実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

大津神社(おおつじんじゃ)〈豊受大神宮(宮)末社〉は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は不明のまま 現在に至っています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大津神社Ohotsu shrine

通称名(Common name)

浜辺の神 大津明神とも称した

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市豊川町〈外宮 宮域内

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》葦原神(あしはらのかみ)
〔潮の神(浜辺の神)と云われます〕

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

〈豊受大神宮(宮)末社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容

【抜粋意訳】

攝社末社所管社

大津神社

鎭座地 豊受大神宮神域内

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

大津(オホツ)神社は 儀式帳以外所見無し。
長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。
社地滅して明かなら
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にあり或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。
明治六年舊地を搜索すと雖も猶明かならざるを以て、現地に再興のまゝ今日に至れり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『大神宮叢書 前篇1932年に記される内容

【抜粋意訳】

不載官帳攝社

大津神社

此社、帳に大津社とあり。外宮諸書に神名も社地も詳かならずといへり。

今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。

此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故な。上いへる水戸御食都神社は神名秘書、大口村に在今の神社村なりとれど、其條に論ふ如く、水の字神社村に似しから。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか
猶考ふべし。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

大津神社は 豊受大神宮(宮)末社です

・豊受神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市)

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され 両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて 804年(延暦23年)に成立しました

大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)に「大津社」として載る古社です
※但し 延喜式神名帳には載りません

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

現在の大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉は 仮の鎮座地で 旧鎮座地の候補地については諸説があります

現在の大津神社(おおつじんじゃ)は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました
その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は 不明のまま 現在に至っています

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』にある 大津神社旧鎮座地の候補地

長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。社地滅して明かなら
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にあり或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。゛とあり

長徳檢錄に所謂大水社の説は 大水神社(伊勢市御薗町長屋)か?

大水神社(伊勢市御薗町長屋)

神社町大字竹鼻の説は 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)か?

大口神社は〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社です

・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

一緒に読む
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます

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神社町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)の説は
箕曲氏社を合祀した船江上社 ? 曽祢社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)か?

・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉箕曲氏社を合祀

一緒に読む
船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

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・箕曲神社(伊勢市小木町)
箕曲神社は 〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀式内社 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社です

一緒に読む
箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

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『大神宮叢書 前篇1932年』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地

今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。
此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故な。上いへる水戸御食都神社は神名秘書、大口村に在今の神社村なりとれど、其條に論ふ如く、水の字神社村に似しから。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか゛とあります

水戸御食都神社大口村大口村と云も大津の誤なるかの説は 御食神社(伊勢市神社港)か?

御食神社は 式内社 御食神社(みけの かみのやしろ)の論社です

・御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます

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候補地に挙げられている
※神社町(かみやしろまち)は 三重県度会郡にあった町 現在の伊勢市北部域 旧神領で町の中心地・神社港(かみやしろこう)は宇治・山田の外港として発達していました

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉にご参拝した時の様子をご紹介します

豊受大神宮(外宮)参拝

・豊受大神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市)

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

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〈豊受神宮(外宮)〉の参拝を済ませて
北御門鳥居から 度會國御神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に向かいます

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外宮の案内板にも載っていませんので
案内板に目印の矢印をつけておきます〈正宮の裏辺り〉

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参道は 賑やかな外宮の中でも 静かな森の中に続いています 清らかさと静けさに包まれて 誰も歩いていない参道を進みます

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静寂の続く参道は この先に摂社が鎮座することを知っている人ならば進みますが 知らない人であれば 引き返してしまうだろうと想える

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度會國御神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉に参着

・度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は  豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません

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社殿に一礼をして

この先〈さらに奥〉に鎮座する大津神社〈豊受神宮(外宮)社〉へと向かいます

大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉に参着

殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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社地の傍らには 楠の巨木があり ここから先は 一般の立ち入りは禁止されていますのでロープが張られています

さらに この奥には 上御井神社(かみのみいのじんじゃ)〈豊受大神宮(内宮)所管社 が鎮座します

こちらより 上御井神社を遥拝

御祭神は 上御井鎮守神(かみのみいのまもりのかみ) と云われています

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大津神社からの参道を戻りながら

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原生林のような 人手の入らない森の中に包まれます 

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

度會宮(外宮)のとして 載せられていますが 祭神 在所等は不明である と記しています

【抜粋意訳】

附錄 神 度會宮別宮摂社

大津神社

祭神 在所等詳ならず、神名略記、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです

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