牛床詣所は 屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神の遥拝所です 里人が山に守られている畏怖の念と感謝をお山に詣でて お伝えする原初の山岳信仰のなごりを今に伝えています 標高1936mの宮之浦岳は益救神社の奥宮で かつては毎年春と秋の2回 男衆の「嶽参り(たけまいり)」があり 牛床詣所で女子供は山に参った男達を出迎えた里人の聖地とされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
牛床詣所(Ushidoko moisho)
(うしどこもいしょ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》彦火火出見尊(Hiko hohodemi no mikoto)〈山幸彦〉
= 一品法壽(宝珠)大権現(いっぽんほうじゅだいごんげん)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・「嶽参り(たけまいり)」
【格 式 (Rules of dignity) 】
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代は不詳
【由 緒 (History)】
牛床詣所(うしどこもいしょ)
上屋久町指定文化財 平成元年四月一日指定
文化財分類 記念物 文化財種類 史跡
屋久島は、宮之浦岳をはじめとする険しい山々が多いため、古くから「山岳信仰の島」でした。
ここは、山岳信仰の重要な行事である「岳参(だけまい)り」の 折りに、家族が山に詣でた男たちを出迎えた場所です。女人禁制のため、岳参りに参加できない婦人や子どもたちは、日ごろここで遥か山奥の御岳を拝みました。
詣所(もいしょ)は、いわば里における信仰の聖地であり、詣所内には、厄病退散や大漁祈願、安全祈願などさまざまな石塔が、六十余基ほど奉納されています。
中央にある石塔は、信仰の神である「彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)」を表わし、一般的に「一品宝珠大権現(いっぽんほうじゅだいごんげん)」と示すものが「一品法壽大権現」と刻まれています。このことは、法華宗(日蓮宗)の屋久島布教により、古来の山岳信仰から、神仏混合へ移り変わったためと考えられます。石塔の銘文よると、幕末の嘉永天保年間に島で疱瘡が流行したが、宮之浦村から煩う者を出さなかったということに感謝し、建立されたことが読み取れます。
牛床詣所は、屋久島の山岳信仰の実態と、石塔の銘文や形状から各時代の社会状況を示すものとして、民族的、宗教的に貴重な史跡となっています。上屋久町教育委員会
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・厄病退散や大漁祈願、安全祈願などさまざまな石塔
・大山祗神社〈昭和40年ごろ上屋久営林署の関係者により 祭祀開始〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
宮浦の益救神社(屋久島町宮之浦)と同じ 宮之浦岳を祀ります
・益救神社(屋久島町宮之浦)
益救神社(やくじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 全国の式内社「2861社」の中で 最南端の屋久島に鎮座します 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものとも云われ 当神社の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています
益救神社(屋久島町宮之浦)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
宮之浦 益救(やく)の里 《制作・著作:環境省九州地方環境事務所》より
宮之浦の地名由来や 牛床詣所(うしどこもいしょ)について判り易く書かれています
海の玄関口 宮之浦。
「宮」之浦とは、十世紀初頭、既に有力神社として位置づけられていた「益救(やく)神社」(救の宮=すくいのみや)から名づけられた。
つまり、益々救われるという、ありがたいお宮のある入り江。その益救神社の祭神は「山幸彦」で、標高約 2,000m の宮之浦岳がその奥の院。
冬季は深い雪に覆われるその頂きに、山幸彦は「一品宝珠大権現(いっぽんほうじゅだいごんげん)」として祭られている。
かつては毎年春と秋の2回行われていた「嶽参り(たけまいり)」は、この山幸彦=一品宝珠大権現(いっぽんほうじゅだいごんげん)が祭られている畏敬の地への、無病息災と豊作祈願の参詣であった。その聖なる頂きと益救神社を、十数キロの清流宮之浦川が結んでいる。牛床詣所(うしどこもいしょ)
詣所は里における山岳信仰の聖地で,春秋の嶽参りのおりに,家族が山に参った男達を出迎えた場所。
牛床詣所には祈願のための石塔が数多く奉納されており、貴重な文化財である。里の見どころマップ 宮之浦 - 環境省より
https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/ecotour/map_miyanoura.pdf
モッチョム岳〈千尋嶽〉への信仰の遥拝所
やはり同様に山口の遥拝所があります
・千尋嶽神社(せんぴろだけじんじゃ)
千尋嶽神社(せんぴろだけじんじゃ)は かつて はるお(原)集落のモッチョム岳〈千尋嶽〉への岳参り(たけめ)の山口のお札所とされ 一般の人たちは ここより奥へは迎えに入ることは許されませんでした 現在も奥岳に参詣できない場合は この場所から参拝祈願し 奥岳への参詣の代りとしています
千尋嶽神社(屋久島町原)&千尋の滝
・益救神社(屋久島町原)
原益救神社(はるおやくじんじゃ)は 往古は旧県社 益救神社の末社であったとも 益救神社(やくじんじゃ)そのものであったとも伝わります 益救神社は 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと云われます
益救神社(屋久島町原)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
岳参り〈垂直信仰〉と 森林や海への信仰〈水平信仰〉ついて
日本には 高天原に代表される〈垂直信仰〉と 常世の国に代表される〈水平信仰〉があります
この大陸からの垂直信仰としての御岳信仰 と 東南アジアからの水平信仰としての森山信仰は 屋久島で交わっていると興味深い説を載せています
2006年発行の『屋久島、もっと知りたい 人と暮らし編』 著 下野 敏見に詳しく記されています
7 森林の神
岳参りは、海辺の集落から奥岳へ、高山を目ざしての登拝(とはい)であり、垂直信仰の観がある。これに対し、集落ちかくに神をまつる水平信仰の観のある森林信仰がある。
屋久島内に、森山あるいは森山神社と称するところが、栗生(くりお)、中間(なかま)、原(はるお)、吉田、永田などに見られる。栗生では、今は森そのものはないが、森山と称した跡はある。中間の森山の神は、昭和30年代のことであるが、中間神社の境内の脇の森のなかに、タブの大樹があって、木製の祠(ほこら)をおいて おかんでいたのを見たことかある。
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御岳信仰は、御岳(山宮)---前岳・山口詣所---益救(やく)神社{里宮}という垂直構造をなし、森山信仰は、平地の森山だけという水平構造をなしている。
垂直信仰は、道教の五山の例のように中国にも古くからあり、その流れは、大陸-朝鮮半島-日本-南西諸島へとつづく。
日本では、高山の御岳が多く、御岳信仰はいっそうさかんになった。南西諸鳥のなかでも沖縄では高山はすくないが、平地の森山を御岳(うたき)といって、いわゆるウタキ信仰がさかんになった。森山に精霊をみとめ、神聖化するのは、東南アジアから南中国~沖縄・奄美・屋久島・種子島へとつづき、さらに南九州のモイドン信仰、本州の荒神森(こうじんもり)(山口・島根)ニソの杜(もり)(福井)へとつづく。
大陸からの垂直信仰としての御岳信仰と東南アジアからの水平信仰としての森山信仰は屋久島で交わり、一方は南下し、一方は北上しているといえるようである。
発行 南方新社『屋久島、もっと知りたい 人と暮らし編』 著 下野 敏見 より抜粋
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
屋久島の宮之浦に鎮座する「益救(やく)神社」(救の宮=すくいのみや)から白谷雲水峡宮之浦線を 白谷雲水峡へと登っていく途中に少しわかりづらいですが 案内板があり左折します
上屋久町指定文化財 牛床詣所(うしどこもいしょ)
詣所は、里における山岳信仰の聖地で、春秋の岳参りのおりに、家族たちが、ご馳走をそろえて、山に参った男たちを出迎えた場所です。
岳参りに参加できない者たちは、ここで御岳にまつった山の神様を拝みました。
また、牛床詣所には、さまざまな祈願のための石塔が数多く奉納されています。
ここより徒歩3分道路設置案内板より
すぐに立札「牛床詣所 200M」があり 車を降ります
