実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳に所載される 又陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

都都古和氣神社(Tsutsukowake Shrine)
(つつこわけじんじゃ)
    

 [通称名(Common name)]

馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine)

【鎮座地 (location) 

福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

本殿
《主》味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)

相殿
《配》日本武尊(yamatotakeru no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・交通安全 Pray for Traffic safety
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・商売繁昌 Pray to God that the business will flourish
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・等 etc

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(名神大)
・「陸奥国一之宮(mutsu no kuni ichinomiya)
・「別表神社」

【創  (Beginning of history)】

都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“上宮”にあたります。
かつて「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同二年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられます。寛永元年(1624年)に棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城するため現在の地に神社を遷宮しました。

祭神は味耜高彦根命と日本武尊を祭ります。
境内には樹齢数百年の古木が茂り、棚倉城地より解体移築されたと伝えられる流造の本殿や、向拝一間に唐破風を持つ拝殿は荘厳です。また棚倉町出身の近代画家勝田蕉琴の筆塚もこの境内にあります。
社宝には鎌倉時代源義家が寄進したとされる長覆輪太刀二口(国重文)や、赤糸威鎧残闕(国重文)などがあり、数多くの貴重な文化財が保管されています。

棚倉町観光協会(棚倉町役場 地域創生課内)HPより

【由  (history)】

陸奥(むつ)一の宮  馬場 都々古別神社

都都古和氣(つつこわけ)神社

御祭神(主 神)味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
   (相殿神)日本武尊(やまとたけるのみこと)

略沿革
延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社で、凡そ1900余年まえ人皇12代 景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)

人皇51代 平城天皇 大同2年(807)坂上田村麻呂は、伊野荘(現棚倉城趾)に奉遷、社殿奉造し 日本武尊を相殿に配祀し奉る。

寛永元年(1624)丹羽五郎左衛門長重、幕命により棚倉築城に際し、現在の地(馬場)に景勝の替地を奉り、更に社領を添加し 旧社殿を解体、移築の上同2年遷宮し奉る。

神位、神階等奉授については、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇・御冷泉天皇等各御宇に行なわれている。

造営、神領寄進等は、坂上田村麻呂・源頼義・源義家等をはじめ、足利義満・白河城主・豊臣秀吉等、作事奉行を定め奉造の事が伝えられ、現本殿は、文禄年間(1592~1595)秀吉の命により、佐竹義宣の奉造にかかるもので、桃山時代の手法がよく出ている。

中世、天災や兵火によって社殿焼亡又は大破した事もあるが、その時毎に、直ちに造営せられている。

当神社は、平安中期から久慈川、社川、阿武隈川流域の人々の絶大なる信仰の対象であった。

北郷24ヶ村に亘った神領地も其の一証である。
徳川幕府は、代々先規により神領朱印状を奉っていた。
明治4年太政官達し、同6年3月7日、国幣中社に列格。

境内 案内張り紙より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

境内案内図

垣の内 本殿向かって右手

甲山天満宮(kabutoyama temmangu)
 《配》菅原道真

甲山(かぶとやま)天満宮の由来

寛永5年(1628年)内藤豊前守信照公、摂州高槻(現大阪)より棚倉城主(五万石)として移封された。信照公は、神仏の信仰心厚く神社仏閣の造営に意を注いだと云われ、薬師山から明暦2年(1656年)8月、甲山に遷し建立したと伝えられている。以来、甲山天神として親しまれ、広く崇められてきた。

その後、甲山開発のおり当神社の境内に遷され、長い年月風雨に晒されていた祠が、再建の気運高まり、奇縁のうちに平成2年11月御社として新築造営された。
御祭神 管原道真公

境内 案内張り紙より

・稲荷神社(Inari Shrine)
・厳島神社(Itsukushima Shrine)
・鹿島神社(Kashima Shrine)
・神明宮(Shinmei Shrine)

垣の外 本殿の後ろ
・東照宮(Tosho Shrine)

・日枝神社(Hie Shrine)

・金刀比羅神社(Konpira Shrine)
・熊野神社(Kuma no Shrine)

参道脇
寅卯神社(Torau Shrine)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThe shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 都都古和気神社(名神大
[ふ り が な  ](つつこわけの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

都都古和気神社(名神大)
(tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の4つの論社について

4つの神社について 各々創建からの伝承を纏めました 詳しくは各神社の記事をご覧ください

論社として著名な 2神社について

①・馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine)(当社)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地から その後 大同2年(807年)に「坂上田村麻呂(sakanoeno tamuramaro)」が 現在の棚倉城跡(位置)の地に社殿を造営し 日本武尊を相殿に配祀した そして現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

現在の棚倉城跡(旧 鎮座地)

➁・八槻都々古別神Yatsuki Tsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)より東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地(箭津幾:やつき)として神社を創建した 下って 「源義家(minamotono yoshiie)」が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝わります

馬場と八槻の2つの神社の間には 延喜式内社の激しい論争がありますが いずれが本来の式内社 都都古和氣神社であるかは 現在も結論は出ていません

八槻都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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その他の論社 2社について

➂・奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地「建鉾山(武鉾山)」(江戸期までは入山禁足)は山頂にあり 当社は 麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われた奥院と伝わります

都々古和氣神社(奥院)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

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④・都々古別神社(玉川村 南須釜)

 社伝では 第40代天武天皇の御代「藤原鎌足(fujiwarano kamatari)698-720」公が 常陸國の国司に任じられて この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

都々古別神社(玉川村 南須釜)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(玉川村南須釜)

都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられた 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公〈698-720年〉が この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

磐城棚倉駅から 県道177号経由 約850m 徒歩10分程度
一の鳥居をくぐり抜けて 境内前には二の鳥居が建ちます

馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine)に到着

階段を上がり 二の鳥居の手前には社号標があり「都都古別神社 明治6年」とあります 一礼して鳥居をくぐります

参道を進んで 左手に手水舎があり 清めます
正面には 神門が建ちます

神門には「陸奥國一宮」の扁額が掲げてあります

一礼をして 神門をくぐり抜けると 参道は社殿まで石畳となっています

境内は高い木々に囲まれて 木漏れ日の漏れる静かな佇まいです

木造の明神鳥居の三の鳥居が建ち 鳥居の両サイドから社殿を囲むように 垣が廻らされています

改めて ご神域に向かい 一礼をして鳥居をくぐります
正面に拝殿が建ちます

拝殿にすすみます 扁額には金文字で「都々古和氣神社」とあります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿向かって左手には 「神饌所」と廊下で繋がり一体となっています

社殿正面の右側には境内社が立ち並び お詣りをします

右側より本殿を仰ぎます

本殿の横には「神籬石」と「神明宮」が鎮座します

鳥居をくぐり 一旦 垣より出ます

垣の外から本殿の後ろに回ります
本殿の裏は墳丘で「馬場古墳」となっています

その「馬場古墳」の上に 境内社 東照宮が鎮座します お詣りします

他の境内社にも お詣りをして 垣の外側から社殿を眺めます

静寂の境内に御垣に囲まれた社殿に日が当たり 神々しさを感じます

参道を戻ります

行には気付きませんでしたが 神門の両側には随神ではなく「鉾(hoko)」が飾られています

日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」をたて
 味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto) を地主神として祀った由緒がある神社らしいなと想いながら

神門で 振り返り一礼します

ご朱印は 二の鳥居の横の宮司宅にて拝領しました

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和8年(841)正月と同年の3月癸巳(22日)条に記される伝承

承和8年(841)正月と同年の3月癸巳(22日)条に
どちらも「勲十等 都都古和氣神 従五位下」と表記が全く同じです

それぞれ別の「都都古和氣神」を指すとも 誤記や重複とも云われています

承和8年(841)正月癸巳(22日)条

「奉授坐 陸奥国 白河郡 勳十等 都都古和氣神 従五位下」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『続日本後紀(shoku nihon koki)』3月癸巳(22日)条に記される伝承

「奉授 陸奥国 勲十等 都都古和氣神 従五位下」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

「近津三社久慈川沿いに並鎮座の記事をご覧ください

・〈上宮〉馬場都々古別神社(当社)

一緒に読む
都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

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〈中宮〉八槻都々古別神社

一緒に読む
都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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・〈下宮〉下宮近津神社

一緒に読む
近津神社(大子町下野宮)

下野宮近津神社は 奥久慈大子地方が 陸奥國 依上郷と呼ばれていた頃 久慈川沿いに並び鎮座する3神社を゛近津三社゛と総称していました・〈上宮〉馬場都々古別神社・〈中宮〉八槻都々古別神社・〈下宮〉下宮近津神社(当社)の三社で〈上宮〉〈中宮〉の2つの都々古別神社は 陸奥国一宮です 当社〈下宮〉は「石都々古別神社」であると自認し 陸奥国一宮を主張します 又 式内社 常陸國 稲村神社であるとする説もあります

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「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

一緒に読む
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

一緒に読む
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について

陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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