実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

打懸神社(Uchikake shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市辻久留1-172-2

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

〈豊受大神宮(外宮)末社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』昭和3年〉に記される内容

【抜粋意訳】

受大神宮末社 打懸神社

鎭座地 攝社志等美神社社域内

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

打懸(ウチカケ)神社は類聚神祇本源所引の御竈木帳四十七前神社中に撫懸(ナデカケ)社と記し、同長德三年檢錄文の傍註に、立石(タテイシ)大明神と註せり。而して其の社地は同書に山幡大河内社の東に在りと見ゆ。但し其の座次、社記志等美社の註に、東は大河内、中は志等美、西は打懸、同じ玉垣なりとあるに合はず。大治三年宮川堤防守護神として、志止見・大河内二社と共に從四位下に陞されしこと、志等見神社條に於て述ぶる所の如し。本社は寬文の再興に關らず、元祿五年大宮司長春、志等見・大河内二社を岩戸坂よりヤバコ山に移せる時初めて本社を同地に再興し、明治十六年更に現地に遷座を見るに至れり。
御竈木帳に本社を撫懸社に作るは、延喜齋宮式及び皇太神宮儀式帳所載の忌詞に、打を撫と云ふとあるに依れり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『大神宮叢書』前篇昭和7-9年〉に記される内容

【抜粋意訳】

神宮典略三 外宮宮社 不載官帳攝社 撫掛神社

此社は帳に撫掛社とあり。神祇本源には撫懸社といへり。〔神名秘書•元々集なども同じ狀にいへり。神境紀談に打掛也、忌詞によりて撫掛と稱ふなり。神名秘書に或稱に撫掛社と見ゆるは誤なり。内宮儀式帳の忌詞に、人打乎奈津止云、齋宮式に撫とかけりといへり。今云、此説いとおさなし。忌詞といふは、神の御前にて不爭を忌て、言をかへざまに云ふ例にて、宇津は人を揶揄などするをこそ忌めど、詞の打を忌むにはあらず。されば後世好事の人忌詞のよしをもしらで、みだりに改めたるひが事なり。朝廷奏上の帳に撫掛といへば他訊なかるべし。〕
撫掛の義さだかならず。〔物を撫、また掛などするは、祓へ物をいへる狀に聞ゆ。〕
地名にもあらんか。神鳳鈔に飯野郡鞭書御薗といふも見え、〔鞭は濁音にて武智といへば、打掛と音訓よく似たり。〕
又今松下村の東に鍋掛森と云處あり。祭神は例の知がたし。〔神祇本源に立石大明神を祭るといひ、神境紀談も是に從ひたれど、松下村に鍋掛森と云處あるより此説をいへば、取用ひがたし。〕
社地は、沼木郷山幡村志度美社の西に在、と神名祕書にいへり。〔神祇本源に、志止見打懸大河内社增位事、件三箇社為に防河堤守護、可レ被レ增に進位階之由、次第上奏之所、被レ進に勅書、勅に正五位下 志止見名神、今奉レ授に從四位下、勅に正五位下 打懸名神、今奉レ授に從四位下、勅に正五位下 大河内名神、今奉レ授に從四位下、大治三年六月十日、と勅書の文をのせたるはみな爲なり。すべて二宮攝社あまたあれど、神位を授け給ふ事、古今かつて其例なき事なり。さるを外宮の書は、他によき事あれば吾祖なりといふ附會の爲に言訓たる故に、諸國神社に冠位を給ふ事のいと羨しければ、外宮の攝社にも古へ神位を給ふ事ありといはん料に、かかる贋勅書を作りたるは、いとあさましき人心なりけり。此神位の事を論ふべけれど、事ながければ別考にいへり。〕

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

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上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

・上社(伊勢市辻久留)
志等美神社・大河内神社・打懸神社の旧跡〉

一緒に読む
上社(伊勢市辻久留)

上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

打懸神社は 豊受大神宮(外宮)の末社です

・豊受神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)延暦23年(804)〉に゛打懸社゛と載る古社です

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

『宇治山田市史』下巻〈昭和4年〉に記される内容

上社(かみのやしろ)は 往古に 外宮攝社 志等美(しとみ)神社・大河内(おうがうち)神社・末社 打懸(うちかけ)神社が 鎮座していた所であると記し

現在 外宮攝社 志等美神社外二社が 現在の上社 入口の右方に鎭座しているのは 明治以後 種々の考証の結果 明治十六年(1883)に 當社の域内を舊地と定めて再興されたものであると記しています

【抜粋意訳】

第十一節 村社 上社

 

上社(かみのやしろ)

所在 辻久留町字辻久留

祭神  久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神
   以上古來奉祀する所

宇迦之御魂神四座、菅原道眞、天忍漁人(あめのおしあま)命、譽田別尊、不詳二座、以上明治四十二年三月七八日合祀 

 當社地は往古、外宮攝社 志等美(しとみ)神社、大河内(おうがうち)神社、末社 打懸(うちかけ)神社の鎭坐ありし所であるが、戰國時代久しく殿舎の造営もなくして廃退となって居た所を、後世に至りて附近の住民が産土神と崇めたものらしい。古記に境内社 並社は打懸神社の舊地で同明神を奉祀し、同神社は大河内神社の舊地で大山祇神を奉祀したとあるから恐らく當社地は昔の志等美神社の舊跡であらうと思はるる。

社名は永正十六年〔二一七九〕九月の畠券には二俣社と稱し、大永六年〔二一八六〕十二月の田券には二俣八王子社とあり、天文六年〔二一九七〕十一月の畠券には牛頭社としてある。

 然るに明治三年十月、神佛混淆之儀を止め佛号の神社名は改むべき由の布令によって、同月上ノ社と改稱し、同四年十一月二日郷社に列せられたが同五年十月村社格に更められ、同三十九年十二月神饌幣帛料供進社に指定せられた。又同四十一年四月二十一日許可を得て、同四十二年三月七日には浦口町無格社稻荷社・同土井稻荷社・同大杉稻荷社、二俣町無格社二俣菅原社・同田村社を、同八日には、境内社稻荷社・同山神社、中島町無格社小川社・同稻荷社・同掃守社・同八幡社・同浅間社を並社に合祀し、同月十日、再び並社を本社に合祀する許可を受け、同月十二日に合祀した、

前述の外宮攝社 志等美神社外二社は、現時の上社の入口の右方に鎭座あるが、これは明治十六年の遷移に係る。その以前三社荒廃の後、寬文三年 再興の際には舊社地不明の故を以て假に岩戸山に建立せられ、元祿五年には辻久留町の南方山上に新地を選んで移轉せられたが、明治以後、種々考証の結果、同十六年に至り當社域内を以て舊地と定められ、爰に復古せられたのである
・・・・
・・・・

【原文参照】

宇治山田市 編『宇治山田市史』下巻,宇治山田市,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1266086

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

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志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

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大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

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打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

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内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊勢市駅から県道37号経由で西へ約2.7km 車7分程度

上社(伊勢市辻久留)に参着

一礼をして一の鳥居をくぐると 社号標があり゛上社゛と刻字

石垣に囲まれた参道が左右に各々あり
左の参道には 狛犬が座し 鳥居が建てられています

こちらが上社(伊勢市辻久留)への参道です 一礼をして鳥居をくぐり参道を進みます

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・上社(伊勢市辻久留)
志等美神社・大河内神社・打懸神社の旧跡〉

一緒に読む
上社(伊勢市辻久留)

上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

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境内の東南に入り口があります

石垣に囲まれた参道が左右に各々あり
向かって 右には 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の3社が祀られていて

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その奥側には
社殿は 南向き 同じ玉垣内に攝社2社〔志等美神社・大河内神社〕が祀られています

手前には

打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉に参着

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社殿は 南向き
殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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その奥側には
社殿は 南向き 同じ玉垣内に攝社2社〔志等美神社・大河内神社〕が祀られています

向かって左 志等美神社
向かって右 大河内神社

志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉については

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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大河内神社については

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式外社 打懸神社について 所在は沼木郷 志等美社西に在す〈現 打懸神社〈豊受⼤神宮(外宮)末社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

式外社 大神宮別宮摂社 打懸神社

或 撫縣社と稱す、〔神祇本源〕

〇祭神 詳ならず

〇沼木郷 志等美社西に在す、神名略記

神位
神祇本源云、大治 正五位下 打懸名神、奉授從四位下、為防河堤守護云々

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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