月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
月讀神社(Tsukiyomi shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市芦辺町国分東触464
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
中 月夜見尊(つきよみのみこと)〈月夜の神霊〉
左 月弓尊(つきゆみのみこと)〈三日月の神霊〉
右 月讀尊(つきよみのみこと)〈月齢を讀む神霊〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
(暦・潮の干満など月にまつわる全ての行い)
・生命の誕生(安産、健康、病気平癒)
・漁業の繁栄(航海安全、大漁)
・農業の誕生(自然界では旧暦の暦と共にある)
・商売繁盛
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉では 月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)を式内社と比定しました これは里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」とも呼んでいたことに因ります
しかし「ふかつき」の語源は「深淵 ふかふち」 橘三喜の比定は誤りとされます
延寶の調以前は石祠「山の神」と称されるのみであった
【由 緒 (History)】
月読(つきよみ)神社
御祭神 中 月夜見尊 左 月弓尊 右 月読尊
御鎮座地 壱岐郡那賀国分東触
境内地 六百四十九坪
御神徳 諸行繁盛 すべての願い事がかなう鎮座年数
西暦四八七年 月読神社に 天月神命(あめのつきのみたまのみこと)を祭り
高御祖(たかみおや)神社には 天月神命の祖 高産霊尊(たかむすびのみこと)を祭るとあり御鎮座の由来 延喜式に壱岐郡 月読神社「名神大」とあり
月読尊(つきよみのみこと)の御事については、古事記(こじき)の上巻に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の御親神(みおやがみ)が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお生みになられ、次に月読尊(つきよみのみこと)をお生みになられたと表されてあります。
また、日本書紀(にほんしょき)には、「すでに大八州国(日本)及び山川草木(さんせんそうぼく)を生むことが出来た、何ぞ天下(あめのした)の主君(きみたるもの)を生まざらむ」といわれて、是(ここ)に天照大御神をお生みになられ、次に月読尊を お生みになられたと記されてあり。
また一書には日に並(なら)ぶともあります。即(かなわ)ち天照大御神及び月弓尊を並(ならび)に是(これ)、質性明麗(ひととなりてうるは)し。故、天地(あめのした)に照(てら)し臨(のぞ)ましむ。
天照大御神のご神徳(しんとく)は「その光華明彩(ひかりうるわしいこと)六合(あめつち)に照り徹(とお)るほどでございます」と太陽にたとえて表されておりますので、月読尊の御威徳(ごいとく)は、それに次ぐものとして、月になぞらえておたたえしたものと拝されます。
太陽、月、大地、自然と共に神は存在されておられると言う事
(アニミズム)を壱岐の祖先は熟知され月が万物(すべて)に利益を与えるごとく邪心(よこしまなこころ)が無く玄徳(げんとく)(最も奥深い徳)を極(きわ) められていたようです。壱岐の県主(あがたぬし)の先祖「忍見宿祢(おしみのすくね)」が西暦四八七年 月読神社を分霊して壱岐から京都に祭りに行かれた。
忍見宿祢(おしみのすくね)により、神道が中央に根ずく事になったとされております。 つまり、壱岐島が神道の発祥の地といわれております。
京都、洛西(らくせい)、松尾大社の横の月読神社はあり。伊勢神宮(いせじんぐう)の内宮(ないくう)に月読宮、また外宮(げくう)に月夜見神社があります。壱岐島の月読神社が全国の月読社の「元宮(もとみや)」とされております。
平成八年十月 壱岐「島の科学」研究会
社頭案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・月読神社〈二つの祠〉
《祭神》
〈向かって右祠〉月弓命(つきゆみのみこと)
〈向かって左祠〉月夜見命(つきよみのみこと)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神267社とともに神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授 淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品
・・・・・
・・・・・壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上
【抜粋意訳】
巻二十一 貞觀十四年(八七二)四月廿四日〈癸亥〉の条
○廿四日癸亥
宮主從五位下 兼行丹波權掾伊伎宿禰是雄卒。是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代。供龜卜事。厥後子孫傳習祖業。備於卜部。是雄。卜數之道。尤究其要。日者之中。可謂獨歩。嘉祥三年爲東宮々主。皇太子即位之後。轉爲宮主。貞觀五年授外從五位下。十一年叙從五位下。拜丹波權掾。宮主如故。卒時年五十四
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神ノ祭 二百八十五座
・・・
・・・
月讀(つきよみの)神社 一座
中津(なかつの)神社 一座
天手長男 (あまのたなかをの)神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐嶋・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 月讀神社(名神大)
