鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鵜ノ木八幡神社(Unoki hachiman shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
東京都大田区南久が原2丁目24−1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》誉田別命(ほんだわけのみこと)〈応神天皇〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
地域の氏神様 ~鵜ノ木八幡神社~
○鎮座地(おまつりしてある住所) 大田区南久が原2-24-1
○御祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと) 《応神天皇の大和名》○由 来
延徳元年(一四八九年)天明伊賀守光信の子、五郎右衛門光虎が下野国(現在の栃木県)より当地に移った際に一族の守護神として八幡大神をおまつりしました。寛文年間(一六六年~一六七二年)青山印旛守がお社を補修し、弘化4年(一八四八年)天明五郎右衛門を始め。天明孫七、天明九兵衛、天明平左衛門、原田定右衛門、天明宗右衛門、天明利佐衛門という名主達が世話人となつ社殿を改築して天下泰平、村内安全を祈願しました。その後昭和20年の東京大空襲により社殿は焼失、焼失せずに残つている物は元禄14年(一七〇一年)8月石灯篭一対が天明家から奉納され、明治24年(一八九一年)1月に狛犬一対、昭和15年12月に石灯篭一対奉納されています。平成12年氏子の宗敬者の寄進により社殿、社務所、鳥居、手水石が再建、今日に至っています。
○宮司 松本正美
○氏子
南久が原二丁目、一丁目の一部、
鵜の木一丁目~三丁目の一部、
西嶺町の一部、千鳥町の一都
○氏子責任総代(敬称略)佐藤大助 久保井一夫
○氏子総代(敬称略)久保井正雄 田沼昭二 原田忠好○年中行事
1月1日元旦祭 11月15日七五三祝
2月3日節分祭い11月23日新嘗祭
9月中旬例大祭 12月28日大祓式『鵜の木地区地域情報誌 さんぽみち60号』(平成22年1月1日)より抜粋
【由 緒 (History)】
延徳元年(1489)下野国(現栃木県)佐野の在より天明五郎右衛門光虎が当地に移った際に一族の守護神として八幡大神を祀ったのが当社の起源である。
創建より既に500有余年の時代が流れ一族の主神から地域の氏神として信仰されるようになった。長い年月の間には数々の補修があったが、特に弘化四年(1849)に建立された社殿は戦火で失うまで現存していた。
その後 平成十二年氏子崇敬者の寄進により待望の社殿社務所を始め付属建造物が再建され、これを機に八幡総本社である大分県宇佐神宮より御分霊を勧請し一層の神慮が深まり霊験あらたかな社として今日に至る。神社配布紙より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・奨兵義会紀念碑
奨兵義会紀念碑の沿革
奨兵義会紀念碑は、明治三十五年(1902年)八月、鵜ノ木八幡神社境内の西北の一隅に、旧鵜ノ木村及び旧鵜ノ木山谷(現 雪谷大塚町の一部))に在住の奨励会員により、共役の義務に服する子弟を奨励支援し、その功績を顕彰するために、創建されました。
昭和二十一年(1946年)第二次世界大戦後の混乱期に、境内に理蔵され、五十有余年を経過しました。
紀念碑は、鵜ノ木八幡神社社殿の建て替えを期に、平成十一年(1999年)二月、発掘され、同十三年(2001年)八月、鵜ノ木八幡神社及び奨励会員の子孫等の後援により、旧跡地に復元建立されました。
平成十三年八月吉日 奨兵義会紀念碑復元委員会現地案内板より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
官社に列した 蒲田(カマタノ)神が 薭田神社だとされています
【抜粋意訳】
巻九 貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉の条
○十四日戊辰
詔の以て
美作國 從四位下 仲山(チウサンノ)大神武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 薭田神社
[ふ り が な ](ひえたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hieta no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社について
・薭田神社(大田区蒲田)
薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています
薭田神社(大田区蒲田)
・御田八幡神社(港区三田)
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています
御田八幡神社(港区三田)
・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります
三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
・六郷神社(大田区東六郷)
六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません
六郷神社(大田区東六郷)
・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)
鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)
・久が原東部八幡神社(大田区久が原)
久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります
久が原東部 八幡神社(大田区久が原)
・久が原西部八幡神社(大田区久が原)
久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は 社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります
久が原西部八幡神社(大田区久が原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東急多摩川線 鵜の木駅から東へ約500m 徒歩8分程度
多摩川に架かるガス橋と丸子橋の間の東岸にあたります
社殿は ほぼ西を向いて建ち 玉垣内に社号標と鳥居が建ちます
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)に参着
社号標には 鵜ノ木八幡神社 と刻字
一礼をして 鳥居をくぐり 境内へ進みます
鳥居をくぐると すぐ左手に手水舎があり 清めます
社殿向かって右手の白い建物は社務所 兼 氏子集会所です
拝殿にすすみます
拝殿の前には 明治24年(一八九一年)1月奉納の狛犬が座します
拝殿の扁額には 八幡神社
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られています 境内は契約駐車場となっているようです
社殿に一礼をして 境内を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)について 八幡社の項には 鎮座の年暦を詳にせず と記しています
鵜ノ森明神社の項には 式内社 薭田神社は 当社であるとした上で 他の 八幡塚村 八幡神社〈現 六郷神社(大田区東六郷)〉 蒲田村 八幡宮〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉を載せています
【抜粋意訳】
巻之三十九 荏原郡 巻之六 六郷領 鵜ノ木村
八幡社
除地2段餘 村の北にあり
社は2間半四方 前に石の鳥居を建て 入口に石階5級を設く
鎮座の年暦を詳にせず 祭礼九月なり
村内 増明院のもちなり鵜ノ森明神社
名主 五郎右衛門が構へにあり 語り伝へに 此辺 鵜ノ森 烏ノ森 鷺ノ森 鈴ヶ森を合せて四の森と昔より土人いひならはせり
今 北蒲田村の八幡を薭田神社と称するは訛りにて 薭田神社は 則当社なり
当社の祭神 鴎鵜草葺不合尊なる故に 村をも古へは 鵜ノ森と唱えられしと
光明寺の先住故有て鵜ノ木村と書せしより 今の村名となりしなど云へども この家にのみにて伝ふることなれば疑ふべし
按に 梅花無尽蔵に分明十七年十月二日 僧萬里世戸井を出て江戸に赴く途中 鵜ノ森をすぎて品川に至りしことのせたり 世戸井は何れの地なりや 今その唱なし 恐くは久良岐郡瀬戸のことなるべし 若しからんには品川へ行んとして 当所をすぐへきの理なし 此邊別に鵜ノ森と云所ありし歟 万里かしるせしは その地に老松あり屈して 其の様龍の如しなといへり 今すべて考ふへからず 当所のみにもかきをす児玉郡にも嶋ノ森と云う地名あり 又 多磨郡一分方村にも鵜ノ森神社あり これは住吉明神を祀れりといふ 鵜森は その邊の庄名にて 小川の流れあるゆへ 鵜多く来て 森に巣をつくへに名の起これりといへり 因にしるして参考に備ふ又 郡内 八幡塚村 八幡神社をも薭田神社なと書せたものありとも これも覺束なし 尚 蒲田村 八幡宮の条と照しみるへし
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 薭田神社の所在について 蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 他に江戸三田小山 薭田八幡宮〈現 御田八幡神社(港区三田)〉との説も挙げています
【抜粋意訳】
薭田神社
薭田は 比恵多と訓べし、
〇祭神詳ならず
〇蒲田村に在す又云、江戸三田小山 薭田八幡宮
〇惣國風土記七十七残岟云、蒲田郷云々、薭田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依 雄略天皇十一年之勅、而始行 神體有 神家巫戸 祈病災莫不験、祈田毛莫不寶」
又同一本云、御田郷云々 稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる薭田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、
官社
貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 薭田神社の名称について 薭は蒲の誤りと記して 蒲田(カマタノ)神社としています
所在については 蒲田村の東大森村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉と記しています
【抜粋意訳】
蒲田(カマタノ)神社
〇按本書、蒲を薭に作る「恐らくは、誤れり、今 三代実録、倭名鈔に據て之を訂す、」
今 蒲田村の東大森村にあり、
清和天皇 貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に 三代実録
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 薭田神社の所在について 北蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 薭田は蒲田の訛であろうと推論しています
【抜粋意訳】
薭田神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 経津主命 武内宿禰 應神天皇 荒木田襲津彦とあるは 惣國風土記 荏原郡 薭田八幡云々 所祭 應神天皇也 武内宿禰 荒木田襲津彦等也とみえたるに據れるものなれば信じがたし 此祭神も八幡と云よりの説なるべく 荒木田は葛木の誤なるべし 又按 薭田 諸本にヒエタとありされど 惣國風土記に蒲田郡 蒲田神社とみえ 和名鈔に蒲田郷あり 三代実録に蒲田神と記し 今所在の地名も蒲田村なるを思ふに 薭田は蒲田の訛なること著し 姑附て後考に備ふ官社
貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に祭日 一月八月 十五日
社格 郷社
所在 北蒲田村(荏原郡蒲田村大字北蒲田)
【原文参照】
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について