実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

都農神社(日向国一之宮)

都農神社(つのじんじゃ)は 初代天皇「神武天皇」が 宮崎の宮を発して 東征に向かう際〈即位の6年前〉に 此の地に立ち寄り 国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し 御祭神を鎮祭したことに始まると伝わります 日向国一之宮として 格式高く 由緒ある神社です 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  都農神社(tsuno shrine)
       (つのじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

  一の宮様

【鎮座地 (location) 】

 宮崎県児湯郡都農町川北13294番地

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(onamuchi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

大己貴命 ( 大国主命 ) は多くの妃を娶り、その妃等との間に多くの御子をもうけました。その謂れから縁結びの神とも子孫繁栄(子授け)の神とも云われる様になりました。

また医療の法を定め多くの人々を助けた事により、医療(病気平癒)の神とも云われ また少彦名命と共に力を合わせて多くの人々と交わり、次々と国造りをされた事により、事業開拓(商売繁盛)の神と云われる様になりました。

公式HP

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 日向国一之宮
・ 別表神社

【創 建 (Beginning of history)】

創建されたのは
御即位6年前の神武天皇が 宮崎の宮を発し東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された事と伝えられる。

旧記によれば、
日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失したものの、御神体は尾鈴山麓に避難され難を逃れた。
争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった。

元禄5年に秋月藩主 秋月種政が再興し、
安政6年には篤志家の社殿の寄進があった。
その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年7月7日に現在の社殿が竣成されたのである。

公式HPより

【由 緒 (history)】

都農神社は 古来日向国一之と称え、御祭神は御神徳の高い大己貴命(又の御名大国主命)を奉斎する古社であります。

当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。

その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十四代仁明天皇の承和四年には官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代清和天皇の天安二年神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向国一之宮であります。

当神社の旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広闊で第三鳥居は十五~六丁、第二鳥居は六~七丁の間に亘って建立せられた古跡が今尚認められ、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿兵火に罹り、累生秘蔵の宝物、古文書等烏有に帰し、以来社殿境域次第に縮小の止むなきに至りました。

明治天皇御践祚に際し、王政復古、百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。

茲においてか当社は明治四年五月十五日県内他社に先んじて国幣社に列せられたのであります。
昭和九年神武天皇御東遷二千六百年記念式典に当り、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行い、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、御神威愈々釈然たるを覚ゆる次第であります。

御祭神 大己貴命は 国土開発、殖産農耕に特に勲功高くましまし、武神としての霊徳は申すまでもなく、漁業航海守護の神、交通安全守護の神更には医療の神、縁結びの神、子孫繁栄、福徳円満の守護神として古来地方民の信仰をあつめた御社であります。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]

 【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向かって左側に鎮座

・摂社 素盞嗚神社(susanowo shrine)
 《主》速須佐之男神(susanowo no kami)

本殿向かって右側に鎮座
・摂社 手摩乳神社・足摩乳神社
 《主》手摩乳神・足摩乳神

・末社 熊野神社
 《主》早玉男神・事解男神・菊理比売神

・末社 稲荷神社
 《主》宇加之御魂神

・末社 愛宕神社
 《主》火産霊神

・都農祖霊社
 《主》氏子の祖霊

・奥宮 瀧神社(社殿背後に不動の滝があり 都農神社の奥宮(奥の院)とも伝えられます)
 《主》高龗神

 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)日向国 4座(並小)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)児湯郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内 小社

[旧 神社名 ] 都農神社(貞)
[ふ り が な  ](つのの かみのやしろ)
[How to read ](tsuno no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

里人の信仰心の深さを語る「遥拝灯 あぶら石」

都農神社には 石にまつわる伝承がありますが 参道途中の御神橋左手前にある「遥拝灯 あぶら石」(民俗文化財 史跡)は 人々の信仰の深さを物語っています

あぶら石

この岩は、古く都農川が増水した折に、町民が遥拝出来る様にと都農川の対岸に設置してあった。
「あぶら石」に油を注ぎ火を灯して都農神社の遥拝所としていたが、橋が渡された事により神社に奉納され現在に至っている。

この岩は長年人々を導き目標とされてきた事により、目標達成や心願成就の霊石として信仰されるようになった。
この岩に願いを込めて触れる事で願い事を叶えてくれるとされている。

案内板より

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

都農駅から 県道310号経由 約2km 車 4分程度
日向市の方からR10号を南下すると 都農町の中心地近くでR10号と旧道に分かれ R10号と旧道に挟まれた位置に都農神社があります
R10号沿いに 大鳥居が建ちます

都農神社(tsuno shrine)に到着

駐車場からは 広い参道の途中に出てきます すると御神橋があります

御神橋の左右手前には 神事に係わる 石が置かれています
神橋の左手前には 先程お話しました「遥拝灯 あぶら石」(民俗文化財 史跡)があります
想いを込めて石に触れるとご利益があると云われます 願いがある方はお勧めです

神橋の右手前には 「石持ち神事」の石が置かれています
「都農神社」のご参拝では 是非行いたい神事の一つが 「石持ち神事」です
お賽銭を入れて ここにある黒い石の中の一つを選びます
それを握りしめながら本殿まで拝殿まですすみ 拝殿でその石をそなえてお参りしてから その後 本殿の裏手側にある「神の石納所」に石をおそなするように奉納します
ひとつお願い事が叶うという

一礼して御神橋を渡り 参道右手には「大絵馬」があり 左手には「社務所」があります ご朱印はこちらで頂きました

神門の手前左手に「手水舎」があり 「石持ち神事」の神の石を持ち 手水で清めます
自祓所(じばらいしょ)と言いまして 祓い串を手にもって「祓へ給い 清め給へ 守り給い 幸へ給へ」と唱えながら左 右 左の順番で大きく振ります

この自祓で全身を清めましたので お詣りの準備完了です
清々しい気持ちで神門(南大門)をくぐります

神門の右手には 撫でるとご利益がある「撫で大国」「撫でウサギ」
「撫でうさぎ」は撫でると無病息災の御利益が

「撫で大国」は大黒様が国造りや病気の治療 子宝を授けた神様であることから商売繁盛や病気平癒をはじめ子授けに御利益とあります

その右手奥には 神楽殿・神輿庫が建っています
旧拝殿であったとのことで まるで社殿のような佇まいです

神門左手は御神木の夫婦楠「と御神象」

その奥に「神札守札授与所」があります

石畳の参道を進み
拝殿へ向かいます

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿向かって左側から 「神の石納所」本殿裏に向かいます

本殿を仰ぎます

本殿向かって左側に鎮座する境内社にお詣りです

・摂社 素盞嗚神社(susanowo shrine)
 《主》速須佐之男神(susanowo no kami)

本殿の裏には「神の石納所」
先程の「石持ち神事」で 黒い石をひとつ持って参拝すると願い事が叶うと記した その石を納める場所です

本殿をよく見ると「ネズミの彫刻」が ところどころに彫られています
このネズミは 大己貴命の神遣いで 御祭神を守っています

本殿向かって右側に鎮座する境内社にお詣りです

・摂社 手摩乳神社・足摩乳神社
 《主》手摩乳神・足摩乳神

拝殿に並ぶように鎮座する境内社にお詣りです

・末社 熊野神社
 《主》早玉男神・事解男神・菊理比売神

向かって右側から社殿をみます

一端境内の玉垣の外に出て

・末社 稲荷神社
 《主》宇加之御魂神

玉垣の外から

境内の西側奥には「西神苑」があります

境内を後にして 参道を戻ります

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本後紀(shoku nihon koki)』に記される伝承

2つの記述があります

・承和4年(837)8月 日向国「子都濃神(都農神社のこと)」を 江田神社(宮崎)霧島岑神社 と官社に列格とあります
・承和10年(843)9月19日 日向国「都濃皇神(都農神社のこと)」を 無位から従五位下 に昇格とあります

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』貞観11年(869年)完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 ,寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に記される伝承

平安時代(延喜元年(901年)成立)に編纂された歴史書 六国史の第六です

意訳

「・天安2年(858)10月22日 日向国 従五位上から従四位上
髙智保神(高千穂神社のこと)

  都農神(都農神社のこと)など 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

『橘三喜(tachibana mitsuyoshi)諸国一宮巡詣記抜粋(shokoku ichinomiya jumpaikibassui)』に記される伝承

日向一宮 都農宮「都豊大明神」とあります

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋 乾』(1675年~1697年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039344&ID=M2014090119552785625&TYPE=&NO=画像利用

日向国一之宮で 格式高く 由緒ある神社です 初代「神武天皇」即位の6年前 天皇が宮崎の宮を発し東征に向かう際に 此の地に立ち寄り鎮祭したことに始まると伝わります

都農神社(tsuno shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

一緒に読む
「全国 一之宮(いちのみや)」について    (List of "Ichinomiya" all over Japan)

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」についてご紹介します 律令時代に発生した制度・社格でしたが どのようにして 今に伝わるのかを簡単にご紹介します 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じ 全国各地に現在でも「一宮」の地名が残る所が沢山あります 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

続きを見る

日向国 式内社 4座(並小)について に戻る 

一緒に読む
日向国 式内社 4座(並小)について

日向国(ひむかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 日向国 4座(並小)の神社です

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています