稚櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『日本書紀』第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の条にある 天皇が船遊びをされた「磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)」や 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)が 桜の花を捜し出した「掖上室山(イケノヘ ノ ムロヤマ)」が 隣接していたと伝わっていて 磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の舞台とする説もあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
稚櫻神社(Wakazakura Shrine)
(わかざくらじんじゃ)
[通称名(Common name)]
磐余稚桜神社(いわれわかざくらじんじや)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市池之内1000
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》出雲色男命(Izumo shikoo no mikoto)
気息長足姫命(Okinaga tarashihime no mikoto)
去来穂別命(Izahowake no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建不詳
稚桜神社(わかさくらじんじゃ)
見どころ・歴史履中天皇が磐余池に船を浮かべて宴遊されたとき、天皇のお盃の中に桜の花が散って入ったのを珍しいこととお喜びになり、宮の名を磐余稚桜宮とした。それがこの神社の名の由来である。
桜井市役所 公式HP「社寺を巡る」より
http://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/syaji/sansaku/kibiike/1396003276412.html
【由 緒 (History)】
神社名「稚櫻(わかざくら)」の 由緒(ゆいしょ)日本書紀(にほんしょき)によると「第17代 履中(りちゅう)天皇3年(西暦402)冬11月6日 天皇が両枝船(ふたまたふね)を磐余(いわれ)の市磯池(いちしのいけ)(神社の東側にあった池)に浮かべて、遊宴(あそ)ばれたとき膳臣(かしわでのおみ)余磯(あれし)が酒を奉(たてまつ)った。その酒盃(さかずき)に櫻(さくら)の花びらが散(ち)ってきた。
天皇は、大変不思議(ふしぎ)に思われ、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)をよんで
「この花は季節(きせつ)外(はず)れに 珍(めずら)しく散(ち)ってきた。どこからだろうか 探(さが)してこい。」といわれた。長真胆連(ながまいのむらじ)は 花を探(さが)したづねて、掖上室山(いけのへのむろやま)で花を手(て)に入(い)れて奉(たてまつ)った。天皇は その珍(めずら)しいことを喜(よろこ)んで宮(みや)の名(な)とされた。磐余稚櫻宮(いわれのわかざくらのみや)の由緒(ゆいしょ)である。
長真胆連は本姓(もとのかばね)を改(あらた)めて 稚櫻部造(わかざくらべのみやつこ)とし 膳臣(かしわでのおみ)余磯(あれし)を名づけて稚櫻部臣(わかざくらべのおみ)という、」と記されている。
稚櫻(わかざくら)神社の御祭神(ごさいじん)
○出雲色男命(いずもしこおのみこと)
「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると 物部氏(もののべし)の御先祖(ごせんぞ)の饒速日命(にぎはやひのみこと)の三世(さんせ)の子孫(しそん)が出雲色男命(いずもしこおのみこと)で、また、櫻の花を探(さが)し求(もと)めた物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)(稚櫻部造 わかざくらべのみやつこ)の四代前(よんだいまえ)の祖先(そせん)にもあたります。「旧時本記(くじほんぎ)」に「出雲色男命(いずもしこおのみこと)は 第四代 懿徳天皇(いとくてんのう)の御世(みよ)に大夫(まえつぎみ)となり、次に大臣(おおまえつぎみ)となる。大臣(おおまえつぎみ)という号(な)は、この時(とき)からできた。」とあります。
○去来穂別命(いざほわけのみこと)(履中 りちゅう 天皇)
第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)の皇太子(こうたいし)で「日本書紀」の履中天皇 紀(き)に「元年(400年)春2月1日 皇太子(こうたいし)(去来穂別命 いざほわけのみこと)は 磐余稚櫻宮(いわれのわかざくらのみや)で即位された。」と記され 池之内(いけのうち)に都(みやこ)をつくられたことがわかります。
2年11月磐余池(いわれのいけ)を作られた。○気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后 じんぐうこうごう)
神功皇后(じんぐうこうごう)は 第14代 仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后(こうごう)で、天皇がお崩(かく)れになったので、天皇にかわって政務(せいむ)をとられる摂政(せつしょう)となられた。「日本書紀 にほんしょき」神功皇后摂政紀(じんぐうこうごうせっしょうき)に
「3年 春 正月3日 誉田別皇子(ほむだわけのみこと)(後の第15代 応神(おうじん)天皇・・・・八幡大神 はちまんおおかみ)を立てて 皇太子(こうたいし)とされた。」
そして 磐余(いわれ)に都(みやこ)をつくられた。」と記されている。現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿向かって左(元は住吉神社と称して 祭神は気息長足姫命であった)
・高麗神社(コマジンジャ)《主》武内宿祢(タケノウチノスクネ)
本殿向かって右
・天満神社(テンマンジンジャ)《主》菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)
拝殿の右手の小祠(元は弁財天)
・厳島神社(イツクシマジンジャ)《主》市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
参道石段下 踊り場に鎮座の小祠(元は牛頭天王)
・八坂神社(ヤサカジンジャ)《主》素戔鳴命(スサノヲノミコト)
・石碑 稲荷大明神
小さな祠
神輿庫のような扉のある建屋?