参道の入口には 「牛床詣所 神は人の敬いによりて威を増し 人は神の徳によりて 運を添う ご参拝下さい」と 『御成敗式目』の第一条が記された案内板があります
森の中の参道を歩んでいきます
木々をよけるうねった参道の先に 木製の鳥居が見えてきます
牛床詣所(Ushidoko moisho)に参着
古代からの山岳信仰を肌で感じさせる なんとも神聖な空間です
宮之浦の益救神社(屋久島町宮之浦)と同じ 宮之浦岳を祀ります
・益救神社(屋久島町宮之浦)
益救神社(やくじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 全国の式内社「2861社」の中で 最南端の屋久島に鎮座します 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものとも云われ 当神社の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています
益救神社(屋久島町宮之浦)
一礼をしてから 鳥居をくぐります 鳥居には「大山神」と記されています
これは 昭和40年(1965)頃に上屋久営林署の関係者により 大山祗神社の祭祀が開始されたものです
拝所にすすみます
中央の祠の隣には「一品法壽大権現」と刻まれています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
原形を保っている対の仁王像があり その後ろには 様々な祈願を込めた石塔が60近くあるようです 皆 苔むして森と一体化しています
牛床詣所に 一礼をしてから参道を戻ると「よく参った」と参道脇の大木に語り掛けられたような気がします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
2006年発行の『屋久島、もっと知りたい 人と暮らし編』 著 下野 敏見に牛床詣所(うしどこもいしょ)に 大山祇大神が祀られたことについての詳細が語られています
第二編 妖怪と民俗神のナゾをさぐる
牛床詣所(うしどこもいしょ)の大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)
牛床は、宮之浦の人びとの御岳の遥拝所であり、坂迎えどころでもあった。藩政時代は奉行所(ぶぎょうしょ)の代官をはじめ役人たち(有力者たち)の祈願所でもあった。
13メートル四方の敷地に、「一品法寿大権現」石塔を中心に、二体の仁王像や手水鉢(ちょうずばち)一個をふくめ、64本の石塔群がある(1984年現在)石塔のほとんどは、文字のない小石塔(鹿児島石)である。代々の役人などが一島平穏や疱瘡神(ほうそうがみ)退散を祈ったものであろう。とくに、一品法寿大権現をまつる山川石の人石塔は、「天保14年(1843)年癸卯(みずのとう)12月13日」の日に、屋入島中の疱瘡(ほうそう)の流行停止と軽減を祈ってたてたものである。
ここを牛床詣所といったのは、御岳の遥拝所の主旨であった。いつからはじまった詣所であるかさだかでないが、天保14年にはあったのである。
昭和40年ごろ、上屋久営林署が「一品法寿大権現」のとなりに大山祗大神を祭神とする大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)をうっしてまつりはじめた。じつは、牛床より三キロばかり上流に事業所があった。昭和40年ごろ、牛床に今ある第一鳥居のふきんを町からはらいさげてもらい、そこに営林署関係の二十戸ばかりの家をたてて住んだ。そして、大山祗神社をまつったのである。次いで、第二鳥居もたて、今ではなんと詣所ぜんたいを大山祗神社とよぶようになったのである。
発行 南方新社『屋久島、もっと知りたい 人と暮らし編』 著 下野 敏見 より抜粋
牛床詣所(Ushidoko moisho)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
宮浦の益救神社(屋久島町宮之浦)と同じ 宮之浦岳を祀ります
・益救神社(屋久島町宮之浦)
益救神社(やくじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 全国の式内社「2861社」の中で 最南端の屋久島に鎮座します 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものとも云われ 当神社の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています
益救神社(屋久島町宮之浦)