采女神社(うねめじんじゃ)は 現在 春日大社の末社で 猿沢池のほとりに鎮座します 『大和物語〈平安時代(951年頃)までに成立〉』には 奈良時代 天皇の寵愛が薄れたことを嘆き 猿沢池に身を投じた采女(うねめ)の物語が記されています 神社の創建は この采女の霊を慰めるために祀られた祠が始まりです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
采女神社(Uneme shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
奈良県奈良市樽井町15
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》采女命(うねめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・えんむすび
【格 式 (Rules of dignity) 】
・春日大社 境外末社
【創 建 (Beginning of history)】
『元要記』には 権中納言 藤原朝臣良世卿〈823~900年〉が建立し 興南院権僧正快祐が勧請した と記されています
【由 緒 (History)】
春日大社末社 采女神社(うねめじんじゃ)
御祭神 采女命(うねめのみこと)
御例祭 旧八月十五日御由緒 奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女(女官)が猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為に祀られたのが采女神社である。なお室町時代に、この話にちなんだ能「采女」を世阿弥が創作した。また、入水した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を向けたと伝えられる。例祭当日は采女神社本殿にて祭典が執行され、仲秋の名月の月明りが猿沢の池に映る頃、龍頭船に花扇を移し鷁首(げきす)船と共に、二隻の船は幽玄な雅楽の調べの中、猿沢の池を巡る。
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
采女神社(奈良市樽井町)は 春日大社の境外末社です
・春日大社(奈良市春日野町)
春日大社(かすがたいしゃ)は 社記によると 神護景雲二年(768)・武甕槌命〈常陸国 鹿島神宮〉・経津主命〈下総国 香取神宮〉・天児屋根命〈河内国 枚岡神社〉・比売神〈河内国 枚岡神社〉を併せ 御蓋山(みかさやま)麓に四殿の社殿を造営し 四座が鎮座して 春日大社が創建されたと伝えています
春日大社(奈良市春日野町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
猿沢池に背を向けて建つ祠(采女伝説)
奈良時代 天皇の寵愛が衰えたことを嘆いた采女(うねめ)〈天御門の女官〉が 猿沢池に身を投じた この霊を慰めるために建立されたのが采女神社の起こりとされ 入水した池を見るのは忍びないと 一夜にして社殿が西を向き 池に背を向けたと伝わります
この采女の霊を慰める例祭 采女祭が 中秋の名月の夜〈旧暦8月15日〉に執り行われます
謡曲「采女」と采女への哀悼歌
諸国一見の旅僧が奈良春日明神に参詣すると、一人の里女が来て、当社の由来を語り、なお僧を誘って猿沢の池へ行き、昔亭の寵愛をうけた采女が帝の御心変りを恨んでこの池に入水した事を語り、自分はその幽霊であるといって、池の中に入る。僧は池の辺で読経回向していると、采女が現れて、成仏を喜び、采女についての逸話を語り、歌舞を奏して再び池に消えた。という大和物語の筋である。
采女への哀悼歌
我妹子(わぎもこ)が寝くたれ髪を猿沢の
池の玉藻と見るぞかなしき(人麻呂)
(あのいとしい乙女のみだれ髪を猿沢の池の藻と見るのは悲しいことだ。)猿沢の池もつらしな我妹子(わぎもこ)が
玉藻かつかば水もひなまし(帝)
(猿沢の池を見るのは恨めしい。あのいとしい乙女が池に沈んで藻の下になっているのなら、いっそ水が乾いてしまへばよかったのに。)謡曲史跡保存会
現地立札より
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
采女(ウネメ)とは
大和朝廷で 天皇や皇后に近侍して 食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のことで 平安時代初頭までの官職です
地方豪族の姉妹や娘が 中央に貢進されてその役職についたとされます
その中でも 容姿端麗で 高い教養力を持っていたと云われて 天皇のみ手を触れる事が許される存在であった為 古来より 男性の憧れの対象となっていました
『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現されて
『百寮訓要集』には「采女は 国々よりしかるべき美女を撰びて 天子に参らする女房なり『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」
とあるように
天皇の妃とも成りえたので 当時は 采女への恋は命をもって償うべき禁忌とされていました
『万葉集』では 藤原鎌足が 天智天皇から 采女の安見児を与えられた事を大喜びし 又 天皇から特別な待遇を得たことを誇る 有名な歌を紹介します
『万葉集(Manyo shu)』7世紀前半~759年頃 に詠まれる歌
万葉集NO.85
【詠み人】 藤原鎌足(フジワラノカマタリ)
【読み】我れはもや 安見児(ヤスミコ)得たり 皆人(ミナヒト)の 得かてにすとふ 安見児得たり
【意訳】私は 安見児(ヤスミコ)を 私のものにしましたぞ 誰もが手に入れることができないという安見児(ヤスミコ)を
【原文参照】
對馬島〈長崎県 対馬〉にある 「采女の伝承」について
・美女塚(対馬 豆酘)語り継がれる美女物語「鶴王御前」
