植田谷本の楠(うえたやほんのくすのき)は 植田谷本村の足立神社は 植田谷本村 名主 勘太夫の屋舗の内あった足立神社の旧社地辺りだったとされます 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
植田谷本の楠(Uetayahon no kusunoki)
〈植田谷本村 足立神社 旧社地辺り〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県さいたま市西区大字植田谷本
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
植田谷本村の足立神社は 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました
『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著によれば
「植田谷本村 名主 勘太夫が屋舗の内にあり・・社邊に大木二三株立るを以て見れば 昔は樹木生茂りて幽邃の地なり・・・相傳へて 延喜式神名帳に載する足立神社」
と記されています
植田谷本の楠 標柱には「大宮市指定文化財 小島勘太夫家文書 植田谷本のクスノキ」と記されています
【由 緒 (History)】
植田谷本のクスノキ
クスノキは、被子植物のクスノキ科に属する常緑高木で、関東以南の暖地に多く自生して、照葉樹林の携成種となります、また、各地に植えられ、大木となるものも少なくありません。
五月頃、初めのうち白色で、後に黄色味をおびた小さな花をつけます、材質は固く、全体に香気があって虫の害が少ないため、いろいろな木製品の加工に適しています。連築、家具、彫刻等に用いられるなど用途が広く、薬用としては樟脳を採ることができます。
このクスノキは、昭和三十年頃、一時的に樹勢がおとろえはじめ心配されましたが、その後まもなく回復のきざしが見えてきて、今では盛んに芽をふいて活気があります現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・現在の鎮座地 足立神社(さいたま市西区飯田)
・〈植田谷本村 足立神社・水判土村 足立神社の合祀先〉足立神社(さいたま市西区飯田)
足立神社(あだちじんじゃ)は 元々は飯田村の鎮守 氷川・八幡合社でしたが 政府の合祀政策により 明治39年(1906)植水村内にあった30社を当社に合祀しました その中に式内社 足立神社の二つの論社〈・植田谷本村の足立神社・水判土村の足立神社〉が含まれており この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改めたものです
足立神社(さいたま市西区飯田)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 8座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 足立神社
[ふ り が な ](あたちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Atachi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社について
・〈植田谷本村 足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)
植田谷本の楠(うえたやほんのくすのき)は 植田谷本村の足立神社は 植田谷本村 名主 勘太夫の屋舗の内あった足立神社の旧社地辺りだったとされます 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました
植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地辺り〉
・〈植田谷本村 足立神社・水判土村 足立神社の合祀先〉足立神社(さいたま市西区飯田)
足立神社(あだちじんじゃ)は 元々は飯田村の鎮守 氷川・八幡合社でしたが 政府の合祀政策により 明治39年(1906)植水村内にあった30社を当社に合祀しました その中に式内社 足立神社の二つの論社〈・植田谷本村の足立神社・水判土村の足立神社〉が含まれており この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改めたものです
足立神社(さいたま市西区飯田)
・加茂神社(さいたま市北区宮原町)
加茂神社(かもじんじゃ)は 江戸時代までは 加茂大明神と呼ばれていました 勧請の年代は不詳ですが その昔 京都の上賀茂神社を勧請したもの と伝えられます 一説に 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社ともされています
加茂神社(さいたま市北区宮原町)
・足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
足立神社(あだちじんじゃ)は 開化天皇の御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されています 高埇郷に鎮座したので 江戸期まで 高埇(たかはな)明神社と呼ばれていましたが 明治期になると 上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は 当社を延喜式内社の足立神社であると主張し 社名変更を行ったとされます
足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
・久伊豆社(鴻巣市笠原)
久伊豆社(ひさいずのやしろ)は 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社とも云われ 鎮座地の゛笠原゛は 古墳時代後期 豪族〈笠原氏〉の本拠地で 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時 東国の蝦夷(えみし)への前線 武蔵國が朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
久伊豆社(鴻巣市笠原)
・氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〈・式社考・神名帳考証土代・神社覈録 等に足立神社 論社として掲載〉
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR大宮駅から西へやく3.7km 車15分程度
さいたま市立 植水小学校の南側にあります
標柱があり「大宮市指定文化財 小島勘太夫家文書 植田谷本のクスノキ」と記されています
植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地〉に参着
民家の横に 楠木が聳えています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 鴻巣 久伊豆社〈現 久伊豆社(鴻巣市笠原)〉と記し
別説として 式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉
或いは 殖田谷村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
【抜粋意訳】
足立(アタチ)神社
〇在 鴻巣曰 久伊豆社乎
古事記 大山津見神 之女 名 神阿多都比賣(カムアタツヒメ)
神代記 天杵瀬命 娶 吾田津姫 生児 火明命
惣風 --神社 神田六十束 四囲田 大日本根子彦太目天皇 御宇二年戊子 所祭 猿田彦命也 有神戸巫家等
式考 三室郷宮本村にあり 宮本大明神 サルタ彦 御朱印十五石 或いは云う 殖田谷村にあり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)について 式内社 足立神社とされているが 正しい証拠がなく 決め難い と記しています
〈足立神社 旧社地〉の水判土村 山王塚について 古墳であることが記されています
現在の合祀先となっている 足立神社(さいたま市西区飯田)について 旧名称の氷川八幡合社として 記しています
【抜粋意訳】
巻之一三五 足立郡 巻之二十 植田谷領
植田谷本村 足立神社
名主 勘太夫が屋舗の内にあり 打開けたる地なれば 古迹とを思はれざれど 社邊に大木二三株立るを以て見れば 昔は樹木生茂りて幽邃の地なりしを 居宅の邊りなれば 後世切開きしも 又 知るべからず
相傳へて 延喜式神名帳に載する足立神社は 即 當社なりと云
此説もし然らんには 當國風土記に 神田六十束 四園田 大日本根子彦太日天皇御宇 二年戊子 所祭 猿田彦命也 有神戸巫戸等と記すものにして最古社なり されど正しき證迹なければいかにとも定めがたし
或は云 しかはあらず當所は 藤九郎盛長の領地にして 在住せしよしなれば 盛長歿後其靈を祀りしゆへ 足立の社と號せしを 稱呼の同じければ 誤り傳へて 神名帳の足立神社と定めしものならんと 是ことに牽強の説といふべし 盛長が當郡に住せざることは前に辨ぜるが如し もしくは 足立右馬允を誤り傳へしにや されどそれも慥かなる 據なき時は うけかひがたし神明社 以上二社 名主 勘太夫持
稲荷社二宇 此二社百姓持
水判土村 山王塚
慈眼寺の西の方にあり 山上に山王を安ずるゆへかく名付く
近き頃 太刀 刀の折など多く掘出せしことあり 土中に石室埋れてありと云傳へたり飯田村 氷川八幡合社
光善寺の持 村の鎮守なり 當社に天下一獅子と刻める古き獅子面ありしが それをば失ひたりとて 今のは寫しなり されど普通のものとは品かはりて 頗色古様なり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 殖田本村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉と記している
(古代より氷川女体神社の祭祀者は 武笠氏一族〈武蔵國の祭祀権を司ると同時に 在地豪族として また武士団としての力も持っていた〉その祖先は由緒書きでは足立郡国造だった「佐伯朝臣」にさかのぼるとされ 故に足立神社か?)
【抜粋意訳】
足立神社
足立は郡名〈阿太知〉に同じ
○祭神 猿田彦大神、(風土記)
○殖田本村に在す、(地名記)
○惚國風土記七十七残欠云、武藏國 足立郡 足立神社、神田 六十束四囲田、大日本根子彦太日天皇 御字二年戊子、所祭 猿田彦命也、有神戸巫家等、
式社考に、三室郷 宮本村 宮本大明神と云り、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 足立神社の所在について 明治2年に合祀された飯田村 足立神社〈現 足立神社(さいたま市西区飯田)〉としていて 合祀前の旧鎮座地は 水判土村 慈眼寺の境内にあったと記しています
又 植田谷本村 足立神社〈現〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)〉も式内社と云われるが 証拠がないので 信じられない と記しています
【抜粋意訳】
足立神社
祭神 猿田彦命
祭日 一月五月 並 十五日 九月十九日
社格 村社
所在 水判土村(北足立郡飯田村 足立神社に合併)
今按〈今考えるに〉
本社この村中の慈眼寺の境内にありしを 明治二年 今の地に移せりと云ひ
又 神社に天正年中の文書三通を蔵するもの證とすべし 故 今之に従ふ
一説に植田谷本村にも足立神社ありと云へど證とすべきものあらねば従がたし
【原文参照】
植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地〉
に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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