宇倍神社(うべじんじゃ)は 大和朝廷が〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉『名神祭』を司る名神大社として『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある古社 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉の時代を通して因幡国府があり 政治経済・文化の中心地に鎮座する 因幡国一之宮です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宇倍神社(Ube Shrine)
(うべじんじゃ)
[通称名(Common name)]
一宮さん
【鎮座地 (Location) 】
鳥取県鳥取市国府町宮下651
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武内宿禰命(Takenochi no sukune no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・大臣の祖
・子供の神
・長寿の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 因幡国一之宮(Inaba no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
第36代 孝徳天皇(コウトクテンノウ)大化4年(648)の創建
由緒 お金にご縁の神様
宇倍神社は、孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、平安時代にまとめられた延喜式(※1)では鳥取県で唯一の名神大社(※2)、また一の宮として信仰を集め、明治4年に定められた制度により国幣中社(※3)に列せられました。現在の社殿は、明治31年に完成しましたが、翌32年には全国の神社では初めて、御祭神である武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)の御尊像と共に五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回当社が五円・一円紙幣の図柄となりました。
お金に御縁があり、商売繁昌の神様として全国からの参詣が絶えません。
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※1:延喜式(えんぎしき):平安時代中期にまとめられた格式(律令の施行細則)。中でも巻九・十は延喜式神明帳(えんぎしき じんみょうちょう)といい、当時「官社」に指定された神社の一覧が纏められた。
※2:名神大社(みょうじんたいしゃ):延喜式神明帳に記載のされた神社の中でも重要とされ、特別の社格が与えられた神社。
※3:国幣中社(こくへいちゅうしゃ):明治維新以降に定められた制度により、官幣社や国幣社といわれる神社の格付けがなされた。国幣社はそれぞれ大・中・小の格が与えられた。現在では用いられておらず、旧社格と言われ目安として用いられている。
【由 緒 (History)】
因幡国(いなばのくに)一之宮 宇倍神社
御祭神 武内宿禰命は上古、景行天皇以下5期の天皇に歴任され、奥羽から九州の果てまで東奔西走、日本の発展に努力され、さらに神功皇后を御助けして日本の統一に尽力されました、
また 応神天皇の御成長を見守られながら 大陸文化を導入されて平和と繁栄の礎を築き 国の功神として わが国最初の大臣とされました。
武内宿禰命は 仁徳天皇55年 因幡国に下向され 御社背後の亀金岡にて双履を残し、360余才を以て 昇天されました。この由緒を以て創建された宇倍神社は
平安時代には 名神大社、因幡国一ノ宮として尊崇され、
明治4年には 国弊中社に列せられました、また明治32年、現在の御社殿新築のおり 命の御尊像と共に 当社全景が全国で最初に紙幣に載せられ、以後 大正、昭和と5円、1円紙幣で広く国民に親しまれてきました。古くから 福徳長寿、厄除けの神として、また病気平癒 交通安全や子どもの成長を祈り、さらに 志をうち立てる社として 広く崇敬されております。
春例大祭4月21日 秋祭 9月21日
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
国府(コウ)神社 《宮下神社に6社を合祀》
・宮下神社(建御雷神・宇迦之御魂命)
・上神社(武甕槌命)・坂折神社(日本武尊)・小早神社(速佐須良比咩神)・下山神社(武内宿禰命)・白山神社(伊弉諾尊・菊理姫命)
・安田神社(土御祖神・奧津彦命・奧津姫命)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)法美郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 宇倍神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](うへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Uhe no kamino yashiro)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
祭神を「因幡国造」の祖先「彦多都彦命(ヒコタツヒコノミコト)」とする説もあります
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806)~(906)頃の成立〉第10巻「国造本紀」に記される伝承
意訳
稲葉(イナバノ)国造
志賀高穴穂朝(シガノタカアナホチョウ)〈第13代 成務(セイム)天皇〉の
御世(ミヨ)〈在位 131~190年頃〉
彦坐王(ヒコイマスリキミ)の 兒(コ)
彦多都彦命(ヒコタツヒコノミコト)を 国造に定め賜る
【原文参照】
祭神を 神職家「伊福部氏(イフクベウジ)」の祖神とする説もあります
創建当初より 第14世の武牟口命(タケムクチノミコト)を祖として 伊福部氏が神職を世襲したとされますが 明治維新後宮司の世襲を断ち 明治13年(1880年)第65世の信世(作曲家伊福部昭の祖父)の時に神職を離れ 北海道に移住したとあります
伊福部氏の伝えでは 武牟口命(タケムクチノミコト)孫の「伊其和斯彦宿祢(イキワシヒコノスクネ)」が 第13代 成務天皇の時代に稲葉国造を賜ったとされています
祭神を「武内宿祢命(タケノウチノスクネ)」とし 当社創建の原点とされる 双履石(ソウリセキ)について
祭神の武内宿祢命は 今から約1500年の昔 第12代景行天皇・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝につかえたとされ 我が国で初めて大臣の位につかれたが 仁徳天皇55年春3月御歳360有余歳で 本殿裏「亀金の丘」に双履を残して昇天されたとされます この由緒から当地に神社が創建されたと云います
本殿の裏手の小高い丘「亀金岡」の上にあります
石碑には「亀金岡 武内宿禰命終焉之地」と刻まれています
「亀金岡」へと続く階段と その先にご神域とされる「双履石(ソウリセキ)」があります
双履石(そうりせき)
御祭神「武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)」は 第十二代 景行天皇から仁徳天皇までの五朝にお仕えされ、大臣の祖として日本の国づくりに御活躍の後、仁徳天皇五十五年春三月、この亀金の岡に双履(そうり)を遺し齢(よわい)三百六十余歳にてお隠れになりました。
その石を双履石と称し命御昇天の霊石として 今に伝わる当社の原点です。境内案内板より
゛御祭神 武内宿禰(たけしうちのすくね)の 御隠れ伝承゛について
『古風土記逸文』〈昭和2〉に記される゛武内宿禰の御隠れ伝承゛
【抜粋意訳】
風土記逸文 因幡國(いなばのくに)武内宿禰(たけしうちのすくね)
因幡國風土記に云はく
難波の高津宮の天皇の天下治めしし五十五年春三月
大臣武内宿禰 御歳三百六十餘歳にして 當國に下向りまし 龜金に雙履(くつ)を残されて 御陰所を知らず蓋し聞く 因幡國(いなばのくに)法美郡(はふみのこほり)宇倍山(うべやま)の麓に神社(かみまやしろ)と曰ふ これ武内宿禰の靈なり
昔 武内宿禰 東夷を平げ 還りて宇倍山に入りし後 終る所を知らずと
【原文参照】
因幡國 宇倍神社(鳥取市国府町宮下)には 「亀金の丘」に双履を残して昇天されたとする゛双履石(ソウリセキ)゛があります
延喜式内社 因幡國 法美郡
宇倍神社(貞・名神大)(うへの かみのやしろ)
・宇倍神社(鳥取市)
宇倍神社(うべじんじゃ)は 因幡国一之宮です 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉時代を通し因幡国府があり 政治経済・文化の中心地であり 大和朝廷が『名神祭』〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉を司る名神大社です
宇倍神社(鳥取市国府町宮下)〈因幡国一之宮〉
高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられる゛高良大社奥宮(奥の院)゛
社伝には
高良大社奥宮(奥の院)は 古くは「高良廟」「御神廟」と称し 高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた 高良山信仰の原点ともいうべき聖地 とある
延喜式内社 筑後國 三井郡
高良玉垂命神社(名神大)(たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)
・高良大社(久留米市)
高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
高良大社(久留米市御井町)
・高良大社奥宮(高良山 山頂付近)
高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」〈別墅(別所)〉と称されていました
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)
武内大臣(たけしうちのおおおみ)昇天の沓塚(くつづか)がある織幡神社
〈武内宿禰は ある日 ひとそろいの沓(くつ)を残し 天に昇ったと言われ その場所に 沓塚があります〉
社説に
筑前國続風土記に「山の傍に神廟あり、相殿と云ふ、武内宿禰此山佳境なるをしたひ、われ死なば、神霊はかならす此地にやすんずべしとのたまふ、即ち異賊襲来の事を守り防がんためなりとぞ、これによりて後人此地に祠を立つ」と見え、又同書に「同社より登れば、右の方に武内大臣 沓塚とて石塔あり、里俗は大臣天に登り給ふ時、沓をここに脱ぎ置き給へりと云ふ」
延喜式内社 筑前國 宗像郡
織幡神社(名神大)(をりはたの かみのやしろ)
・織幡神社(宗像市鐘崎)
織幡神社(おりはたじんじゃ)は 海路守護の神 異国襲来守護の神として゛赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)゛をお祀りし 鐘崎の海辺に鎮座します 神功皇后の三韓出兵の時 赤白二流之旗を織り 武内宿禰命が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿゛に取り付け勝利した事に依ります
織幡神社(宗像市鐘崎)〈赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)をお祀りする神社〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鳥取駅から県道31号を東へ約5.4km 車15分程度
神社の手前 南面を流れる袋川に沿うように 西へ遡ります
袋川の流域が かつて国府があり 政治経済・文化の中心地でした
袋川の土手下から真っ直ぐに参道が延びていて 社号標には「國幣中社 宇倍神社」とあります
宇倍神社(Ube Shrine)に参着
参道の途中に 鳥居が建ち 一礼をしてくぐります
参道の突当りは境内への入口にあたり 社号標「國幣中社 宇倍神社」と狛犬が座し 石段を上がります
鳥居が建ち 扁額には「因幡一宮 宇倍神社」とあり 長い石段が続きます
階段の上には 干支の横断幕が張られています
階段を上がりきると 境内に出ます 左側には社務所と手水舎が建ちます
手水で清めます
この水は 七宝水(延命水)と呼ばれます
七宝水(しっぽうすい)
このお水は平安時代に百人一首にも詠まれた、いなば山の中腹から湧き出る清水をここまで引いたものです。
古くから日本一長寿の神「武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)」に由縁(ゆかり)があり、病を除き延命に霊験あらたかなお水です。
また、体をととのえ飲むと美人になれる等、七つの効きめがあると云われ、七宝様のお水と呼ばれ親しまれています。案内板より
境内の右手には「参集殿」があり授与所にもなっています
境内の奥には 一段高い社地に神門 拝殿 幣殿 本殿が建っています
拝殿にすすみます
扁額には「因幡一之宮 宇倍神社」
賽銭箱には 金亀のような 珍しい神紋があります
注連縄の結び目も亀のようにみえます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
左横から社殿全体を
幣殿と本殿を仰ぎます
こちら側から拝殿を眺めると 拝殿の前に神門が建っている様子がわかります
社殿の前には「福徳亀」と「飛翔の鳥」が置かれています
境内社「国府(コウ)神社」「双履石(ソウリセキ)」にお詣りをします
改めて社殿に一礼をします
石段を下り参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承
因幡国府の火事を鎮火し 霊験あらたかであり 官社となり 神階の昇叙が 記されています
意訳
嘉祥元年(847)7月甲申(27日)条
因幡国(イナバノクニ) 法美郡(ハフミノコオリ) 無位の宇倍神(ウヘノカミ)授(サズク)に 従五位下 奉(タテマツ)る
即(スナワチ) 以下の通り 官社に預(アズカル)
国府の西に失火が有り 風に飛び至り 随火している 府舎〈庁舎〉は あぶられていた 国司(コクシ)が祈請し 登場した時 風は輟(トドマリ)火は滅(ホロビ) 霊験(レイケン)明白(メイハク)の上也(ウエナリ)
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
神階の昇叙〈従五位下から正三位まで〉が 8度 記されています
意訳
貞観4年(862)5月13日庚辰の条
授(サズク)に
因幡国(イナバノクニ)従五位下 宇倍神(ウヘノカミ)に 正五位上
意訳
貞観4年(862)12月22日丙辰の条
因幡国(イナバノクニ)正五位上 宇倍神(ウヘノカミ)に
近江国(オウミノクニ)正五位上 小野神(オノノカミ)
並(ナラビ)授(サズク)に 従四位下
意訳
貞観6年(864)3月丁亥朔の条
詔(ミコトノリ)を以(モッ)て
因幡国(イナバノクニ)従四位下 宇倍神(ウヘノカミ)を 之(コレ)を官社(カンシャ)に預(アズケ)しむに
3日巳丑 天皇 潔斎(ケツサイ)奉(タテマツ)り 燈(あかりともし)常(ツネ)の如し
意訳
貞観10年(868)閏12月21日庚戌の条
授(サズク)に
肥後国(ヒゴノクニ)従四位上 阿蘇比咩神(アソヒメノカミ)に 正四位下因幡国(イナバノクニ)従四位下 宇倍神(ウヘノカミ)に 従四位上
但馬国(タジマノクニ)正六位上 大岡神(オオオカノカミ)左長神(サナガノカミ)七美神(ナナミノカミ)菅神(スガノカミ)
播磨国(ハリマノクニ)正六位上 射目埼神(イメサキノカミ)
土左国(トサノクニ)無位 宗我神(ソガノカミ)並(ナラビ)従五位下
意訳
貞観13年(871)2月26日壬辰の条
授(サズク)に
常陸国(ヒタチノクニ)正四位下 筑波男神(ツクバオノカミ)に 従三位
因幡国(イナバノクニ)従四位下 宇倍大神(ウヘノオオカミ)に 正四位下阿波国(アワノクニ)従四位下 天石門和気八倉比咩神(アメノイワトワケヤクラヒメノカミ)に 従四位上
意訳
貞観15年(873)7月28日庚寅の条
授(サズク)に
因幡国(イナバノクニ)正四位下 宇倍神(ウヘノカミ)に 正四位上
従五位上 多神(オオノカミ)に 正五位下
意訳
貞観16年(874)3月14日癸酉の条
授(サズク)に
因幡国(イナバノクニ)正四位上 宇倍神(ウヘノカミ)に 従三位阿波国(アワノクニ)従四位上 天石門和気八倉比咩神(アメノイワトワケヤクラヒメノカミ)に 正四位下
河内国(カワチノクニ)正五位上 建水分神(タテミズワケノカミ)
下総国(シモフサノクニ)意富比神(オホヒノカミ)
上野国(カミツケノクニ)赤城神(アカギノカミ)阿波国(アワノクニ)葦稲葉神(アシイナバノカミ)並(ナラビ)従四位下
但馬国(タジマノクニ)正五位下 出石神(イズシノカミ)養父神(ヤフノカミ)禾鹿神(カシカノカミ) 並(ナラビ)正五位
意訳
元慶2年(878)11月13日甲辰条
授(サズク)に
因幡国(イナバノクニ)従三位 宇倍神(ウヘノカミ)に 正三位
従四位下 賀露神(カロノカミ)従四位上備後国(ビンゴ)正五位下 甘南備神(カンナビノカミ)正五位上
従五位下 天別豊姫神(アメワケトヨヒメノカミ)従五位上
佐渡国(サドノクニ)正六位上 佐志羽神(サシハノカミ)
筑後国(チクゴノクニ)高樹神(タカギノカミ)並(ナラビ)従五位上
【原文参照】
『小倉百人一首(Ogura Hyakunin isshu)』〈平安時代末期から鎌倉時代初期〉に記される短歌
『小倉百人一首(Ogura Hyakunin isshu)』【16番】
中納言 在原行平(アリワラノユキヒラ)〈818~893〉が 855年に因幡国(イナバノクニ)の守となり
その赴任の際に 因幡国(イナバノクニ)の国庁近くにある稲羽山〈当神社が鎮座〉のことを掛詞として 送別の宴で詠んだ挨拶の歌です
意訳
たち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む
Though we are parted,
If on Mount Inaba’s peak
I should hear the sound
Of the pine trees growing there,I’ll come back again to you.お別れして 因幡の国へ行く私ですが 因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように 私の帰りを待つと聞いたなら すぐに戻ってまいりましょう
