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美女塚(対馬 豆酘)語り継がれる美女物語「鶴王御前」の悲しい伝承

美女塚の碑は 豆酘(ツツ)の美女の悲しい伝承が記されています  豆酘(ツツ)天神山の麓に 鶴王(ツルオウ)という美しい娘が暮らしていた 年老いた母親をとても大事にし「美しい孝行者の 鶴王御前(ツルオウゴゼン)」との評判が 都に伝わり 采女(ウネメ)として 召し出されることになった時・・ 豆酘に向かって南下する県道24号線の沿道にあります

1.ご紹介(Introduction)

 この場所の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている歴史について ご紹介します

[通称名(Common name)]

美女塚の碑(Monument of The tragedy of a beautiful woman) 
びじょつか のひ

所在 (Location) 

長崎県対馬市厳原町豆酘

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》鶴王御前(Tsuruo-gozen)

【由  (History)】

美女塚物語

 昔、豆酘の天神山の麓に鶴王という美しい娘がいた。
年老いた母親をとても大事にし、村一番の働き手でもあったので、誰言うとなく「美しい孝行者の鶴王御前」とよぶようにな
た。
鶴王御前の評判が、やがて都に伝わり、采女として召し出されることになった
老母を残しての旅立ちに心を痛めた鶴王は、輿をこの村境の「トンモト山」の丘にとめ。
役人に急に小用がしたいといって、道より少し離れた
の中に入り舌をかみきった。
真っ赤な血にそまり、息もたえだえに「美人に生まれたが故に、こんな悲しい思いをして死なねばならない。どうか、いまから、豆酘には美人が生まれないようにお願いします」と言って息絶えた。
 村人たちは、薄幸な美しい孝行娘 鶴王の死を哀れみ、この場所にねんごろに葬り、その上に平石を立て墓石としたという話である  厳原町

現地石板より

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この場所の予備知識(Preliminary knowledge of this place)

この場所は 由緒(格式ある歴史)を持っています

豆酘(ツツに残る 美女隠しの伝統

対馬は美人が多いとされています これは 評判だけではなく本当のことで 

「初代ミス日本は 対馬の女(ひと)だった」・・洗い髪お妻

詳しくは
「知っとったあ? こんな対馬の歴史!」武末聖子著 をご覧ください
対馬興味深い話が盛りだくさん掲載されています 

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『国境の島 冊子』より抜粋 「コラム 美女塚伝説より

〈2018年(平成30)3月 編 集 ・ 発 行 長崎県文化観光国際部文化振興課〉

 その対馬の中でも 豆酘(ツツ)の美人を「豆酘(ツツ)美人」と呼ぶようです 
豆酘(ツツ)では 美人すぎると悪い虫が付く不幸が付く〉云い 女性の着物は「はぎとうじん」と言って ハギレを縫い合わせて みすぼらしい成りにして着るそうです
これは 豆酘(ツツ)独特の服装で 美女物語「鶴王御前」の由来からくるのかもしれません 若い女性は手ぬぐいで顔を隠したりしたそうです

コラム 美女塚伝説 

 権力者(殿様)が美女に横恋慕(よこれんぼ)して悲劇の結末、という伝説・昔話は日本各地に残っている。いや世界各地だろう。山口にもあった。姫山という山に因(ちな)んだ伝説で、私は美人に生まれたためにこのような目に遭(あ)う、今後山口には美人は生まれないように、と言い残して自死した。なるほど、だから山口には美人がいないのかと変に納得したような、しないような。人吉の例では、反対に殿様をやっつける、たくましい知恵者の美女もいた。

 ところで、古来美人の里として名高い豆酘の美女塚伝説はこうだ。昔、鶴王御前という美女がいた。彼女は年老いた母と暮らしていたが、采女(うねめ)(官女)として朝廷に召し出されることになり、悲しみのあまり自ら命を絶った。その際、今後豆酘の里には美人が生まれないようにと言い残したという。さすがは豆酘、古代にさかのぼる伝説である。保床(ほどこ)山古墳の存在は采女を差し出した郡司(ぐんじ)クラスの豪族がいたことを裏付けている。その後、豆酘の娘は美人に見られないよう継ぎはぎの絣(かすり)(ハギトウジン)を着たとか。

『国境の島 冊子』2018年(平成30)3月 編 集 ・ 発 行 長崎県文化観光国際部文化振興課
http://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%86%8A%E5%AD%90.pdf 

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この場所に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

采女(ウネメ)とは

大和朝廷で 天皇や皇后に近侍して 食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のことで 平安時代初頭までの官職です
地方豪族の姉妹や娘が 中央に貢進されてその役職についたとされます
その中でも 容姿端麗で 高い教養力を持っていたと云われて 天皇のみ手触れる事が許される存在であった為 古来より 男性の憧れの対象となっていまし

『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され
『百寮訓要集』には「采女は 国々よりしかるべき美女を撰びて 天子に参らする女房なり『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」

とあるように
天皇のとも成りえたので 当時は 采女への恋は命をもって償うべき禁忌とされていました

『万葉集』では 藤原鎌足が 天智天皇から 采女の安見児を与えられた事を大喜びし 又 天皇から特別な待遇を得たことを誇る 有名な歌を紹介します

『万葉集(Manyo shu)』7世紀前半~759年頃 に詠まれる歌

万葉集NO.85

【詠み人】 藤原鎌足(フジワラノカマタリ)

【読み】我れはもや 安見児(ヤスミコ)得たり 皆人(ミナヒト)の 得かてにすとふ 安見児得たり

【意訳】私は 安見児(ヤスミコ)を 私のものにしましたぞ 誰もが手に入れることができないという安見児(ヤスミコ)を

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫 
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

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対馬にある もう一つの「采女の碑」

波自采女の碑(対馬 豊玉町田 

一緒に読む
波自采女の碑(対馬 豊玉町田)

波自采女(ハジノウネメ)の碑は 六国史『続日本紀(Shoku Nihongi)797年』の神護景雲2年(768)2月5日の条に 全国から選ばれた善行の者9人が記され その一人として 貞婦として表彰され終生の税を免ぜられたとして 對馬島の波自采女(ハジノウネメ)の伝承が記されています 豊玉町 田のR382号の沿道にあります

続きを見る

この場所にお詣り(For your reference when visiting this place)

この場所でお祈りした時の様子をご紹介します

対馬空港から 県道192号経由 県道24号を南下 約19km 車30分程度
豆酘に向かって県道24号線を南下してゆく途中の美女塚公園にあります

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美女塚の碑(Monument of The tragedy of a beautiful woman) に参着

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美女塚の碑にすすみます 両手を合わせ祈ります

美女塚の碑(Monument of The tragedy of a beautiful woman)  (hai)」(90度のお辞儀)

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  • B!

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