[ふ り が な ](つきよみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsukiyomi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壱岐島(いきのしま)に祀られる 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)
神社考に曰、顯宗天皇三年二月、天月神命ノ神託に依り壹岐縣主先祖押見宿禰の祭る所にして 月讀神社には高皇産靈尊の裔 天月神命を祀り 高御祖神社には天月神命の祖 高皇産靈尊を祀る云々
延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉では 月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)を式内社と比定しました これは里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」とも呼んでいたことに因ります
しかし「ふかつき」の語源は「深淵 ふかふち」 橘三喜の比定は誤りで 式内社の月読神社は箱崎八幡神社とされています
・月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます
月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
・男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)〈(月讀宮)箱崎八幡神社の旧鎮座地〉
男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です
男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)
『日本書紀』顕宗天皇紀にある 山背国 葛野郡 歌荒樔田(ウタアラスダ)に奉られた〈月の神〉〈現 月読神社(京都市西京区)〉
葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)
・月読神社(京都市左京区)
月読神社(つきよみじんじゃ)は 『日本書紀』顕宗天皇の段 三年(487)に 壱岐島から月神(つきのかみ)を勧請したと 創建について記されます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 山城國 葛野郡 葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)に比定され 現在は 松尾大社の境外摂社となっています
月読神社(京都市西京区松室山添町)
壱岐島(いきのしま)に祀られる 式内社 髙御祖神社(たかみおやの かみのやしろ)
神社考ニ日、顯宗天皇三年二月、天月神命ノ神託二依リ 壹岐縣主先祖 押見宿禰ノ祭ル所ニシテ 月讀神社ニハ高皇産靈尊ノ裔天月神命ヲ祀リ 高御祖神社ニハ天月神命ノ祖高皇産靈尊ヲ祀ル 云々
・高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の内 高御魂と号した式内社は 合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉
・大和の宇奈多奢(うなたり)・大和の目原(めはら)・山城の羽束師(はつかし)と対馬の豆酘(つつ)にあり それを宮中の高御産日神を合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉となります
①「宮中神 御巫等祭神八座 並大 月次新嘗 中宮 東宮御巫亦同」
御祭神 (八座)
神産日神高御産日神玉積日神生産日神足産日神大宮賣神御食津神事代主神
②「大和國添上郡 宇奈太理坐高御魂神社 大月次新嘗」の論社は3つ
・宇奈多理坐高御魂神社(奈良市)
宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります
宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)
・井栗神社(春日大社 境内)
井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります
井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
・穴栗神社(奈良市)
穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は 元々は 横井村の北西に鎮座していたが 江戸時代初期の寛文年間〈1661~1673年〉に現在地〈古市村〉に遷座したと伝わります 二つの式内社「宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすひの かみのやしろ)」「穴次神社(あなつきの かみのやしろ)」の論社とされています
穴栗神社(奈良市横井)
➂「大和国十市郡 目原坐高御魂神社二座並大月次新嘗」の論社は3つ
・天満神社(橿原市)
・耳成山口神社(橿原市)
・山之坊山口神社(橿原市)
④「山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社大月次新嘗」の論社は1つ
・羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区)
羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)
➄「対馬島下県郡高御魂神社 名神大」の論社は1つ
・高御魂神社(対馬 豆酘)
高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました
高御魂神社(対馬 豆酘)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
壱岐島 東の芦辺港から 県道172号を 西の湯ノ本港へと向かうと 壱岐島の中央部に鎮座しています
県道に面して建つ鳥居から桧林の中を急な参道石段があります
月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)に参着
社号標には 月讀神社 一礼をして 鳥居をくぐります
石段を上がると途中に手水舎があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内には 月読神社の石祠 二宇に・月弓命・月夜見命が祀られています
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』顕宗天皇 三年の段 に記される伝承
顕宗天皇 三年の段に 任那と高麗との通交に関して 壱岐の「月神」と対馬の「日神」が「高皇産霊命(タカミムスビノミコト)を祀れ」と憑依した神勅が記されます
この「月神」は 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)に祀られる「天月神命」であると伝わります
歌荒樔田(ウタアラスダ)に〈月の神〉奉られたのは山背国の葛野郡にあり〈現 月読神社(京都市西京区)〉です
【抜粋意訳】
顕宗天皇 三年の段 春二月丁巳朔の条
顕宗天皇3年2月1日
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は命を受け 日本から任那に使者として出た
すると月神(ツキノカミ)が 人に神掛かって云うには
「我が祖先の高皇産霊命(タカミムスビノミコト)は 最初に鎔けあっていた天地を創造した功績がある 民地(カキトコロ)を我が月神に奉れ この請うままに我に献上するならば 福慶(サイヨロコビ)があるだろう」事代(コトシロ)は それで京〈大和〉に帰り詳細に申し上げました
それで歌荒樔田(ウタアラスダ)に〈月の神〉奉られた 歌荒樔田は山背国の葛野郡にあり〈現 月読神社(京都市西京区)〉
壱岐県主(イキノアガタヌシ)の先祖 押見宿禰(オシミノスクネ)が祠(マツリ)仕えました(顕宗天皇 三年)3月上巳
後苑(ミソノ)に出られて 曲水宴(メグリミズノトヨノアカリ)を催された
(顕宗天皇 三年)夏4月5日
日神(ヒノカミ)は 人に神掛かって 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に語って云うには
「磐余(イワレ)の田を 我が祖先 高皇産霊(タカミムスヒ)に奉れ」事代は すぐに天皇に奏上し 神が乞(コワシ)〈請う〉ままに田14町を献上した
対馬下縣直(ツシマシモノアガタノアタイ)を祠(マツリ)に侍らせた
(顕宗天皇 三年)夏4月 13日
福草部(サキクサベ)を置かれた
(顕宗天皇 三年)夏4月 25日
天皇は八釣宮(ヤツリノミヤ)で崩御された
(顕宗天皇 三年)この年
紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は 任那(ミマナ)を経由して高麗と交通(カヨイ)ました
西の三韓(ミツノカラクニ)の王にならんとし 官府(ミヤツカサ)を整え治め 神聖(カミ)と自称した 任那の左魯(サル)那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちは 策謀し 百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム)で殺した 爾林は高麗の土地
帯山城(シトロモロノサシ)を築き 東道を防ぎ守った 粮(カテ)〈食料〉を運ぶ津〈港〉を遮断した 軍隊は飢え 苦しみ 百済の王はとても怒り 領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣した 軍隊を率いて帯山に行き攻めた 生磐宿禰(オイワノスクネ)は 軍隊を進め逆に迎え撃ちた 胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で 向かうところで敵を皆破り 一人で敵100人に当たった しばらくして武器は尽き枯れた それで事が成らないと分かり任那へと帰った
これにより百済国は佐魯(サル)那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺した
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 国分村〈現 月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)〉と記しています
【抜粋意訳】
月讀神社(名神大)
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上
旧事記 天月神命 壱岐縣主等祖
書 紀 顕宗記 顯宗天皇三年二月朔 阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。」事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田歌荒樔田者、在山背國葛野郡也、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠畧志 国分村にあり
【原文参照】
国立公文書館蔵『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
第五巻 國分村之部 月讀神社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 国分村〈現 月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)〉と記しています
【抜粋意訳】
月讀神社(名神大)
月讀は 都岐與美と訓べし
〇祭神 天月神命 〇今按るに 壱岐縣主の氏神なるべし
〇国分村に在す
〇式三 臨時祭 名神ノ祭 二百八十五座 中略 壱岐島 月讀神社一座類社
山城国 葛野郡坐月讀神社の條見合うべし神位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上氏人
三代実録 貞觀十四年(八七二)四月廿四日〈癸亥〉の条 宮主從五位下 兼行丹波權掾伊伎宿禰是雄卒。是雄者。壹伎嶋人也。本姓卜部。改爲伊伎。始祖忍見足尼命。始自神代。供龜卜事。厥後子孫傳習祖業。備於卜部
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 箱崎村〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉と記しています
【抜粋意訳】
月讀(ツキヨミノ)神社
今 箱崎村にあり八幡といふ 正慶元年棟札 壱岐国式社沿革考
月讀尊を祀る 日本書紀 延喜式顕宗天皇御世 阿閉臣事代 任那に使する時 月神の神教を得て 高皇産靈神を祭らしめ給ひき所謂 月神蓋 此神なり 日本書紀
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上 三代実録
醍醐天皇 延喜の制 名神大社に列る 延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 月讀神社(名神大)の所在について 箱崎邑宋社八幡宮と御同殿〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉と記しています
【抜粋意訳】
月讀神社(名神大)
祭神 月讀命
神位 清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上 三代実録
祭日 九月二十三日
社格
所在
今按〈今考えるに〉
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉また明細帳 長崎縣式内社記ともに國分村にありとす
神社考に國分邑深渕の岸の上山端に山神と称するあり この深渕を訛りて ふかつきと云り 其の淵 今埋まりて尚水の溜れる淵の跡ありきよつきども云ふ
延寶〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の時きよつきの名に因て 月讀神社を定む然れ 共 延寶以前 社なかりしほどなれば式社にはあるべからずとみえ
式社沿革考に式社略考に箱崎邑と記せしや正しからむ 其は内殿の棟札に箱崎 八幡宮壱岐国壱岐郡 月讀宮釣瓶庄潮安郷 奉造立 内殿一宇 大宰少武兼 筑後森藤原景資」「右の傍に」正慶元年「左の傍に」八月五日」大宮司云々 伊岐末茂云々 とある文による時は 月讀神社は箱崎邑宋社八幡宮と御同殿にます神ならん 箱崎邑釘丘郷 天月(テツキ)の里ら天月神社あり 是その古社なるべしと云る証ありて聞ゆれば箱崎邑と定めて可ならん
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
神功皇后が 三韓征伐時 臨月のお腹を押さえていた神石〈三つある月延石の内一つが奉納されている〉について 記されています
【抜粋意訳】
那賀村ノ部
無格社 月読神社
鎮座地 那賀村大字國分東触
祭 神 中 月夜見尊、左 月弓尊、右 月読尊例祭日 十月二十三日 神幸式、大神樂奉奏
境内地 649坪〔由緒沿革〕
一、延喜式ニ 壱岐郡 月読神社(名神大)アリ。
一、三代実録二巻ニ 貞観元年正月二十二日壱岐島 從五位下 月読神 從五位上トアリ。
一、鎮座年数不詳ナレドモ 顕宗天皇紀ニ 三年二月丁巳朔 阿閉臣事代御命出使干任那於是 月読著人謂之日 我祖高皇産霊有溶造天地之功宜以民地奉我月神若依請献我常福慶 事代由是還京具奏奉以歌荒巣用 壱岐縣主先祖押見宿禰侍祠トアリ、是等ノ由ニテ祭初メラレタルナラン。
〈顕宋天皇三年(四八七年)官吏の阿倍臣事代が 天皇の命を受け 任那に遣わされた その際 月神が 人に神がかりして「我が祖先の高皇産霊命(タカミムスビノミコト)は 最初に鎔けあっていた天地を創造した功績がある 民地(カキトコロ)を我が月神に奉れ この請うままに我に献上するならば 福慶(サイヨロコビ)があるだろう」という託宣があった それを朝廷に奏上した 朝廷は壱岐県主の押見の宿禰に命じ 壱岐の月読神社を分霊し京に始めて祀られた〉又 筑前國風上記ニ 神功皇后將入干三韓時 既臨産月皇后自爲祭主祷之曰 事竟還曰須産于茲土于時 月神誨曰 以此神石可撫腹皇后乃依神石撫腹心体忽平安也 今其石 在筑前伊観縣道ノ辺後 雷霹神石爲三段
〔月読神社縁起〕ニ〔懐中暦〕云舒明天皇二年八月 伊吉ノ公乙等ヲ 筑紫怡土県ニ遣ハシテ 神石ヲ求メ一片ノ石ヲ可 荒巣田ノ神宮ニ納ム 此石ハ 往古神功皇后 月ノ神ノ教ニ随ツテ 産月ヲノベ給フニ因テ後 二月延石ト名ヅク 其三片ノ石ハ 今 怡土縣壱岐島月読社ニアリ
〈舒明天皇二年 壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め 一つを京都の月読神社に納める この石はその昔 神功皇后が月読の教えによりお産を延ばされた事で「月延石」と名付けられ その石は今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月読神社にある〉
文武天皇 太宝元二月始テ行幸アリテ 神石ヲ見給ヒ 伊吉ノ古麻呂ニ命ジテ幣帛ヲ奉リ 神税ヲ古麻呂ニ給フトアリ。
〈文武天皇 大宝元年初めて行幸あり 神石をご覧になられ 壱岐古麻呂に命じて紙幣を奉納し神税を古麻呂に給う〉又 宝亀三十三年八月 大風雨折木倒家是ヲ占フニ 月読神祟ヲナス 是ニ依テ忌部正美奏、神島大中臣清麻呂ヲ山城、伊勢、壱岐ニ座ス月読神社ニ遣ハシテ 神ノ怒ヲ謝ス、
〈宝亀三三年 大風雨により木や家が倒れた これを占うと 月読神の祟であった そこで忌部正美が奏じ 神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた〉
桓武天皇 延暦二十一年初テ大社ノ列トナシ給フ、嵯峨天皇 弘仁二年十月已下 後烏羽天皇 元暦二年三月已前ハ 住吉社 兵主ノ社ニ 同ジ云々。
〔月読神社ノ縁起〕ニ 月読神社一名清月社 在国分郷古木村拝殿之内有石ノ御殿 延宝四年六月朔建立、拝殿ハ戌向茅葺也簗行二間桁行二間半在國片主ノ社ノ石鳥居四五町
境内 東西廿五間余南北三十一間余、周匝一町十七間余、山中参道十六間祠官榊原主殿藤原正益、定祭九月二三日云々。一、神階ヲ進メラルゝ事式内大社ノ例ニ依レリ。
〈式内大社の例により 神階を進められる〉
一、霊元天皇 延宝四年六月朔松浦肥前守從五位下源朝臣鎭保石祠及木鏡ヲ寄進セラレ共〔木鏡ノ銘〕ニ奉備廿四座之内月読神社御正体木鏡一面トアリ。
【原文参照】
月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
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