【原文参照】
『諸国一宮巡詣記抜粋(Shokoku Ichinomiya Jumpaikibassui)』著 橘三喜(Tachibana Mitsuyoshi)(1675~1697年)に記される伝承
因幡一之宮 宇倍神社
山を 宇倍山 ウコヤマと清
社の名は ウベと濁る と記されています
【原文参照】
『和漢三才図会略(Wakansansai zue)』正徳05年(1715)に記される伝承
意訳
宇倍(ウヘ)社 在 法美郡
祭神 武内宿禰(タケノウチノスクネ) 神伝許 千山州八幡下
神名帳所載 風土記を云 仁徳天皇55年春3月 武内宿禰(タケノウチノスクネ)当国に至り 双履を遺す 於いて亀金 村里の名となる
【原文参照】
『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
意訳
類史・・〈『続日本後紀(shoku nihon koki)』国府の火事を鎮火 霊験あらたかで 官社となり 神階の昇叙が 記されています〉
〈『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』神階の昇叙〈従五位下から正三位まで〉が 8度 記されています〉〇埴安姫神 称し 波布比賣の略語なり(一宮記)為に 武内宿祢 非なり
中古記 元永2年(1119)7月14日暁 因幡守 宗成令 下向 これ9ヶ年 未下向なり 於いて 神拝 者 先日以 目代 令遂了 然而(シカルニ)一度未参 一ノ宮これ有り 恐れなり 仍(ヨッ)て 我今 下向なり 今度可 令行 臨時祭なり
歴名土代 大永7年(1527)正月20日 一ノ宮 神主 伊福部宗世 叙 従5位下
因幡風土記
難波 高津宮55年春3月 大臣 武内宿祢 御歳360余歳 当国下向 於いて 亀金双履残し 御隠れ所 不知らず 蓋聞く 因幡国 法美山 宇倍山麓に有り神社なり 曰く 宇倍神社 これ 武内宿祢のことなり
〇信友〈伴信友〉云う(永万記)上宮とあるはこれなり
因幡国 郡の中 稲葉郷宮下村の山上にあり この社 当国の一ノ宮にて 武内大臣を祭り云々 日本武尊の征西に随いて 山陰道を平定に当国に下り 国の敵 荒海と云うものを凶し 当国を鎮め 国中に子孫を残し たまいしより 中古以前 武内宿祢 子孫 当国の住人となり 武内の神 これを当社に祝い その子孫 祠官となりてより 以来 相続して 今の国造まで 伝来せり
さて 当社は 中古まで 当郡ことごとく このやしろの領地と云い伝えたり
社宇は8棟にて 神官爵位に進み 子孫は家々に分れ云々 その様 優豊なり国中の貴賤恭(ウヤウヤ)しく敬渇仰ぎ不斜 しかるに
天正9年(1581)春 秀吉公 毛利家と当国を争い攻め入り云々 秀吉公の先陣 山中鹿之助が当社を焼き払い
それより軍終わり 国守が政を行へども 昔の神領をは 少しも不甘 これより当社 雫落ちて跡形なき凶所となりたり云々今 社中に残れる処の 書紀3巻あり
一巻は神代より相続の国造一家の系図の云々
一巻は 八幡宮の縁起の云々
一巻は 先代の国造 宗世 任官の鈴旨なりこれ外別に伝来のものなし
中古に 朝廷より伊福部の姫をたまわる この事 系譜に見えたり この系譜は 延暦年中〈782~806〉に作りたる由 序〈はじまり〉に見え 当社の哀微の後 池田備中守殿 当郡を領したまい 始めて5石を神領に寄附せられ その後 松平新太郎殿 当国御拝領30石を加え附える云々
〇信友〈伴信友〉云う(因幡風土記)見合うべし
宇倍山にあり 因と説同じ 今 誤りて 上野山と云う 又の名 稲葉山 山下の川を稲川と云う 稲葉々にあれはあり
【原文参照】
宇倍神社(Ube Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
もと神職家「伊福部氏」に所縁のある式内社
【尾張國 葉栗郡 伊富利部神社】
・伊富利部神社 一宮市木曽川町
【但馬國 出石郡 大生部兵主神社】
・伊福部神社 豊岡市出石町
【美濃國 不破郡 伊富岐神社】
・伊富岐神社 垂井町伊吹
【近江國 坂田郡 伊夫岐神社】
・伊夫岐神社 米原市伊吹
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
因幡国 式内社 50座(大1座・小49座)について に戻る
因幡国(いなばのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 因幡国には 50座(大1座・小49座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
因幡國 式内社 50座(大1座・小49座)について