが建ちます
社殿に一礼をして 境内を戻ります 鳥居の先は 大里松原海岸です
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在は゛舊在 鞆浦大宮山 慶長九年移之干大里松林中゛〈旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1604)に大里松林中の現 和奈佐意富曽神社(海陽町大里松原)に移した〉里人が云うには 日本武尊を祭ると云う と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十二 海部郡 祠廟 和奈佐意富曾祠
延喜式小祠たり、今八幡と稱す、古鏡及び金口 (鰐口)各一枚を納む、舊 鞘浦大宮山にあり、慶長九年 之を大里松林中に移す、興源公、屡々米若干を賜ひ、以て重葺之料となす、鞘浅川等二十一村共に祀る、
土人曰く、日本武尊を祀る也と、景行、成務、仲衣、神功、應神五帝及び息長田別皇子を以て配食す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在・祭神はわからない と記しています
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
和奈佐意富曾は 假字也、和名鈔、〔郷名部〕和射
〇祭神詳ならず
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在は゛海部郡 奈佐湊の邊にあり、゛〈現 大里八幡神社(海陽町大里松原)〉
※慶長九年 (一六〇四 )以前は現 海部町鞘浦那佐港に鎮座
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
今 海部郡 奈佐湊の邊にあり、〔阿波志、阿府志、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在について 三ヶ所を記しています
゛阿府志 海部那大里浦にあり八幡宮と號す゛〈現 大里八幡神社(海陽町大里松原)〉
゛明細帳には 八幡宮と別社にして 同村に和奈佐意富曾神社とあれ゛〈現 和奈佐意富曽神社(海陽町大里松原)〉
゛式社略老に同郡穴喰浦に奈佐と云處あり 其處に三島社と云ある是ならむ゛〈現 那佐神社(海部郡海陽町宍喰浦那佐)〉
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
祭神
今按 和奈佐の和奈は 野にて烏獸を捕るの具 佐は 網の義にや
意富曾は 式社略考に罸は鳥獸を覆ふとかゝる辭ならんと云る さもあるべくや されど神名は意富曾ノ神にて 大麻神なるべし 本國に大麻比古神社 讃岐多度郡 大麻神社あり由ある神なるべし祭日
社格所在
今按 阿府志 海部那大里浦にあり八幡宮と號すとみえ 明細帳には八幡宮と別社にして 同村に和奈佐意富曾神社とあれど 式社略老に同郡穴喰浦に奈佐と云處あり 其處に三島社と云ある是ならむと云り この奈佐の號 和奈佐に由あれば 此奈佐の地にて熟く探索し 猶徴を担るを俟て考ふべきなり 古本播磨風土記に志深里土中に所以號志深者伊射封和氣命 御食於此井之時 信深貝遊上於御飯筥縁彌時 勅云 此具者於阿波國和那散我所食之貝哉 故號志深里と見ゆ 後案のために揭け添へつ
【原文参照】
和奈佐意富曽神社(海部郡海陽町大里松原)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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阿波国(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 阿波国 50座(大3座・小47座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について