美女塚の碑は 豆酘(ツツ)の美女の悲しい伝承が記されています 昔 豆酘(ツツ)天神山の麓に 鶴王(ツルオウ)という美しい娘が暮らしていた 年老いた母親をとても大事にして「美しい孝行者の 鶴王御前(ツルオウゴゼン)」との評判が 都に伝わり 采女(ウネメ)として 召し出されることになった時・・ 豆酘に向かって南下する県道24号線の沿道にあります
美女塚(対馬 豆酘)語り継がれる美女物語「鶴王御前」の悲しい伝承
・波自采女の碑(対馬 豊玉町田)
波自采女(ハジノウネメ)の碑は 六国史『続日本紀(Shoku Nihongi)797年』の神護景雲2年(768)2月5日の条に 全国から選ばれた善行の者9人が記され その一人として 貞婦として表彰され終生の税を免ぜられたとして 對馬島の波自采女(ハジノウネメ)の伝承が記されています 豊玉町 田のR382号の沿道にあります
波自采女の碑(対馬 豊玉町田)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
興福寺南円堂から猿沢池へ降りる階段の下
そこは 猿沢池の北西畔になります
境内は角地にあり 社頭は 朱色の透塀と鳥居があり 猿沢の池の方〈西〉を向いています
采女神社(奈良市樽井町)に参着
普段は門が閉まっていますが 采女祭り等が行なわれる際に開門されます
社頭は 猿沢の池の方〈西〉を向きですが 采女に悲しい伝説の通り 本殿は猿沢の池に背を向け 後ろ向き〈東向き〉です
北側から眺めると 本殿が東を向いていることが判ります
本日は中には入れませんので 門前より 後ろ向きの本殿に お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 振り返ると 猿沢池が広がります
春日大社へと向かいます
・春日大社(奈良市春日野町)
春日大社(かすがたいしゃ)は 社記によると 神護景雲二年(768)・武甕槌命〈常陸国 鹿島神宮〉・経津主命〈下総国 香取神宮〉・天児屋根命〈河内国 枚岡神社〉・比売神〈河内国 枚岡神社〉を併せ 御蓋山(みかさやま)麓に四殿の社殿を造営し 四座が鎮座して 春日大社が創建されたと伝えています
春日大社(奈良市春日野町)
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『大和物語(やまとものがたり)』〈平安時代(951年頃)までに成立〉に記される伝承
奈良の帝(ならのみかど)に仕える采女は 帝のことを思うあまり猿沢の池に身を投げてしまった それを聞いた帝が采女の死を痛み猿沢の池を訪れ 供をしていた柿本人麿が「わぎもこが ねたくれがみを さるさはの いけのみなもに なすぞかなしき」と帝の心に擬えて歌を詠んだ と伝わります
【抜粋意訳】
大和物語 下巻(150段)〈采女の話〉
昔、奈良の帝に仕う奉る采女(うねめ)有りけり
〈昔 奈良の天皇に仕える女官があった〉
顔容貌(かおかたち)いみじく清らかにて 人々よばひ
〈容姿端麗で 采女に人々は言い寄っていた〉
殿上人(てんじょうびと)などもよばひけれど 逢はざりけり
〈清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者も言い寄っていたが 逢わなかった〉
そのあはぬ心は 帝を限りなくめでたきものになん思ひ奉りける
〈その逢わない心は 帝をお慕い申し上げ奉っておられたからです〉
帝召してけり さて後 またも召さざりければ 限りなく心憂しと思ひけり
〈帝が采女を召したが 一度だけで その後は召さなかったので 采女は限りなく悲しく思っていた〉
夜昼 心にかかりて思え給ひつつ 恋ひしうわびしく思ひ給ひけり
〈夜も昼も 心にかかり 恋焦がれてわびしかった〉
帝は召ししかど事とも思さず
〈帝は一度は采女を召したものの 別段何とも思われなかった〉
さすがに常には見え奉る 尚世に経まじき心地しければ 夜密に出でて 猿沢の池に身を投げてけり
〈宮中で常に帝を拝見していた采女は この世で生きるのにいたたまれない気持ちになり 夜ひそかに御所を抜け出し 猿沢の池に身を投げてしまった〉かく投げすとも 帝は得知ろし召さざりけるを 事のついで有りて 人の奏しければ聞し召してけり
〈このように采女が身投げしたことを帝は御存知ではなかった 事のついでがあり 人が帝に申し上げたので 知られることとなった〉いといたう哀がり給ひて 池の邊(ほとり)に行幸(おゆき)し給ひて 人々に歌詠ませ給ふ
〈たいそうひどく哀れにお思いになり 池のほとりに行幸なさり 人々に歌をお詠ませになった〉その中に柿本の人麿
わぎもこが寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき
〈わが愛しい人が寝乱れた髪 猿沢の池に浮かぶ水草を見ると 思い出して悲しい〉と詠める時に 帝
猿沢の池もつらしな我妹子が玉藻かづかば水ぞひなまし
〈猿沢の池も酷いこと わが愛しい人に水草がからみ 水を干上がらせてくれればよかった そうすれば 彼女は死なずにすんだ〉と詠み給ひけり
さて この池に墓せさせ給ひてな 帰らせおはしましけるとな
〈さて この池に墓をお建てになり お帰りになられた〉
【原文参照】
『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』〈寛政3年(1791年)刊〉に記される伝承
(巻之二)興福寺 東金堂 猿澤池の絵図と采女祠について 記しています
【抜粋意訳】
采女祠(うねめのやしろ)
猿沢の池のほとりにあり 元要記曰 興南院権僧正快祐勧請といふ
采女といふ人の名小祠あり・・・
【原文参照】
采女神社(奈良市樽井町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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