実践和學 Cultural Japan heritage

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都々古別神社(玉川村南須釜)

都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられ藤原鎌足(ふじわらのかまたり698-720年〉が この地に赴いた際に創建たとされ 往時奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

都々古別神社(Tsutsukowake Shrine)
(つつこわけじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

筒子別明神(tsutsukowake myojin)

【鎮座地 (location) 

福島県石川郡玉川村大字南須釜字八又138

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)

《配》品多和氣神(homudawake no kami)
   大直日神(onaobi no kami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(名神大)
・「陸奥国一之宮(mutsu no kuni ichinomiya)

【創  (Beginning of history)】

都々古別神社 幣殿拝殿参道道路完成記念碑

          神社総代長 相楽傅吉

當神社は 古く飛鳥時代 天智天皇の御宇 内大臣 藤原鎌足公の創建にして 後ち延長5年(927)国家公認 延喜式内大社 奥洲一の宮と称され48社の末社を四方に列し 神領12ヶ村 氏子85ヶ村 遠来より白装束の神子参来し 老若男女の願ひ不利なく 万人得々として市々なり

永承6年(1052)前9年の役時 戦場となった須釜村に鎮守府将軍 源頼義公源氏の氏神 八幡神を祀り(古八幡)戦勝を祈願して 以来
文治5年(1185)鎌倉将軍 源頼朝公 正流 足利尊氏公 先例に従ひ當神社を崇拝し多くの神領を寄進後ち

慶長年間(1611)第108代 御水尾天皇 御宸筆 陸奥國一の宮 の勅額を賜った格式高い由緒ある神社である。

天正11年(1583)大寺城主 清光公 神社修復

正保5年2月白河藩主 松平式部太夫新築元禄8年(1695)幣殿舞殿葺替修復

以来 308年が過ぎ 拝殿の老朽甚しく危険なる状況となり 此の度の拝殿新築は難儀を重ねたが 氏子総会の決議により改築が決り 難題の事業費は検討の結果 氏子の負担金軽減を目途に道路を建設し この用地内の立木を活用することに依り 氏子一戸當り均等割9蔓圓の負担金と併せ多くの方々より多額の特殊寄附金をお願ひし本事業が完成したものである。

茲にこの偉業の完成あたり記念碑を建立し長く後世に伝えたい。

平成15年4月吉日 撰文郷土史研究家 曲山勇

境内 記念碑より

【由  (history)】

藤原鎌足が常陸国司に任じられ、この地に赴いた際に建立しました。
白河風土記によると、藤原鎌足が訪れた際に「我は霊神なり」と草の中の竹筒から飛び出し叫んだ子どもがいました。藤原鎌足が神の名を尋ねると、「高彦なり」と答え、そこで「これこそ高彦根なるべし」と社殿を建て、竹の筒子をわけて出てきたことから「筒子別明神」と称して、祀ったと言われています。

この神社には、天正11年(1583年)に奉納された「銅製御正体鏡板」(国指定重要美術品)があります。
またこの頃に植えられたスギの木は樹齢400年を超え、県道からも見ることができます。
玉川村観光物産協会(玉川村役場 産業振興課内)HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向かって右側に祠が鎮座

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThe shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 都都古和気神社(名神大)
[ふ り が な  ](つつこわけの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

都都古和気神社(名神大)
(tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の4つの論社について

4つの神社について 各々創建からの伝承を纏めました 詳しくは各神社の記事をご覧ください

論社として著名な 2神社について

①・馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地から その後 大同2年(807年)に「坂上田村麻呂(sakanoeno tamuramaro)」が 現在の棚倉城跡(位置)の地に社殿を造営し 日本武尊を相殿に配祀した そして現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

現在の棚倉城跡(旧 鎮座地)

馬場都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

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➁・八槻都々古別神Yatsuki Tsutsukowake Shrine)

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が
八溝山の蝦夷の大将を討ち果たした際に 守護として示現した3神
「天之御中主神(amenominakanushi no kami)」
「高御産巣日神(takamimusuhi no ka )」
「神産巣日神(kamimusubi no kami)」
が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に 東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地(箭津幾:やつき)として神社を創建した
下って「源義家(minamotono yoshiie)」が 奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)明神(chikatsu myojin)」と改称したと伝わります

馬場と八槻の2つの神社の間には 延喜式内社の激しい論争がありますが いずれが本来の式内社 都都古和氣神社であるかは 現在も結論は出ていません

八槻都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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その他の論社 2社について

➂・奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地「建鉾山(武鉾山)」(江戸期までは入山禁足)は山頂にあり 当社は 麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われた奥院と伝わります

都々古和氣神社(奥院)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

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④・都々古別神社(玉川村 南須釜)(当社)

 社伝では 第40代天武天皇の御代「藤原鎌足(fujiwarano kamatari)698-720」公が 常陸國の国司に任じられて この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

都々古別神社(玉川村 南須釜)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(玉川村南須釜)

都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられた 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公〈698-720年〉が この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

あぶくま高原道路 福島空港ICから 県道42号経由 約2.8km 車5分程
道路沿いに 鳥居が建ち 参道の石段が上に延びています

都々古別神社 (Tsutsukowake Shrine) に到着

右手に社号標「郷社 都々古別神社」とあり 左手に手水舎があり 清めます

石灯篭が建つ参道を進み 一礼をして鳥居をくぐり抜けます

鳥居に掲げられた石製の扁額には「郷社 都々古別神社」と刻まれています

石段を上がり始めると 中間の踊り場に石灯篭が建ち 狛犬が構えます

石段の上部から 社殿が見えてきます

上がりきると直ぐに拝殿が建ちます

拝殿にすすみます 扁額が2つ掲げられていて

一つは「郷社 都々古別神社」

もう一つは「陸奥國一宮」と銘打ってあります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿向かって左側から本殿を仰ぎます

社殿向かって右側は、広い更地の境内となっています

境内社があり お詣りをします

こちら側からは 遠目からですと

平成15年に苦労されて新築された幣殿拝殿と本殿の様子など社殿全体がわかります

拝殿前で 一礼してから 石段を降ります 道路の向かいには 車を駐車した整地された空地が見えます

鳥居をくぐり抜けて振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『白河風土記(shirakawa fudoki)地之巻之14 石川郡に記される伝承

都々古和氣神社「筒子別ノ神社」の縁起について 寛喜3年(1231)辛卯8月11日 石川城主 肥前守 源光衡が記したとあります

縁起が 現在から約790年前とすれば 約1090前の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)から300年後に書かれた縁起という事になります

「意訳」

都々古和氣神社縁起云

奥州白川郡石川荘筒鎌村(今は須釜と改める)の鎮守「筒子別ノ神社」は 人皇39代天智天皇の御宇 云々中略 人皇60代 醍醐天皇の御宇定めた 延喜式 云々中略 就いては 当社は 昔 大職冠依りて 開健は 延喜4年甲戌3月12日 宣旨以て 宮を造り 云々 同年5年8月15日奉遷宮 下略

これ等によって按ずるに もとは荘にであって 郡にはなっていなかった
郡を分けて置き始めたのは「成務帝13代の朝」にして 荘園を定められたのは 「孝徳帝27代の朝」なることが「日本記」に見えるので この時より石川の荘も置かれた事だと思われる

源順が和名抄にも記している如く 石川は荘の列に載っています
源順は「64代円融朝」の人ですので「孝徳の朝より円融」に至り320有余年 「円融の朝より 今の文化(1804~1818)」に至って およそ820有余年です

又 都々古和氣の縁起は 寛喜3年辛卯8月11日 石川城主 肥前守 源光衡が記した縁起の末に見えたれば 寛喜は「85代 御堀河の朝」なので 今の文化(1804~1818)に至りって 570有余年に及ぶ縁起の分に依れば その頃までも石川は荘であって未だ郡にはなっていないと見え 何れの時に郡になったのか未だその論証を得ていない

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『白河風土記 地之巻』著者 広瀬 蒙斎(1768年 - 1829年)出版年月日 昭和7年 編 出版者 堀川古楓堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241735

鎮座地 玉川村の沿革について

往古、源頼義の一族 石川安芸守 源有光が石川の地66郷を領し、本村はその一部でした。
その後、蒲生・上杉・丹羽・松平・本多など諸公の領地となりましたが、寛保 2年(1742年)以来幕領あるいは藩領として、明治維新を迎えました。
以後 明治 2年より同 5年まで白河県に属し、同 5年 4月磐前県に、同 9年 8月福島県に属するようになりました。

明治22年市町村制度実施により、川辺・蒜生・小高・中・岩法寺・竜崎の各村を合併して泉村、南須釜・北須釜・吉・山小屋・山新田・四辻新田の各村を合併して須釜村となり、昭和30年 3月31日市町村合併促進法に基づき、泉村と須釜村が合併し、現在の玉川村の誕生を見るにいたりました。

平成29年版 玉川村のすがた (玉川村)HPより

『福島県石川郡誌』発行 石川郡役所 大正12年(1923)に記される伝承

筒子別明神(tsutsukowake myojin)の由来について 別の伝承が記されています

『白河風土記(shirakawa fudoki)』の文面にある「奥州白川郡石川荘筒鎌村(今は須釜と改める)」の「筒鎌村」の発祥についても記されています

都々古別(つつこわけ)神社は 藤原鎌足公が建立したと伝わります。
鎌足公が 東北を鎮めるとき増見荘 亀ノ里嶋山に陣を築き、艮(うしとら)の方角の山に陣を進めようと草木を伐採していると古木の下に塚がありました。

掘ってみると石筒があり、なかに白石と赤石が入っていました。
その夜、鎌足公は 不思議な夢を見て当地に宮を建てることにしました。

筒にちなんで「筒子別大明神」と名付け、村の名も石筒の筒と、公の一字を取り「筒鎌」と改めたといいます。

都々古別神社 (Tsutsukowake Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

都都古和気神社(名神大)『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社
他の3つの論社の記事をご覧ください

馬場都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

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八槻都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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都々古和氣神社(奥院)の記事をご覧ください

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都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

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陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について

陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています