実践和學 Cultural Japan heritage

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可美真手命神社(押部谷町細田)〈延喜式内社 物部神社〉

可美真手命神社(うましまでのみこと じんじゃは 成務天皇十九年(149)に創建されたと伝えられる 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社もののへの かみのやしろとされ 又 天平勝宝六年(754)摂津国住吉大社の社家「津守連」が楯神・鉾神と共に住吉大神を勧請したと伝えられる押部谷 住吉神社 最初の鎮座地で

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

可美真手命神社(Umashimadenomikoto shrine

通称名(Common name)

・可美真手(かみまて)さん
・江戸時代は「物部明神」

【鎮座地 (Location) 

兵庫県神戸市西区押部谷町細田(さいだ)1323

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》可美真手命(うましまでのみこと

※記紀神話などの御祭神の表記について

邇芸速日命(ニギハヤヒ)/櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒ)命の子とされ
『古事記』宇摩志麻遅(ウマシマジ)命
『日本書紀』可美真手(ウマシマデ)命
『先代旧事本紀』味間見(ウマシマミ)命

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

石をも切り裂く剱の御神徳で「腫れ物」や「できもの」を治して下さる神様
体内の腫瘍 例えばがん等の治癒のため多くの方々が参拝し 崇敬している神様です

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

可美真手命神社(うましまでのみことじんじゃ)御案内

御祭神
 可美真手命(うましまでのみこと)

御神徳
 石をも切り裂く剱の御神徳で「腫れ物」や「できもの」を治して下さる神様。
体内の腫瘍、例えばがん等の治癒のため多くの方々が参拝し、崇敬している神様です。

創建
 西暦一四九年 三月九日(成務天皇 十九年)

御由緒
 当神社は成務天皇十九年(一四九年)三月九日に創建されたと伝えられる一八〇〇年以上の歴史を持つ神社です。

延喜式神名帳にその名の見える「物部神社」であります。

 天平勝宝六年(七五四年)九月十三日に摂津国住吉大社の社家「津守連(つもりのむらじ)」が楯神・鉾神と共に住吉大神を勧請したと伝えられる押部谷 住吉神社 最初の鎮座地であり、
現社地を「宮山(みやま)」また「元住吉山」と称します。

 昭和三年 直良信夫氏の調査では段丘裾部から縄文土器が発見され、「元住吉山遺跡」と名付け西日本における縄文時代後期後半の標本遺跡となっています。

現地案内紙より

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【由  (History)】

由 緒

 当社は、押郡谷町細田に鎮座する住吉神社の東、標高40メートルの小高い山上に鎮座しており、成務天皇19年(149)3月9日の創建と伝えられ、『延書式』にいう物部神社である。

 社地は山林1町8反9畝18歩を有し、この山を「宮山」または「元住吉山」と称し、天平勝宝6年(754)9月13日、摂津国住吉大社の社家であった津守連が、楯神・鉾神と共に住吉大神を勧請した最初の鎮座地で、現在は小さな御社のみが建っている。

 この元住吉山は、昭和3年(1928)に、直良信夫氏の調査によって、段丘裾部から縄文土器が発見され、「元住吉山遺跡」と名付けられ、西日本における縄文時代後期後半の標本遺跡となっている。

 昭和50年(1975)の道路建設に伴う調査では、頂上平坦部より、弥生時代中期から後半にかけての土墳墓と考えられる遺構が発見され、更に、昭和58年(1983)の調査でも、縄文時代後期後半の土器が出土している。

2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6301211.html

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

可美真手命神社 本殿

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・社頭・鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

可美真手命神社(押部谷町細田)は 押部谷住吉神社の所管となっていま

押部谷住吉神社(押部谷町細田)は 式内社 宇留神社(うるの かみのやしろ)の論社です

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)明石郡 9座(大3座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ]もののへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Mononohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について

太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります

『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています

東海道

「伊勢國 飯高郡 物部神社」 

・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉

一緒に読む
伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈式内論社3社〈大神神社・物部神社・堀坂神社〉を合祀〉

伊勢寺神社(いせでらじんじゃ)は 寛正2年(1461)当村で疫病が流行し多くの村人が亡くなり 疫病鎮めの神として一志郡多気村の牛頭天王社を当地に勧請し高福大明神と称したのが始めと言う 明治41年(1908)式内社の論社3社〈大神神社・物部神社・堀坂神社〉を含む35社を合祀します 昭和5年(1930)伊勢寺神社と改称

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「伊勢國 壹志郡 物部神社」 

・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉

一緒に読む
物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉〈延喜式内社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 古代この地方を支配した物部氏の一族 新家氏の氏神とされます 寛保元年(1741)の洪水により 古記録等が流失し創立当時の確かな記録はないが 当社は所替せず古来の地にあると云う 〈山辺の行宮〉の跡地ともされる 延喜式内社 伊勢國 壹志郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされます

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「尾張國 春日部郡 物部神社」 

・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉

・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉 

・諸大明神社(春日井市松本町)

・八所神社(豊山町豊場木戸)

「尾張國 愛智郡 物部神社」 

・物部神社(名古屋市東区筒井)

一緒に読む
物部神社(名古屋市東区筒井)〈御神体の霊璽゛一塊の巨大な石゛〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 御神体の霊璽が゛一塊の巨大な石゛で 初代 神武天皇の御代に当地の凶魁を討たれ この石〈俗に要石 鎮撫石 根石とも云う〉を国の鎮めとされ 石神様とも呼ばれます 第11代 垂仁天皇の御代 初めて社殿が造営された云う 延喜式内社 尾張國 愛智郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です

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・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)

一緒に読む
御器所八幡宮(名古屋市昭和区御器所)〈八所大明神〉

御器所八幡宮(ごきそ はちまんぐう)は 第54代 仁明天皇の勅願所として熱田社の鬼門を守護するために創建と社伝に云う 御器所(ごきそ)の地名は『吾妻鏡』に この地で熱田社の神事に使う土器を焼いていたことから名付けられたと記述があり 尾張國 愛智郡の二つの式内社〈・高牟神社・物部神社〉の論社となっています

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「甲斐國 山梨郡 物部神社」 

・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉

・物部神社(笛吹市石和町)

一緒に読む
物部神社(笛吹市石和町松本)〈『六国史』物部神・『延喜式』物部神社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷の使者として武内宿禰(たけのうちのすくね)らが東方巡察の折 物部氏の従者により創祀されたと云う 『六国史』には゛物部神゛に神階の奉授が記され 『延喜式』に甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)と所載されます 当初 御室山に鎮座し 鎌倉時代に現在地に遷座と云う

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・大石神社(山梨市西)

一緒に読む
大石神社(山梨市西)〈巨大な花崗岩のご神体が坐します〉

大石神社(おおいしじんじゃ)は その名の通り 巨大な花崗岩のご神体〈磐座信仰〉が坐します 社殿の周囲にも数々の巨大な石〈磐座〉があり 不思議な景観となっています 社伝によると 古くは物部神社と称していたとあり 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社となっています

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・大石神社(甲州市塩山赤尾)

一緒に読む
大石神社(甲州市塩山赤尾)〈延喜式内社 物部神社の論社〉

大石神社(おおいしじんじゃ)は 社伝に 第21代 雄略天皇御宇 詔(みことのり)により海部直赤尾物部兎代宿禰(あまのあたいあかお もののべのとよのすくね)によって勧請されたと伝わります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社とされ 明治時代には 物部神社と称したと云う

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・白山建岡神社(山梨市上栗原)

一緒に読む
白山建岡神社(山梨市上栗原)〈上栗原村〔小市明神〕を合祀か?〉

建岡神社(たておかじんじゃ)は 江戸時代には〔白山権現〕と呼ばれていました 同じく上栗原村にあった〔小市明神〕は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)であるとの一説もあります 現在〔小市明神〕は 建岡神社に合祀されているのか?

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「武蔵國 入間郡 物部天神社」 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

一緒に読む
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました

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東山道

「美濃國 厚見郡 物部神社」 

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)

・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)

・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)

・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉

北陸道

「越中國 射水郡 物部神社」 

・物部神社(高岡市東海老坂)

「越後國 頸城郡 物部神社」 

・物部神社(上越市清里区)

一緒に読む
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました

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「越後國 三嶋郡 物部神社」 

・二田物部神社(柏崎市西山町)

一緒に読む
二田物部神社(柏崎市西山町二田)〈『延喜式』物部神社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です

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「佐渡國 雑太郡 物部神社」 

・物部神社(佐渡市小倉)

一緒に読む
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・『延喜式』物部神社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です

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山陰道

「丹後國 與謝郡 物部神社」 

・物部神社(与謝野町石川)

一緒に読む
物部神社(与謝野町石川物部)〈延喜式内社 物部神社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『朝野群載』承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されており 神威ある神社でした 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です

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「但馬國 城崎郡 物部神社」 

・韓國神社(豊岡市城崎町)