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座
(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城上郡 35座(大15座・小20座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 若櫻神社
[ふ り が な ](わかさくらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wakasakura no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)
「大和國 城上郡 若櫻神社」の論社は2ヶ所あります
①若櫻神社(桜井市谷)
若櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で 第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の磐余稚桜宮(イワレ ワカザクラノミヤ)跡に充てる説もあります 東殿(若桜神社)西殿(高屋安部神社)の本殿があり 高屋安部神社は 近世(18世紀以前頃)に山崩れがあり 社殿が大破した為 安倍松本山(安倍文殊院の東)から 元々の若櫻神社の鎮座地 こちらに遷座したと伝わります 若桜部(ワカサクラベノ)氏や安倍(アヘノ)氏に所縁のある御祭神を祀ります
若櫻神社(桜井市谷)
➁稚櫻神社(桜井市大字池之内)〈当神社〉
稚櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『日本書紀』第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の条にある 天皇が船遊びをされた「磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)」や 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)が 桜の花を捜し出した「掖上室山(イケノヘ ノ ムロヤマ)」が 隣接していたと伝わっていて 磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の舞台とする説もあります
稚櫻神社(桜井市池之内)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
桜井駅から R169号経由 南西に約3km 車10分程度
小高い丘の上に鎮座しています
太古「磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)」を望み神功皇后・履仲天皇の居所であった「磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)」跡であるかもしれないという説で知られています
社号標「式内 稚櫻神社」が建っています
稚櫻神社(Wakazakura Shrine)に参着
扁額「稚櫻神社」と掲げられた鳥居をくぐり 石段を上がります
石段は すぐに左折し又 右折して登り それから やや長い石段を上り境内となります
境内北側に拝殿が建ち
拝殿にすすみます
彫刻がユニークで「波間にうさぎ」が彫られています
サメはいませんが 因幡の白兎なのでしょうか
もしくは 蛇とウサギなのか
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿奥の石垣上には 神門と瑞垣に囲まれて
向かって
左に・高麗神社(コマジンジャ)
中央に 本殿(ホンデン)
右に・天満神社(テンマンジンジャ)
いずれも南に向きに鎮座しています
参道を戻る途中に 踊り場のような平地があり
さらに石段を下がります
鳥居をくぐり 振り返り 一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』養老4年(720)に記される伝承
第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の 磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の説話があり
若桜部(ワカサクラベ)には 2流が記されています
第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の条
即位3年 冬11月6日条天皇は 両枝船(フタマタノフネ)を 磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)に浮かべ 妃とそれぞれ分かれて乗って遊ばれた
膳臣(カシワデノオミ)余磯(アレシ)が 酒を献じた
その時 桜の花が 盃に散り落ち 天皇は不思議に思われて 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)を召して
詔(ミコトノリ)して
「この花は 非時(トキシクアラジ)〈季節ではない〉のに来た これは何処の花だろうか お前が探してこい」といわれた
そこで 長真胆連(ナガマイノムラジ)は 一人 花を尋ねて 掖上室山(ワキノカムノムロノヤマ)で桜を見つけて 献上しました天皇は その珍しさに喜ばれ 宮の名とされた
それが 磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)といわれる由縁ですこの日に 長真胆連(ナガマイノムラジ)の元の姓(カバネ)を改め
稚桜部造(ワカサクラベノミヤツコ)とされた
また 膳臣(カシワデノオミ)余磯(アレシ)を名付けて 稚桜部臣(ワカサクラベノオミ)とされました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承
若桜部(ワカサクラベ)には 日本書紀と同様に2流が記されています
①は 阿部氏系 皇別氏族・大彦命(オオヒコノミコト)の流れ
②は 物部氏系 神別氏族・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の流れ
①右京(ウキョウ)皇別(コウベツ)の条では
若桜部朝臣(ワカサクラベノアソミ)は 孝元天皇の皇子・大彦命の後裔と記しています
➁右京(ウキョウ)神別シンベツ 天神(アマツカミ)の条では
若桜部造(ワカサクラベノミヤツコ)は 饒速日神(ニギハヤヒノカミ)出雲色男命(イズモシコオノミコト)の後裔 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)の後裔と記しています
当神社「稚櫻神社(桜井市大字池之内)」は ➁の流れになります
①右京(ウキョウ)皇別(コウベツ)の条
意訳
右京(ウキョウ)皇別(コウベツ)
若桜部朝臣(ワカサクラベノアソミ)
安倍朝臣(アベノアソミ)同祖(オナジキオヤ)大彦命(オオヒコノミコト)の孫 伊波我牟都加利命(イハガムツカリノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)
➁右京(ウキョウ)神別シンベツ 天神(アマツカミ)の条意訳
意訳
右京(ウキョウ)神別シンベツ 天神(アマツカミ)
若桜部造(ワカサクラベノミヤツコ)
饒速日神(ニギハヤヒノカミ)三世(ミツギノ)孫(ヒコ)出雲色男命(イズモシコオノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)四世(ヨツギノ)孫(ヒコ)物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ) ~・・・・(以下 『日本書紀(nihon shoki)』履中天皇(リチュウテンノウ)の磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の説話が記されます)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』寛政3年(1791年)刊 に記される伝承
『日本書紀(nihon shoki)』に記された
稚櫻宮(ワカザクラノミヤ)と市磯池(イチシノイケ)が 池内村にあると記しています
江戸時代(1791年)には磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)の一部が 池内村に残っていたようです
「掖上室山(イケノヘ ノ ムロヤマ)」も 稚櫻宮(ワカザクラノミヤ)に隣接をしていたようで
物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)が「掖上室山(イケノヘ ノ ムロヤマ)」で桜を見つけたとする『日本書紀(nihon shoki)』を題材とした和歌を載せて 締めています
意訳
稚櫻宮(ワカザクラノミヤ)
池内村にあり
神功皇后(ジングウコウゴウ)3年 春 正月
磐余(イワレ)に都(ミヤコ)をつくられたとあり稚櫻宮(ワカザクラノミヤ)という
履中天皇(リチュウテンノウ)も ここより即位し奉るところなり
『日本書紀(nihon shoki)』に記されたり市磯池(イチシノイケ)
池内村にありとぞなり 稚櫻の門裏の前にあり
〈以下 『日本書紀(nihon shoki)』第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)の磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の説話が記されています〉夫木『夫木和歌抄』(10738)
「櫻ちる 室の山風 吹ぬらし 市磯(イチシ)の池に 余る白波 」 定圓
さくらちる-むろのやまかせ-ふきぬらし-いちしのいけに-あまるしらなみ
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『大和名所図会』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎[数量]7冊[書誌事項]刊本 ,寛政03年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003118&ID=M2018050217074528140&TYPE=&NO=
『大和志料(Yamato shiryo)』大正3年(1914)に記される伝承
式内社として 当神社 櫻井町大字谷にあり 白山権現(ハクサンゴンゲン)を比定して
もう一つの論社「稚櫻神社」が 阿倍村 大字 池之内 宮地にあるが これは採用できないとしています
意訳
若櫻(ワカザクラ)神社
櫻井町大字谷にあり 白山権現(ハクサンゴンゲン)と称せり
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に城上郡に所載す又
郡(コオリ)の境界が 変遷によりて 然(サ)るのみ〈そのようになった〉阿倍村 大字 池之内 宮地にも 同名の神社ありて 或いは 以って
式内社の若櫻神社と称するも 彼は〈あれは〉 磐余稚桜宮(イワレ ワカザクラノミヤ)の跡地に付き 他の神を祭りたるなるのみならず 池之内は 所謂(イワユル)磐余池の故趾にして
古来 本郡の分内にして 城上郡に属すべきにあらざれば 今これを取らず祭神 詳(ツマビラカ)ならず〈詳しい事は不明〉
倘(モシ)くは 稚櫻部(ワカサクラベ)氏の祖(オヤ) 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)を祭れる 所ならん〈所であろう〉
長真(ナガマイ)の 膳(カシワデ)の事は 磐余稚桜宮(イワレ ワカザクラノミヤ)の下りに 詳(ツマビラカ)なり〈詳しくある〉(註)
神社明細帳に
十市郡谷村字西浦
指定村社 若櫻神社 祭神 伊波我加利命(Iwakagari no mikoto)
由緒不詳 延喜式内とあり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813『大和志料』
稚櫻神社(Wakazakura Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
①若櫻神社(桜井市谷)
若櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で 第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の磐余稚桜宮(イワレ ワカザクラノミヤ)跡に充てる説もあります 東殿(若桜神社)西殿(高屋安部神社)の本殿があり 高屋安部神社は 近世(18世紀以前頃)に山崩れがあり 社殿が大破した為 安倍松本山(安倍文殊院の東)から 元々の若櫻神社の鎮座地 こちらに遷座したと伝わります 若桜部(ワカサクラベノ)氏や安倍(アヘノ)氏に所縁のある御祭神を祀ります
若櫻神社(桜井市谷)
➁稚櫻神社(桜井市大字池之内)〈当神社〉
稚櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『日本書紀』第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の条にある 天皇が船遊びをされた「磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)」や 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)が 桜の花を捜し出した「掖上室山(イケノヘ ノ ムロヤマ)」が 隣接していたと伝わっていて 磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の舞台とする説もあります
稚櫻神社(桜井市池之内)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)