一緒に読む
韓國神社(豊岡市城崎町飯谷)〈延喜式内社 物部神社〉

韓國神社(からくにじんじゃ)は 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべのまとり)が 韓國へ派遣された後 但馬の楽々浦に着き 都へ報告に上った その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥と称し その子・墾麿(こま)は 城崎郡司に任命され その孫・物部韓國連 鵠(くくひ)が創建した物部神社とされます

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「石見國 安濃郡 物部神社」 

・物部神社(大田市)石見国一之宮

一緒に読む
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります

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山陽道

「播磨國 明石郡 物部神社」 

・可美真手命神社(押部谷町細田)

一緒に読む
可美真手命神社(押部谷町細田)〈延喜式内社 物部神社〉

可美真手命神社(うましまでのみこと じんじゃ)は 成務天皇十九年(149)に創建されたと伝えられる 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされ 又 天平勝宝六年(754)摂津国住吉大社の社家「津守連」が楯神・鉾神と共に住吉大神を勧請したと伝えられる押部谷 住吉神社 最初の鎮座地です

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・惣社(神戸市西区伊川谷町)

一緒に読む
伊川谷惣社(神戸市西区伊川谷町上脇)〈延喜式内社 物部神社〉

伊川谷惣社(いかわだに そうしゃ)は 神功皇后が三韓征伐の帰途 明石川から伊川を船でのぼり ここで一休みして「大国主命をここに祀れ」と命じたのが創始であると伝わります 『国内鎮守大小明神社記』では 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)としています

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西海道

「壱岐島 石田郡 物部布都神社」 

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉

一緒に読む
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)

物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました

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・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

一緒に読む
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした

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・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

神戸電鉄栗生線 押部谷駅から県道83号を南西へ約3km 車で5分程度 駐車場はありません 

・押部谷住吉神社(押部谷町細田) 式内社 宇留神社(うるの かみのやしろ)の論社です

 可美真手命神社(押部谷町細田)は 押部谷住吉神社の所管となっています
可美真手命神社へは 押部谷住吉神社にお参りをしてから 駐車場より歩くことをお勧めします

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可美真手命神社は 押部谷住吉神社の旧社地である「元住吉山(もとすみよしやま)」に鎮座しています

私は 本来の参道ではないところから 山を上がったようです しかし人が歩いている道にはなっていました

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山の上には道〈参道〉があり 鳥居が建ちます

可美真手命神社(押部谷町細田)に参着

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こちらが本来の参道です

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一礼をして鳥居をくくり抜けます
鳥居の扁額には゛可美手命゛と刻字があります

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境内は 清掃されていて草などは一本も生えていません
なんとも神錆びていて 靈氣が漂っています
霧などはない 晴天の日でしたが 霞がかかったような雰囲気でした

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殿にすすみます

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社殿の前には 左右両前に木が植えられていて注連柱のようです
一礼をしてすすみ

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿には 案内紙が貼られています

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社殿に一礼をして境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛在所 詳ならず゛所在不明と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

物部は 母乃能倍と訓べし

〇祭神 宇摩志麻知命歟

〇在所 詳ならず

類社
 伊勢國飯高郡 物部神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 物部神社について 所在は゛今 伊川庄 池上村にあり、゛〈現 惣社(神戸市西区伊川谷町)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部(モノベノ)神社

今 伊川庄 池上村にあり、〔飾磨縣神社調〕

盖 宇摩志麻遅命を祭る、〔舊事記本紀、参取五社明神舊記〕

凡 其祭 六月十四日、九月九日を用ふ、〔飾磨縣神社調〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第18−21巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815498

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛池上村(明石郡伊川谷村大字上脇)゛〈現 惣社(神戸市西区伊川谷町)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

祭神 宇摩志麻遅命

 今按 社傳 祭神 大巳貴命 宇摩志摩遅命 素蓋嗚尊 武甕槌命とみゆ 又 神功皇后征韓より御帰朝の時 祭る所なりと云り されど物部の社號による時は四座ますべきにあらねど 棟札に明石郡井川庄 伊和坐大名持物部神社とあり 又 惣社など云ふを思へば 中古相殿にかゝる神をも祭りしならん 故今之を訂して記せり

祭日 六月十四日 九月九日
社格 郷社(明細帳に物部神社なし 上昭村惣神社とあり 右社ならんか取調の事)

所在 池上村(明石郡伊川谷村大字上脇)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

可美真手命神社(押部谷町細田) (hai)」(90度のお辞儀)

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播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る

一緒に読む
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について

播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています